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ローマ字のわかち書きの問題 審議会報告3



 ここまできて,実際的な審議をいちおう打ち切り,元にもどった感がありますが,わかち書きはどうあるのが望ましいかという根本的な問題について審議し,各委員から,おおむね,次のような意見が述べられました。

  •  情報伝達としては語形の種類が多いほど有利である。だから意味上区別のある場合は,できるだけ区別して(つまり別の語形として)書き表わすほうがよい。
  •  意味の異なりに応じて,すべての場合に異なった表記をするなら,それでもよいが,そういうことは不可能であり,別の形にするといっても一続きに書くか,分けて書くかしかない。それならば,そういう特例だけを取り立てて,一続きに書くとか,分けて書くとかを厳密にいう必要はないのではないか。すなわち,原則として,いつでも一続きに書くとか,あるいは分けて書くとか,どちらかに決めておいたほうが,だれにでも,いつでも,誤りなく書けるのではないか。そういうものにはすべてつなぎ〔−〕を入れて書くということにも,理屈のうえからは考えられるが,わずらわしいし,見た目もきたなく,実用に乏しい。
  •  意味によってわかち書きを変えるべきだということも確かに一理はあるが,どんな場合にでもすべて書き分けているというならば,それはそれとして納得できる。しかし,現状はそのようにはなっていないようである。たとえば,「どういうふうに」という場合の「どういう」は,「どういう」という一つのまとまったものと見て,diu と一続きに書き,「どういうとうまく言い表わせるか。」などという場合の「どういう」は,「どう」の部分は,「言う」いう動詞を修飾している副詞として,それぞれ別のものとみて,d iu と分けて書くというぐあいにきめることは,この場合についてだけ考えれば納得できよう。
     それならば,たとえば,「行ってみる。」などの場合,「どこそこへ行き,そして,何かを見る。」という場合には,itte miru と分けて書き,「ちょっと駅まで行ってみる。」など,つまり,いわゆる補助動詞としての用法にittemiru と一続きに書くというふうに,同じ「いってみる」でも,その意味によって書き分けているかというと,そうではなく,「いってみる」の意味のいかんにかかわらず,常にitte miru と分けて書いている。このほか,「やってくる」か,「やってみる」とかについても同様である。
     このように,意味上一つにまとまっているものは,一続きに書くということは,特別ないくつかの場合だけについて厳密にいい,他の場合には触れずにいるというようなことがありはしないか。
  •  書かれている文を読む場合に,分けて書いてあるからといって,それぞれ独立の二つのものが並んでいると考える必要はなく,表記面にこだわらずに,たとえば,句とか連語とかの場合のような形のものとして考えればよいのではないか。
  •  従来,わかち書きをしない漢字かなまじり文の表記法を身につけてきた一般の人々が,個々の具体例について,その場で,一続きに書くか,分けて書くかを判断して,正しく書くことはむずかしことである。そこで,どうしても,原則として一続きに書くとか,原則として分けて書くかのどちらかに決めておく必要がある。
     前に審議した「には」「にも」なども,niwa,nimo などと一続きに書くことは少しもさしつかえないことであるが,助詞全体を見渡してみると,「に」「は」「も」という助詞がそれぞれ単独で存在していることは事実であるから,「には」「にも」のような場合でも,必ずしも一続きでなく,ni wa,ni mo と分けて書くことに決めてもさしつかえないとも考えられる。
  •  助詞と助詞とが重なったものとみられるようなものでも,特殊なものを除いては,別々に分けて書くように決めたらどうか。具体例でいうと,「よりは」「よりも」なども,「にでも」「にさえ」などと同様に, yori wa,yori mo と分けて書くように決めたほうが,表記の簡潔化という面から見て合理的ではないか。

以上のいろいろの意見は,おおまかに分類してみますと,

  1. その語の使い方に応じて,語形のうちでも区別が表われるように一続きに書いたり,分けて書いたりするほうがよい。
  2. 原則として,なるべく,常に同じ語形として書き表わすようにしたほうがよい。

という二つの立場・考え方に分けられるのでないかと思われます。
 この二つの立場・考え方は,具体的な例について言えば,さきほど申し上げました「多少年齢よりはおくれているんだ。」などにおける「よりは」を,yoriwa と書くか,yori wa と書くかの問題となってくるのであり,この二つの立場・考え方は,ただいまのところでは,どちらも考えようによって,妥当なものと考えられるのでありまして,どちらがより妥当であるかを決めることはきわめてむずかしいことと思われるのであります。

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