国語施策・日本語教育

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議事 懇談

池田副会長

 きょうは,阿部会長がご病気で欠席されたので,わたくしが進行係をつとめさせていただく。
 これまで2回にわたる総会で,各委員からいろいろなご意見があった。これらをまとめて整理すると,だいたい次の六つになる。

  1. 国語審議会は,これまでいかなる方針のもとに,いかなる資料によって,いかに調査し審議してきたか。
  2. 国語審議会は,国立国語研究所の研究をいかに生かしてきたか。また,今後はどうあるべきか。
  3. 国語審議会は,今後いかなる態度で審議していくべきであるか。
  4. 国語審議会は何を審議すべきか。
  5. 今後,国語審議会の運営はどうするか。
  6. 国語審議会の審議結果は,いかに実施されるべきか。

 これまでに,まだご意見を伺っていないかたもあるので,きょうはもう少し自由にお話を伺うことにする。

滝川委員

 この審議会は,現在行なわれている国語を審議する場合,ローマ字にするとか,別の文字を考えるとか,また,かな文字でやるとかという問題をまぜることは,混乱のもとであるから,これらは論外にしていただきたい。今までにいろいろな討議があったが,改正する場合,次のように区別すべきである。

  1. 実際生活に即した国語,義務教育,新聞に適した国語であること。
  2. 学術論文などは今の日常生活の国語でやれない。これら専門のことをやる人の文章は,このわくからはずす。
  3. 文筆家の文章も日常生活の文字で縛ることはできないから,このわくからはずして考える。

 国語は国民の思想表現の手段であるが,われわれは国語でものを考える。文字をただすより先にことばを改め,作りかえる必要がある。わたしは法律をやったものであるが,「検事が求刑した」というより,「検事が…刑を求めた」といえばいい。ことばをかえなければわからない。「未決勾(こう)留」と刑の「拘留」とは違う。新聞なども,「勾」が当用漢字表にないので「拘」を書いている。これなどは,ことばを直すべきである。また,「体刑」など,日本の刑法にはないのに,平気で使っている。こういうものから直さないとだめである。固有名詞は多く漢字で書いているが,正しく読めるものは少ない。こどもに名まえをつけるときは,人が読み誤らないような名をつけることがたいせつである。地名もむずかしい。かなにするとか,もっとわかりやすくする方法をとりたい。先日,沖縄へ行った。「喜屋武」という所を「きやたけ」と読むのかと思っていたところ,「きやむ」だという。
 国語の改正が必要だと思うのは,大学の入学試験など,国語科の成績のよい者は,杜会科など他の学科の成績もよいようである。日常生活の国語をたいせつにするためにも直す必要がある。専門家や文筆家のことは別に切り離してやればいい。

相良委員

 これまでいろいろなご意見を伺ったので,こと新しく言うことはないが,わたくしは自分の経験の上から申し上げる。
 以前にヨーロッパに留学し,日本に帰って気づいたことは,道路の悪いこと,日本人のからだの小さいこと,国語問題――文字,書き方のむずかしさであった。近ごろは道路もだんだんよくなり,体格もよくなってきている。文字の問題も,書き表わし方など明治以来研究されている。ドイツ語の字引を作るとき,日本の訳に困ったことは,文字の使い方が不統一であることである。特に送りがなにはいちばん困った。いろいろ国語学者にも聞いたが,きまりはなかった。たとえば,「返り咲き」という場合,送りがなをつけなくても,つけても,どう書いてもまちがいではないという。けっきょく,自分自身で基準を決めて書かなければならなかった。漢字もどれが正字かわからなかった。何か基準があればそれによればいいが,何もないというのはまことに困る。現在でも,旧かなづかいでいいという人もあるが,たとえば,「法――はふ」「酔――ゑふ」「尊――たふとい」などわずらわしい。いまだに1000年前の発音を書いているのである。かなづかいは表音式が原理であるから,時代が変わり発音が変われば,その時代のかなづかいにするべきである。ドイツ語も,時代によって,発音もつづりも変わってきている。英語でもフランス語でもそうである。100年,200年で少しずつ変えていくべきではないか。そうすれば,その時代は,こういう発音だったろうということが後世になってもよくわかる。どこの国でも1000年前の古典的な使い方をもち続けている国はないと思う。歴史的かなづかいを固執する人もあるが,やはりそれは改めていきたい。合理的といっても,どこの国のことばでも多少の例外があることはやむをえない。たとえば,「取り締まり」「取締役」などは,やむをえないことである。漢字制限については,.あまりたくさん漢字を使うことは困る。漢字を制限すれば,かなづかいがむずかしくなる。そこで,かなづかいは,表音式に合理化すべきである。といっても,文学的表現は複雑微妙なものがあり,表現の効果を考えると,日常のことばだけでということはむずかしい。特に,詩や歌がはいってくると,文語に訳したいことがあって,なおのこと苦しくなる。一つの作品の中で,表音的かなづかいと,旧かなづかいとがまじることは困る。しかし,文学などにたずさわる人は少数である。国民全体としては,もっと平易なものにしてほしい。もちろん,学術論文などで専門に使わなければならないものは別に考えることにする。
 これまで国語審議会から出されたものの結果について,だいたいの方向はあれでいいが,細部については,なお一歩研究する必要がある。文明国は,どこでも正書法として標準が決められている。時代によって改めてゆく。その時代の標準がないと困る。ことばを改める,発音,アクセントなど,日本語としての標準を決めることもやってもらいたいが,なかなかむずかしい問題と思う。さしあたり,漢字,かなづかいについて,審議してはどうか。

吉田委員

 先ほど滝川委員から,「ことばは思想を表わす手段…」といわれた。前回にも趣旨のことを申し上げたが,「国語問題要領」(国語白書)は,国語審議会の審議会の方向を示したものであると思う。白書の中に,「すべて言語は思想伝達の手段であるから…」といっているが,初めからこう決めてかかって審議することは危険である。この点をもう少し検討してゆきたい。簡単に割り切って言語の本質を決めることは危険であると思う。国語の審議をするとき,日本語をどういう文字で書き表わすかということを明確にしておくべきである。少なくとも,わたしは,漢字とかなでものを考えている。これ以外の言語はもちあわせない。国語といえば,漢字とかなになると思うが,どういう文字を使うのを国語というのか明確でないので,かながいいとかローマ字がいいとかという。国語を簡単にするというときに,現在の日本語は漢字が多く,旧かなづかいはめんどうなために,この負担を少なくするということが出されるが,漢字,かなを教えることがどれだけの負担になっているか,はっきりした資料がほしい。他の文明国と比べてどれだけの負担になっているか具体的に示してほしい。漢字を覚え,かなづかいを覚える訓練はむだなことではないと思う。正しく覚えるけいこをすることが頭の訓練になり,教育上たいせつなことと思っている。漢字を覚えることが時間の浪費で,他のことをマイナスにするほど大きいものであるか疑問をもっている。国語のよくできる人は,ほかの学科でもよくできるということから考えても,国語を正しく覚え,使わせる訓練はたいせつである。

岩下委員

 ただ今のご意見で,漢字かなまじりでなければ国語が想像できないという話であるが,栃木県の盲学校の先生をしているわたしの友人からのたよりに,盲学校では明治時代から点字を取り入れ,あらゆることを点字を通じて不自由なく勉強しているということである。漢字かなまじりでなければ勉強できないとは思われない。先ほどのお話は,うなずけないところがある。
 わたくしは,前に4期,5期と委員をやり,また今回は,全国高等学校校長協会長の立場から委員に選ばれたことと思う。前期の終わりの総会で,相当激しい論争が起こった。その当時,わたくしは,世間から表音主義者と思われたらしく,激しい脅迫の投書がきたりして,家人が心配をした。しかし,わたくしは現代においてはローマ字やかなにすべきとは毛頭考えてはいない。やはり,漢字,かなとは思っているが,これからは国際的な交流が盛んになり,外国人も日本に多くやってくる。やがて,ローマ字とか,かなとかという表音の時代がやってくるかもしれない。たとえ,そういう時代になっても,われわれが日本人であることを忘れたいためには,古典を読んで,理解できる力をつけるべきであると考えている。
 このたびの国語審議会の使命はいかにあるべきかは,いろいろな考え方があると思うが,新しい構想のもとに人選して発足したのであるから,これまでの審議会から出されたものを再検討することにあると思う。その結果,手直しをする必要があるかもしれないし,あるいはその必要がないということになるかもしれない。新しいことをやるのでなく,今までのものを振り返ってみるべきである。
 言語政策の問題もあるが,なかなかむずかしくて,この審議会で取り上げるのはむりであろう。われわれとしては,まず漢字かなまじりをどうするかを考えることに限定されるだろう。これまでのものを検討する際に考えるべきことは,これまでのものが戦後のどさくさで決められたという印象があるとすれば,それは誤解であること,これはいずれも明治以来の国策として検討の末決められたのであって,なにも表音主義者の主張によるものでなく,いずれの場合も公正な立場で決められたものであることを知るべきである。

高木委員

 先ほど吉田委員のご発言のように,われわれの思考が国語をもって行なわれるということはそのとおりであると思う。その際,日本語で考えるが,ことばをいちいち漢字で考えているのではない。漢字から出てきた漢語を使って考えるが,言語思想を考えるとき文字でもって考えているのではなく,ことば,発音をもって考えているのである。ことばと文字と,を区別してかかる必要がある。これを同じにすると混乱する。一度,文字ができると話すことばに影響してゆく。実際使っているときは,ことばとして使っている。それを他に伝えるときに文字を用いる。そういう点からいうと,文字は伝達の手段となる。文字と思想であることばとを区別する必要がある。どうかすると,これを混同するおそれがある。その他の点については,吉田委員の説に賛成である。教育上の影響を調査することは必要である。次の時代の日本の国民のことを常に頭におき,これから義務教育き受けて文化活動に参加する人たちのことを考えて現状になずむことなく,将来の日本人のことを考えて審議を進めていくべきである。

桑原委員

 前の総会を2回とも欠席したので,これまでにあったご意見と重なるかもしれないが,わたくしの感じたことを申し上げる。吉田委員の,言語は思想そのものであるというご意見に対して,ただ今の高木委員のご意見もあったが,ここで言われている思想というのは,カントなどのむずかしい思想の意味でなく,考えごと,感情を含めての思想と考える。そうすれば,白書の文を変えなくても審議を進めることができるのではないか。文芸作品の思想でもなく,哲学的な思想でもなく,広い意味の今述べたような思想と考えればよいと思う。手段を道具の意味にとり,便宜主義ということと結びつけ,手段ということにこだわる議論もあるが,漢字にとらわれずにやりたい。批判の中に便宜主義ということがいわれているが,文明の進歩ということは,みんなが楽をすること,たとえば東海道を昔は歩いていたのを汽車で行くように,便利を増してゆくことと考える。科学を拒否しない,機械を用いることを拒否しないということである。なにもローマ字にしようとは考えてはいない。漸進的にいかなければならない。機械が現実の世界にできていることは認めなければならない。タイプライターに複雑な漢字かなまじりの文がのるとは思わないが,のるという考えをもち続けなければならない。文字が機械にのることは便利である。さきに梅棹氏がアフガニスタンに旅行して,むこうの人は自動車の中でもタイプライターで原稿を書くことができるが,自分,は車上では書けないと言っている。日本語は漢字とかなの文章であるが,この審議会がこの議論だけに限るのは困る。ローマ字もあり,かなもあることであるから,将来行なわれる可能性にふたをしてしまうことは,わたくしとしては,この国語審議会のとるべき態度ではないと思う。わたくしの所の研究生が農村調査をやった。そのおり,対象の名前を,ローマ字で書いた班と,漢字で書いた班とがあったが,ローマ字で書いた収集カードのほうが漢字で書いたものより数倍多かった。この調査では,名まえは,読んで他人とまぎれなければよいので,いちいちどういう漢字を書くか相手にきかなくてすんだからである。ローマ字を使うことが便宜主義にすぎないということはおかしい。
 次に,固有名詞の問題がある。わたくしの名まえは,人によって「くわばら,くわはら」と読み方が違う。外国人は「くわはら」と「くわばら」とは別人とみている。人によって読み方の違うのは困る。国際交流が盛んな今日,なんらかの方法で,これらの問題も漸進的に取り上げてほしいと思っている。次に,日本の義務教育の課程で,むずかしく負担になるといわれているが,ドイツ,イタリアなどと比べてどうか,国語研究所から資料を出していただくことに賛成である。
 過去の国語審議会については,多少のミスはあったかもしれないが,方向は全般的に正しかったと思っている。修正することは修正していい。漢字,かなを中心に考えていくべきである。
 京都大学で,音から直ちにタイプできる機械を研究しているが,世界でいちばん進んでいると思う。こういう可能性も無視しないようにしていただきたい。

吉田委員

 高木委員のご意見を伺ったが,わたくしは,やはりものを考えるとき,どうしても漢字によって考えている。漢字が頭の中で動いている感じがするので申し上げたしろうとの感想である。岩下委員のご意見のように,作り上げた思想,文芸作品は,かな,ローマ字,点字などで書くこともできるであろう。しかし,点字で考えたものを日本語といえるかというと疑問に思う。思想を新しく作り進展させていくには,漢字でないといけないと思う。できたものを何で伝えるかは,いろいろ方法があろう。しかし,思想を創造していくには,漢字にたよらずにはいられない。多少学問的なことを進めていくとき,どうしても漢字抜きではいけないと思う。

横田委員

 だいぶ以前の話になるが,日本が国際連盟を脱退したとき,松岡洋右全権が,自分の思想は頭の中で英語で出てくると言った。わたくしの思想は漢字かなまじりで構成されていると考えざるをえない。なんといっても,現在の困難な問題を解くことが第一である。しかる後に,将来に及ぶことである。現在の混乱をいかに処理するかに重点をおき,ローマ字とか,かなとか理想的ことは先のことで,後代の学者に任せればいいのではないか。何年かたつうちに,どんな機械が発明されるかわからない。研究は専門的にしなければならないが,現実の処理に目標をおくべきである。はじめに副会長が言われた,これまでのまとめの六つの点について,過去の審議会の成果の報告,国語研究所の研究をどう生かしてきたか,などについての資料を出してもらいたいと希望しておいたが,これらについては,どうなっているか。

古賀委員

 わたくしは,国語については全くのしろうとで,国語の利用者の立場にあるものである。先ほどからの話では,特殊な例もあった。考える場合の文字についての議論について意見がないでもない。現在は学校教育が非常に行きとどいているから,考えようによって文字を思い浮かべるだろうが,世の中では文字をもたない人どうしでも意志を伝えあうことができる。文字と直結しているか,していないかということは考え方によるだろう。しかし,そういう議論をしていても審議会としての仕事はできないと思う。世間で期待しているような仕事を進めるために,ぼつぼつ方向を考えてもいいのではないか。お互いに意志の疎通はできたのではないだろうか。
 義務教育,新聞などで日常使う文字はもちろん,医学,理学等すべての専門の分野から見て全く不満のないものにすることは,とうてい不可能である。ある程度の不便,不満はやむをえないことである。なるべく,そういう点を少なくすることを考える以外にないと思う。細かい事情は調べていないが,要するにことばや文字について,かつて国語審議会で決まったものが厳格なわくになっているように思われる。義務教育と直結し,新たに決まったものを使わないとまちがいであるといったようなことのために,いろいろな混乱を起こしたのではないか。すでに決まったものでも,多少手直ししたほうがいいと思われるものもあるだろう。そういうもの全体の方向づけをしてほしいということではないか。特殊なものについては,好むと好まざるとにかかわらず,どう流れていくか将来のことはわからない。文字にしても,一部のところでは,文字を全部数字に直して表わしているもの,その他ことばがすぐ文字になるとか,翻訳が自動的にできるとかと機械化されている。遠い将来はどうなるにしても,時間の経過につれてある方向に流れていくことは,だれがどうすることもできない。ぐあいの悪いところがないように,かじをとっていくことが,この審議会の仕事であろう。これからの国民,また外国人が日本語を学ぶ場合,不自然なことのないよう考慮すべきである。今までのものに慣れているわれわれには不便でも,ある程度がまんする必要がある。メートル法に変わったとき,尺貫法に慣れているおとなには不便でもがまんしていかければねらないように,もし国語の問題にも同じようなことがあるとすれば,しかるべき方向に導いてゆくべきである。このへんで,建設的にぼつぼつ前向きになってもいいのではないか。

佐藤委員

 これまでの国語審議会のことを検討することも必要であると思うが,明治以後,主として文字の問題を扱ってきた。このもとになることばをおろそかにしてきたように思う。日本では漢字を使っているため文字が重要であるが,ことば自体の問題にさかのぼるべきである。外来語をどうするかという問題もあるが,現実には漢語の問題がある。漢語には同音のことばが多い。話したり聞いたりする場合,漢字を思い浮かべなければわからないので,先ほどの話が出てきたと思う。漢字と国語の問題を考えなければ,国字の問題も解決しない。江戸時代の西鶴の小説では,漢字をあて字や表音文字的に使っているところが多い。目で見ることば以外に,耳で聞いて覚えたことばがあったのではないか。謡曲などのように…。当時は,耳で聞いてわかれば字は自由に書いたということがあった。明治以来,義務教育が行なわれ,目で見たことばを覚えるようになってきた。その結果,漢字に直さないとわからなくなってきた。いいか悪いかわからないが,そういう言語生活をしている。日常生活では,点字でも用が足せるかもしれないが,専門的なものにはまにあわない。学術用語にも同音語が多く,漢字の問題を考えることが現実の問題である。将来の国字をどうするかということより,ことばの問題を先にする必要がある。
 今までの国語審議会は,国字審議会という感が深かった。国字を論じる場合,ことばをあわせて問題にしていただきたい。一つは,文字として,かな,漢字を論じる場合は,耳で聞くことと,目で見ることを同じようにすることである。表意主義者でも,字音かなづかいまで旧かなにせよと議論する人はいない。また,完全に表音的な人もいない。現代かなづかいも完全な表音ではない。表意,表音は絶対に歩み寄れないものでもないと思う。書くのには表音が,目で見るには漢字が便利である。駅名などローマ字よりも漢字のほうがわかりやすい。表音とか表意とかと簡単にきめつけないで,どの段階にとどめるべきかを考えていきたい。国語審議会は,どういう点に踏みとどまるべきか。さしせまった問題を取り上げることはもちろん,2年間の任期にどういう方針でやるか予定を決めてやっていきたい。

池田副会長

 ここで,新しい次官,局長のごあいさつがある。
(内藤事務次官,天城調査局長のあいさつ)

池田副会長

 今までの話し合いで,じゅうぶんではないが,いちおう意志の疎通ができたのではないかと思う。阿部会長から運営委員会を設けてはどうかという提案が出ている。これについて密議していただきたいと思う。

千種委員

 まだ意見を述べていないかたもある。もう少し話し合ってはどうか。

浦上委員

 今まで,皆さんのお話を聞いたが,もうそろそろ問題をしぼっていってもいいのではないか。新聞の話も出たが,将来の新聞のことについても考えておきたい。日本に新聞ができてから100年になる。おくれていた活版部門が,このところ発展してきた。モノタイプ作業で15字詰め漢字かなまじり文ができるようになっている。本社とおもな支局との間ではモノタイプを使っている。これをもっと小型のものにして,事件の現場から直接本社と結びつけるという研究に着手しているという。また,新聞を印刷して各家庭に配達するのでなく,本社から各家庭に電送することも考えている。これは将来のことで,ここでの論議とは関係はないが,いずれは日本でも実現される段階がくるのではないか。現在の漢字の数は,このままでよいか,研究課題である。現在新聞界で困っていることは,新聞の送りがなが今日になって混乱してきた。当用漢字,現代かなづかいは,比較的うまく使用されている。送りがなでは受け入れる社とそうでない社が出てきた。急激な伝統の破壊と考えられたのか,もとにもどされた社もある。まず,現在混乱している送りがなを整備することを考えてほしい。それに続いて,当用漢字の再検討,音訓表の整理をして,新しい基準を出していきたい。最初の総会で文部大臣のあいさつに,この審議会は具体的なことより国語の原理的なことをということであったが,以上のようなことの結論をこの2年間に出すことは,方針にそむくことになるだろうか。とにかく,再検討をお願いしたい。

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