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国語審議会が審議する「国語」を規定し,これを公表することに就て(提案)

国語審議会が審議する「国語」を規定し,これを公表することに就て

提案者  委員 吉田富三

議案

 国語審議会が「国語」に関して審議する立場を,次の如く規定して,これを公表する。
 「国語は,漢字仮名交りを以て,その表記の正則とする。国語審議会は,この前提の下に,国語の改善を審議するものである。」

提案理由

 提案の問題の主体は,話し言葉にではなく,国語の表記にあります。換言すれば,如何なる文字を以てするのを国語表記の正則とするか,その点を明示する事であります。
 いかにも自明の事を,ことさらに問題にする様に見えるかも知れませんが,明治以来今日に続く国語問題の紛糾は,その根元に於て,右の一点をあいまいにしたまゝ,ときには意識的に不問に附したまゝ,論議を重ねて来たところに,その原因を有すると考へられます。
 国語問題と国語国字問題とが,しばしば同義であるのは,国語問題の本質をなすものは,文字その者である事を物語ります。その文字のうちでも,漢字が特に問題である事は,既に明白であります。
 明治の初頭に於て,始めて西洋文明に接して起つた国語問題は,先づ漢字全廃論を以て始まりました。国語の表記を仮名文字,ローマ字等の表音文字表記に変へようとする論或は運動は,必然的にこれに伴ひました。この「漢字全廃」を究極の目標に置いて,その中間手段として,漢字の制限,仮名づかひの表音化等の運動が起りました。
 政府の国語政策は,時勢,国運,思想の動向等によつて,変動,浮沈があり,国語問題の審議にも紆余曲折がありましたが,要するに,国語問題,国語政策を引き廻はし,その紛糾の原因をなしたものは,表面に出ると出ないとに拘らず,明確に意識されるとされないとに拘らず,漢字全廃論に根ざした国語改革思想でありました。この事は,国語問題の歴史からみて否定し得ないところで,今日に到るまで同じ線で続いてゐます。
 併し,提案者個人にとつては,漢字仮名交り文を以て表記する言葉以外のものを,「日本語」として念頭に描くことはできないのであります。日本語から漢字と仮名とを取り去り,「音」だけを残し,これを如何なる表音文字,または記号を以て表記してみても,それを「国語」と考へることはできません。
 勿論,これは飽くまで私見であります。国語学或は言語学を専門としない一人の日本人の感覚に過ぎませんから,議論はあると思ひます。そこで提案者の願ふのは,果して議案に述べた様に「国語」或は「国語問題」を規定して,これを国語審議会の名に於て広く公表することができるものかどうか,その審議であります。
 審議の結果,この大前提が明示されるならば,それは,漢字と仮名とは国語表記の要素,即ち「国字」である事が確認された事を意味しますから漢字の使用に対して,或る範囲の制限をつける施策にしても,その限界は,現実に即して,自ら余裕のあるものとならざるを得ないでせう。仮名づかひの問題にしても,単に発言通りに近づけるだけの目的のために,無理を敢てしないでもすむ様になりませう。漢字と仮名とを,日本語の文字,即ち国字として,最大に尊重しながら,その上で,国語の表記を正確に,平明に,美しくするための審議は,広く日本人の良識に訴へて,楽しく,漸進的方法を以て進められる様になるでありませう。国語教育に於いても,先づ子供たちに何を教へるべきか,何に拠らしむべきか,教育の基本が確立され得るでありませう。
 世には,国語を愛し,従つて政府の国語政策に対しては,多大の関心を以てこれを見張つてゐる人々が,決して少くはありません。またこれらの人々のうちには,国語問題のこれまでの経過に鑑み,政府の基本的態度に不信の念を抱いてゐる者も少くありません。
 いま国語問題は,如何なる根本理念により,何を目標として,審議されてゐるのであるか。平たく言へば,政府は我々の国語を何処へ持つて行かうとしてゐるのか。そこに疑惑の念を抱いてゐる人は決して少くありません。今もし,国語の表記と国字に関する基本的立場が,上述の如くに明示されるならば,これらの年来の疑惑は一掃され,国語は全国民と共にその本来の明るい大道を歩み,全国民の手によつて,正しく,美しいものに育てられて行く様になるだろうと思ひます。
 但し,この提案は,国語を,場合によって,ローマ字,カナモジ等を以て表記し,伝達,通信の利使と能率の向上とに資する方法の活用と研究とを排するが如き意図は,毛頭これを有するものでありません。むしろ,これらの副次的国語表記の研究と,より有効な方法の開発とは,益々助成,奨励さるべきものであると考へてゐます。併し,飽くまで留意すべきは,これらはどこまでも副次的,便宜的表記法であって,国語の正則の表記の問題とは別個である点だと思ひます。
 国語は,国の文化の根元であり,一人々々の国民の思想その者であります。「国語」によって創造され,「国字」を以て表記された思想を,単に伝達,通信するための便宜上,何らかの表音記号に仮託する機械的手続の問題と,思想が拠つて以て立つところの国語問題とは,別個であります。両者は峻別すべきで,混同されてはならないと考へます。況んや,後者の立場だけから前者を論ずるが如きは,厳に誡むべきでありませう。
 終りに一言附言致します。
 提案者は,自分が今「国語」として自覚し得る様な国語を問題としてゐるのであつて,極めて遠い将来に,日本人の言葉が如何なる変化を示すものであるか,それが「如何なるものであるべきか」等を問題としてゐるのではありません。これは極めて大きな民族文化史の問題であります。専門的学問の研究課題としても,広大な規模と年数とを要する大問題だと想像します。或は,この種の問題は,想像を絶するものといふべきでありませう。それは,例へば,遠い将来に,日本民族はこの四つの島から散らばつて,地球上の何処にどう拡散するのであろうか。その時の日本人は「如何にあつたらよいのか」―さういつた問題と同じであります。従つて,いまの国語審議会が,この種の遠い未来を念頭において審議を進めるのであれば,我々の如きが意見をさしはさむ余地は全くない事を,提案者は自覚してゐます。
 提案者は今この提案理由を考へ,書きながら,漢字と仮名とで物を考へてゐます。それ以外の事はできないのです。これは厳しい事実であります。いま小学校に通つてゐる無数の日本人の子供たちにも,この私のものと同じ道以外のものはないでありませう。即ち現実に考へ得る限り,国語は日本人の思想その者であり,現実に日本人が所有する文化の根元だと信ずるのであります。
 国が国語を如何なるものと考へ,それを如何に尊重し,如何に愛するかそれを明示し,子供たちに国語学習の拠り所を与へ,学習の重要性を知らしめることは,国民の思想の形成に,或は日本人の人間形成に,何者にも優先する重大要件であると信ずるのであるのであります。不敏を顧みず,敢てこの提案を試みるのは,このためであります。

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