国語施策・日本語教育

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前田会長

 ただいまの,漢字,かなの両部会の審議経過報告に対して,質問・意見があれば伺いたい。

長岡委員

 漢字部会の「音訓検討表」では,「使用度数」と「使用範囲」を区別して検討されているが,この二つは同じ性質のものではないのか。

岩淵漢字部会長

 「使用度数」というのは使用回数のことであり,「使用範囲」というのは,どういう場面で出てくるかということである。その語が,評論・生活・娯楽等のあらゆる雑誌で使われれば,それは使用範囲が広いということであり,「衿」のように使用度数が多くても,それが婦人雑誌に限られるようなものは,使用範囲が狭いということになる。

長岡委員

 「後」に「あと」,「魚」に「さかな」という訓を認めるかどうかというようなことは問題にならないのではないか。「あと」や「さかな」ということばが日本語として認められるならば,そのことばに,いかなる文字をあてはめようと,そのことばを使う人の自由である。

熊沢委員

 漢字部会では,「眼」に「め」という訓を,読む立場はもちろんのこと,書く立場からも,これを認めようという意見が多数であるということであるけれども,それでは,「目」と「眼」を区別して使わせようということなのか。使い分ける基準をどう考えておられるのか。「めやに」「めつき」など,どうして「眼やに」「眼つき」でなければならないのか。そういうことを考えたうえで審議されているのか。

岩淵漢字部会長

 そういう細かい事がらについては,まだ,じゅうぶんに検討していない。ただ,各委員それぞれの考えで,必要だろうという程度のことで,具体的な個々の用例まで煮つめて検討していない。

熊沢委員

 もし,書く立場からも,「眼」に「め」という訓を認めるなら,「目」との使い分けの基準を明確に示さなければ,中田委員の指摘されたような国語表記の混乱を起こすことになろう。どちらを使ってもよいといっても教育上は問題になる。

大野委員

 「眼」に「め」という訓を認めようというのは,やはり「眼鏡」「眼球」と書きたいからで,かな書きや,「目鏡」「目球」ではおかしいという考え方があるからである。なお,本日の漢字部会の資料「音訓検討表に基づいて各委員が判定した結果の表」には,書く立場からの判定の集計は出ているけれども,読む立場からの判定の集計はどうして出ていないのか。現在の当用漢字音訓表が実際に即さないで不便であるから再検討しようということであるが,不便であるという原因の一つは,この当用漢字音訓表が,これからの文章を書き表わすという立場からだけで決められたからである。しかし,言語生活においては,書くということよりも読むということのほうが比重が大きい,むろん読めるようにといっても,古い過去の文献までさしていっているのではないが,ともかく読む立場から音訓の検討をしようということは重要なことであり,そういう意味からは,「眼」に「め」の訓を認めないのはおかしなことである。

中田委員

 大野委員は,少なくとも昭和にはいってからの文献を読めるようにしておかないと,大学生が文字を知らなくなるという発想のもとに音訓を問題にされているが,わたしは,そのほかに日本語の将来を見通した理想的な表記ということを強く考えてみる必要があると思っている。たとえば「後」という漢字を,前後の文章でわかるといってみても,「のち」と読むのか,「あと」と読むのか迷うような,かつ,書いた人の意思に反して,読み誤られるような不合理な表記は廃止していく必要があると思う。この総会としては,大野委員のような立場をとられるのか,それとも合理的な表記を打ち出す方向で考えていかれるのか,その点を伺いたい。

長岡委員

 「あと」「さかな」ということばは,日常のことばである。このことばを書き表わすのに,「後」「魚」という漢字があるのだから,使ってもさしつかえないではないか。中田委員のように窮屈に考えるのは,かえって国語の表記の混乱させることになる。

佐藤委員

 同音の場合,かりに同じ語であっても,書き分けることには賛成であるけれども,実際には,意味の区別が微妙で,なかなか判別しにくい問題がある。「はかる」ということばには,「計る・測る・量る・図る」という書き方が認められているけれども,「会議にはかる」という場合には,「諮る」も認めておく必要があろう。しかし,異字同訓を多くすることにも問題があるので,この点はやはり実際のことばに即して決めていってもらいたい。それに,同じ字についても,たとえば,「尊い」には,「たっとい」の訓は認められていても,「とうとい」の訓は認められていないが,はたして「たっとい」のことばのほうが現代語なのかどうか,その点をも明確にしていってもらいたい。なお漢字部会では,現行の当用漢字音訓表の範囲内で,「現代雑誌九十種の用字用語」についてのみ問題にされているのか。今後は,これ以外の事がらについても検討されるのかどうか伺いたい。

岩淵漢字部会長

 たまたま,「現代雑誌九十種の用語用字」には,使用度数つきの例があるので使用しているにすぎない。その他については検討しないということではない。

西原委員

 音訓を検討するについては,将来の合理性を考えてとか,読む立場を重んじてというように,それぞれ参考になる意見が出ている。わたしの意見は,具体的には,「魚」に「さかな」,「眼」に「め」という訓読は,いまさら認める必要はないという考えである。ただ学校教育および一般国民の国語表記を考えようとする場合,将来を見通してという考え方が,はたして合理的かどうかには少し問題がある。ある程度古典的なものが復活してきている現在において,かなり音訓をゆるめてはという考え方は,必ずしも俗論とはいえない。問題は,現代の国語の標準的な表記をするには,どうすればよいのかということである。現行の当用漢字音訓表も制定以来20年,その間に言語環境も変わってきているので,それに適合させていく必要があろうし,そういうことが,また国語の標準表記を保つことではないかと考える。なお,漢字部会における検討の材料としての「現代雑誌九十種の用語用字」の使用度数は,一つの根拠にはなりうるけれども,そればかりにとらわれてはいけない。現代における必要性とか,漢字の意味生活といったところのことを考慮するところに常識が働くのであって,こういうことこそ,各界の学識経験者による国語審議会としての合理的な審議ではないかと思うわけである。

小谷委員

 国語について,しろうとであるものにとっては、異字同訓といったものはなるべく少なくしてほしい。わたしは口から話されることばが日本語としての基本になるという考えから,表記しなければ日本語が成立しないというのでは困ると考えている。こういう立場は,ある程度合理性をもつものであろう。異字同訓などが多ければ話す場合に不完全であり,表記しないことには完全なものとならない。将来のことばかりでなく,過去の文献も読めるようにすることが必要であるが,それでも異字同訓はできるだけ避けてもらいたいものである。

大野委員

 わたし自身も,異字同訓はむやみにふやすべきではないと思うが,しかし無理に避けるべきものでもないと思う。ただ現行の当用漢字音訓表は,これからの文章を書き表すためにと決められているにもかかわらず,学校教育などでは,過去の文献の表記をも無理に書き換えているのが現状である。人によっては,音訓をゆるめたほうがよいとか,少なくしたほうがよいとか,それぞれ意見はあろうが,これをどこで調和させていくかが,われわれに課せられた任務であろう。ただ,ここで重要なことは,われわれの審議の対象は国民一般であるといった場合の国民一般とは,具体的にどの範囲かということである。国民一般とは義務教育終了者程度と考えるのかどうか。わたしは義務教育というのは,一般の社会生活のための基礎を教えるところにすぎない,義務教育の期間中に国民全体が使える語いのすべてを教えることはできないと考えている。本日配布されている志田委員のメモと関連してこういう点を,総会でもう少し論議して明確にしておかないと,今後の審議に混乱を起こすことになろう。

西尾委員

 漢字部会の努力には感謝している。わたしの意見は俗論中の俗論であるかもしれないか,少し考えを述べたい。現在問題になっている当用漢字音訓表にかぎらず,漢字とかなで表記する国語というものは,ほんとうは,いままでのようないろいろな制限の方向で考えていくべきものではなく,むしろ,国民がわれわれのことばを合理的にまた能率的に表記するその表記のしかたはどういうのが基準になるのか,その基準を示していくことが,もっとも適当な方法ではなかったかと思う。むずかしい問題ではあるが,漢字とかなの使い方は,こういうふうにするのが日本語の表記としてもっとも理想的であるという姿を研究していかなければ,政策としての意味が成り立たない。それがむずかしければ,せめてこれまでに表記されたなかで,もっとも国民の表記の基準として参考になる実例を見つけ出すことが近道ではないかと考える。現在のような制限という方向の努力では,どうしても無理が起こる。当用漢字音訓表にしても,わたしはまえまえから,1音1訓を標準として決めることはできても,実行は困難だというより不可能だということを指摘してきた。それだからこそこの際,国語施策としては,訓の制限を解除すべきだと岩淵漢字部会長に個人的に進言したこともあった。ただ,わたしが昭和21年当時の国語審議会の委員であったときは,表記をたやすくするということには賛成であった。実際の表記では,漢字を一つの音節にしか使わないような例があったけれども,わたしはそういうことにも賛成であった。しかしそのとき現在の岩淵漢字部会長から,漢字を使う以上,漢字の機能を無視するのは不合理であると,わたしの弱点を指摘されてひどく胸を打たれた。それでわたしは,どうもこれまでの国語政策は一般の大勢としては必要なことであったと考えるけれども,個々の点については,はなはだ問題が多かったと思う。しかしこれは国民的実験期とでもいうべきもので,学者が理論で決めるべきものでなく,国民が使用する過程で逐次直していくべきものであると受け取った。ただ,国民は必ずしも意識して問題を提起することはできないので,そこは,学者が代わって整理していくべきであるが,それまでは,国民的実験期であるという考えであった。このため当時の文部省からは,西尾は国語審議会の委員でありながら,そういうことをいうのは不当であると非難されたこともあった。その後,国立国語研究所の所長を経て,再度国語審議会の委員を任命されたとき,わたしは,これまでの表音主義と呼ばれる行き過ぎを手直しする必要があるという考えであった。理想をいえば,中田委員のいわれるような,将来のための合理的な表記を打ち立てることはけっこうなことであるけれども,それは不可能なことである。将来の目標を立てて国民にそのとおり表記しろとか,そういう読みに限定するとかというようなことは,とてもできることではない。「後(あと)」と書かれていれば,「あと」と読まざるを得ないし,読みが自由であれば,読めた漢字は書きたくなるのも当然で,これを押えることはできないであろう。もし,そういうことのできるところがあるとすれば新聞のデスクあたりであろうが,これを国民に強制することはできない。訓のきびしい制限は,表現を非能率的なものにしてしまうが,ことにわれわれの年代のものにとっては,強くその束縛を感じるのである。理想的な表記というものは,われわれがなくなったのちにならともかく,現在では,まだ無理なことであろう。

木内委員

 予定時間も過ぎたが,お願いしたいことがある。先日の運営委員会において,古賀副会長から今後の審議の進め方について提案があったが、その提案をぜひこの総会で伺いたい。わたし自身も今後の審議の進め方について提案したいこともある。なお,予定では,来年の3月まで総会は開かれないことになっているが,臨時に来年の1月にも総会を開いてほしい。

前田会長

 まだ意見のあるかたもおられると思うが,古賀副会長の提案を伺ってよいか。

植松委員

 そのまえに,さきほど大野委員から,われわれの審議の対象は,義務教育におくのかどうかという発言があったが,これは重要な問題であると思われるので,次回の総会の議題にしてもらいたい。わたし自身は大野委員の考え方に賛成である。

丹羽委員

 日本文芸家協会は,常に国語審議会の審議状況に注目してきているが,このたび,以前から総会で問題になっている木内提案に関連して,次のような要望書を文部大臣および国語審議会会長あてに提出することとした。この要望書は,即わたしの意見でもある。

要 望 書

 第八期国語審議会委員木内信胤氏が,「戦後の国語施策の根本理念を再吟味するための提案」を,同審議会に提出したことは,きわめて時宜を得たことであつたと思われます。同氏の言によれば,第八期国語審議会における率直な意見の交換があり,その結果,制限漢字の字数を増やし,かな遣いをあまり無理のないものに改善するという方向に向つていると言われます。それを具体的に審議する漢字,かな両部会は,非公開でわれわれのうかがい知るところではありませんが,木内氏の言葉の通りとすれば,誠に喜ぶべきことと思われます。そしてその審議の方向をいつそうなめらかに推進するための前提として,木内氏の言う国語施策の理念を根本的に再検討することが必要であることを痛感します。


 木内氏の提案は六箇条に分れ,おおむね適切な提案と思われますが,ことにその第一,第二条は,誰にもただちにその正しさは明かなことと思われます。


(一) 国語表記を簡素化したいという理想は一応認めるものとして,その理想を訓令・告示という手段で実現しようしたのは,簡素化達成のためにも誤りであつたのではないか。
(二) 漢字を制限するということは,義務教育の場においてならば,「一応の基準」として是認してよいと思われるが,それを他の分野に拡大することは,その方法如何に拘らず,おかしいのではないか。

 この二項は,戦後の国語施策の実施方法に関する問題で,そのことを改めて確認することによって,今後の審議の過程における人々の無用の磨擦の多くを取除くことができると考えます。
 日本文芸家協会は,そのことが審議会で採択されることを審議会委員である本協会会長丹羽文雄氏を通じて強く要望するものであります。

(以上,原文は縦書き,用字・用語は原文のまま。)

前田会長

 日本文芸家協会の要望事項については,今期の任期中に審議の過程でなんらかの形で取り上げれていくことになると思う。ただ,要望書の中に,「漢字・かな部会は,非公開でわれわれのうかがい知るところではない。」という表現が見受けられるが,丹羽委員は,部会委員ではないけれども,部会に出席して発言することも許されているのであるから,全く非公開というのはおかしい。日本文芸家協会は丹羽委員を通じて公開される道が残っているということを了解願いたい。では,次いで古賀副会長の提案を伺うことにしたい。

古賀副会長

 前回の総会でも問題になったことであるが,今後,第8期末までの間にどんなふうに仕事を進めていくかという問題に関連して少し具体的に整理してみたい。

 第8期審議会の任期は,余すところ約半年となったが,今期末までにある程度の(もちろん,無理のない程度の)締めくくりをつけたいということは,委員各位の念頭されるところであろう。
 その締めくくりのしかたとしては,部会審議の現状から見て,最後の総会(昭和43.5.10,第69回総会)において,漢字・かなの両部会から総会に対して,それまでの審議の成果について報告されることが考えられる。〔注:第69回大会は,昭和43.5.27に開かれた〕
 その場合の報告の要領としては,次のことが予想されよう。
 (1)漢字部会(当用漢字音訓表の改定について。)
  1,850字の現行当用漢字に認められていない音訓のうち,この際許容したほうがよいと考えられるものの試案を示す。
 (2)かな部会(送りがなのつけ方について。)
  新しい法則案を示すというところまでに審議が至らない場合には,問題となる語の送り方試案のようなものを示す。
 前期報告を受けた今期最後の総会においては,これを当日1回だけで審議を終わることは不可能であると思われるので,これを次期の審議会にゆだねることとなろう。
 かようにして,次期審議会は,出た案について必要な審議を経たのち、これらを世間一般に公表して,その意見を聴取することとなるであろう。この場合,公聴会・意見収集・世論調査等の方法をとることが考えられる。
 審議会は,上記世論をも考慮して,さらに検討の結果,正式答申を作成するであろう。
 以上が現時点において考えられる今後の進み方である。今後この心組みで爾余(じよ)の期間における当審議会を運営されるのが一つの行き方ではあるまいか。

木内委員

 古賀副会長の考え方はもっともである。なお,できれば,さきほど植松委員の指摘された事項や,あるいは中田委員のいわれる合理的な表記の問題,それに国語表記の簡素化を訓令・告示という手段で達成しようとしたこれまでのやり方がよかったかどうかといった問題を審議していけば,なんらかの結論が出てくるのではないかと思われる。こういう問題について,臨時に総会を開いて審議してはどうかと思うので,いちおう運営委員会にでもはかって決めてもらいたい。

前田会長

 臨時に総会を開くかどうかについては,運営委員会で相談したい。本日は定刻も過ぎているのでこれで閉会とする。

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