国語施策・日本語教育

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次第 審議

前田会長

 ただいまの説明に対して何か御意見はないか。

長岡委員

 ただいま部会長から「当用漢字改定音訓表(案)」の説明があったが,きょうの総会は報告だけでなく審議をすることになっているようなので,ここにお集まりの委員に御判断願いたいことがある。それは「育」の訓「はぐくむ」の取り扱いであるが,この訓は,第74回の総会に提出した部会試案にははいっていた。それを一般に公表し,寄せられた意見をもとにして部会で検討した結果,削除したことは先ほどの部会長の説明のとおりである。しかし,わたしは部会で「はぐくむ」を削ることには反対である旨の意見を述べ,その理由を箇条書きにして提出した。「はぐくむ」ということばは万葉の昔からあった。どういう漢字をあてるかは,われわれの祖先がいろいろ研究したと思う。平安朝末期の「色葉字類抄」という国語辞書によれば,「育」という漢字に「はぐくむ」という訓は使ってあるが,「そだつ」という訓は見あたらない。これが加わったのは,室町時代に出た節用集からである。してみると,「はぐくむ」が主であって「そだつ」は従ということになる。「はぐくむ」に「育」を使ったのは,われわれの祖先が文字のなかったころに,あることばにどういう漢字をあてるかを研究した結果である。この「はぐくむ」は,親鳥がひなを両方の翼にはぐくんで愛し育てることであって非常にいいことばだと思う。ところが「そだてる」というのは,「そ」という接頭語に「たてる」という語のついた,「まっすぐにたてる」という意味のきわめて理性的なことばにすぎない。したがって,今回の音訓表が制限ではなく「目安」ということなのだから,われわれが慎重に審議して試案に入れたものを,今さら削ることはない。
 なお,教育の「しえる」は,元来わ行の「を」であって,ものを「愛(お)しむ」,「愛する」という意味である。したがって,教育というのは,おしんでおしんで慈愛の心を持って羽の中に包んで育て上げるということである。国語審議会の一般問題小委員会で,現在国語の教育の振興ということが論議されているが,これを考えると,日本の教育の原理にかかわるようなこの「はぐくむ」という訓を削除することはないのではないか。
 また,この訓を削除した理由に,これは古めかしいことばであって現在あまり使われていないということであるが,わたしがたまたま目にして範囲でもいくつかの用例があった。たとえば郵政省のちらしには漢字ではないが,「夢をはぐくむ……。」と書いてある。それはかな書きではないかという意見もあったが,現行の音訓表には「育」に「はぐくむ」という訓がないので使えないと考えているからかな書きなのである。今回目安ということで,解釈のうえからは表になくても使えるということをいっても,忠実な国民は,表になければ使ってはいけないのだと解釈すると思う。このほかに,この訓の使用度数が少ないという意見もあったが,反面,部会委員の中には,むしろ使用度数の少ないのをふやすということを目的として訓を認めてはどうかという意見も出ていた。
 ともかく,これはわれわれが審議の結果試案に入れたものであり,委員の中にも今日なおこれを削ったことを残念に思っている委員も多いと思う。したがって,これを試案のままにしておいてはどうか。

前田会長

 ただいまの御意見,御説明,御主張に対して意見はないか。

長岡委員

 ただ今の意見を補足したい。わたしの友人で,大学で教育学を教授し定年でやめた人に,わたしが先ほどから述べた「はぐくむ」について話したところ,「教育という漢語のほかに日本にはそういういいことばがあったのか,もっと早く伺えばよかった。」といってびっくりしたくらいである。わたしは現在教壇に立っている若い教員諸君で,教育とは教えはぐくむという神聖で大きな意味を持つ仕事であることを知っている人はきわめて少ないのではないかと憂えるものである。その意味でもこれを試案どおり残しておきたい。

前田会長

 議事進行上申し上げるが,この問題を教育の精神とか,それにかかわる問題と関連させるといろいろ批判が出ると思うので,「育」を「はぐくむ」と読むことについてどうか御意見を承りたい。「はぐくむ」を取り上げたほうがいいか,さらに取り上げても支障がなければ,取り上げたほうがいいのかどうかについて御発言いただきたい。

大野委員

 この訓をいったんは試案にいれたが,これを削ったのであるから部会としての審議の経過をここで説明したほうがいいと思う。そうすれば部会の審議に参加しなかった委員にも判断がつくと思う。

岩淵漢字部会長

 「育」という漢字に「はぐくむ」という訓をあてるべきだという主張とその理由は,いま長岡委員の発言のとおりである。その中に古い辞書のことがあったが,この「育」だけが「はぐくむ」と読まれたわけではなく,「はぐくむ」をあてた漢字は別に幾つかある。もちろん「育」には,かなり古くから「はぐくむ」があったことは確かであるが,明治・大正時代に出た国語辞書には「はぐくむ」に漢字があててないものもあり,あててあっても「孚」や「哺」をあてたものが多い。かえって最近の辞書に「育む」と書いたものがある。漢字辞典でも「孚,哺」などに「はぐくむ」という訓がつけてある。もちろん「育」につけたものもあるが。こういう資料を全部調べた。さらに近代の小説でこの訓が使われているものに,これは大野委員の資料によるものであるが,三島由紀夫の「金閣寺」,堀辰雄の「風立ちぬ」長与善郎の「竹沢先生と云ふ人」などに例がある。これらは「育む」と書いて「はぐくむ」と読ませている例であるが,中には「育くむ」とか「育ぐくむ」というような送りがなをつけた書き方をしているものもある。
 以上の資料のほか長岡委員の資料や,試案を公表したときに一般から寄せられた個人や団体からの意見,この中にはかなり多く「育」に「はぐくむ」という訓は必要がないという意見があったが,これらの資料を参考にして,会議に出席できなかった委員の意見も聞いて漢字部会委員全員に判断を願ったわけである。その結果は,5名が「はぐくむ」を入れることに賛成,14名が入れなくてもいいという意見だった。あと1名は意見の提出がなかった。またこの14名の中でも1名は強い主張があれば入れてもよいといういわば大勢順応的な意見だった。以上のような経過があって「はぐくむ」を削除することにしたわけであるが,もう一つの判断の基礎となったものでつけ加えておきたいのは,音訓相互の均衡も考えなければならないということである。もしこの訓を入れればほかにつけ加えなければならない訓がいろいろあり,これは「はぐくむ」だけの問題にとどまらないという考えがかなりあったことである。こうしてこの訓の審議にはずいぶん時間をかけ,そのために数回の部会などを重ねたことも申し上げておきたい。
 なお,部会外のある委員からも試案に入れたものはそう簡単に削るべきではないという意見が出ていたが,試案を世間に公表して意見を聞くことにしたのは世論を重視するという考え方から出たものである。そして,部会としては冷静な気持ちで,そういう判断を受けとめたいと考えた。その結果,「はぐくむ」という訓はつけないという結論に達したのである。

前田会長

 ほかに意見はないか。きょうは総会の議論であるから積極的に発言していただきたい。

岡村委員

 この「当用漢字改定音訓表(案)」が,かりにこの総会で決定されればこれが答申案となるのか。

前田会長

 先ほども言ったように,きょうまとまればそうなると思う。しかし必ずしもきょうの総会でこれを最終決定としなくても,議論のある問題はさらに次回の総会に回して,そこで検討してもよいと思う。

岡村委員

 今回音訓を検討した結果,漢字がふえることになったのかそれとも減ることになったのか。

岩淵漢字部会長

 先ほども言ったように,今回検討したのは当用漢字の音訓であって当用漢字そのものではない。したがって,漢字はふえもしないし,また減りもしていない。ただ,漢字がいろいろの場合に使えるようになったということである。

岡村委員

 つまり当用漢字の使い方の範囲が広がったということか。

岩淵漢字部会長

 そのとおりである。

吉田委員

 長岡委員の発言に関連して意見を述べたい。本表の5ページに「駅(エキ)」というのがあるが,この「駅」には「エキ」という音だけで「うまや」という訓が認めてない。さらに下の「閲」では「けみす」が,その下の「円」では「まどか」,その下の「宴」の「うたげ」というように,これらはそれぞれの訓があるにもかかわらずこの表では認めてない。これによって,われわれはこの音訓表の一般的傾向を知ることができると思う。そこで先ほどの「はぐくむ」であるが,ここに多数の委員がお集まりになっていることでもあるし,またすべての委員がこの訓の処置をすぐ判断できると思うので,ここで挙手によってこれを認めるか否かの判断をしてはどうかと思う。「はぐくむ」をどうするかの決め方としてこのことを提案したい。

前田会長

 先ほど漢字部会長から詳細な御報告があったように,この音訓表は,第8期以来のいろいろの経過と労作を経てまとまったものである。ただ最終段階で「はぐくむ」というのが問題として残り,これにかなりの時間をかけて論議を尽くしたわけである。したがって,ここでは「育」を「はぐくむ」と読んでいいか悪いか,また読むべきかどうか,読んでもさしつかえないかどうか,とういうことに問題が集中してきていると思う。その意味での吉田委員の御発言かと思うが,この総会での最終決定の方法について,吉田委員の提案を採用すべきかどうか意見を伺いたい。
 わたしとしては,なるべく表決という方法をまたないで打開の道はないかと考えているが,みなさんの御意見を伺いたい。

細川委員

 こんどの音訓表の前文によると,「昭和23年内閣告示当用漢字音訓表の制限的色彩を改め,当用漢字改定音訓表をもって,漢字の音訓を使用する上での目安とすることを根本方針とした。」とある。そうするときょうの総会で部会報告を認めたとしても,これは制限規定にはならないというところに,わたしは非常に大きな意味があると思う。さらにこれをふえんして「科学・技術・芸術をはじめとする各種専門分野における音訓使用や,個々人の表記にまでこれを及ぼそうとするものではない。」という説明まで加えてある。だからこれによれば,「はぐくむ」に「育」を使ってもいっこうにさしつかえないことになる。現行の内閣告示による表記のように,制限的なわくの中でこれが決められるといろいろな弊害が起こると思うが,今回のものは非常にゆるやかなものになるように書いてある。そういうわけであるから,一つのことを抜き出して投票で決めるというようなことは少し行き過ぎだと思う。もしそれを始めると一つ一つ全部投票にしなければならず,わたしは全体的なつり合いからみて賛成できない。長岡委員の発言の意味はよくわかるし,わたしも文章の中では「育む」と書くかもしれない。しかし今回のものは別に制限規定ではないのだから,たとえば,わたしが雑誌なり新聞なりにわたしの書いたとおりに音訓をそのまま使ってほしいといえば使ってくれると思う。これまでのいきさつを考えると,両方に理屈はあると思うが,部会で決めたことはよほどのことがない限り原則としてだいたいそのまま承認すべきものと思う。もしそうしないと,かりにもう一度やり直すべきだという動議が出た場合に,またこれを表決に付さなければならないということになって適当でない。わたしは,きょうは原則として部会の案に賛成するつもりで出てきたが,たいていのことはそういうものだと思う。ここで投票などになるなら,休憩でもしなければならない。

前田会長

 ほかに御意見はないか。

永井委員

 御報告によれば,今回は漢字の字数は変わらないが,音訓が357ふえ,しかもそれは使用する上での「目安」であるという。わたしはこれでけっこうだと思うが,しかしこのままいくと今後,漢字を使用することがだんだんふえていくのではないか。またこのままふえていってもいいのかどうか,そのへんをどうお考えか伺いたい。というのは,現在漢字を使っている国ではだんだんこれを減らしたり,簡略化する傾向があるが,このような一般の漢字国の傾向とは違った道を歩んでいるような感じがするからである。
 さらに問題なのは,子どもの学習とか外国人が日本語を勉強する場合であろうと思う。この点も,これでいいのか,いいというならその理由を御説明願いたい。先ほどの「はぐくむ」にも関係があると思う。それは,このことばはたいへんりっぱなことばだと思うが,わたしは,むしろこのりっぱなことばをかなで書くことによって,より感銘を深くする子どもがふえるようにしたほうがよいかとも思うからである。そのへんはどうか。

大野委員

 たいへん基本的な御質問だと思うが,このことは戦後の国語施策が正しいかどうかということと基本的にかかわっていることである。今回この案がまとまるまでにはすでに5年以上かかっているが,検討を始めた最初のことを考えると,戦後の国語施策でここに書いてあるように字種や音訓などをある程度に限った結果,いろいろの問題が起こったことが出発点になっている。しかし,現在の日本では現実として漢字を使っていくことが必要であり,やめるわけにはいかないという立場があると思う。漢字をすぐさまやめて,たとえばかなにするというようなことは,文盲の人が非常に多い国なら意味があるかもしれないが,国民の99%以上が漢字の読み書きができ,しかもそれによって明治以降発展してきたわが国では多少事情が異なる。戦後漢字の使い方を制限しすぎて,実際にはぐあいが悪いことがあるという声が非常に多かった。そこで音訓を改定するにあたっては,この声に応じて漢字の使い方をもう少しゆるめて使いやすくしようという考え方が基本にあった。
 確かに漢字国が世界でどのような傾向を持っているかということは,人類の文化という問題として考えるべき問題であるが,しかし国国の文化とか文字という問題は,その国独自の言語と独自の文字との結びつきとして考えていくべきである。日本は千何百年か前に中国語の文化を輸入したが,言語学的にいえば,これは全く性質の違った国の文字を,初めて文字として輸入した。しかも,これをその高い文化とともに輸入せざるをえなかったという事情があった。その結果われわれの祖先は,初めて語いを漢語で一つの概念としてまとめたのである。そして,今日まで千何百年もかかって日本人は,ようやく異質の言語の文字である漢字を日本語という言語体系の中に取り入れ,これだけに使いこなしてきたわけである。
 もっとも,明治以降,このような形で漢字を使っている国は世界にないため,これをやめたほうがいいという意見や,漢字などを使っているから日本の文化は遅れているのだという意見もあった。しかしとにかく漢字を使ってくることで,経済的には非常な発展をとげているわけであるし,このへんの議論になってくるといろいろと微妙な条件がいるので,簡単に漢字が有害だとはいい切れない。漢字はいろいろな要素によって文化の一つとして働いており,また文化の底にあって働いているものである。日本人は漢字かなまじり文を発明し,それを日本独自のものとして使っている。そこで大事なことは,日本語は外国人のためのものではなく,まさに1億の日本人がものを正確に考え,厳密に表現し,そして情緒をじゅうぶんに表現できる言語であるかどうか,またそれらのための機構としてこれが役だつかどうかという観点から考慮すべきものであるということである。もちろん世界から孤立した日本というものはあり得ないから,そこは考えなければならない。しかし,えてしてかな書きにすれば外国人が学びやすいというような意見があるが,それは全体の価値からみればあまり重要なこととはいえない。
 また漢字かなまじり文の性格として,一つずつ語を分けて書かなくとも漢字の部分が語の切れ目になるというような実際上の効果がある。そのために日本では,わかち書きをせずにやってきたのである。だから前文にもあるように,漢字かなまじり文は,ある程度を越えて漢字の使用を制限するとこの利点がなくなってしまうものである。もしこれをやめて,一挙に全部かなにするというなら,わかち書きをしてことばをくぎり,見分けやすくするというような技術を新たにくふうしなければならない。しかしまた,文字はものを書くだけでなく,千何百年にも及ぶ日本の文化遺産なのである。明治以降だけを取ってみても,われわれは膨大な量の言語文化を持っている。そしてこれを持つことによって日本は文化国として存立し得ているのであって,決して日本は文盲国ではないのである。このようなことを考えると,戦後の国語施策が漢字の使い方を,その数でもまた音訓の取り扱いにおいてもあまりに制限したことは,その利点もあった反面大きな混乱をひき起こしたのである。しいていうならば最近の若い人たちのいろいろな行動における無批判性や混乱も,深い意味で戦後の国語施策とか国語教育にかかわっている面があると個人的には思う。
 ことばをその利用度や性質から考えたとき,今回増加した程度の音訓が負担だという考え方は適当でなく,むしろこのくらいは使いこなすべきであるし,また教育でも国語の時間をふやすなどして学習すべきである。わたしは,国語の時間は現在少なすぎると思う。わたしが音訓の改定作業に参加したのは,今回の音訓がこの程度は使いこなせて当然であるという範囲内であり,またそういう方向に国語を持っていくほうが少なくとも現時点の日本では有効であると考えたからである。なお,コンピューターの問題もあるが,コンピューターの研究がもう少し進めば,コンピューター自身これくらいの音訓は使いこなせるようになると思う。いずれにしても,この程度の音訓は今日の世界の動きに決して逆行するものではないと考える。

柴田委員

 わたしも漢字部会の委員として6年近く努力してきたが,実のところ,ただいま大野委員の発言にあったところまでじゅうぶん議論はしていない。わたし自身大野委員とはかなり見解を異にしており,むしろ先ほどの永井委員の世界的展望における見通しに同調する立場である。
 今回の音訓表の改定は,戦後の施策があまりにも行き過ぎがあったので,これを修正したいという意味であって,確かに今まで前に向いていたのが,後ろに向いたわけであるが,わたくしは,さらに,どんどん後ろのほうへ向けていくということには反対である。この点永井委員がこの傾向に対して警告を発せられたのはもっともだと思う。
 前文を注意深く読むと,「制限」ではなく「目安」と書いてあるが,これは読み方によっては,世間に出した場合どうしても誤解が出てくる。そこで,6年間手がけたこの音訓表を手放すにあたって一言ことばをかけてやりたいことは,今回のものが制限ではなく無制限であるというように読み取ってもらっては困るということである。これは制限ではあるが目安である。これはどういうことかというと,もし規制力ということばを使うなら,今まで規制力が10であったものを,7か8にしたのか,あるいは4か5にしたのかはともかくとしても,少し減らした,あるいは大いに減らしたけれども,決して0にしたり,野放しにしたり,また無制限にしたということではないということである。もしそうでないと,この音訓表を作ったこと自体が無意味になってしまう。
 国語審議会が存在するということ自体,われわれが文字とかことばに何か手を加えていい方向に向けていこうとするわれわれの努力の現われである。したがって,もしそうすることがいけないのならば,国語審議会の存在そのものが疑われることになる。わたしは,これらのことは部会などでたびたび発言してきた。そういう意味で,ともかく,これを無制限であるというように読み取られては困るわけである。このことは試案では,「選定した限りにおいては一定のわくを示した。」と書いた。この「わく」ということばがたいへん刺激的だというので,これをはずしたが,今回は前文の1ページ〔当用漢字音訓表の改定〕の最後から3行目のところに「目安として設定された。」と述べてある。この「設定された」ということばの中に,先ほどの「わく」の趣旨が含まれている。つまり,なるべくこれに従ってほしい。しかし,もしやむを得ない場合にははみ出してもよいし,また表内のものでもかなで書いてもよいということである。たとえば「おそれ」は「虞」という漢字1字で書くことになっている。先ほど善良な国民はこの表に従うだろうという発言があったが,この音訓表に忠実に従うなら,これからは「おそれ」という語を「虞」で書く,しかも「れ」を送らないで書くことになる。しかしこういうものは憲法にだけある特殊な用法だから,20年間の慣用を重視すればこれはかなで書いてもよい。このようにかなで書いてもよいということ,つまり内側へも幅があり,一方また外へも幅があるということが今回の「目安」の意味である。
 そういうことで,今回の音訓表が世間で誤解を受けないよう,漢字部会の考えているほんとうの意味で国民の間に使われることを期待したい。

岡村委員

 この音訓表は,委員のかたがきょうまでじゅうぶん検討してきたものである。したがっていまさら内部の小さなことを一つ一つどうこういうより,もうこのへんで決定したほうがいいのではないか。ここで音訓を一つ一つ取り上げて検討しだしたら,また3年も5もかかることになるおそれがある。もし一つ一つ検討するということでわたしの個人的な意見を述べれば,5ページの「鉛(エン)」の「鉛筆」はいいとしても,「亜鉛」はかなでじゅうぶんであるし,「黒鉛」などなくてもいいと思う。また6ページの「押(オウ)」であるが,この語例の「押韻」などもわたしはいらないと思う。このようなわけであるから,今後審議を重ねるごとに音訓がふえていくようなことがないようにという希望意見を付帯してこの案に賛成したい。そして早くこれを実行に移していただきたいと思う。

大野委員

 先ほどのわたしの意見を補足して,永井委員に申し上げたい。先ほどは今回の改定によって,音訓がどんどんふえていくのではないかという御発言であったが,今回これを「目安」としたことは逆に,このような音訓が決まっても,たとえば,「黒鉛」ということばはかなで書くとか,「押韻」,もっともこれは,「押」という字と「韻」という字があるので,これを組み合わせれば「押韻」と使えるという例にすぎないが,実際の社会で,みんながもしかなが多いほうが日本語としてわかりやすいとか使いやすいとか,あるいはこういうことはおそらく起こらないとは思うが,読みやすいという考え広まれば,かな書きがふえていくと思う。
 一方戦後漢字などをあまりにも制限したために,新聞社などでは署名入りの原稿でさえ,たとえば「僻(へき)地」と書いてあるものを「僻」という字が当用漢字表にないということで「辺地」と直してしまうということが実際に行なわれている。しかしこれは,ことばを大事にするということ,つまりは考えを大事にするということからすればやはりぐあいが悪いことだと思う。このような点からいって,音訓はどこまでも「目安」だという立場を貫くことが,ことばを正確にまた厳密に使いたい人にも,あるいはやさしく書きたいと思う人にもその機会を与えることになるのである。そして今後これを選び決定していくのは,これからの日本の国民全体であるという考えがこの「目安」の背景にあるわけである。これは決して今後漢字の使い方がますますひん繁になることを予想するものではない。むしろ委員の中には,こういうことによって,かえって,かながふえてしまうのではないかというおそれをいだいている人もあるだろうと思う。
 いずれにしても両方にそれぞれの考え方があるわけであるから,今回はその中間のあたりを取って,この程度なら現実的におさめていくことができるだろうという考えのもとにでき上がったものであるということを申し上げておきたい。

木内委員

 「育」の訓「はぐくむ」の問題がまだ続いていると思うので,これに対する意見と議事進行について申し上げたい。長岡委員の御主張はもっともでありわたしも同感であるが,先ほどの発言にもあったように,いまさら個々の問題を取り上げる場ではないと思う。この表は一つの目安であり,しかもこれをふえんして芸術などの専門分野や個人の文章にまでこの表記を及ぼそうとするものではないといっているのだから,「はぐくむ」に「育」を使おうと思えばいくらでも使えるわけである。
 また,「育」の「はぐくむ」を表決にしてはどうかという意見が出ているが,部会でもこれを表決したということからすれば一理あるにしても,表決によってこれが落ちてしまったらいっそうまずいことになるのではないか。その意味でも表決にしないほうが「はぐくむ」のためにもいいと思う。
 ところでこの案はすでに5年越しになるが,それでもまだ決まらないというのは非常に困る。個々の点は別としても,ともかく全体としてこの案を通すか否かという議論をしてほしい。
 それでは,今回の案が試案とどう違っているのか,直したのはどの程度か,あるいは現行と非常に違っていると思うが,具体的にどう違ったのかを要点だけでも説明していただきたい。そうしないと総会から帰って,今度の案はどうかと聞かれたときにその相違すら説明できないようでは困るのである。そのうえでもし問題があるようなら,もう一度この案をもとにもどして議論したらよい。そしてそのときに「育」の「はぐくむ」も検討してはどうか。
 音訓の数がふえるのは逆行だという意見もあるようだが,反面現行の音訓表はあまりにも制限し,またあまりにもその数が少ないためにかえって役にたたず,そのためみんなが無視することになっていると思う。そこでこんど出した音訓表は,目安であるから無視されてもいいようなたてまえになっているが,しかし無視されるかどうかは実施してみないとわからないことである。
 将来音訓を非常に制限しても,みんながいい文章を書くことができ,それで済むような日本になっていくのか,あるいは古くあった音訓などがもっと復活してくることになるのかは,一般の社会が決めることであって,国語審議会がいくら議論しても決めることはできない。それを今まで訓令・告示で押しつけるというようなことをしていて,いけないというのがそもそもの始まりであると思う。したがって今回のいき方はこれでいいと思う。
 そこでわたしが言いたいのは,この音訓表が全体としていかに試案にまさり,いわんや現行にまさっているかを説明していただきたいということである。そうすれば,多くの委員がこの案を了承するだろうと思う。この説明があれば,わたしはほかは全部了承していいと思う。これは先ほどもいったように議事進行のために申し上げているのである。

前田会長

 わたしもそういう議事の進行の方法を考えている。いちばん問題があった点について,これはひとりだけの意見ではないということで,長岡委員にも発言していただいたわけであるが,わたしとしては,きょうこの案がまとまれば,それにこしたことはないと考えている。
 なお,木内委員の御質問には,後ほどお答えする。

長岡委員

 わたしは「育」の訓「はぐくむ」を試案のとおりにしていただけば,あとはすべて部会長の報告どおりに賛成である。

志田委員

 長岡委員の前々からの御主張にはごもっともな点もあり,たとえば,「はぐくむ」ということばがどんな意味であるかを国語教育等で教えるということはたいへん望ましいこととは思うが,このことばを「育」という漢字に結びつけなければこれができないとは考えられない。「育」のはぐくむは,部会でじゅうぶん時間を費やして審議したことは部会長から詳しく説明があったとおりである。
 また先ほど御指摘のあった,全体のつりあいはどうかの問題であるが,これは外部から試案に対して非常に大きい批判があった点であり,また前文の中で触れている方針にもかかわってくることである。そこで部会長はまず全体的な経過の説明を行ない,それから前文の説明をされたものと思う。したがって,総会がこの前文の方針を承認すれば,先ほどのような個々の問題は,この前文の方針が適用されるわけである。漢字部会としても個々の問題は前文の方針に従ってきたわけであるから,まずこの前文を承認するかどうか審議していただきたいと思う。

前田会長

 当然そういうことになると思う。ただ御発言の中に「外部からのうんぬん。」ということがあったが,これは会長として全く初耳である。わたしは外部から何らかの発言があったことは聞いていない。国語審議会は独立の機関である。したがって「外部からうんぬん。」ということは審議会とは関係がないと思っている。

志田委員

 わたしの申し上げ方が足りなかったと思うが,試案を世間に公表し,一般から意見を聞くことが総会で承認され,公聴会その他いろいろな形で外部から意見を吸収したことは先ほど部会長の報告にもあったことである。その中には,国語学会の会員を主とする個人的な意見や種々の団体としての統一的な見解というようなものがあり,非常に多くの意見が寄せられた。それらの意見の中には,個々の音訓に対してあるものには非常に集中的な削除意見が,またあるものには,これを採用してほしいというような意見があり,これらはかなりの数になっている。こういう類の例として,たとえば「開」に「ひらく」のほか「あく」というようなものを取り入れた。そして,「育」の「はぐくむ」は外部から批判が多かったということである。これらのことは部会長が先ほど説明されたかと思う。もちろんわれわれは外部の意見の数に無批判に従ったのではなく,それにはじゅうぶんな理由があるかないか,あるとすればどういう理由であるか,われわれがそれを考慮するに値するかどうかというようなことも検討した。だから,外部の意見の数が多いから何でも取り入れたということではないことも先ほど部会長が言われたことである。そういう意味で,試案に対してわれわれが外部から当然求めた意見について耳を傾けたということを先ほど申し上げたわけである。

前田会長

 了解した。

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