国語施策・日本語教育

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次第 審議

前田会長

 ただいまの佐々木かな部会長の報告は,お聞きのとおり,かな部会できわめて慎重に,時間をかけて審議した結果,最終の成案としてただいま報告があったものである。ということは,この総会に対して,部会長の最後のことばにもあったように,これを答申案としてほしいという意思表示もついている。
 そこで,この内容は,かな部会以外の委員に対しても,今期,前後4回の説明会を開いており,また先日の全員協議会でも報告があったのであるから,委員各位は,じゅうぶんそのいきさつを含めて内容を御承知のことと思う。ついでは,このかな部会の案を部会長の報告どおり,この総会で答申案として決定を行ないたいと,わたしは考えている。しかし同時にこの際,最終的な御意見があれば伺いたい。

大野委員

 初めに,6年間にわたるかな部会のかたがたの御努力に敬意を表したい。と同時に,その結果,できあがったこの案を,そのまま答申案として答申し,かつ世間に広めるというように運ぶことについて,賛成であるかどうかということであるならば,わたしはやはりいくつかの点をここで申し上げておくべきであろうと思う。それは,こういう「送りがなのつけ方」というようなものは,世間の人たちにわかりやすい,そして使いやすいものであることが,第1に必要であろうと思う。と同時に,戦後のいろいろな国語改革に対する批評にこたえて,そしてそのいろいろな批評を生かして,これを新しく改定しようということのために,6年間を費やしたとすれば,それ相応のいろいろな考慮が払われているべきものだろうと思う。
 わたしは,まず,送りがなが実際的にどういうものであるかということについて,たいへん簡単なことを申したいのである。つまり,送りがなというのは,語を漢字とかなを交ぜて書いたときに,どの部分をかなで書いたらいいかということを1語1語について,われわれが問題にした場合に問題になってくる,そういうきわめて日常さはんのものである。そして,そのことを統一的に考えていくためには,やはり「送りがなはどういうものか。」また「どういうような案をつくったならば,いちばん実際的であるか。」というようなことから考えていかなければならないものであろうと思う。これを処理するにあたって,たとえば,この前文がその考え方を示し,実際の送り方を,本文で示すというのであるが,これについて,従来,何回か,討議してきたものであって,かな部会でいろんな成案を得てからも,その説明会で,かな部会に参画していない人々がいろいろな意見を述べた。
 評論家であり作家である木庭委員,ことばの問題について実際の側の委員として,いちばんことばをたいせつにする役目をおもちのかたが,ついこの間の会で「これではかえって,送りがなをむずかしく,わかりにくくしてしまうのではないか。もっとわかりやすいように直してもらいたい。」ということを,最後に御発言になった。ところが,それに対する努力がどれだけされたかについては,わたしはあまり詳しくは知らないが,その考慮が払われているように,わたしには見えないでのである。ことにこの本文には通則が七つある。たとえば「通則7」であるが,これについては実は前からいろいろな議論があって,これを通則としてたてることは全体の構成上おかしいという指摘は,単にわたしひとりではなくて,たとえば,物理学者の小谷委員まで,ちゃんと意見を書いてお届けになっている。しかし,そういうことに対するわれわれによくわかるような説明は,ついに得ることができなかった。このことは,何でもなくこういうものを一読しただけでは,あるいはおわかりにならないかたもあるかもしれない。小谷委員は別に国語学者ではない。しかし,これをごくすなおにお読みになれば,「これでおかしい。」ということを,どなたもお感じになるはずである。わたしはこのところだけでも,きちんと訂正していただくほうがよろしかろうと考える。それからこの通則7の内容であるが,この通則7の内容を決めるために,先日わたしが聞いたところでは,16,000語を調査したということであった。わたしは実はこの語数に関しては,このために使った資料を検討してみたが,16,000語というのは,いろいろな表の数をたしてみるとこの数になるというのであって,その中には重複する語がたくさんある。わたしは10,000語以上調査していないように思う。ところが,10,000語でじゅうぶんかどうかというと,普通の今日社会で使用している小さい国語辞典,これはだいたい70,000語から75,000語をおさめてある。そういう辞典で,もちろんその中には,漢字だけで書く送りがなに関係のない語は約半分はあるから,少なくとも35,000ぐらいの語は,わたしはここでもって,念のためにちゃんと調べておく必要があると思う。そういうことをしていないということがどういう結果になったかというと,たとえば,ここでこれだけの例があがっていて,たくさんあるようにみえるが,簡単にいうと,たとえば,「かけぶとん」ということばがある。こういうたいへんおかしな語を出して,こういう会場では申しわけないが,実は送りがなというのは,そういう簡単なことばをどう書くかという問題である。たとえば,「掛けぶとん」の「け」はつけるのかつけないのか,「しきぶとん」の「敷き」の「き」は送るのかどうか,「うりば」の「売り」の「り」はどうか「事がきょうみたいなおおづめにきている。」という場合の「おおづめ」の「詰め」の「め」はどうかとか,そういうごくありふれたことば,たとえば,駅などの「おきびき(置引)」というのは,普通はかなを送らないが,いったいこれは送ることにするのかどうか。そうしてこれらに関しては,「慣用が固定していると認められるかぎり,類推して同類の語にも及ぼすものである。」とあるが,いったい固定しているとだれが認めるのか。先日わたしが質問したが,これに対してちゃんとしたお答えはなかった。わたしは決して,単に反対のための反対を申し上げるものではない。

大野委員

 先日の御報告では,小委員会を11回開いたということであった。ところが,会長名の依頼があってから,小委員会をたった5回しか開いていない。そのうちわたしは4回出席して,わたしの意見をちゃんと述べた。それだのに,大野は3回しか出席していないとかいうことであったが,事実は違う。わたしはこういう行き届かない発表をするということが,日本語の表記を不安定にすると思う。そうして,「日本語というのは,どうもちゃんと書けないものだ。」というようなことを,国民一般が思うならば,国語審議会は国語のためのことをしていることにならないと,わたしは思う。と申すのは,たとえば,先日の会で,「もう6年もやったのだからいいのではないか。」という御意見が出た。そして,法制局のかたは,「これはたいへんけっこうな案である。これに基づいて,法制局で具体的な案をつくる。」と言われた。法制局のように人を持っているところは,これに基づいて,欠けていることばを調べて,「法制局ではこういうように決める。」ということができるであろう。新聞社は新聞社でそういうことが,また,できるであろう。しかし,国民の大ぜいもやはり正しく書きたいと思っている。ところが,「個々人の表記にまでこれを及ぼそうとするものではない。」とある。個々人もやはり正しく書きたいと思う。そのときどうすればいいか。これだけの表をもらってだれが正しく書けるか。ここにおいでになるかたは,ひとりもこれによって書くことはできないのである。そういうようなものを,ここでもって発表することにわたしは,大きな疑義を感じている。わたしのほんとうに思うことは,残り20,000なり30,000なりの語をあと2年かけてでもいいから一つ一つ調べて「これはこうする。考え方が二つあるけれどもこうする。」というような表を作るべきだと考える。ことに原則7は,もっともっと充実させなければいけないと思う。ここのところはいちばんやっかいなところである。これはやっかいだから,これまでみんながうまくやれなかったことである。結局わたしが最初からそのやり方について言っていたにもかかわらす,その努力をなさらなかったことは,たいへん遺憾であると申し上げたい。

佐々木かな部会長

 ただいまたいへん手きびしい御批評があったが,わたしどもはさように考えていない。疑義をいくつもおあげになったので,全部に対してお答えできないこともあろうが,その場合は,ほかのかたからお答えを願いたいと思う。第1は「わかりやすく使いやすいということがたてまえである。」というお話であったが,そのとおりである。これは学者の論議ではない,わたしどもの部会には,しばしば申し上げたように,御案内のとおり,言語学者も,国語学者も,国文学者も,国語教育学者も,それに一般の教育学者も,法学その他の各学界を代表するかたがたもいらっしゃる。それから報道関係のかたがたもいらっしゃるというように,この送りがなをお使いになるいろいろな方面の代表が集まって,めいめいの立場立場で議論をした。お互いめいめい立場立場で議論をして,いろいろな問題が出たが,先ほど申し上げたように最終的にはお互いに合意に達した。決してひとりやふたりが強引に持っていったものではない。1回も表決をしたことがない。きわめてなごやかに,すらすらと合意に達した。そのために相当時間をかけたのである。立場は,そういう立場でこれを使うであろうかたがたのめいめいの立場立場で御議論があったということがまず一ついえる。
 第2は,先ほどもちらりと申したように,「いまの,ああいう品詞別のいき方よりは,このほうがむしろさらによくわかりやすい。」ということが,試案に対して出てきた多くの意見である。これは賛成意見である。もし試案に対する反対の意見のことをいえば,それは「許容が多いではないか。」ということが,確かに当時の意見の中の相当を占めた。そこで先ほども申したように,第10期のほとんど2年というものは,大部分は主としてこの本文の,ことに「許容」の検討に費やしたのであって,既にしばしば申し上げたので,きょうは申し上げない。申し上げないが,明治時代の代表的な手びきや,あるいは昭和にはいってからの手びきや,ことに「現行」が出て以後の新聞協会,あるいは,朝日,読売,毎日,NHK等々の実際の手びきを集めて,1語1語お互いに話し合ったというような手続きを経て得た案である。ほんのやっつけ仕事のような,そんな仕事でないことを,わたしは当時あんなに御努力くださった委員諸君のためにも,このことを申し上げたい。これ第2の点である。
 第3は「1語1語やらなければだめではないか。」という御意見であるが,これは部会の考えとはたいへん違う点で,部会では「1語1語の用例集を作るよりも,また極端な意見の中には,用例集や字引きを見なければ書けないようではしかたがないではないか。むしろ全体に適用できるような法則を考えることがほんとうではないか。」ということで,先ほど申したように,「方針」に掲げたような法則に従ってつくりあげたわけである。これはまことに遺憾ながら,大野委員の考え方と,部会の考え方とは違う点であって,このことはすでに部会の議事要旨にも述べてあり,議事要旨はすでにお手もとへ届いていると思うのでそれを御覧いただきたい。
 それから,「通則7」については,なるほどしばしば意見が出た。これは一応通則6の例外であろう。そのために前回にも申し上げたが,前文に「(2)慣用に従って送りがなをつけないものとに分けて,それぞれ通則を立てた。(2)は,(1)に対して例外に当たるが,……」とはっきりわれわれもこれを例外と認めている。認めてはいるが,その次に,「該当する語が多数にのぼるので,……」としてある。これは,「複合の語」の場合には,こういう組み合わせはいくつも出てくるので,「別の通則を立てた」とはっきりうたってあるのである。もう一つ,経済界とか,産業界とか等々では,これがもうあたりまえになって通用しているという現実の事実,慣用の度合いの程度が,単なる例外でかたづけるには度合いが強い,という意見が,主として報道関係の委員からあった。それはここに書いてはないが,そういう点などを考えて,特に「通則7」を設けようというのが,部会で最終的に一致した意見であって,「これを例外にしなければならない。」という意見はほとんどなかった。結果的にはこういうことになったという事実を申し上げたいと思う。それなればこそ,この本文の中で,通則7には「本則」とは書いていない。書かなかった理由はそこにある。「それならば,例外なのだから,例外と書けばいいではないか。」という議論も出るであろうが,いま申し上げたようなことを考えると,これは単なる例外と扱うよりも,むしろ,これはそういった慣用の度合いが社会通念として,まだ実際に強いからということで,ことさらに例外と書かなかったというような部会の配慮を,一応御了承願いたい。

佐々木かな部会長

 それから,「かけぶとん」をどう書くか迷うような場合には,むしろ通則6を適用する。そのことが通則7の注意の第2項に書いてある。また,「慣用の度合いが固定したというのはだれが決めるんだ。」という議論はどこでも出るが,客観的に決められない場合には,むしろ,通則6を適用したらどうか,というような気持ちであって,通則7を適用してよいかどうか判断しがたい場合には,通則6を適用せよと述べているのである。あとはだいたい類推によるということで,この語例をあげる場合にも,例の中に,たとえば,(1)として「特定の領域の語で,慣用が固定していると認められるもの。」と書き,このようなところは,書き手の類推によるほかはないとしている。こういう幅があるところにかえって味があるのではないかと思う。事実は,われわれも,できるだけのことをしようと,先ほど申したような幾つかの客観的資料に基づき,しかるべき手続きを経て決めているのであって,重ねて申し上げるが,われわれはそんなに簡単に,手を抜いた仕事をやったわけではない。なお,語数の話が出たが,これがざっと大まかに見た結果が16,000であって,それが大野委員の発言のように10,000語というのは,ちょっとひどすぎると思う。わたしの感覚では多少はずれがあろうが,14,000〜15,000はあると思う。なお,問題は,これでは不足ではないか,せめて35,000は必要だ。といわれることだが,われわれとしては,これだけの時間に語をいちいちずっと見渡して検討した。したがって,これでほぼ類推できるだとうという確信のもとにやったのであって,「なぜ,35,000か40,000語についてやらないのか。」というような手きびしい批判があるかもしれないが,わたしどもでは,これでだいたい法則はできるという確信をもった。
 なお,ただいま「小委員会に自分は4回出席した。」との発言があった。これは,ここでつつしんでおわびをする。先日の会議で「あまりなにもやっていないではないか。」という発言があったようにわたしは受け取ったから,急いで事務当局に調べるよう頼んだ。その結果が11回ということはまちがいはない。気になって,もう1度調べてもらったが,確かに第3回から第4回の説明会の間に開いた小委員会は,11回である。ただし,大野委員の御出席が3回と申したことは,まちがいであって,4回であった。大野委員の名誉のために,わたしはここでつつしんでおわびを申し上げ,みなさんの御了解を求めるわけである。
 なお,その他の細かいことについては,佐藤委員なり松村委員なり,また,部会長代理の遠藤委員も御出席なので,補足願えればありがたいと思う。いちおう,大綱だけお答えを申し上げた。

佐藤委員

 一言だけ申し上げたい。これまでの説明会でも大野委員はしばしばどのくらいの語数にあたったか,といわれるが,わたしどもとしても,できるだけ多くのことばにあたりたいと考えていたことは当然で,できるだけの努力はしたつもりである。しかし,送りがなについて考える場合には,ただ単に語数だけではいかない面がある。そのへんは漢字部会でどういうふうにおやりになったかよくわからないが,送りがなの場合は,実際問題として一つ二つの語例を検討しただけで,とたんにその原則の問題にぶつかるのである。
 たとえば,「改定送りがなのつけ方(案)」の,通則7の1例でいうと,その中に「割引」ということばがある。それから「一般に慣用が固定していると認められるもの」の中に「字引」,「水引」がある。それから先ほど大野委員が言われた「おきびき」などもある。そのほかに「つなひき」もあれば「かけひき」もある。そういう場合に実は1語1語問題として事情が違うような点であって,送ったほうがいいか,送らないほうがいいかというふうなことは,そこでとたんに原則が問題になるので,ただそういうことばを集めたからといって解決がつくようなものでもない。そしてまた,同じ「ひき」なら「ひき」という場合でも,たとえば,「とりひき」,「ひきうけ」,「ひきかえ」などあって,その前の部分に「ひき」がついた場合にはどうなるかというふうな問題がある。そういうときに,この「ひき」の部分を一律に決めていいかどうかという原則の問題がある。また,語をもとにして決めることになれば,また決める場合の理由が問題になるので,大野委員のようになるべく多いほうがいいのは当然である。たとえば,「おきびき」なら「おきびき」,「じびき」なら「じびき」ということばが実際に社会で「き」を送っているか送っていないか,そういう資料が実はほしいのである。しかし,実際問題としては,なかなかそれが思うように集まらない。それで先ほど部会長が言われたように,部会としては手を尽くして事務当局にもいろいろ努力をしてもらって資料を集めたわけである。ただ語数だけの問題ではないということだけを,いちおう大野委員にも御理解いただきたい。

森戸委員

 送りがなの問題はたいへんむずかしい問題で,具体的ないちいちの調べも必要であろう。しかし,6年間かけて,104回も会合を開いて御審議いただいたわけだから,わたし,いちいち参加しなかったが,参加したかたがたの議論は相当取り入れられ,そしてみなさんの御意見が,あるいは多数決であったかもしれないが,それで落ち着いたことと思う。非常にむずかしい問題を委員のかたにお決めいただいたのである。しかも6年もかかったのだから,いろいろ違った意見はあろうが,この際,総会で答申することが妥当なのではないかと思っている。この「案」にも書いてあるように,国語は流動的なものである。したがって慣用が非常に重要である。しかし,慣用は日々に変わるものである。今日のような急速に移り変わる時代にあっては,慣用は常に変わっていくのであるから,ある時点でこれをしっかりと固定することはなかなかむずかしいのではないかと思う。そうすると,いわゆる慣用を重んじながら弾力的にこれを考えていくという答申案の大きな方針は,わたしは妥当なのではないかと思う。
 なお,会議では,ただいま大野委員の御指摘になったような非常にごもっともな意見もあろうが,それらをじゅうぶん考えながら多数のかたの御意見でこういう案ができているので,かようなことを踏まえながら,この案を承認したほうがいいのではないかと思う。というのはいくら繰り返しても,個人の,ことに国語学者の御意見が一致することはむずかしいのではないか。たび重ねても同様な意見の相違があるのではないかと思う。そこで流動する国語の問題,ことに送りがなの問題ではわたしはこのへんで,いちおうけりをつけて案を生かすことにしたい。しかし,これは最終的に決定するものではないから,数年置いて実際に国語の慣用が変わったら,そのときに改めて取り上げたらどうかというのがわたしの意見である。
 もう一つの意見は,この送りがなだけが国語の問題ではなく,国語の問題にはさらに審議すべきいろいろな問題があるのだから,いちおう,送りがなの問題はこの案を認めて答申をして,審議会が新しくなる場合には,新たな問題に取り組んでもらう。そして送りがなの問題は,流動した形がはっきりした場合にもう一度改めて取り上げるような形が妥当なのではないかと考えている。このたびのかな部会の案は,わたしの使っている送りがなとはたいへん違っているし,いろいろな問題もあるが,だいたいのみなさんの御意見が結晶したところなので,総会としては御承認いただいて,さらに問題は改めて数年後に取り扱うことにしたらどうか。そして次の機会には新しい問題に取り組んでいただく,というのが審議会として妥当ではないか。これは専門学者でないしろうとの意見であるが,ある程度しろうとの意見のほうが専門家の意見よりは,かような点ではかえって常識的であるかと思うので,あえて意見を申し上げるしだいである。

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