国語施策・日本語教育

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次第 協議〔その2〕

志田委員

 端的にいうと,今,会長が最後に発言したとおり,現行のように制限的なものにしないという考えでまとめればよいと思う。前からのいきさつについて,説明があったが,現行の当用漢字表の「まえがき」の2番目には,「1 この表は,今日の国民生活の上で,漢字の制限があまり無理がなく行われることをめやすとして選んだものである。」と書いてある。ここに「あまり無理がなく」という言葉は入っているけれども,漢字の制限が行われることを目安として選んであるということは確かなので,だんだん当用漢字表は制限的な性格をもっているものだ,というふうに受け取られるようになっているわけである。そこで,あとの目安かよりどころという議論は,場合によってはしばらく先になって,どういうふうに説明するかという段階でもよいように思うので,むしろ前段の目安かどうかということよりも,今発言いただいたような前段の方の現行のように制限的なものにしないという共通理解で進行願えればいかがかと思う。ただ今の御説明に賛成である。

福島会長

 今日の議題はまだ若干あるので,この第2点については,現行のように制限的なものとしないことを前提として,これから漢字表を考えていこうというのが,一応差し当たり我々共通の理解であるということで先に進ませていただけたらと思う。それをどういうふうに表現するかということは,先ほどの表の頭に付ける当用,あるいは常用という問題とも関連し,いずれ検討しなければならない時期がくるだろうと思う。3の問題とか,あるいは特に4の適用範囲とかいうような問題を検討しているあいだに,更にこの点などは性格がもう少しはっきりしてくるかもしれないと思うので,共通の理解としては制限的なものとしないということで,審議を進めていきたい。3の検討に移りたいと思うが,いかがか。

木庭委員

 私どもが端から考えると,漢字表というものはどうしても制限的な性格があるように思う。それが制限的でない表をつくるというと,そこに一種の矛盾があって,いろいろな問題が出てくるように思う。制限的ということを認めないのなら,またほかにもう少し根本的な考えようもあるのではないかと思う。

福島会長

 その点はこれまた私限りの感じであるが,自分の商売柄,新聞とかそういうことに意識が向いているわけだけれども,新聞は,例えば新聞協会というようなところで新聞用語をどの範囲にするかを考えるわけで,その場合の現在だと,当然に現行の当用漢字表が中心になってくるわけである。それよりも少しはみ出して,我々の用語では盤外文字とかいうのだが,そういうものを用意するということもあるが,おおむね当用漢字表を中心にして自分たちの目的にかなうような用語基準を定めている。
 また,後ほど御報告申し上げようと思っていたけれども,学術関係の用語については学術審議会などでそれぞれの分野について案を考えている。その場合に,当用漢字表以外はまかりならぬという必要はないのであって,それをよりどころとし,あるいは目安としてその分野においてはこういう漢字の使い方をしようということが決められれば,それでよろしいのではないか。
 したがって,ここで検討する漢字表は,表現が少しきつ過ぎて趣旨と違うかもしれないが,制限的でないと意味をなさないのだというところまではいかないのではないだろうか。目安・よりどころでその目的を達し得るのではないかとも思う。お話の点など,4に掲げてある適用範囲などと関連してお考えいただいた方が,進行上都合がよろしいようにも思う。

木庭委員

 我々は非常に穏やかな顔をして「制限的ではありませんよ。」と言っているけれども,実際には非常に制限的な効果がある。例えば,さっき宇野委員が言われたように,実際には強制力があるというふうなことであるが,国語審議会の仕事にはいつも付きまとっているように思う。その点をよくお考えいただきたいということで,それで結構である。

福島会長

 それでは,一応先ほど来申し上げているようなことで,2の問題については共通な理解があると理解し,または全部総合してから,更に御意見が出るということもあると思うので,取りあえず本日のところは次の問題「3 現代の国語を書き表すためのものでよいか。」について活発な御意見をお願いしたい。
 「現代の国語を書き表すためのものでよいか。」という問題が出てくるについては若干の沿革があるので,岩淵委員にまたお願いしたい。

岩淵委員

 この問題は,実は今の木庭委員の御意見とも関連すると思うが,音訓表の場合でいうと,漢字の音訓として考えられるものはすべて音訓表に載せるべきである,漢字はいろいろな読み方をするが,制限をしないで考えるべきであるという考え方もあった。ところが,漢字表についてはある程度の制限――制限という言葉を使うと,また誤解が起きるが,ある程度限定した訓だけが掲げてある。
 その場合に,限定の基準はどこにあるか。それは,読むということを建て前にすると,日本のあらゆる古典が読めなければいけないというふうなことになりかねない。そこに時代を入れても,例えば,ある人は明治時代以降とか,ある人は昭和時代以降とかいうふうな時代区分を入れるという考え方もあったが,これも非常に難しい。
 この前も木内委員から「書き表す」というのはどうも具合が悪いという御発言があり,そのときに「表現する」では悪いのかというようなお尋ねがあった。これはまさに現代の国語を表現するために必要な音訓の範囲にとどめようという考え方であったわけである。そこで,読むというようなことを全然いわないで,読むも書くも区別しないでという考え方も一つあるけれども,やはり非常に難しいというので,現代語を表現するための音訓を拾い上げるということにとどめた。そこで「書くための」という表現が用いられたわけである。

福島会長

 ありがとうございました。
 どなたか,どうぞ続いて御意見を……。

宇野委員

 これはちょっと根本問題に絡むことであり,私が前から疑問に思っていることだが,現代の国語表記でも表現でもよいが,現代の国語というものと,それから,今の岩淵委員の言葉を借りていえば過去の国語,それが過去というと,どこまでいくかという問題になるのだが,とにかくそういうものを切り離して考えるという,そういう思想が基本にあるように思われる。それがどうも,言葉というものなり言語表記というものを考える場合に,私の考えからいうと,もう基本的に間違っている。つまり,言葉というものはむろん流れていくものであるけれども,ことにそれが表記された言葉としてある程度固定すると,少し大げさな言い方をすれば,それは時代を超越したものになると思う。そういう私のような考え方からいうと,現代の国語を表現する,あるいは表記するための漢字ということが私にはどうも理解できない。
 つまり,過去の言葉と離れて現代だけの言葉というものがあるのだろうか。もちろんそうは申しても,個々に申せば,過去には使われておったけれども現代は使われなくなってしまった言葉というものはもちろんあるが,先ほど木庭委員も言われたが,これが実際の教育の場なり何なりに適用されると,そういう弊害が非常に出てくる。私どもは学生に接触しているとそういう弊害,語彙力や読解力,読書力の貧弱ということに接触するのでどうしてもそういうことを考えざるを得ない。
 つまり,なるほど学校の教育においては,現代国語を大体中心として学ぶようであるが,実は私から言うと,それにも不満があるわけで,義務教育では仕方がないが,高等学校以上においては,少し乱暴な言い方をすると,現代語なんかはどうでもいいのではないかと思っている。現代語,現代語といって習うものだから,しかも,それが当用漢字というもので縛られているものだから,ちょっと古い,といっても昭和30年ごろ,あるいはもっと前の終戦前後,もっと前の昭和10年あるいは昭和の初め,大正,明治とさかのぼればのぼるほど,今の学生には分からなくなってしまっている。こういう現象は,私は戦前の国語施策というものを考える場合に,基本的に誤っているのではないかというふうに考える。
 皆さんの前でそんなことを申しては釈迦に説法であるけれども,戦後,要するに漢字はだんだんやめていってしまうんだ,漢字は将来なくしてしまうんだという,そういう思想のもとに国語政策が行われたから,そういうことが起こってきているのだろう。仮名遣いにしても,私はそうだと思う。現代仮名遣いというものをやって,古典というか,過去の記録というものからは切り離してしまう。これは,ある程度,占領政策というものとも密着していたと思うが,そういう結果,どういうことが起こったかというと,私が今心配しているようなことが実際の現状として起こってきている。それゆえ,私は現代の国語を書き表すためのものでよいという発想がどうも分からない。
 つまり,私が常々心配していることは,審議会の委員になって出席方している方々は皆,おおむね戦前の教育を受けられた方で,どんなことになろうとも困らないところが,若い人たち−大体,今の30歳以下ぐらいの人たちは,全くそれで育ってくるわけで,我々にとっては何でもないことが,大変なことになっている。その実情を皆さんはよく御認識いただきたいと思う。現代の国語ということに対して,ではどうすればよいのだというと,大変困るが,非常に違和感があるということだけ申し上げたい。

岩淵委員

 宇野委員の御意見,当然,そういうお考えが出ると思う。それで私どもが考えたときには,それに対して適用分野というものを考え,その分野以外のものはどのような音訓を使っても差し支えないというところが目安というふうな名前で呼んだゆえんだと思う。また,学校教育においては,小学校・中学校あたりの義務教育では,次に出てくる適用分野の話になるが,一般社会生活で行われるものはとても十分でないだろうということで,高等学校でも教える。高等学校あたりでは音訓表に出ていない音訓も学習するということを前提として考えたものであって,いわば目安という言葉が曖昧模糊(あいまいもこ)としているところであるが,そういう適用の分野についてもある程度目安であると限定したわけではない。もちろん基本的に宇野委員のような御意見があることは私も承知しているけれども,処理の仕方としては,そういうふうな一般の社会生活で,という限定でもつけなければできないのではないか,というふうにして落ち着いたわけである。

福島会長

 この問題については皆さんの御意見があると思う。どうぞ森岡委員。

森岡委員

 宇野委員の意見と結論が同じになると思うが,別の観点から言わせていただきたい。
 音訓表について,あれだけの音と訓を制限する表というのは非常に国語を破壊するものだと,前から考えていた。前委員の方たちが改定して,少し緩和されたとはいうものの,やはり,例えば,「頼」,「任」,「」,「好」,「産」,「楽」,「助」というような漢語については訓がないので,全く丸覚えしなければいけない。私たちが漢字を使う効率のよさというのは,やはり訓に柔らげることによって漢字が覚えられていくことにあると思う。制限があることは私たちの語彙(い)力を非常に低下させる原因になると思い,前から音訓表だけは何とか廃案にしていただきたいという希望をもっていた。漢字を覚えるときにはやはり「依る」,「頼む」,「任せる」とかいうふうな訓を活用しない限り,漢字というのは覚えられないと思うが,実際ものを書くときには,「任せる」とか「依る」とかというのは仮名でも構わないが,少なくとも単語を覚えるためにはあの音訓表ではだめである。そういうことで,前委員の方たちが大変苦心なさって,「書くための」あるいは「よい文章表現のための目安」というふうに非常に押さえられたのだと思う。
 それと同じような考え方で,漢字表を書くための目安とかよりどころというふうに規定すると大変困ると思う。宇野委員が発言したように,私たちはやはりものを考えるときに漢字を必要とするし,すべての語彙は漢字によって区分けされ,わく組みされている。漢字を知らないではどうにも日本語というものの語彙の体系・組織が分からなくなる。そういう点で,漢字表というのは,ただ実用的な書くための表であってはいけないと私は考える。つまり,そういう点で日本語としての字母表という位置付けをしていただきたいと先ほども申したけれども,書くための目安とか現代国語を書き表すというような規定の仕方は大変まずいだろうと思うので,3についてはどうしても賛成できないと思っている。

森岡委員

 それから先ほど木庭委員が言われたように私たちが漢字の表をつくるということは範囲を示すことで,その範囲でなるべく使ってほしいという願いがある以上は制限的な性格というか,強いものでなくてもその範囲その範囲を示す以上は私たちは制限していると非難を受けてもその覚悟をしなければならないと思う。教科書にこの字を使ってはいけないというふうなことで,目安という言葉を使っても,よりどころという言葉を使っても,基準という言葉を使っても,ただ言葉を変えただけであり,社会からの風当たりを避けるだけのことである。そういう表をつくる,範囲を示すということには,どうしてもその根底に,制限という非常にどぎつくなるけれども,この範囲でお願いしたいというふうな気持ちがあるので,2に関連して,制限的な性格にしないというのは結構だが,制限的という言葉を使わないので,制限するかしないかは法律の問題にしていただいて,私たちが範囲を示すというときにはある程度のわく,これが一番常識的なわくであろうというわくを示す仕事だから,制限とか制限ではないということに余りこだわらない方がよろしいのではないかと思う。
 二つのことを申したけれども,書き表すための漢字表というのは大変不自然であり困るのではないかと思っている。

志田委員

 「現代の国語を書き表すための」というのを,前回の改定音訓表について考えた場合の私の理解を申し上げてみたい。
 それは作業の過程においては,書くための音訓と並んで,読むための音訓というものを考えてみようということで進んでいたわけであるが,結局読むための音訓ということを考えることは,極端に言えば無意味に等しいということで,これ一本になったと記憶している。
 要するに,現代の国語を書き表すというと,先ほど来御指摘のあるようないろいろな問題が出てくる。これはこの後の適用範囲にあるような,文章を書くものにとってできるだけこの範囲で書こうという努力目標にしよう,これによってできるだけ書こうという,自分たちの心得としてこの範囲を選ぶというふうな意味をもっている。したがって,それらの書かれた文章は,この社会の人々にとっては読む対象になるという意味のものである。先ほど来御指摘のあったような,同じ現代の中でも,既に書かれたものは過去のものになるわけで,それに手をつけようということではなくて,この適用範囲での文章を書くものが,いつもこういう範囲でやりたいという心掛けで書くという意味を,この「現代の国語を書き表すための」というふうに言ったのだと理解している。
 私も学生を相手にする仕事をしている者である。大学生が余りにも漢字が読めないということで,大変心痛している。それは,これまでの当用漢字表の扱い方の問題であり,また,更に国語教育の場でもその扱い方が一層不十分であったということになるのだろうと思う。国語教育の場では,むしろ音訓表の中に取り上げていない音なり訓なりもできるだけ読めるように,あるいは直接その訓であるというふうに,場合によっては定めなくても,その意味がわかるように教育すべきで,これは多々益々弁ずであって,こういうことを我々としてはよいことであると考えてよい。それは一方では個人差が大いに起こるわけであるけれども,それは大いにあってよろしいと思う。
 そういう点から,読むための音訓ということを余り考えない方がいい。しかし,学校教育の場においては,そういうものを別に考えるということは教育的に見て,必要であるということも言えると思う。が,ここでまず考える全体的な当用漢字表というものであれば,読むためのということを,ここで真っ先に考える必要はないと思う。この改定音訓表の考え方を,ほぼそのまま移行させてもいいのではないかと考えている。
 だから,「現代の国語を書き表すための」というのは,書き表す人々にとっての努力目標として,この範囲を常に心にとめてほしいというふうな意味のものである,というふうに理解している。

長岡委員

 私は,この現代の国語を書き表すためのものでよいかということについては,現代の国語という意味が,書き換えれば日常の国語という意味に解釈すべきものであると思うので,これで結構だと思う。

築島委員

 現代の国語という言葉について,私の考えを申し上げたい。基本的には,先ほど,宇野委員の御意見を通ずるようなことに基づくことになるが,私の知った限りでは,昭和21年の当用漢字の内閣告示の場合に,「現代国語」という言葉が使われていた。現代の国語という言葉が使われるようになったのは,いつごろか詳しく知らないが,少なくとも前期の改定音訓表の場合には,しきりに現代の国語という言葉を使ってあり,このたびも,あるいはそれの関連があるかと思うが,使ってある。私は,実はこの言葉が非常にあいまいな概念をもっていると考えている。皆様も御存じのように,学校教科においては,現代国語という教科があるわけで,その現代国語の内容というものを見ると,主として文芸作品が多いと思うが,明治以後の文献を現代国語の中の教材として使っている。
 今まで,例えば志田委員のお話とか,あるいは,今の長岡委員のお話なんかを伺っていると,前期の委員の方々の御意向では,何かそういう意味ではなくて,今長岡委員の発言では日常の国語というふうな意見だが,今後の国語を表すというような意味にお使いのように承知したわけである。現代の国語というのも,内容をこれから以後の国語を書き表すというふうな意味にとる場合と,それから明治以後の文献を含めて現代の国語というふうにとる場合と,これは具体的に非常に大きな差異が起こってくると考えるのであって,その一番極端な例は明治,大正,戦前までの多くの文献を教科書に取り入れる場合に,それの表記法を改めるか改めないかということに直接かかわってくると考える。

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