国語施策・日本語教育

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次第 中国における文字改革等について(報告)〔その1〕

福島会長

 議事の第2は,中国における文字改革等についての報告である。
 林(大)委員,松村委員等の一行4名が,文化庁派遣の中国文字改革等調査団として,2月26日から3月7日までの10日間中国を視察して,このたび帰国された。今後,委員会などでは詳しく話を聴く機会があると思うが,本日の総会で概略の話を伺いたい。本日は,ほかの議事もあり,また質疑応答の時間なども必要と思うので,その辺も適当に調整の上,お話し願いたい。
 まず,今回の中国行きの団長であった林(大)委員の話を伺い,続いて松村委員の話を伺いたいと思う。よろしくお願いしたい。
 では,まず林(大)委員,どうぞ。

林(大)委員

 このたび文化庁から派遣されて,中国の文字改革等について視察をしてきた。その報告を申し上げたい。その趣旨等については配布された資料に書いてあるとおりである。中国との事前交渉の経過等については,文化庁から説明を願いたいと思う。
 我々は予定どおり2月26日に羽田を立ち,3月7日に羽田帰着まで,北京(ペキン)に足掛け7日,上海(シャンハイ)に足掛け4日滞在して無事に帰国した。
 このたびの派遣について,手厚い配慮をいただいた福島会長始め各委員,また文化庁長官始め関係官各位に対して,深く感謝申し上げる。
 中国で我々を受け入れてくれたのは中国文字改革委員会である。この文字改革委員会というのは,中国の文字の改革についての立案,宣伝,普及と標準語の普及を任務としている機関で,ちょうど我が国の文部省に相当する国務院の教育部と密接な関係があるようである。ただし,我々にはその組織上の関係についてはよく分からなかった。我々の受入れについても教育部の部局を通じて行われたし,また文字改革委員会との専門的な会合の際にも教育部の人たちが列席していた。
 それから教育部の責任者(これは次官クラスの人ということであった。)李き((りき)氏に3月2日国際クラブに招かれ,会見する機会を得た。このことは人民日報が報道していた。
 文字改革委員会の責任者は葉籟士(ようらいし)氏である。文字改革委員会のメンバーを中心とする人たちとの懇談はホテルで2回行われ,1回は中国の事情の説明を受け,もう1回は中国側の要請で日本の国語問題の事情について説明を行った。また葉籟士氏とは特に一晩語り合う機会があった。
 文字改革委員会のほかに,特に文字改革について訪問したところは資料の2枚目にあるとおりである。これらの場所では,それぞれ幹部,教師,学生が懇談の席を設けて歓迎してくれ,教室その他を案内してくれた。
 我々一行については,10日間終始文字改革委員会の孫修章(そんしゅうしょう)氏,中日友好協会の王達祥(おうたつしょう)氏が付き添われて,非常に行き届いたお世話を受けた。
 我々は,滞在中ほとんど中国側のおぜん立てとおりに行動することになった。我々としてはもう少し時間が欲しいという感じは持ったが,別段これを窮屈であると思わず,10日間快適な旅行ができた。
 我々の中国文字改革の考察が日中友好の根本に連なるものであるといって,教育部あるいは文字改革委員会を初めとして,各所至る所で熱意ある歓迎を受けたことは,我々の大いに感銘したところであり,まず第1に報告しておきたいと思う。
 なお,北京では小川大使を初め日本大使館員諸氏にいろいろお世話になったことを併せて報告しておく。
 以下,中国における文字改革の概要と所見を一通り報告したい。
 帰国以来既に3週間たっているが,団員4人が十分に話し合う時間がないために,ここではまず私個人のまとめとして報告することをお許し願いたい。足りない点,違っている点,あるいはまた別の見方という点については,松村委員がお話しくださると思う。
 まず,中国の文字改革の沿革は今日からさかのぼってみると,三つの段階に分けられようかと私は思う。
 最近の段階には,1966年(昭和41年)ごろから始まったプロレタリア文化大革命以後が当たると思われる。その前の段階には,1940年代後半の解放戦争,毛主席が中国全体に力を持つことになった時以後が当たる。それからその前の長い解放以前の段階がある。
 中国の文字改革の3段階については,中国側の説明によれば,次のようなことである。
 解放以前の歴史は19世紀末の清朝末までさかのぼり,この時代は非常に長い。いろいろな試みもあって,その後の文字改革実現の準備時期と言えるが,真の解決はなされなかった。今日から見ると,ブルジョア的改良主義にとどまった。
 今日の文字改革の実行の発端は,解放後における1951年(昭和26年)毛沢東主席の指示に求められる。もっともこれ以前に,1940年(昭和15年)に毛沢東主席は「新民主主義論」の中で,一定条件のもとで文字改革はなされるべきだということを書いているが,実際の発端は解放後の1951年の毛沢東主席の指示ということになる。この毛沢東主席の指示は,文字は改革しなければならない,そして世界の文字と共同の表音的な方向に進まなければならない,ということである。
 これを受けて1952年(昭和27年)に文字改革研究委員会が発足し(54年改組して文字改革委員会),それ以来漢字の簡略化,標準語の普及,ローマ字化の問題について審議が行われ,その成案を得た。そしてそれらに関する毛沢東主席や国務院の指示が出て,実行に移された。
 1958年(昭和33年)の周恩来総理の報告「当面する文字改革の任務」の中に次の三つの方針が明らかにされている。(4枚目の沿革のところにそれを書いておいた。)すなわち,「第1に簡略な字を普及すること,第2に普通語(プートンホワ)を普及すること(普通語というのは,我々が訳せば共通語とか標準語とかに当たる。),第3に漢語音(ピンイン)方案(漢語というのは中国語という意味で,中国語を表音文字,ローマ字を使ってつづる仕方というような意味かと思う。)によって漢字を覚えさせ,また普通話を学ばせること。」の三つである。

林(大)委員

 しかし,この第2の解放後の時期には,一方でこれらの改革運動に対してマイナスの動きをする人たちがあり,そのため,一方では成案ができて,それが推進されていきながらも,一方では反対運動があるという矛盾があった。1966年のプロレタリア文化大革命以来,これらの文字改革に対してサボタージュをした修正主義者,林彪(りんぴょう),劉少奇(りゅうしょうき)といった人たちが排除され,すべて毛沢東主席の真意に基づき,プロレタリア独裁,社会主義革命実現の旗印のもとに文字改革が推進されることになった。それが現在の段階である。
 ちょうど我々に先立つこと15年前,1960年(昭和35年)に土岐善麿氏を団長とする中国文字改革視察日本学術代表団一行10人が35日間中国に滞在して視察したわけであるが,その当時の座談会とか書かれたものを見ると,我々よりももっと詳しく視察をしたようであるので,それに比べて我々の観察が大変表面的なものにとどまるのではないかと恐れている次第である。
 その当時はまだ文化大革命以前であったが,周恩来総理の三つの方針が掲げられた直後であり,その時の文字改革の方向はほとんど今日と変わらないように思われる。我々はその進歩・発展の状況を客観的に比較して測定することができれば良かったのであるが,それができなかったのは誠に残念である。文化大革命以後その方向でいよいよ推進されているということを確かめたということになろうかと思う。
 中国の文字改革の原則は,文字改革委員会の責任者である葉籟士氏の説明によると次のような三つになる。
 第1に中国文字改革は,中国共産党の指導により毛沢東主席の指示を達成するために行われなければならない。
 第2に無産階級の利益のために行われるべきてあって,一部の知識人のために行われるべきではない。知識人のためならば,文字改革は行う必要はない。文字改革に従事する者は労働者,農民,兵士と無産階級へ奉仕するものであると考えなければならない。
 第3に広範な労働者,農民,兵士,大衆路線に沿って行われるべきであり,大衆と遊離してはならない。
 そして,実際にこの原則を推進する政策としては,次のようなことが考えられている。
 第1に文字改革の最終目標は表音文字にすることであって,これは政府の基本方針として定まっている毛沢東主席の指示のとおりである。
 第2に漢字は簡略化する。
 第3に標準語を普及する。
 第4に少数民族の言語を尊重する。これは憲法によって定められているところであるが,彼らが独自の文字を自ら制定するのに協力しなければならない。(少数民族というのは,中国の中にいるチベット,ウイグル,コサックといった民族のことである。)
 第5に漢語音方案を普及する。
 次にこれらのうち,特に漢字の問題,普通話の問題,ローマ字つづりの問題の3項について実情を述べてみたい。その前に少し訪問先のことを述べたい。資料の2枚目の下の訪問先というところに北京で中央民族学院以下を掲げておいた。
 中央民族学院には少数民族語言系といういわば学部に当たるものがあって,そこの人たちと懇談した。これはチベット,ウイグルその他の少数民族に中国語を学習させているところであり,またそれらの地方へ幹部として派遣される人たちに対して,その地方の少数民族の言語を研究させるところである。
 北京語言学院というのは,いわば外国語大学であり,外国人留学生が予備教育として中国語を学習する場合には,すべてここで1年間学習することになっている。
 また,その他の言語についての研究も行われている。我々が接触したのは,中国語を外国人に教えている部門の人たちである。
 北京大学では中国語文系,漢語専業(中国語学の専業の意味であり,我々が国語国文学というときの国語に当たる。文学を専門にする人たちはほかにいる。)の人たちに接触した。また,東方語言系の中の日語専業(日本語を中国人に教えている。)の人たちも同席した。北京大学は教育革命の先頭に立っているというような意気込みであって,文字改革についても文字改革委員会と密接に連絡して協力をしているという話であった。
 それからまた別に我々の希望としては科学院の語言研究所(ちょうど日本の国語研究所に当たると思う。)を参観したいと考えていたが,まだ,1966年の文化大革命以後の内部闘争が終結していないから,そちらへ案内するわけにはいかないということで訪問できなかった。ただ,語言研究所の責任者呂叔湘(りょしゅくしょう)氏には文字改革委員会のレセプションの際に会うことができた。
 さて,漢字についてしばらく説明する。文字改革委員会の説明によると三つの方向があって,一つは字画を減らすこと(字画を簡単にすることだと思う。),一つは字数を減らすこと,一つは字形の整理統一をすること。(曲がっているか,まっすぐか,点か一かといったいろいろな字形のバラエティーができてくるのを防ぐために,それらを整理統一すること。)である。
 字画を減らすことについては,1964年(昭和39年)に「簡化字総表」というものが出て,中国側の計算に従うと,2,264字の旧字体に対して,2,238字の簡単な形の字が発表され,そのうち,一つの字を完全に簡略にするという方向で簡略化されたものが484字(これらはもともと平均16画であったが,8画と簡単になった。),また偏や旁(つくり)だけを簡略にするという方向で簡略化されたものが1,754字(これらはもともと平均19画であったが,平均11画に画数を減らすことができた。)ということであった。

林(大)委員

 字数を減らすことについては,日本と事情が違っていて,中国では異体字を整理する,つまり同じ字でありながら例えば「剣」字に「」を書いたり「刃」を書いたりといった異体字がたくさんあるが,そういう異体字を整理する,また同音の字で書き換えられるものは極力書き換える,ということをして字数を減らそうとしている。異体字整理の方は日本もある程度やっているが,同音代替の方は日本ではそれほど行われていない。中国の方が非常に大胆に行っている。それで,1,100字余の異体字を整理することができたという話であった。
 なお,字数からいうと,中国は漢字しか使えないことから,小学校5・6年の間に3,500字の漢字を習得しなければならないことになっている。ただし,タイプライターの文字盤を見てみると,非常に頻(ひん)度の高いところで用いられているものは1,000字を余り多くは超えない範囲であるように私は感じた。
 三つ目の字形の整理については,1964年に「印刷通用漢字字形表」というものが出て,印刷の活字の上で従来疑問のあったものをこれで一定することになった。
 字体の整理,簡略化の方針は日中非常に似ている。筆写体と活字を近づけるということも日本と同じような考え方であるが,中国の方が少し進んでいるように見えた。当用漢字と比べてみると,現に日中が同じ形を使っているもので,昔から同形だったもの,たとえば「一,二,三」とか「上,中,下」とか「松村 明」「林 大」というような字は660字ほどあるように思う。その中で「曜」「警」「鼻」といった字は,字画が複雑であるが,日本同様簡略化されていない。それから新しい文字を使うことになってから,日本と中国で同形になったものが,これは数え方によるが,170字ぐらいあろうかと思う。例えば「国」(これは日本の字をまねたということである。)「体」,「数」,「学」という字である。これらは日中共通の略字を使うようになったものである。830字ばかりは,日本の活字を中国に持っていっても中国の活字を日本へ持ってきても,普通には気付かれないであろうと思うような字である。そのほかに日中で字が変わっているもの,ごく微小な点で変わっているものが,私の勘定で420字ぐらいはあろうかと思う。例えば「文」の字の頭を横に寝かせるか,縦に立てているかというくらいの小さな違いである。あるいは「辺」の字は日本では「辺」と書くが,中国では「」を書く(これは微小といえるかどうか分からないが。),こういうものを含めて420字ほどある。その他,当用漢字表の中の字では600字足らずが中国では違ってしまった。これには糸偏が変わった,言偏が変わった,というようなものを含んでいる。それから,これらの簡化字を現在追加する準備中であるということが,教育部の李き氏や文字改革委員会の葉籟士氏から初めて明かにされた。その公表は近くということであったが,時期については未定のようにうかがわれた。これらの文字の簡略化については,人民の中から吸い上げて人民の中にもどすという方針であって,調査団を派遣して地方で調査したり,また意見等を求めて投書を集め,それらを尊重しているということであった。試案が公表されると,それは直ちに各部に配布されて意見の収集が行われるということである。
 この漢字の簡化については,民衆は非常にこれを歓迎し,民衆の支持を受けているということであった。我々が表面的に見たところでも,民衆の間にこの簡化字は普及していて,長城や十三陵を見学に行くと,壁に文字を書いてはならないという注意はあるが,大変落書きが多く,その落書きは主として地名とか人名であったが,それらは大体簡化字であったように見受けられた。
 実施の状況は教育面・印刷面で徹底的に普及していて,個人の執筆については強制されないが,印刷は統制させている。何分にも印刷工場が国営であるから,これは徹底するわけである。ただ,活字の問題からすると,まだ多少横に寝ているか縦に立っているかといったような違いのものは見受けられた。それから実際上レシートにサインするといったようなときには,古い字体の字を使っている人もいたようである。ついでながら,横書きも非常に徹底して行われているように見受けた。
 なお,北京大学が開発したコンピューターを見せてもらったが,まだコンピューターによる文字情報処理については,それほど考えが進んでいないのではないかと思われた。
 なお,このたび,我々の調査団に続いて訪中した学術調査団に森口繁一氏が加わっておられるので,その辺のことについて詳しい情報がもたらされるであろうと思っている。
 次に,標準語について少し述べたい。中国では普通話(「話」という字を書いて「言語」という意味に使う。)は基準を持った共通語と言ってよかろうと思う。漢民族のいわゆる中国語には八つの大きな方言がある。その中で人口の70%を占めているのが,北方方言といわれるものである。「北方方言を基礎に北京語音を標準音として,また模範的な現代口語文の著作を語法の規範とする。」という定義が,1955年(昭和30年)になされている。これは1955年に全国文字改革会議と現代漢語規範問題学術会議という二つの会議が行われたが,その際の定義だそうである。そして1956年(昭和31年)に国務院から普通話普及の指示が出ているわけである。
 標準語の普及は,人民の大団結,社会主義革命実現のための言語的統一として必要が説かれている。それとともに,これは表音文字で中国語を書き表すとすれば,そのための前提条件となるものである。モットーとして「大力提唱,重点遂行,逐歩普及」ということ,つまり大いに力を入れて宣伝する,重点的に推し進める,段階的に普及する,ということを掲げている。その普及の重点は,地区としては南方地区(非常に方言の強い地区だと思う。),部門としては学校,対象としては青少年,社会的な職業としては商業,交通,郵便,電信,サービス業ということだそうである。1958年に毛沢東主席が一切の幹部は普通話を学習しなければならないということを言って,幹部に対する普通話の講習が非常に熱心に行われた。
 この幹部の中にはもちろん学校の先生も入っていて,当時の記録には何年までに何万人の教師が講習を受けたというようなことが書いてある。

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