国語施策・日本語教育

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次第 漢字表・字体表等の検討について(協議)

福島会長

 議事の第3は,漢字表・字体表の検討についてである。現在,漢字表委員会,問題点整理委員会を発足させたばかりである。今後両委員会に前期に引き続いて漢字表・字体表の検討をお願いすることになる。総会での議論を基にして問題点整理委員会に詰めてもらうことにもなろうかと思う。
 そこで,前回の総会に引き続いてこの議題について,自由討議を続行したい。前回の総会の後で「第11期国語審議会審議経過報告」についての意見を出すことを特に新しい委員にはお願いして,かなりの意見が寄せられている。お手もとにその要旨を配布してあると思う。それに関連して意見提出の委員あるいはその他の委員から補足説明などしていただきたい。その前に木内委員が発言を求めている。木内委員,どうぞ。

木内委員

 これからいよいよ本格的な審議に入るわけであるが,それに先立ち2点述べたいことがある。
 一つは,漢字表の性格論である。性格論という言葉を砕いて言えば「何のために,なぜ,どういう表を作るのか。」ということである。このことは前にも少し触れたかと思うが,こういうためだということは論じはしたが,はっきり結論を得ないまま現在に至っている。それでこの前期(第11期)の終わりの時に,そのことを少し述べておいた。第11期は実際には今までにないかなり綿密な研究というか,目の詰んだ考察が行われてきたと言えると思う。ついては,もういつまでもこの問題を伏せておかないで,一体「何のために,なぜ,どんな形を作るのか。」ということを話し合うべきだと思う。これは当然日本語論というか,国語論にもなるし,国語政策論にもなるし,また国語教育論にならざるを得ない問題だと思う。
 もう一つ,今後作るべき漢字表及び字体表についてであるが,取りあえず漢字表の具体案ということで,私の案を述べてみたい。
 漢字表の性格論の方は,必ずしも議論を煮詰めて結論を出す必要はないが,大いに語り合った方がいいと思う。到底いわゆる国語論,国語政策論を煮詰めたとしても結論は出ないであろう。また,それを必要と考えたら,大変な時間を要する。時間を幾ら掛けてもまとまらないかもしれない。にもかかわらず,これは大いに語り合っておかなければならないだろうと思う。
 作るべき漢字表の具体案なるものは,大いに議論をして,具体的な結論を出す必要があると思う。
 なお,漢字表の性格論は,長年この国語審議会に関係していわば思い詰めてきたことであるから私の意見としては,いわば決定的なような気がする。しかし,別に新しいことを教えていただければ,俄(が)然豹(ひょう)変するかもしれない。漢字表の具体案については全くの試案で,私自身実はどうでもいつでも変わり得る。しかし,一応何か出さないとはかどらないから,出すわけである。
 今までが前置きで,これから本論であるが,漢字表の性格論,「何のために,なぜ,どういう表を作るのか。」ということは,別に言えば,だれの参考にするかということである。それには戦後の国語政策の評価から話を始めなければならない。戦後の国語政策なるものは,実は漢字廃止論であった。ただし,漸進的な廃止論であったが,はっきりそうとう言わなかった。そのことは,今は国語審議会の中でもはっきり認められていることである。漢字を漸進的にしろ何にしろ,政府の政策をもって廃止に導くということは,私はもちろん大変強く反対であるが,今ここで反対論を深く言う必要は余りない。むしろ,敗戦直後の日本としては,ああいう政策をとったのは非常にもっともなところもあるし,かつ効果も大いにあったと考えていることだけ言っておく。しかし,そう考えながら,あれはあの当時のことであって,今となっては別なことを考えるべきだと思う。
 そしてどういう効果があったかということは難しいが,広く言えば,当時,漢字廃止ということを心の底にすえた国語政策があったことは,日本を新しい日本に駆り立てるのに役に立ったということであろうし,狭く言えば,国語の分野でも,昔流(昔流にはいいところもあるだろうが,必ずしもいいところばかりではない。)を振り切ってしまうのに役に立ったということであろう。戦後の国語政策論の評価は,もっと必要を感じる段取りになったら,大いにやるといいと思う。あるいは必要を感じる段取りが,この審議会では出てこないかもしれない。もしそうであるなら,当時はもっともであって,大いに効果もあったが,今は変えざるを得ないと,あっさり認めて進むこともいいかと思う。
 そこで次に言いたいことは,実は漢字廃止論であった戦後の国語政策には,既に判決が下っているということである。漢字廃止論は漸進的であろうと何であろうとはっきりいけないという判決を下したのは,国語審議会ではなく,実際社会である。実際社会において漢字廃止の流れは,逆流を始めた。それで,今は随分自由に漢字が使われている。例えば相撲の番付を見ると,新しい字が非常に出てくる。「大鵬(ほう)」とか「麒麟(きりん)児」とかのほか,最近は「峩(が)」という字が出てきたのでちょっとびっくりしている。とにかく漢字には一種捨て難いところがあって,どんどん実際社会では使われている。当時は漢字のような面倒臭いものを使っては日本は食い詰めてしまう,日本の経済進歩は有り得ないという認識で出発した。事実は,漢字を使いながら,日本は世界を驚かす大発展をしたし,これからもするであろう。国語審議会が今,制限的なものにしないといっていることは,漢字廃止にはくみしないと決めたことになると思う。
 そこで我々は政策変更は既にあったので,それをどう漢字表に反映させるかが問題であるという根本認識に立っていいと思う。どう反映させるかという問題を考えていくには,どうしても日本語論が必要になる。一体日本語とはどういう言葉なのかということを考えないで,何か日本語は西欧の言葉に比べて劣っているように思って,西欧の言葉と違う点は悪いという考え方がある。それは違うと思う。
 そこで私の日本語論を簡単に紹介する。日本語は,実に世界にユニークな言葉であると思う。その表記法である漢字仮名交じりというのも,実は世界で最も優秀な表記法ではないかと,ひそかに思っている。それが逐次証明されてきたのが現状だと考えている。日本語はどうユニークかといえば,日本語は文法的に実に自由で,主語を省くこともできれば,言葉の順序も勝手に動かせる,あるいは複数とか性とか,余計なものはやかましく言わないということであろう。全く自由闊(かつ)達な言葉である。また,音節シラブルが実に少ないというのが特徴で,このため,漢字の助けを借りた。それだからこそ高級な文化が成り立ったのだろうと思う。
 もう一つの日本語の特徴は,外国語の取り入れが実に自由自在であるといっても良い点にある。だからこそ,文字ばかりでない,中国の言葉を取り入れて自由に日本語化したわけである。それで,繊細な感情などを表すには日本語は実に珍しく優秀である。それで,世界随一といったようなことがたくさんあると思う。私はそういう専門家ではないから分からないが,ただ実生活で外国人にもしばしば接しながら,自然にこういうことに気が付いてきたというだけのことである。多分違っていないと思うが,もし違っていたり補充すべきところがあったりしたら教えていただきたい。
 何はともあれ,日本は現在東西の両文化,両文明を実に巧みに融合している。その融合を可能ならしめたものは,日本語のユニークな性質だと言えると思う。

木内委員

 もう一つ言いたいことは,これは言語学者だったら多分もっとしっかりした表現で言い表すと思うが,言語とは要するに,表記があって初めて本当の言語になるのだろうということである。すなわち,音が本当の言葉であって,表記はそれをただ写しているだけだという,いわゆる表音派の考え方は既に古いと言える。それは,新しい言語学者がそう説いているということを聞いたが,そうだろうと思う。
 再び日本語論にもどると,日本語の文法は非常に自由だということは,これを規則にする場合には実に難しいということである。(私なんか文法の知識がゼロで日本語をしゃべっている人間であるが,多くの人もそうだと思う。)文法は難しく,日本の表記は実に難しい。だから悪いのではなくて,だから日本語はすばらしいというのが,私の日本語論の結論になる。これらのことが違っているかどうか,皆さんが十分に発言をして頭を練った上で審議会の今後の作業を進めるべきだと思う。さっきも述べたように,結論付けはやってもいいし,強いてやらなくてもいい。ただ頭だけは練っておかないと,全く低次元のことで事を決するようになると思う。
 そこで,これからが,どういう漢字表を作るかという具体案になるが,以上の認識を踏まえて新しい漢字表は四つ作るのがいいと思う。この四つの組合せというものは従来の漢字表を有効に置き換えることである。従来の漢字表1,850字は少な過ぎるのは事実だと思う。しかしこれを一挙に3,000字にしたりしたら,余り変化が大きくて,急激で人はびっくりしてしまうし,余計な波乱を起こすし,実際上もまずいと思う。ところが四つの表を作ると,その組合せは何らの波乱なく,あるいは波乱はないに等しい状態で置き換えが可能だと思う。既に国語政策の根本は,事実による実際生活上の判決によって出ているのであるから,変える必要は絶対にある。変える必要が絶対なら,できるだけうまい変え方をしなければならないというのが,我々が当面している課題だと思う。
 長らく考えていて,これは漢字表委員会の席で森岡委員の発言からひょっと気が付いたことであり,その後もずっと考え続けて,今は四つ作ったらどうだろうか(さっき言ったように,これは一応の試案であって,これでなければならないと思うほど思い詰めていない。)と思うようになったのである。
 これを国語の教育の現場に翻訳すると,今まで負担過重ということから,1,850字が2,200字ならまだいいが,2,500字は当然いけないというようなことがすぐ言われたが,これにより負担過重ということを言う余地がなくなるだろうということである。四つの表を作るという思想に国語審議会が立つことによって,国語教育をあるべき方向にあらしめるということもできるのではないかと思う。
 これは国語教育論を展開しないと,はっきり説明できないが,今はその場ではなく,私にはその力も十分にはないが,学校で教えるものが,子供が大きくなって世の中に立ったときの知識であって,必要なことは全部教え込んでおかなければならないという考え方が,まだ日本ではかなり旺(おう)盛のようであるが教育はそういうものではなく,知識は実際社会でも児童は覚えてくるのであるから,知識に系統を付け,整理を付けてやるものであると考えられる。したがって漢字表に何字出ていようと,それを教えなければならない,そこで教えなければ生徒は大きくなって困るだろうという心配は全然要らない。整理付け,系統立てをしてやれば,後は自発的な創造力を人間は持ってくるであろうと思う。
 これが簡単に言えば私の教育論であるが,これも踏まえて,四つの漢字表はどういうものか説明したい。第1が,今の「当用漢字表」に似たもの。これは実際社会で一応こういう字が使われている。これだけ知っていれば不便はないし,人の知らない字は使わない方がいいという立場に立つとするなら,大体これで賄えるという,今の「当用漢字表」に代わるべきものである。2,200字ぐらい考えたらいいのではないかと思う。つまり,標準は一応実社会の普通の生活ではこのくらい知っていればいいというものである。これは私に言わせると,上から3番目の表になる。
 次に,1番目の表であるが,大体5,000字あったらいいかと思う。日本で使われてきた漢字は特別なものを入れればまだまだあるが,(今これを拝見したら,澤村委員の意見の中に6,000字というのがあるが,5,000字でも6,000字でも結構である。)とにかく日本で使われる字はこれ以外のものは特別な場合でなければ出てこないというものである。これは書き上げておくということで安心感を与えることになる。またこれは康熙(き)字典の約47,000字というものは日本では余り縁がないということ,つまり底を示すという意味である。幾ら漢字が多いようでも5,000字か6,000字だという標準が分かるということは,安心感を示すことである。しかし,これはすべて覚えろというタイプのものではない。ただその字を上手に並べてやることによって,大きな効果を出すだろうというものである。
 2番目の表は今の当用漢字表に代わる2,200字の漢字表と今の5,000字か6,000字の漢字表との中間に当たる大体3,500字ぐらいの漢字表になる。これは,知識人といわれるような人たちのための表で,こういう人たちは,こういう字を知っているということを書き上げて示せば,いろいろな場合に参考になる。
 だから,字数を余り気にすることはないが,5,000字ないし6,000字,3,500字,2,200字という三つの表が並ぶわけである。4番目の表として三つの表の下に基礎漢字表とでも名を付けたらいいと思うものが来る。字数は800字でもいいかもしれないし,1,000字でもいいかもしれない。これは漢字という大きな体系を理解するために,こういう字が基礎になっているということを示すものであり,是非知っていなければならない表である。これさえ知っていれば,後のことは自分の勉強でどんどん行く。これを教える過程において漢字の成立というものを教えていったらいいと思う。
 漢字は普通象形文字とも思われて,山はこうだ,川はこうだというようなことが言われるが,そればかりではない。許慎が随分昔にこれを論じて,六つの方法を述べたそうであるが,今でも学説はそれを出ないと聞いている。これを教えることが,さっき述べた整理・系統付けを助けてやることになると思う。
 この四つの表があれば,今の「当用漢字表」のみならず,「教育漢字表」「人名用漢字別表」といったものは全部不要に帰する。
 なお,字体表は漢字表とは別の表としないで,四つの漢字表ごとに,正漢字というか,いわゆる本字と我々が理解しているものを示すことにする。(本字がなんであるかは吟味するが,実際には楷(かい)書になると思う。楷書は形が一定していて,その形がすばらしい,非常にはっきり目に入ってくる。形が一定してから,不思議なことに中国においてはほとんど変化はなかったそうである。私は分からないが,多分事実と思う。そんなことを学生に教えることも非常にいいと思う。)その正漢字の下に,字体表は要するに略字であるから,略字をいちいち付けておけばいいと思う。
 詳しくいうと,四つの漢字表の並べ方についても意見があるが,それは今必要がないと思うから触れない。
 字体表を作るためのイデオロギー,なぜ,どんなものを別に添えるのかということは,まだまだ研究が始まったばかりなので,新しい字体,要するに略字について大いに論じたらいいと思う。それは筆写を基にした方がいいと思うが,そうもいかないかもしれない。これは非常に面白い研究だと思うが,無理に略字体を作る必要はないのであるから,これはどちらかと言えば,気楽にやればいい仕事だろうと思う。
 以上が漢字表の性格論及び漢字表の具体案について今日のところ私が考えているものである。
 繰り返すと,漢字表の性格論に関しては,多くの議論がなされなければならないと思う。その場は漢字表委員会であろうと総会であろうとどこであろうと,いいかと思う。漢字表の具体案は,煮詰めて結論をどうしても出す必要があると思う。
 今述べたことは,いずれ書いたものにして提出したいと思う。

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