国語施策・日本語教育

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次第 英国の国語施策について(報告)

福島会長

 続いて,本日の議事に入りたい。
 議事の第1は,イギリスの国語施策に関する海外調査の御報告である。去る4月6日から15日までの10日間,林巨樹委員が国語課の上岡課長補佐と一緒に英国を訪問し,調査してくださった。本日は,その御報告をまず伺っておきたいと思う。なお,ほかの議事もあるので,時間の点はよろしく御配慮願う。では林委員,どうぞ。

林(巨)委員

 それでは,英国の国語施策について御報告申し上げる。
 日程及び訪問先等は,お手元の資料1にあるが,在英日本国大使館のほか,英国放送協会(BBC),シェフィールド大学における英国の日本学会,ブリティッシュ・カウンシル(英国文化振興会)それからオックスフォード大学の辞典編集所等を訪問した。短期間でもあり,またイギリスの社会事情も我が国とかなり違うので,十分な成果を上げたとは言えないが,概略御報告したい。
 第1に,英国の国語施策と言っても,日本の場合の文化庁ないしは国語審議会が行っているような行政的な意味での国語施策はないということが,一つの特色であろうかと考える。もちろんその地の国語,すなわち英語の純化ないしは擁護,そういうことについての活動がないわけではないが,これは政府の活動というふうに見ることはできないと思われる。
 当初の計画では,教育科学省(我が国の文部省に当たる)の言語の方の担当官から概要を聞く予定も立てていたが,そういうデパートメントないしは担当官というものはないということであった。これも一つの特色であろうかと思う。
 各地にかなりの数の視学官とでも訳すべき人がいて,大体そういう仕事はしているという説明であったが,これも特に施策として一貫した立場によって活動しているわけではない。施策という意味をもし拡大するなら,これは行政的なものではなくて,イギリス型の社会の各機関に分権された活動がそれであると言わざるを得ないのではないかと考える。
 第2に,国語問題というふうに考えても,我々が今最大の問題として取り組んでいる国字問題,ないしそれに準ずる問題は,今日の英語では,乱暴な言い方になるかもしれないが,問題となっていないと言ってよかろうと思う。
 漢字仮名交じり文の我々の場合と,ラテン文字というか,ローマ字による表記の場合とを一緒にするわけにはいかないが,英国にはつづり字問題というのがあり,つづり字と発音とがずれを生じて,非常に複雑になっているということについて,長い改良運動があったことは御承知のとおりである。
 かつて今世紀の前半に,バーナードショーなどが,つづり字と実発音を一致させるということを熱心に唱えたこともあるし,アメリカの辞書学者のウェブスターなどが改革を加えて,実際にある程度行われているということも御承知のとおりであるが,今度の調査では,ある人の言葉を借りれば,“そういうこともあった”というのが今日の実情のようである。
 1949年3月に,下院議員のホリックという人の名前で,つづり字改革の法案が提出されたこともあるが,4時間にわたる討論の後,結局第2読会で否決するということをやっており,つまり時の政府は,この案に反対の態度を示したというふうに見てよいと思う。
 もちろんつづり字改良問題には,それなりの理由があるのだが,今日の結論は,改良してつまり発音により近づけて得るところよりも,改良して失うところの方が多いというのが大方の意見のようである。
 議事録などを見ると,小さな例ではあるが,手紙の初めのMy dear friendと言うときの「dear」でつづられる言葉と,シカを表す「deer」とは今日同じ発音であり,これを改良論者の指摘するように発音式にすれば,両方ともdeerになってしまう。それで討論の前後を読むと,ある議員の発言として,手紙の初めに私は「おお我がシカよ」とは書きたくない,またそう書いた手紙を見たくないというような意見が出てくるそうである。小さな例ではあるが,そういうようなわけで,文化の継承にとって,従来の正つづり法というか,オーソグラフィーが維持されることが望ましいというのが今日の大方の姿のようである。アメリカの簡易つづり方は勝手にやったらいいだろう,英国の英語自身はびくともしないよというのが流儀であるように見受けられた。
 それでは,英国の国語施策,国語問題はどういうものであるかというと,一つは,英語自身がいま全地球的なというか,大言語になり,英国の問題であるよりは全世界の英語としてどうあるべきかという問題を抱え込んでいるということ,もう一つは,厳密に言うと,ユニオン・キングダムと言うのが正しいようであるが,連合王国の国語としての英語の問題というふうに分けられるのではないかと考える。
 この第1の問題は,生活語ないしは公用語としての英語は,使用人口から言うと,標準中国語に及ばないかもしれないが,アメリカ合衆国,カナダ,オーストラリア,ニュージーランド等々,その他にもたくさんあって,世界語としての第1位を占める。また国際語,外交語としての地位ももちろん第1位である。そういう広がりを示すと,大言語としての国語問題,言語問題が起こるのである。その面の調査は,今回は十分できなかったが,将来,日本語が,最近よく言われるように,国際語としての地位を高めていく場合のことを考えると,こちらの方も見ておかなければならないように感じた。
 日本語は,使用人口から言うと,今のところ中国語,英語,スペイン語,ロシア語に次ぎ,ドイツ語と並んで5番手か6番手ぐらいのところの大言語にはなっているのであるが,国際語としての性格が大変弱いことは御承知のとおりであって,今後そちらの方へ我々の問題が広がっていくときには,英語の場合が一つの参考になるのではないかと考えられるわけである。
 外向きの英語について,英国自身が何をしているかというと,これは専らブリティッシュ・カウンシルが担っているのであり,これは1934年に設立され,40年に法人になって活動を続けている。
 いろいろな活動をしているわけであるが,英語についての知識の拡大を促進するという面について聞いてみると,大体毎年700人余りの教師を世界各地に派遣する。日本へは約20人内外が派遣される。比較的老練の人が多く,年に四,五人が入れ替わっているということであった。全体の700人の教師の資格についても,我が国で言うと,大学院の修士課程以上の学歴を持っていて,相当の訓練を受けた,教養あるいは教育上の心得についても相当程度の高い人を出している。
 それから,世界各地に行って,何か特別な教材を作っているかという質問に対しては,いやそういうことはしていない。既に開発された教材を使っているという答えで,これもイギリス流にびくともしないという感じであった。

林(巨)委員

 一言付け加えると,日本では,国外へ出て行った日本語教師が帰って来た場合のポストの問題などが現在話題になっているようであるが,イギリスの場合は,もう既に大言語となって,いろいろな機会でそういう人たちを元のポストに迎える,あるいは他のポストに持っていくという点では余り問題はないということであった。
 さて,連合王国内部の国語問題,あるいは国語事情ということについて,行政的施策はないということは先ほど述べたが,整理すると,一つは政治絡みと言っていいと思うが,スコットランドのゲール語の問題,それからウェールズ語の問題という抱え込んでいる言語との関係,もう一つは第二次世界大戦後にイギリスにかなり多くの人々が入ってきているが,この人たちを英語の社会にどういうふうに適応させていくかという問題,第3に国民の言語能力というか,読み書き能力についての調査等を行って,これをどういうふうに持っていくかという問題,第4に方言の問題,そして最後に挙げるのは不適当かもしれないが,英語の標準語の問題にしぼることができると考える。これは公式の見解というわけではなく,いろいろの方々の意見を聞いて,整理してみるとそうなるというわけである。
 今申した第1の内部の国語問題は西部のウェールズにおけるウェールズ語,それから北部スコットランド及びアイルランドにおけるゲール語の問題である。これは政治的にいろいろな問題があることは御承知のとおりであるが,結論的に言えば,言語的には,英語との折り合いはそう悪くはなくて,さきほどの問題になっていないというふうに言っていいと思う。
 ウェールズでも,段々と推移しているわけである。つまりある時期までは英語だけで暮らす者のほかに,ウェールズ語と英語と両方で話す者がその半分ぐらいおり,またウェールズ語だけの者も10万人以上いたということであるが,現在では時代も変わり,ほとんど英語で暮らしているという状態に入っている。
 もう少し大きいスコットランドの場合も,英語を知らない人はなくなってしまった。アイルランドの場合も,御承知のようにアイルランド文学及びその言語を保存する運動が続いていることは事実であるが,生活語としては英語と握手してしまったというふうに見てよかろうかと考える。
 第2の問題は,第二次世界大戦後,英国に入って来たかなり多くの人々をどう英語に適応させるかということである。西インド辺りの英語は標準語の英語とかなり違う。その子弟が学校に来ると,学校教育の中で障害になってくる。あるいはパキスタン辺りからの人々の場合は,宗教も含めて社会習慣の違いがあって,婦人たち,つまりお母さん層は社会に出ないので,子供が学校に通ってクラスメートから英語を学び,母親はその子供から英語を学ぶというような循環で,なかなかうまくいかない。つまりなだらかな英語の世界への適応が行われない。これをどうするかということが問題になっているということである。
 ちょうどアメリカの場合の,英語を母国語にしない人たちがアメリカに入って来て,子供たちの方が先に覚えて,後で母親学級というか,そういうものが進んでいった経過があるそうであるが,それに似たことをイギリスでも,規模は小さいけれどもやらなければならないので,手をつけている状態だということであった。
 こういうことを聞いてみると,これは後で述べる標準語における言語の階級制の問題とも関係すると思うが,子供たちの言語環境ということがかなり問題になっているようであって,ロンドン大学のバーンシュタインという人の報告などを見ると,階級によって子供の使う言葉が,限定コードで暮らす子供たちと,精密コードの子供たちとの間に差ができていくという現実がある。限定コードの階級というのは,お母さんから聞く言葉は,例えば「Shut up!」,「黙れ。」というのか,女性の言葉としては「お黙り。」と訳すのか,そういう言葉しか聞いたことのない子供たち,それが一方にあり,そしてもう一方の中流以上のところだと,例えば「I'd rather you made less noise, darling.」と話をする。日本で言えば「いい子だから,もう少し小さな声で話してくれないかしら。」という言い回しだと思うが,そういう言い方で育った者との間に差ができてくる。これをどういうふうに育てていくか,つまり精密コードの方へ持っていくかという問題が取り上げられているようである。今申した異国から入って来た人たちの場合にはそれ以前のところの問題なのだが,似たような形でそういう問題が話題になっているようである。
 読み書き能力についてはいろいろな調査が行われて,今述べた言語環境などのことも含めて進められているようであり,方言の調査も続けているということであるが,詳しくは調べられなかったので省略する。
 終わりに,英語の標準語問題であるが,これは複雑であって,一つはいわゆる階級語というか,階層語の問題であり,階級のダイアレクトが社会の一つの権威を示すようになっている。
 分かりやすい例で言うと,最近の日本の新聞にも紹介されているが,保守党のサッチャー女史が首相になって,大勢の前で話をするようになった。しかし彼女の英語はどうも気に入らないという層がある。彼女の英語は上流階級の人たちに特有のアクセントをまねている。大体自分は中産階級の出身のくせに,政界の中心に立ったからといって,上流階級のアクセントで話すのはいやらしいというか,いやであるというようなことが話題になっているということである。
 それが,放送用語などの方でも問題になった。昔は話している人の言葉によって,その人の階級が連想できた。話題をBBC放送にとると,20年ぐらい前からアナウンサーの中に,イングランド育ちではなくて,オーストラリア育ちとか,ニュージーランド育ちの人が入って来るようになった。その結果,BBCのアナウンサーの使う英語からはその人の階級を連想することができなくなってきた,これは事実のようである。

林(巨)委員

 これについて,60年代以降老人層の方から,このBBCの英語はよくないのではないかという意見が一方で出る。他方では,そういう形で,階級によって区別されるような言語でなくなっていくことはいいことだという意見が出てくる。そういうふうに論議が続いたようである。
 このことについては,後にお話しするオックスフォード辞典の編集長で,言語に関して権威のあるバチフィールドという人を長とする委員会が設けられ,79年10月に報告書が出たが,その結論は,現在の英語は悪くなっていないということだったようである。
 バチフィールド博士にお会いして伺うと,博士の意見としては,20世紀に入ってから一般に言葉が乱れたのではないかという懸念が多いようであるが,それは誤りだ。言語は元々変化するものであって,昔はもっとひどい変化があったということであった。
 第2に,英国にはフランスのアカデミーのような言葉の採用について基準を作る機関はないそうである。しかし非公式ではあるが,言葉についての基準を示す役割を果たしているものとして,BBCとOED(オックスフォード・イングリッシュ・ディクショナリー)があると考えているようである。
 博士によると,英語は変わったと言われるけれども,実は語彙(い)が大層増えたというだけであって,基本の文型は変わっていない,言い回し自身は変わっていない,アメリカからきざな言葉が入ってきたというけれども,実は英語がほかの言語に入ったものも多いので,だから悪くなったという言い方は不適当だという。
 それでは放送で使っている英語というのはどんなものかという問いに対しては,レシーブド・スタンダード・イングリッシュ──容認標準英語とでも訳すのか──そういうものがある。これは大体英国の南部に育った人が自然に話す言葉だと言っていい。学歴から言えば,パブリックスクールを経て,オックスフォード,ケンブリッジ等の大学を出た人たちの言葉を標準語と言っているのだということであった。
 今,バチフィールド博士が,BBCが一つの役目を果たしていると言っているそのBBCは,用語等についてどんなことをやっているかというと,今世紀の前半,1920年代には,外部の委員から成るいわゆる放送用語委員会のようなものもあった。バーナードショーなどもその有力なメンバーであったそうであり,そういう委員会があったけれども,現在では常設の機関は持っていない。どういう用語を採用するか,またどういう発音をするかについては,BBCの内部でそれぞれの部会を設けてやっている。解決できない問題については,その都度外部の識者に相談をするという方式をとっているということであった。
 海外放送などにおいても,アメリカのVOACなどの場合であると,程度を下げるというか,1,400語内外の語彙で,スピードを落とした英語というような試みもなされているようであるが,BBC自身はそういうことはしないで,正しい英語をそのまま海外放送に流すという方式をとっているということであった。
 大体以上が国語問題の概要である。
 次に,我が国で,国立国語研究所が辞書の編さんの準備段階に入っているということもあって,オックスフォード大学出版局,辞書・辞典の編さん局を訪ねて,そこの主任のバチフィールド博士にお話を伺い,また実際のやり方等も副編集主任の方からお話を伺う機会があった。
 そのことを簡単に申し上げると,OEDというのは,御承知のように,もう100年前になるが,1876年にオックスフォード大学が出版を引き受けて,それからマレー博士の編集が始まり,84年に第1巻が出版された。最終の第12巻が出たのが,第1巻の出版から数えて44年目の1928年,そして1933年に補遺を1巻出しているという規模の大きい辞典である。現在,この全13巻に対する補遺(サプリメント)の仕事が進められている。バチフィールド氏は,1957年から主任としてこの仕事に当たっているわけである。
 どういうやり方をしているかというと,従来のOEDと同じように,全く用例を集めるという作業に終始している。
 最近はやりのコンピュータは使っているかという問いに対しては,アメリカの年間刊行物の処理をしたときにちょっと使ったことはあるけれども,その他では全く使ったことはないということであった。
 どれくらいのスタッフでやっているかという問いに対しては,出版局にこの辞書のために25人ばかりの人が勤めている。そのほかに,ロンドン,ワシントンに2人ずつ,それからボストンとニューヨークにパートの人が1人ずつ,合わせて9人ぐらいの人たちがこの仕事に従事している。しかし,スタッフが自ら用例採集するのではなくて,外部の人に資料を与えて採集を依頼するか,又は世界各地から自発的に送られてくる相当の数の資料をチェックするという方式で進めている。
 中身については,科学関係の場合は比較的仕事は進めやすいけれども,文芸,芸術関係の場合には,補遺的な仕事は実に困難が多いということであった。
 大体以上で主な報告を終わりたいが,お手元の資料1にあるように,4月9日から3日間,ロンドンの北の方百何キロの所にあるシェフィールド大学で,英国の日本学会,ジャパノロジーの会があって,大使館の波多野公使も勧めてくれたので,そちらへ赴き,英国における日本研究のあらまし,あるいは英国における日本語教育の状態等も多少は見たのであるが,省略させていただく。
 また,日本語教育に関連して,ロンドン在留の日本人の子女に対する日本語教育の様子も付け加えるべきだと思うが,これも省略させていただく。
 何分短い期間であったが,大使館の笠井書記官,あるいは日本語に堪能な現地のポール氏等のお世話で,一応の調査をしてきたというわけである。

福島会長

 ただいまの御報告について御質問があれば,どうぞ。もしなければ議事に入りたい。

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