国語施策・日本語教育

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次第  「目安」について(1)

福島会長

 漢字表委員会の委員の方々には,これから更に具体的な検討を進めていただくことになるが,よろしくお願いしたい。そして,その結果を次回の総会以降,順次御報告をいただけるものと期待している。
 両委員会の主査の御報告に基づき,漢字表の性格,「目安」の問題を中心にして御意見等があれば,御発言をいただきたい。また両委員会の報告に対する御質問があったらどうぞ。

遠藤主査

 先ほどの報告は大変簡単にまとめたものであるので,問題点整理委員会の委員の方々で補足する点があれば補っていただきたい。

福島会長

 補足的な説明なり,また関連した意見なりがあれば,遠慮なく御発言をいただきたい。

宇野委員

 揚げ足取りに類することで大変恐縮であるが,一面においては大変重要な意味を持っていると思うので,あえて申し上げる。
 問題点整理委員会の御報告の中の資料2の6,2行目から3行目にかけて,「これが漢字使用の野放しに通じるものと受けとられることは望ましくない。」とある。漢字野放し論というのは昔からあることで,私の記憶では少なくとも20年前から使われているが,「野放し」とは,本来悪いものを放任しておくことであって,漢字野放しということは,漢字は非常にけしからんものである,抑え付けてしまわなければいかんという発想の下に出てくる議論だと私は了解する。この言葉が使われる根本には,そのような考えがあると思うので,これがもし公表されるようなことがあれば,その点に御考慮をいただきたいと思う。
 もう一つは,やはり御報告の中で,「8期以来の漢字表(音訓表)の性格に関する考え方」として,大変詳しくお調べいただいたが,私の記憶では,漢字表の性格については既に第5期以来問題になっている。
 私は,第5期に委員になったときに,「当用漢字表」は制限だからいけない,これは「基準」と言ったか,「標準」と言ったか覚えていないが,とにかくそういうふうなものに性格変更をすればよろしい,あるいは最低基本漢字とか,そういうふうに性格を変更すれば,もうこれで問題はない,是非そういうふうにしていただきたいということを発言した。
 私は国語審議会の委員になれと言われたときから,当用漢字というものはどうしてもぶち壊さなければいけない,漢字表そのものをいじることはなかなか面倒だから,せめて制限ではなしに,私の希望としては,それが最低基本漢字,最低それぐらいは知っていなければ困るというような形に性格変更をしなければいけない,そうすれば,国語審議会の委員になった責任は果たせるというふうに終始考えていたから,私は機会あるごとにそのことを発言した記憶がある。しかし,もちろん当時の国語審議会の空気は今日と全然違い,それこそ漢字野放しもってのほかという空気であったから,私の言ったことなどは一顧も与えられなかった。
 次に第7期に私はまた委員になったが,漢字について論議する委員会ができて,「当用漢字表」を少し手直ししようという議論があり,具体的な文字についてもずいぶん候補が挙がって,いろいろ評議をした。私はそのときにも,はっきりと「基準」というふうにしたらいかがかと申したら,どなたか忘れたが,「基準」というと,かえってきつい意味になるんですよということを言われた。私はどうも法律用語に暗いものだから,そうですか,しかし私の意味はそういう意味ではないので,今日の言葉で言えば,いわゆる「目安」のようなものに性格変更すればいいのであって,文字を一々出し入れることはないのではないかということをそのときにも繰り返し述べたわけである。それで,総会の前の最後の委員会のときには私の意見に賛成してくださる方が随分多かった。もし採決をすれば,断然私に同調する意見の方が多いような状態だったが,一方,常に強い反対意見の方がいたために,結局その委員会の結論という形では出さずに,経過報告という形になった。
 そういうことで,この資料には「第8期以来の」と書いてあるが,第8期から初めてそういうことが起こったのではなくて,漢字表の性格を変えるという考えは実は第5期以来あって,もう20年以上前から議論が出ているのである。
 それがやっと実を結んで,昭和41年の中村文部大臣の諮問以来風向きが変わり,そういう議論が表に出てきたわけである。
 大変手前みそのようだが,事実は事実であるので申し上げるわけである。

遠藤主査

 「野放し」とあるところは,初め「無制限」ということも考えたのであるが,表現に迷って「野放し」という言葉を使ったわけである。あるいは「無制限」というふうに書いた方がいいかもしれない。

宇野委員

 私はその方がいいと思う。おっしゃる意味は多分同じことだろうと思うが,「野放し」というと,そこに既に価値評価というか,漢字悪者論の考え方を含んでいると思うので申し上げた。

遠藤主査

 それから先ほど申したように「基準」という語が「目安」になるのであるが,その前は「範囲」であった。「範囲」から「基準」に変えてはどうかという考えが出たのは,おっしゃるように大体第7期前後からだと思う。
 先ほど御報告したア,イ,ウのうち,アの問題は今片付いたが,イ,ウ,つまり教育との関連の問題,人名用の漢字の問題についても順次御意見をおまとめ願えれば,後の審議を進める上で具合がいいと思うのでよろしくお願いしたい。

福島会長

 私からも申し上げると,問題点の整理をお願いした過程で,まず学校教育との関連という問題があったが,これについては,中間答申の考え方を変更しないでいいのではないかという委員会の意見を,先ほど御紹介願ったわけである。
 人名用の漢字についても,その扱いを法務省にゆだねるという中間答申の考え方で差し支えないのではないかというのが委員会の意向であったわけである。
 次に,漢字表の性格の問題については,割合に各方面からの質問の多かった点であり,また,中間答申の前文にある「目安」という言葉を国語審議会としてどういう意味で使ったかということをもう少し明瞭(りょう)に出してもらいたいという意見も多かったので,その表現の方法について漢字表委員会の検討を願おうというのが問題点整理委員会の意見であるが,その前に,総会で委員会の方々の御意見を伺っておきたいというわけである。そういうことで,問題点整理委員会の御報告のあった学校教育との関連の問題,人名用の漢字の問題,「目安」の問題など,それぞれについて御意見をいただきたいのでよろしくお願いしたい。

宇野委員

 先ほど申し上げるつもりで忘れたが,学校教育用の漢字について,その扱いを別途の教育上の適切な措置にゆだねることは,個人的に考えがないではないが,既にその方面の委員会もできていることだし今はあえて申し上げない。人名用の漢字の問題であるが,これについては前回の総会で確か私は申し上げてあり,繰り返すことは時間のむだであるから要点だけを申し上げると,かつて昭和22年の末に,いわゆる戸籍法の改定によって「子の名には常用平易な文字を用いなければならない。常用平易な文字の範囲は,命令でこれを定める。」とあって,戸籍法施行規則でそれが「当用漢字表に掲げる漢字」及び「片かな又は平がな(変体がなを除く。)」と決められたわけであるが,仮名のことはともかく,漢字を当用漢字にしぼったことは,はなはだおかしい。国語審議会としてはそれに対して当然抗議すべきであるのに,なぜ抗議をしなかったかということが多年の疑問であった。ところが,前回の総会でも申し上げたとおり,その当時,むしろ国語審議会側から法務省の方に働き掛けがあって,そういうことが決定されたということがはっきりと記録されていたわけである。
 実は現在,私も民事行政審議会の委員の一人になっており,その会議で極力名前に付ける漢字を制限しないでほしいと申したし,元東京大学総長の加藤一郎氏も,しきりにそのことを主張されたのであるが,とうとうそれは否決されて,何らかの方法によって制限するのだということに決まってしまった。
 今回は,国語審議会から働き掛けがあったとは私は夢にも疑っていない。毛頭そういうことを疑っているわけではない。しかし,前のことがあるので申し上げるが,今回国語審議会としては,「常用漢字表」がまだ最終決定ではないとはいうものの,その性格を「目安」ということに決めたわけであって,漢字というものは制限しない,なるべくその字を使って書いてもらうようにするけれども,それ以外の字を使わないということではない,という非常に大きな決定をしたわけである。漢字というものに対するそういう立場を国語審議会が持っている以上は,法務省が,あるいは民事行政審議会が,人の名前に付ける漢字を制限的にして,それ以外の漢字を使ってはならないというふうに決めるということに対しては国語審議会としては,少なくとも本会の趣旨ではない,遺憾であるという意思表示を何らかの方法によって──会長談話でも何でもよい,方式は問わないが,──していただきたい。そうしないと,今回もまた,国語審議会側から法務省なり,民事行政審議会なりに働き掛けがあって,法務省では実はそうしたくなかったのだが,国語審議会が言うからそのようにしたのだというふうなことを疑われても言い訳が立たないと思う。私はその場にいたので,決してそうではないことを確信しているが,その事情を知らない人には,そういうふうに疑われるかもしれない。そうすると,私も国語審議会の委員の一人として誠に残念であるし,不名誉なことでもある。そこで何らかの方法によってそうでないことを明らかにしていただきたいと思う。せめて法務省の民事局長なり,法務大臣なりしかるべき筋に,会長から,民事行政審議会が人名用の漢字について制限方式の存続を決めたことは,本会の「常用漢字表」制定の趣旨とは違う,遺憾である,という意味の意思表示ぐらいはしていただきたい。
 以上のようなわけで,人名用の漢字の扱いについて今までの考え方で結構だということについては,私は,いささか異存がある。
 それから,先ほど「目安」の意味をはっきりさせる方法について三つほどの御説明があったが,私は中間答申の前文は非常によくできているので動かす必要はないと思う。だから会長が,最終答申なり,記者会見なりのときに,「目安」とはこういう意味であるという趣旨を会長談話という形式で御発表になるのが一番妥当ではないかと考える。

福島会長

 とかくの意見を申し上げることは差し控えたいが,今のお話は,法務省,あるいは民事行政審議会が,人名用の漢字について,漢字表及び「人名用漢字別表」で制限的にやっていきたいという方針を決めたことに対して,国語審議会としては,漢字表に「目安」という考え方を導入して考えているのだから,法務省においても同じ考えを持ってほしいという要望をすべきではないかという御意見だと了解した。どういう方法で行うかは別として,仮に今,会長として法務省側に審議会の意見を説明するとした場合に,法務省の方から,国語審議会としては「目安」という語をどういう意味として使ったか,と質問されて,委員の中にはいろいろな考え方がある,ということでは返答がしにくいような気がする。日本語としての「目安」という語の意味はいろいろあり得ると思うが,審議会でこの語を使ったときにはこのつもりである,ということが審議会の意向としてまとまっていないと困るというような感じもする。そのためにも,本日の総会で,「目安」という語を審議会としては大体どういう意味として使っているかということについて御意見を伺い,それに基づいて両委員会に具体案の御検討を願いたいと思っているので,よろしくお願いしたい。

木内委員

 「目安」の問題を再び論議にかけようとしているわけであるが,これは実は,せっかく眠っているものを起こすようなもので,非常にまずいと思う。もし,それを始めるとすると,これはもう徹底論議をしないわけにはいかないような気がするので,特に申し上げるわけである。
 私は,第8期から関係しているので,こういうことになってくる当初から知っているわけであるが,漢字表の性格を「目安」という言葉で表すことに落ち着いたのは,制限はしないということを裏から言っただけの話で,要するに,制限はしないということの宣言である。だから,「目安」という言葉を再吟味するなら,制限はしないというのはどういうことかをどうしても言わなければならない。制限はしないが野放図は困るというのは,制限はしないがやはりある種の制限は欲しいということであるから,これは矛盾である。
 ところがここに逃げ道はある。今までのような訓令によって漢字表を縛ることは,これは実は権力をもって国語をいじろうとすることであって根本的な間違いだと思うが,当時はそうなっていた。それをやめるというときに,一遍にはできないから,「目安」という言葉に逃げ込んだようなことになっている,というのが実情だと思う。
 訓令によって漢字表を縛ると同時に,告示によって国民に自発的協力を求めたというのが実際の歴史である。つまり,漢字制限が始まった当時は,漢字は制限しなければ日本は生きていけないような意識が世間にあったから,その告示を受けて,特に新聞等は非常によくこれを守ろうとした。それが壊れてきたのはずっと後になってのことで,週刊誌が壊したと言われる。つまり,新聞は制限を守っていたが,週刊誌は自由に漢字を使ったから非常に書きやすい,といったようなことである。
 だから,今,制限はしないが野放図も困るというなら,これは一種の制限を求めていることになるが,今までのような訓令によって漢字表を縛り,告示によって自発的協力を求めるというタイプの制限はしない,こういうことで逃げるほかはないと思う。
 しかし,別の制限はやるということだから,それならば別な制限とか何かということを言わなければならなくなる。野放図は困るといって「目安」問題を徹底論議するなら,これからはどうなればいいのだということを言わないわけにはいかない。ただ努力目標といった言葉で逃げているということは,こうなってくると,できないと思う。そうでないと,野放図はよくないと言ったのとつじつまが合わないことになる。
 私はこのように思うので,「目安」問題は再び掘り起こさないで,今までのとおりスッと流しておけばよいと思っているわけである。世の中は全く変わってしまった。「目安」という言葉を発明したころは,まだまだあの言葉が有効であった。しかし,今は全く変わって,言わば漢字は自由に使っている。「新漢字表試案」が出たとき以来,特にそれは顕著になったと思うが,世の中は全く自由に使っている。
 その証拠に,このごろ,コンピュータを各社で造るが,いずれも漢字処理ができるということを非常に大きな広告に使っている。どのくらいの漢字処理ができるかと聞いてみると,7,000字といったようなことを言っている。もう一つ大事な事件だと思うのは,朝日新聞が,コンピュータ処理とでもいうか,今までの活字を植字工が拾うということを全然しない新しいやり方を導入した。朝日新聞は大きな広告を出したが,それによると,8,000字弱の漢字はいつも使えるようになる,14,000字まで増やすことができるようになっているという話である。
 そこで,表にあるとかないとか言っているのは実にばかな話で,難しい字をむやみに使う,人の知らない字を得意がって使うというのはいい趣味ではないけれど,これは趣味の問題であって,それを制限することはよくない。
 一般が自由に使っているばかりでなく,私の孫は小学校の1年生から高等学校の1年生ぐらいまでずらっと並んでいるが,彼らは漢字を実によく勉強している。彼らの字を知っていることは,ものすごいもので,それに比べると,実際,「常用漢字表」の字数などは,全く少な過ぎると思う。
 いかに時世が変わったか。この間,日本人にできることがアメリカ人になぜできないか,というテレビ放送があった。これはアメリカ映画である。なぜ日本人は能率がいいかというと,ただ働く,そんなものではない。低賃金でないのはもちろんである。つまり,日本という国は,国全体が能率がいいのだというのが今の認識である。国全体の能率がいい原因の一つは,漢字を使用しているからである。漢字というものは実に能率がいい。駅なら駅に行くと,漢字で書いてあるから,遠くから見ても,パッと分かる。
 そういうことが,今言われている。戦後の国語政策が漢字制限で始まったので,それを踏襲しながら,制限をやめようというときには,当時発明した「目安」という言葉が極めて有用であったが,今となっては,まるで実情に合わなくなった。
 そこで,もしこの問題を掘り起こすのなら,徹底的にやるべきかと思う。徹底的にやるとどういうことになるかというと,そもそも「目安」という言葉に落ち着いたのは,一種のごまかしと言っては悪いが,制限しないということを裏から言ったにすぎない。なぜあのときに,制限したのは間違いだったからやめる,とはっきり言わなかったか。私も当時の委員の一人で,段々に移り変わることに喜んで協調してきたわけであり,当時としては無理もなかったということは知っているが,今となれば,誠におかしいことで,漢字というものの優秀さを十分にわきまえなかったからだ,と言ってよいと思う。
 ここで徹底的に「目安」問題を掘り起こすとすれば,こういう議論から蒸し返さなければいけない。したがって,次の総会は9月以降にあると思うが,そこで本格討議をするのかしないのか,大方針を決めていただきたいと思う。「目安」について本格討議をするなら,私は,今申し上げたようなことを全面的に議論したい。
 同時に,今度の漢字表について,字数は増やすのかどうかということも議論したい。漢字表はやめてしまうということに落ち着くかもしれないし,もし今のような趣旨のものを出すならば,字数は増やすべきだと思うが,それも議論したらいいと思う。

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