国語施策・日本語教育

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次第 協議

有光会長

 それでは,以上御報告いただいた各界からの意見や説明協議会の状況などについて,御質問なり御感想なりがあったら,どうぞ。
 実は,この22日に運営委員会を開いて御相談したことであるが,今後の審議の進め方としては,当然のことながら,各方面から寄せられた意見を検討して,取り上げるべき点は取り上げるなどして,任期内に答申を取りまとめていくことになろうかと思う。それには7月早々から仮名遣い委員会を再開して,具体的な検討作業に入っていただくことが必要だと考えられる。したがって,各委員がただいまの報告を聞かれ,また本日の資料に収められた意見をお読みになってどんな感触を持たれたかということなど,この機会にお伺いできるならば,今後,仮名遣い委員会で検討を進める上で大変参考になるだろうと思う。そんな意味で,この際何か御意見をお述べいただければ幸いである。

林(大)主査

 委員会をまた再開することになるが,それには,これまで出ている各機関・団体・個人からの御意見,それからまた説明協議会において質問の中で出された問題点というようなものを逐一分類整理して,それに対して我々はどういうふうに考えるかということを,これまでの委員会の仕事の反省として考えていくというのが一つの筋かと思う。
 それで,一番その根本になるのは,なるべく疑義の生じないような表現をするというか,内容を明確にするということで,そのことについて,一層努力をしなければならないのではないかと考えている。それについては,ただいま会長からお話があったとおりで,委員会に毎回皆様方が御列席をいただくというわけにはまいらないと思うが,是非ともこの改定案に寄せられた意見を御覧いただき,その上でまた我々に対して御意見をお聞かせいただくことをお願いをいたしたい。耳で聞かせていただくだけでも結構であるが,なるべくはメモの形でも走り書きでも結構であるから,お聞かせいただければ,誠に有り難いと思う。よろしくお願いしたい。もちろん今日のところは耳から聞かせていただくわけであるが,今日以後でもこれをゆっくりお読みになっていただいた上での御意見があったら,どうかそういうことにさせていただきたいというわけである。

紅野委員

 この改定案に寄せられた意見を拝見して,新聞のときにも気が付いたが,丸谷さんなどの強い御批判が一つあるわけである。同時に,三浦さんが現在いらっしゃるけれども,仕方ないというな御発言をしておられるけれども,文芸家協会の方から,全体的な批判というものが正式文書で出てきている。私などのような近代文学の勉強をしている者は,気持ちとしては,今までのいろいろな方々が御苦心なさって提出された試案というものに,国民大多数のその諸条件を考え合わせて賛成してきたわけであるが,このようなはっきりした形での歴史的仮名遣いに戻せという,そういうことではないと思うけれども,言葉としては非常に強い形の御批判をどう受け止めていけばいいのか。そういったことについて,今日この場でなど,やはり御一諸に考えていければと思っているが,いかがであろうか。

村松委員

 ただいまの紅野委員の御趣旨と基本的には同じことであるが,そのやり方について提案したい。ただいま林主査の方から意見をそれぞれ出してほしいということがあったが,我々委員の中には,新聞関係の方とか,教育関係の方とか,あるいは作家で文芸家協会に所属されている方とか,いろいろな方面から委員がここへ出ているわけであるから,仮名遣い委員会としては,この前全部の委員の方からアンケートをとって,かなり今度の改定の作成に参考にさせていただいたと記憶しているが,改めてアンケート項目を幾つかお作りになってはいかがか。自分の日ごろ関係している立場からの意見,例えば,同じ新聞関係の方で新聞協会からの発言であるとか,あるいは各大学の先生方の意見であるとか,国語学を専攻している方のもの,あるいは近代文学の方のものとか,それぞれにアンケートの答え方が違ってくると思うので,具体的にアンケートをいただく質問の表のようなものを早速お作りいただいたらいかがかと思う。もちろんそれを待たないでも7月からこれをどんどん検討していくということもあろうけれども,そういうことをなさってはいかがかと思う。

有光会長

 ほかに御意見はないか。今の御提案は審議の上にプラスになるような,便宜なことになるのか。

林(大)主査

 私,先ほど,御意見を伺わせていただきたいと申したけれども,委員会を始めてからどういうふうに審議を進めるかの御相談をいたしたいと思っているが,私としては,ただいまの御意見にあったようなアンケートをするということについては全く考えていない。既に前に行われたアンケートにおいて皆様の御意見を伺っており,それによって我々は委員会で仕事を進めてきたので,今回の案において委員会が全く独自なものを作ったと言うつもりはない。具体的なところについては,いろいろ御意見があるのではないか,私自身もいろいろ持っている。そういうことはあるかと思うけれども,全体の方針については,一応これを御承認いただいているものというふうに私は考えている。
 それからまた個々の問題について,アンケートをするまでのことはなくて,お気付きのところをお聞かせいただくというようなことかと思っているが,また委員会が始まったときに委員会の中でいろいろ御意見を伺わせていただいて,委員会自体の進め方を御相談いたしたいと思っている。

木内委員

 私は委員会にも随分出たから,委員会というものを割合によく知っているつもりであるが,今のお言葉にもあったように,現在の「現代かなづかい」を根本的に変えるということはしないという了解で始めているわけである。したがって,今の「現代かなづかい」なるものをどう改良するかという程度のことしか委員会では論じないわけである。私は初めからそれではいけないと申してきたけれども,委員会が進行しているから今日の事態まで,発言は時々はいたしたけれども,本当のことは言っていない。
 ここで私の考えを述べさせていただく。「現代かなづかい」なるものを改良するにはどうしたらいいか。誠にわずかな改良しか施されていないのが今度の案である。これをもっと改良した方がいいかという問題がおのずからある。それに参考になるのは,この改定案に寄せられた意見に出ている,横書きの部分に文芸家協会のものだけは縦書きに出ているから,すぐお開けになれると思うが,それを御覧になると,その中にいろいろなことが言ってあって,初めの方で言うと,「いなずま」はどうして「す」でなければいけないのか,「ひとづま」は「つま」ではないかということで,「いなずま」「ひとづま」などの例があるが,要するに,ここにはいろんなことが書いてあるが,大体四つ仮名のことに終始しているようである。今の「現代かなづかい」にも,「は」「を」「へ」という旧仮名は入っているが,旧仮名をこれ以上増やさないということを厳格に考えると,今度の案のようなものが出てくる。「いなずま」のような場合には旧仮名を増やしてもいいではないかという案になると,ずっと楽になってきて,多くの問題が解決する。だから,今度の委員会は現状を余りに変えないという基本方針をいささか修正して,旧仮名を少しは増やしてもいいのだということになるのなら,その委員会は非常に価値があるけれども,そうでなければ,要するに同じことだろうと私は思うので,今度の委員会をどっちのおつもりでおやりになるのかということを伺っておきたい。
 続いてもう一つの別のことを申しておくが,「現代かなづかい」をどう改良するかということで,今まで長い期間勉強してきたわけであるが,「改定現代仮名遣い(案)」の文言などをどう改良するかではなくて,そもそも仮名遣いとは何かという説明を付す必要がある。今度の案の中にも歴史的仮名遣いを尊重するというのがあるが,尊重するということもある以上,歴史的仮名遣いとは何かということを説明する必要がある。ところが,今までは,皆さん御承知のとおり,歴史的仮名遣いは何か非常に悪者扱いにされて,全く日の当たるところに置かれなかった。あれを使ったらいけないようになっていたわけである。それを考え直したらどうかと私は思うが,そういうものを取り上げるのは,今の委員会とは別の委員会があった方がいい。そのことは前にも言ったことがあるけれども,どうしても別の委員会をお作りになる必要がある。その前に,全員協議会みたいな,無責任な発言のできる,記録をとらない会合でもなさって,それでその委員会を作るべきや否やということを御審議になってお決めになったらいいと思う。これで来年の3月まで今の案をどう直すかということだけで終わってしまってはまずいと思う。歴史的仮名遣いはどういうものだということも,継子扱いにされて長いから,一般国民は知らない。戦前は歴史的仮名遣いが使われていたけれども,当たり前のものとして使われていたから,これはどういうものだという説明はなかった。今,「現代かなづかい」がこれだけ行われた後で,初めて歴史的仮名遣いはどんなものだということが国民に分かるときになったのである。このときにそれを論じないというのは,非常に非常にいけないことだから,是非是非それをやっていただきたい。
 もう一つ,ついでに申しておくが,現代でも新しい文章を歴史的仮名遣いで書いている人はたくさんいる。私も歴史的仮名遣いで書いている一人であるが,何の問題もない。私が歴史的仮名遣いで書いていることを知らない人が多いが,知らないで事は通っている。言わんや古い文章,あえて古典とは申さない。古く書かれた文書の中には歴史的仮名遣いがいっぱいある。私みたいなただ普通の文章を書いているのと違って,歌をおよみになる方なんかは,依然として歴史的仮名遣いである。だから,歴史的仮名遣いというものは決して根絶やしはできない。それなら,それと「現代かなづかい」とをどう調和させるかということを論じないわけにはいかないのであって,そのことも9月早々に,今言った全員協議会みたいなことをやっていただいて,そのときに私はあるやり方があることをはっきり申し上げる。これは,少し内情に入るが,5月25日だったと思うが,私が会長をしている会に国語問題協議会というのがあるけれども,その会のことは,この前の総会でも申し上げたが,そこで公開講演会をやったときに,私は仮名遣いの問題はこう扱ってほしいという論文を発表した。その論文に手を入れたものが7月中にはできると思うから,それも今度の会合までには間に合うので,提出したい。仮名遣い問題というものは,歴史的仮名遣いを尊重する意思を持ち,それを適当にさばいていけば,何もそう難しいことはなく,きれいにさばけると思う。そんなことを論じていただきたいと思うので,この機会に申し上げた。

林(四)委員

 格別申し上げるような意見を申すわけではない。ただ,これだけちゃんとした御報告があって,それに対する感想をどなたもお述べにならないというのは申し訳ないと思うので,本日段階における感想を申し上げておきたいと思う。
 5回にわたる説明会をずっとやっていただき,主査,副主査並びに国語課の皆様,大変だったと思う。今その様子を非常に的確にお聞かせいただき,おかげさまで一会場も出なかった私であるが,どういうふうな状況であるかということが随分自分としてはよく分かったように思い,本当に有り難く思っている。
 それで本日段階における評価──これは細かくはこの改定案に寄せられた意見を読まなくては分からないが,ただいまの御説明を承った
範囲で,私なりの評価を申し上げる。これだけ出た文書の内容はこうであるという御説明,それから公聴会での,その範囲内での国民的反響,そのことに対する評価というものをやはりこの場で受け止めておかなくてはいけないだろうと思う。
 まず,現代仮名遣いは大筋において国民的に支持されているというふうに考えて間違いないのだろうと思う。議論としては,歴史的仮名遣いがよいのだという議論が,筋は一番よく通る。だから議論としては,歴史的仮名遣いはいけないのだ,歴史的仮名遣いというのはやっぱりいけないものなのだというようなことを証明するということは,これはほとんど不可能だろうと思う。歴史的仮名遣いは一つの完成体であると思う。だから,あれはあれで理論的には非常に通っている。
 ただ,全国民的に日常生活のコミュニケーションの手段と,それを文字化する手段とを考えたときに,やはり難しさというものがどうしてもついて回るのが歴史的仮名遣いだ,こう思う。現代仮名遣いはその難しさがない,日常に用いてみて易しい,無理をしない書き方である,その点がやはり大きく受け入れられているのだろうと思う。その点を評価しなくてはいけないと思う。

林(四)委員

 私どもが議論としては歴史的仮名遣いの筋がよく通るということを考えると,現代仮名遣いというのは一種の妥協の産物である,基本的には余り筋が通らない,一部,完全表音でもないし,何か変な妥協をしているところもあるし,どうも一種の妥協の産物だというふうに感じる方があるかと思うが,私はそう思わない。現代仮名遣いは決していわゆる妥協の産物ではなくて,非常によいものだと私は思っている。
 どういう点でよいものかと言うと,実は言葉の表記というのは音をただ写しているのではなく,頭の中の言葉の意識を写している。その意識が歴史的仮名遣いは,歴史的仮名遣いとして仮名遣い自身の体系は通っているけれども,現代人の頭の中の意識とまで対応していない。歴史的仮名遣いで一々書かれるあの仮名が頭の中にあって,あれを書いているわけではない。頭の中には言葉なのだから音があるが,その音をどういう音と意識しているかということを一番意識に忠実に書くと,あの現代仮名遣いが現れる。こういうふうに思う。
 それならば,四つ仮名のようなところは,何で表音化しないのか,なぜ語源主義というものが出てくるのかと言えば,それはやはり頭の中に「はなぢ」と言うときには「鼻から出る血である」から,意識として「血」があるからそれを尊重する。「はな」というものと「ぢ」という音とがつながっているのだというふうには思っていないので,「鼻から出る血」だと思っている。その意識を写すから「ぢ」の方がこの場合は自然なのだ。だから妥協しているわけではないのである。一番忠実な意識,それが全国民の意識のどの辺なのかということは,何と言っても一人一人違う人の意識を一応集めるわけだから,それは大体この辺だろうと思うより仕方がないところがある。それが妥協に見えるだけであると思うので,現代仮名遣いというものは,現代日本人の日本語意識というものを文字に写す形としては一番的確である。こういうふうに私は思って評価する。
 私どもは今,漢字仮名交じり文というものを用いている。そうすると,漢字の部分には主に意味が託されているから,その意味のあるところというのは意識の焦点になる。しかし,仮名で書かれている部分というのは主に「てにをは」の部分であるが,「てにをは」の部分というのは呼吸をするように使っているわけで,無意識部分を写している。
 言葉の流れの中にはっきりと,意識の焦点化した部分を写している部分と,無意識に流れていく部分を写している部分とがあるが,その無意識に流れていく部分というのが「てにをは」に託されているので,その部分を仮名で書いているというこの体系が,一番無意識に対応しているので,無理がないと思う。
 その点,歴史的仮名遣いでは,現代人としては無意識になれない。歴史的仮名遣いで書くためには意識して書くという姿が出てきてしまうと思う。無意識部分というのは,つまり,音のままに書いているということなので,それが現代仮名遣いは程よく無意識を写しているというふうに思う。
 意識を写していると先ほど言って,また無意識を写していると言うのはおかしいようであるが,言葉の中の意識部分の写し方と無意識部分の写し方とは違う,これも一つの意識の写し方だと,こういうことを申しているつもりである。
 そういう意味で,現代仮名遣いというものは大いに支持されているというふうに本日段階で受け取ってよろしいのではないかと思う。
 ところで,一つ,大阪大学の池田という先生の長文の中で,ちらっとある部分だけ拝見して,なるほどなと思ったところがあるので一言付け加えたい。池田先生は「よりどころ」ということを言っているのは残念だと言っておられる。前は「準則」と言っていた。それを今度「よりどころ」というふうに言っている。仮名遣いは混乱されては困るのだから,「よりどころ」と言って一歩後退されては困る。もっとしっかり確立せよというふうに言っておられる。これはなるほどなと私は思う。これは前に委員会の中で申し上げたことがあるから,なるほどなと思うのである。
 それは確かに「よりどころ」で結論的にはいいと思うけれども,漢字の場合の「よりどころ」と仮名遣いの場合の「よりどころ」とは意味が違うと思う。漢字の場合の「よりどころ」というのは,個人が,この字は表外だから使ってはならないというふうなことには縛られないで,表外であっても使わなければならない場合,使いたい場合はお使いなさいよという意味で,「当用漢字」から「常用漢字」になる場合に,緩めて「よりどころ」と言った。つまり,個々の字の使い方の枠の絞り方を緩めて「よりどころ」とか「目安」とかいうふうに言っていると思う。しかし,仮名遣いの場合には,交ざることができない。ある部分は現代仮名遣いで書いて,ある部分は歴史的仮名遣いで書いているとかいうふうに交ざったのではどうしようもないので,ある個人が,自分は現代仮名遣いで書いているということになれば,常に現代仮名遣いで書くということになるし,歴史的仮名遣いで書くということになれば,無意識にそれが出てくるわけであるから,それで書くということで,一人一人,システムとしてはもうどっちかを選ぶしかないと思う。そういう意味で交ざることはない。
 ただ,どちらのシステムを選ぶかというその自由は,やはり「よりどころ」である。ある作家が自分の作品はこのシステムでなければ表せないということで歴史的仮名で書くことを尊重する。こういう意味でその方面,専門の分野などには立ち入らないということを言っている。そういう意味での「よりどころ」なのである。
 漢字の場合の「よりどころ」というのは,個々の字を用いるか,用いないかの個別的よりどころということで意味が違うので,そのことから池田先生の意見が出てくるのだと思うけれども,そういう違いがあることを理解した上で,やはり結局は「よりどころ」という表現は私はいいと思う。だから何もこれは再び「準則」に変える必要はないと思っている。

三浦長官

 文化庁の人間としてでなくて,文芸家協会の前の委員として御報告したいと思う。
 私の言っていることで思い違い,その他があったら,杉森久英委員に訂正していただきたいと思う。2月20日にこの案が出たすぐ後に,文芸家協会の国語問題委員会の委員長をしている村松剛氏から電話があって,今度の案について国語委員会としては反対であるという意味のことがあった。
 それはいろいろあったけれども,一口に言うと,無原則であるというふうなことであったと思う。無原則であったということは,無原則ではいけないというのではなくて,文筆業者にとっては言葉というのは,ちょうど画家にとってのメチエであり,絵の具のようなものであって,一人一人違う主張を持っている。極端なことを言うと,一人一人が自分の文字の使い方について別の意見,個性的な意見を持っている。もちろん歴史的仮名遣いで書く人もあるが,それは必ずしも古い世代の人ばかりでなくて,若い世代の人であっても,歴史的仮名遣いで文章を書く人がある。またこれは思想的にいわゆる進歩的な人だから表音主義をとるということもない。やはり一人一人の文字に対する好みがその用字法に反映していると思う。
 したがって,こういう人たちを説得するには,まず論理的に完全なものでなければならない。そういう完全なものとして文芸家協会全体を説得するための妥当性を持っていないというのが村松委員の意見だったと思う。
 この意見書の日付けを見ると,昭和60年4月5日であるが,これはおそらく文芸家協会の理事会と評議会の合同会議が開かれた日であって,私はここに出席していなかったけれども,大体通常の会議の状況から想像すると,多分このときに国語問題の委員会の代表者が,この改定案は無原則であるがゆえにすべての会員の意見と言うか,用字法,文字の使い方を代表するものとは認め難いから,会としてはこれを認めるのは妥当でないという意見の発表があって,そしておそらくそれに多くの人が同調したのだろうと思う。
 しかし,この文章そのものは決して歴史的仮名遣いで書かれているわけではない。多分この審議会で考えてきたこの案のとおりかどうか,これだけの文書では判断できないけれども,かなり近いものと思う。
 だから,大体において,そのような形で日本語の文章表記がなされていくことはやむを得ないという感情がありながら,協会としてはこれをよしとして認めるのは,会員の中では様々な文字観の持ち主がいるから,不可能であるというような状況かと思う。
 したがって,「改定現代仮名遣い(案)」について,文芸家協会は反対いたしたわけであるけれども,同時に,文芸家協会のような性格の団体は,いかなる形の拘束的なあるいは統一的な文字の使い方に対しても同意するということはなかろうと思う。例えば,歴史的な仮名遣いを日本語の文字表現のよりどころとするというふうな結論を,この審議会が出したところで,やはり似たような形でそれは同意できないという意見書を文芸家協会は出すのではないかと思う。
 もし違っているところがあったら,杉森委員是非おっしゃっていただきたい。

木内委員

 ちょうどいい機会だから,ちょっと質問させていただきたい。今まで文芸家協会がこういうものを書いたときには,どうであったか私記憶いたしていないけれども,今度のは新仮名で書いている。それについて何か議論があったのかと思うし,どういうおつもりで新仮名でお書きになったか,それをもし御存じなら教えていただきたい。

杉森委員

 今度初めて三浦さんの後を継いだ杉森であるが,実はまだ不勉強で,はっきりしたことは申し上げられない。私,文芸家協会の国語委員会の委員でもなく,突然国語審議会の委員になれということであったから,それでは協会を代表するのかと,こう聞いたら,それは私の個人の考えでよろしいということであった。別に私は文芸家協会の決議に拘束されるものではないということを確かめてから来たわけである。
 ただし,それ以来,委員会には委員ではないけれども出席させてもらって,それで議論の大体の筋道は見てまいったけれども,何しろにわか勉強なものだから,今の御質問の,これまでは旧仮名だったが,なぜ新仮名にしたかという御質問には,確かあのときその問題は出たけれども,いろんな方のいろんな議論が交錯して,なぜ新仮名にしたかは実は今はっきりしたことを記憶していない。それから,なぜ横書きでなくて縦書きにしたかということについても議論があったけれども,これも今の何か原則論とあれとがいろいろ交錯して,それで村松剛委員長の個人の意見も相当入っているし,まあ,いろんな意見があるから,どうも一々みんなはっきりしたことは記憶していない。
 ただ,文芸家協会自体が非常にいろんな意見があって,その産物であると理解している。

木内委員

 私が伺ったのは,文芸家協会ともあろうものが新仮名で書くことは何事だというつもりで聞いたんではない。私の考えは,とにかく銘々好きなようにやればいいのだということである。そもそも戦後の国語政策なるものは,政府の命令で強要するというところに悪いところがある。そこを直す。そこは強要しないのだということに徹底すると,この仮名遣い問題も,さっきもちょっと申したけれども,わけなくさばけるのである。
 それには大体の筋を言えば,旧仮名とは何だということをはっきりとこの会の名において宣言して,皆さんお好きなようにと。一口に言えばこうである。学校で困るとおっしゃるけれども,学校は新仮名を教える余地はないので,仮名そのものを教えて,あとは自由に使えと言えばいいので,教える必要があるのは旧仮名である。これは教わらなければちょっと分からない。その中にももう忘れてもいい部分も随分あるらしいけれども,そういうふうに持っていけばいいというのが私の考えである。
 今度全員協議会でやってくだすったら,そのときに申し上げようと思っていたのであるが,たまたま今申し上げてもいい状況になってきたので,あえて場を作っていただかなくても,私の考えは,こういうことを強要するということを政府はやめたという考えだということが分かっていただければそれでいい。
 漢字は制限外のものを使うな,表外字は使うなということがあったけれどもそれを今は「目安」にしたおかげをもって,ほとんど漢字は自由に使っている。だから非常に具合がいい。だから,新仮名,旧仮名も,銘々さんお好きなようにがいいのである。
 今,新仮名部分が非常に増えたのは,現代として当たり前なことである。これから旧仮名部分が少しずつ増えていくだろうと思うけれども,それはどうでもいいが,使ってみると旧仮名の方がいい場合はたくさんあるのである。私と言えども,厳格な旧仮名のときもあろうし,非常にルーズな旧仮名のときもある。だけど,「何々は」と言うときは「は」を「わ」に書くことは絶対にない。「何々を」もそうである。もう少し旧仮名が入ったのが一番いいと思うけれども,それは国民自身が自ら使うことによって決まっていくことで,官庁が言うべきではない。これが私の意見の大要である。

今坂委員

 私は高等学校に勤めており,全国の高等学校の国語教育研究連合会という,これは各都道府県ごとの高等学校の国語の研究会の連合体であるけれども,そういう団体に関係している。
 今回各地で説明会が開かれ,またいろんな団体,機関から御意見をお寄せいただいたわけであるが,その一つとして,今話題に上っている文芸家協会の御意見も拝見させていただいた。これを拝見して感ずることは,国語審議会は大体表音主義でいっているのだから,なぜその趣旨を貫いていないのか,こういうところが矛盾しているのではないかというような御意見に読み取れるように思う。つまり,表音主義を徹底していけばそれで筋が通るから,極めて論理的になるというふうな御趣旨に読めるわけである。本来そういう御趣旨ではいらっしゃらないのではないかと思うけれども,その辺がどうも奇妙な感じもする。と言って,歴史的仮名遣いでいった方がいいというふうな御意見とも思われないわけである。
 ただ,文芸家協会で御意見をおまとめになるときに,やはり一人一人がそれぞれの御意見をお持ちで,なかなかそれを一つにまとめていくことは大変であろうし,言わばこの御意見は,国語審議会の行き方に対して批判はされているのであるけれども,では,どういうふうにやったらいいかということは,お出しになっていらっしゃらない。それはやむを得ないと言うか,当然のことではないかと思う。
 私も高等学校の国語の方の意見を事務局の方から求められたが,全国に高等学校が6,000校近くあって,しかも国語の教員が1校数名から10名近くまでいる。そういう一人一人から意見を求めることはちょっと不可能であるから,できるだけ私の身近にいる者,それから地方の国語の教師で私の接し得た者にこれをどう思うかと聞いてみた。大体においては,この行き方で結構だと言うのであるけれども,意見書にまとめるようなところまでいっていないのでここにはお出ししなかったのである。
 この案に寄せられた意見を拝見すると,各機関から寄せられているのでは,例えば大学だと,本学のだれだれがこういう意見を出したから送るというふうな,言わば個人の御意見をお寄せくだすったように受け取れるわけである。それは当然そうなるのではないかと思う。
 高等学校の国語教師などでは,大体この方向に反対する向きは私は聞いていない。しかし中にはもちろん反対意見を持っている人もいるだろうと思うが,それは直接に確かめることはできなかったわけである。したがって,今学校教育の場で,この仮名遣いについて,現在行っているようなやり方を大幅に変えることはないという方向である。
 ただ,いわゆる四つ仮名とかそういうところは,文芸家協会の方でも指摘されているけれども,こうも書けるし,ああも書けるというような場合に,どちらをとるか,そこの揺れというのは国民全体の中にあって,我々が今までいろいろ審議してきてこの試案を出してきたのも,やはりそれはこうも書けるし,ああも書けるけれども,この行き方で行こうではないか,それが今の国民の言語生活の中で一番適当であろうと考えたわけである。──それは先ほど林主査がおっしゃったけれども,妥協ではないかという見方ももちろんあるかもしれない。しかしやっぱり現状に即応した,そしてみんなに受け入れられやすい行き方はこれだろうと我々の考えた結果が,この試案にまとめられたものだと思う。
 この発表以後,いろいろの御意見が寄せられたが,それでよいとか,それでは駄目だとか,どちらかになるわけであるから,それはやはり私たちが謙虚に受けとめて,そしてやはり最終的には一番みんなが使いやすい仮名遣いというものにしていくほかはなかろう。幾らそれをやったって,御反対の方は当然あろうかと思うけれども,まあその辺を適当にまとめていく。そしてこれから国民全体が言語生活において一番使いやすい,そういう仮名遣いに持っていくことを目指して今後の取りまとめに臨みたいと私は考えている。

林(大)主査

 私は今主査の立場でなくて発言させていただきたいと思う。私は今後委員会では主査としてさせていただくわけであるが,その立場をちょっとはずしていただいてお聞き取りいただきたいと思う。
 これは実は前回の総会の最後にもちょっと申して,後で野元委員から多少の反論があったわけであるけれども,私は社会生活の標準を立てることが非常に重要な問題であるというふうに考えている。その標準化のために,言語の標準化のために国語審議会はあるのだと考えている。それは必ずしも統制ではない──必ずしもと言うより,統制ではなくて,統制するがために標準を立てるというわけではなくて,社会生活を営んでいる個々の個人が,ばらばらではなくて,一種の統一を持ちたい,国民としての統一を持ちたいという欲望から,出てくるのだと思っている。
 その社会生活というものは何かと言うと,個人的な私の生活ではなくて,公共的な生活における実用の問題であると考えている。その実用と,もう一つその外にあるものとの対立をどう考えるかという問題があって,これは先ほどから木内委員がおっしゃっていらっしゃる根本問題かと思うが,私はここで社会生活の実用の問題を論じなければならないのだと考えている。
 もう一つ,そこで今我々は表音原理を柱に立てた「現代かなづかい」及びその改定案を問題にしているわけであるが,そこで表音原理だけを立て通すというわけにいかないという現実の問題があって,それを妥協と考えるか,何と考えるか。また議論があるかもしれないけれども,そこで私は表音原理に対して歴史的仮名遣いをどれくらい復活させるかというようなことが問題ではないと考えている。現実の問題としては,我々の慣習をどれくらい尊重するかという問題であって,我々は歴史的仮名遣いで養われてきた習慣があるということから,そこから歴史的仮名遣いが出てくるのだと思っている。
 結局問題は80年間の歴史的仮名遣いと現代仮名遣いとの間の問題であって,私自身は歴史的仮名遣いというものが1,500年あるいは1,600年を通じての日本語の唯一の正しいものであるというふうには考えていない。しかし,歴史的仮名遣いというものの明治,大正の80年間,あるいはそれ以前にさかのぼっての歴史を考えると,それを尊重しなければならないことは,今度の前書きにも明記してあるとおりである。
 それを尊重するのは具体的にはどのような形で尊重するのかということを考えなければならないということは,全く木内委員がおっしゃるとおりだと私は思っている。教育の面で歴史的仮名遣いが十分に教育されなければならないだろうということを私も考えているけれども,しかしそれは伝統尊重という,そういう生活において必要なのであって,私どもの今日の社会生活の現実に対しては,別の考えを持ってしかるべきだというふうに考えている。だから,ある意味では,現代仮名遣いと歴史的仮名遣いの併存ということになるかもしれないけれども,それは併存であってしかるべきものだというふうに私は考えている。どちらかでなければならないというふうには考えるべきではなかろうかと思う。その上で私は現代仮名遣いというものを今日の標準として考えようとしていると申したいと思う。
 どうも説明会のときに出た御質問の中でも,歴史的仮名遣いというものが唯一の正しいものである,それを改めるのはけしからぬというようなお考えがまだ残っていて──残っていると申しては失礼かもしれないが,そういうお考えがあるように思う。私は歴史的仮名遣いは尊重はするけれども,それが唯一の正しいものであるというふうに考えることはできなかろうと思う。私は,正しいか正しくないかというよりも,我々は標準を求めているのだということを考えておきたいと思うわけである。
 度々同じような発言をしているような気がするけれども,お汲み取りいただきたいと思う。

有光会長

 いろいろ有益な御意見を伺わせていただいた。今日出された御意見は,今日ただ伺いっぱなしということではなくて,これは今後委員会が再開されて,そこでの審議で十分御検討いただくことになると思う。またいろいろ基本的なものの考え方にどう対応するかというようなことについても,審議が済んだからそれでいいということではなくて,状況によっては,また今後いろいろな形でお互いの考え方を検討することもあり得るだろうと思う。
 そして一応のめどとしては,とりあえずは仮名遣い委員会を再開していただいて検討をしていただく。また必要に応じては,全体の懇談会のようなものを活用するとかして,皆さんの御意見の帰着するところを,できるだけ皆さんの御納得のいくような方法で見いだしていきたいと思う。
 そういうような経過をたどって,次の総会は一応9月ごろに開催されることになると考えている。
 それでは,委員会はできるだけその前に開いていただいて,次回の総会は9月ごろというお心積もりでひとつお願いをいたしたい。
 それでは,本日は長時間にわたり皆様から非常に率直な御意見をお出しいただいたが,これをもって今日の総会を閉会にいたしたい。

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