国語施策・日本語教育

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次第・議事要録 意見交換2

林(大)委員

 当用漢字を決めるときに,「使用上の注意事項」という一つの項目があって,その中に「動植物の名称は,かな書きにする」ということがあったんじゃなかったかと思う。

村松委員

 どうして片仮名なのか。

林(大)委員

 片仮名とは書いていないが,「かな書きにする」とあった。しかし,その当時でも,動物の専門家,植物の専門家が,いわゆる和名など,「フジザクラ」とか「何とかザクラ」とかいうようなものを片仮名で書いておられたので。

村松委員

 学術用語としてということか。

林(大)委員

 学術用語として決まってはいなかったが,習慣として,そういうことがあった。それで,片仮名で書く方がはっきりと漢字の代わりになってよかろうということで,一般に片仮名が使われることになったのだろうと思う。国語審議会側の基礎としては,「当用漢字表」の「使用上の注意事項」に「かな書きにする」とあったというところから始まるわけである。

村松委員

 分かった。それでは,片仮名でなくてもよろしいということか。

林(大)委員

 なくてもよろしいといっても,だれも,許すとか,許さないとかいうことではないと思う。当用漢字の場合には,当然許されるということになるわけであろうけれども,常用漢字になってからは,そういう条項は全然なくなったから。

坂本会長

 今の村松委員の御発言で,元を決めなければ,ただ発言しても意味がないということにもなるということだが,しかし,この場合は,だれがそれを決めるのか。国語審議会の総会の場では,今のところ,そういうことについて余り制限を付けずに議論しようじゃないかということかと思う。これは文化庁側がどうこう言うことではないと思うので,最後に無駄骨になったということがあっても,それは今から御寛容を願うことにして,御発言いただいたらどうかと思う。

川村文化庁長官

 補足をさせていただくが,今,坂本会長がお話しになったとおりで,私どもとして,今まで国語審議会で積み上げて,いろいろと審議をいただいて,答申,建議をいただき,それをまた,例えば内閣告示に取り入れるということで,制度上もやってきたということがある。ただ,それはそれぞれの時点での熱心な御審議の結果,こうなったわけだけれども,世の中が変わってくれば,そこはまた別だということで,ここで御審議をいただくときに,過去のものは絶対に変えてはいけないとか,また逆に絶対に変えるべきだとか,そういうことは私ども全く思っていない。御審議をいただいた結果で,こういうふうにした方がいいんじゃないかということが御意見としてまとまれば,その時点で,現行制度との整合性を考えて,改めた方がいいものは改めることになろうかと思うから,そういう意味では自由闊(かっ)達な御意見をいただければ大変ありがたいということである。

坂本会長

 いかがか。最初の御提言のテーマについて,なお御発言,御意見があればお願いしたいと思う。今の第1のテーマについては,また後ほどそこに帰ることがあるとしても,それはそれとして,次にこういう点があるんではないかという御発言があれば,ひとつお願いしたいと思う。

吉村委員

 私も新聞社にいるが,最近,活字離れということが言われており,飯の種なので,大変危機感を持っている。今朝も毎日新聞に,1か月に1冊も本を読まない青少年が5割を超しているというような世論調査が出ていた。
 専門的なこととか文芸作品とかは別にして,コミュニケーションの手段として,活字離れを少しでも起こさせないような読みやすい文章というのが,非常に大事なのではないかと常日ごろ思っている。
 私,この前の第1回の会合は欠席したが,議事録を読ませていただくと,国際化の問題も出たようで,日本語を外国人に教えるということが今重要な課題になっているかと思うが,そういう意味でも,分かりやすい日本文をガイドラインとして広めていくことが非常に大事ではないかと思う。
 私は,新聞社で社説を担当しているが,いろんな記者が書いてくるもので一つ気になるのは,日本文の場合に,コンマの入れ方などが,全く個人の恣(し)意的な使用法に任されているということである。外国語だと,例えば英語で「国語審議会によれば」というときに,「According to Kokugo-singikai,」というふうに,次には必ずコンマが入るわけだが,日本文の場合には,入れる人もいれば,入れない人もいる。コンマというのは,余り入れると煩雑になるが,適当なところで入れると,非常に文章を読みやすくするものである。
 これは一つの例であるが,これからコミュニケーションの手段として日本語が海外でもどんどん広まっていくときに,読みやすさのために,ある程度の決まりというか,そういうものを国語審議会が先導して,今後まとめていく必要があるのではないか。そういうことは前にもやられたのかもしれないが,私は不勉強でよく知らないが,当用漢字とか,送り仮名とか,その中で,今の時代に見直すべきこともいろいろあるかと思うけれども,少しでも活字離れのスピードをダウンさせるために,読みやすさを念頭において努力すべきではないかと私は思っている。

坂本会長

 いかがか。

松澤委員

 私も今の御意見に全く同じ気持ちを持っている。昔から,読点の打ち方がよく分からない。それで非常に気になるのだが,少なくともお役人は,法令をつくるときは,読点に非常に気をつけて打たれる。確かに読点の一つの打ち方で全然意味が違ってくるということがあるので,法令の仕事に携わる方は相当気をつけてやられるんだろうと思うが,いろいろな文章に出くわしたり,自分で書いていても,ここは打つべきなのか,打っていいのか,打ってはいけないのか,分からない。
 その辺は,統一的なものができるのかどうか分からないが,そういう意味では私も今の御意見に全く賛成で,ぜひ皆様方の御意見を伺いたいと思っている。

坂本会長

 要するに,一つ一つの文字とか,単語とかいうことじゃなしに,文章というところまで話が発展して,国語審議会としての見解を立てるべきじゃないかという御発言かと思う。伺って,非常に大事なことだというふうに感じたけれども,さて具体的にどうするかということになると,またいろいろと御議論があろうかと思う。

村松委員

 今のお話は,できない相談じゃないかと私は思う。英語であれ,フランス語であれ, どこにコンマを打つかという規則はどこにもなくて,それは全く書く人の個性によるものである。ピリオドは別だけれども。
 それと,日本語の場合には,センテンスの意識が確立されたのは二葉亭四迷からである。それ以前は点も丸もごちゃごちゃであって,ニ葉亭四迷が苦心して,ようやく今のような文章をつくり上げたわけで,そんなに長い歴史を持っていない。それに同じ人でも,例えば宇野浩二さんの晩年の文章は「きょうは,私は,私というのは,自分のことだが,」というふうになっているが,若いころはまたそれとは違う。
 文体というのは,年齢により,またその人の性格によって違うもので,新聞を読んでいると,「しかし」と来たときに必ず点を打つ傾向が強いが,それは新聞社の好みであって,だれも強制できるような性質のことではない。文体にまで手を出すということは,国語審議会の仕事の範疇(ちゅう)を超えることだという感じがする。

坂本会長

 今度は,なかなか手厳しい御反対の……。

寺島委員

 確かにそうだと思う。私なんかも, どういう句読点の打ち方をしようかという法則を自分流に決めているが,例えば新聞社なんかでは何か決めていらっしゃるのか。そこがちょっと知りたいと思う。署名記事であれば,個人の文体ということでいいんだろうけれども,一つの紙面で不統一になると,気になるんじゃないかと思うが,何か決めていらっしゃるのか。

坂本会長

 今の寺島委員の御発言に何か……。

今泉委員

 私も新聞記者であるが,今の句読点の問題は,新聞社で決めたものはないんじゃないかと思う。つまり, どうしてこういうふうに決めるかと自分なりに考えると,読みやすいということであって,平仮名から漢字につながる場合は余り付けないでも読みやすいとか,平仮名が連続するときは切った方がいいとか,行が変わるときだったら付けなくてもよかろうとか,個人的にやっている部分があるので,私は,こういうものはある程度ファジーというか,あいまいな部分を残しておいていいんじゃないかという気がしている。

西尾委員

 私も句読点のことに関して申し上げると,だれのために,今何を書いているかという目的によっていろいろ変わってくるもので,画一的に何か決まりを付けるべきことではないと思う。
 それは,例えば報道文だったらどうするか,学術論文だったらどうするか,小説あるいは芸術の活動だったらどうするかというふうに,一人の人間が書いたとしても,その目的によって――例えば私が何か文章を書いても,あるときにはこの文章のここに句読点を打つけれども,次の目的のときに,同じような文章でも,そこの句読点はやめるということもあるから,句読点に関しては,何のための文章であるかということによって論ずるべきで,全体に画一的に何か規則をつくろうということは無理ではないかと思う。
 もう一点,先日,第1回のときにも申し上げたが,今の句読点のこととも関連するけれども,日本語は伝達の手段であるからすべて簡潔に,かつ平易に,的確にするべきである,そういう日本語にしていこうというのではなくて,言葉というものは,簡潔にあるべきときは簡潔に,ゆとりを持って豊かに深く表現しようとするときにはそのように,言葉のTPOというか,時とか場合とか目的とか,特に日本語の場合は,読む相手,聞く相手,相手というものによって使い分けていく,表現を選択していくことになると思う。
 だから,正しい日本語ということが随分出ていたけれども,正しい日本語とか美しい日本語というのが,例えば額緑の中に入って置かれていて,それがどうというのではなくて,いかに的確に選択しているかということで, それが正しくもなり,美しくもなるのだと思うので,何か画一的に決まりを作ってしまうことはどうかと思う。

斎賀委員

 事実関係だけ申し上げる。
 寺島委員の質問に対して,日経の方が決めていないんじゃないかと言われたが,私,日経は知らないが,現在,各新聞社はかなり詳細な句読法を決めている。特に最近は,朝日,毎日,読売とも,市販用にスタイルブックを編み直して売っているが,それで見ると,かなり細かい規則が決まっている。それから,新聞社以外では,時事通信,共同通信も,同じようにスタイルブックで決まっている。各社勝手にやっているというよりは,共通点が非常に多い。その元は,昭和21年3月だったか,当時の文部省の調査課が決めた「くぎり符號の使ひ方(案)」というのがあるし,先ほどどなたかから話があったが,昭和24年ごろ公用文のために句読法を決めたものがある。そういった従来の文部省で作った句読法に基づいて,各社がそれぞれ決めている。それが実際に記者諸君に守られているかどうかは知らないが,新聞社ではそういうのは決めていないのかという質問に対しては,決めているというのが事実ではないかと思う。

石井委員

 私は産経新聞の記者であるが,今のお話は初耳で,実は驚いている。私,毎日,新聞のコラムを書いていて, きょうもあわてて出稿してまいったのだが,私の浅学菲(ひ)才の体験など申し上げても何の役にも立たないのだが,おまえはどうやって句読点を付けるのかということになると,文章のリズムというのは,人間の体のリズムと同じだと自分で思い込んでいる。
 例えば文章を書いていて,推敲(こう)とまではいかないけれども,文章が長くなると,私の読んでいる息遣いが苦しくなる。そのときには句読点を付けるとか,なるべくセンテンスを短く,30字なり40字ぐらいで文章を切ってしまう。また,「しかし」とか,「そして」など,接続詞を付けるか付けないかは一概に言えないが,人間の生理のメカニズムと句読点のメカニズムは同じ波長を描いているんだというふうに,私は自分で自分に言い聞かせている。

坂本会長

 句読点の画一的なルールというのは,現実問題としてはなかなか難しい。基本的なところは別として,難しいだろうけれども,句読点というものが, 日本語の文章の場合に非常に大事な問題だという認識は,各委員同様のように思われるので,このテーマについては,今ここですぐ結論を出すというのはいささか性急かと思うから,いましばらく御議論願う問題の一つとして,継続審議ということでよろしいか。
 そういうことでよろしければ,次の御発言をお願いしたいと思うが,いかがか。

尾上委員

 実は私も今回から委員になったわけだが,国語というより言語というものの根本的な問題について,甚だ幼稚なことであるが,私は高等学校――戦前の高等学校――のときに,英文法の先生から教えてもらったイェスペルセンという言語学者の言葉,「言語には正しい言語,正しくない言語というものはない。その言語で何が一番広く一般的に使われているか,その一般的な用法は何かというだけだ。」と。こういうことで,先ほどファジーということが出たが,ファジーが当然付きまとうことだと思う。
 さらに,「国語」と「日本語」というのが第1回のときに問題になったが,国語というのは,日本では明治までは存在しなかった。19世紀の終わりごろに近代国家となった国,日本,あるいはイタリア――イタリアの場合は,言語はリングァ・ナチォナーレ,つまり国語,それはトスカナあたりの言葉を国語に代替したわけである。ダンテの『神曲』なんかはそうである。日本の場合は,聞くところによると,東京の山の手の上流家庭の言葉だということであるが,それまでは国語というのはない。『徒然草』は何も国語というものを考えて書いたわけではない。
 そんなふうに,何が一般的かというのがルールとしてあるだけだというのだけれども,近代国家ができたときに,やはりできるだけコミュニケーションが広く国中に行き渡るように,一般的なものを人為的にルール化した。つまり,国語を審議の対象としたというのは,これまた当然のことだと私は理解するわけである。
 それで,国語と日本語というのは,全部1対1で国家とそこで用いられる言語が対応しているわけではなくて,例えばスイスだとか,ベルギーだとか, カナダとかは,国語は一つだけではないし,また英語とかスペイン語みたいに一つの自然的な言語がいろんな国で国語になっている場合もある。
 そういうことから考えると,国語というのは,何かそういう一般化しようという意識的な多少の誘導が加えられるというのは,これまた自然なことではないか。つまり,法律で縛っているわけでも何でもないから,ある程度正しい日本語とか,乱れているとか乱れてないとかいうことは,まあ,言ってもいいのではないか。全然好き放題にやってもいいということも言えないし,法律で決めて,間違ったやつは罰するというものでももちろんないけれども,そのくらいな政策志向みたいなものは,国語審議会というところであってもいいんじゃないか。
 だから,私はこの委員になったときに,私は日本語の専攻ではないから,要するに,国語としての日本語というものの審議なら,まあまあ加わることもできるかなと,こういうふうに考えたわけである。
 大変初歩的なことを申したけれども,第1回目に言わなかったので,ちょっと申し上げた。

坂本会長

 いかがか。今の御発言に対してでも結構であるし,それぞれの御意見で御発言いただくことがあったら,ぜひおっしゃっていただきたい。

水谷委員

 この期の国語審議会の目的としては,私個人は,規範性の問題を考える以前に,現在の国語の問題がどこにあるかということを総ざらえしてみようということだったのではないかと思う。その意味では,ときどきは規範性の問題に戻らなければならないこともあるとは思うが,もっとたくさんいろんな問題点を具体的に持ち出してやっていった方がよいのではないかと,今感じている。
 自分自身としては,委員の先生方にこういう点についてどんなふうにお考えになっていらっしゃるのかという質問をお出ししたいのだが,よろしいか。

坂本会長

 どうぞ。

水谷委員

 例えば国際化の問題に関しては,既に外国人に対する日本語の教育の問題,あるいは外来語の問題というのが出ていた。しかし, 日本語自体の問題を論ずるのには,日本人が使っている言葉の問題としては,日本人が使っている外国語の問題も取り上げてみないと,日本語の問題について何か打ち出していく,考えていくということはできないのではないか。
 最近では,外来語として片仮名言葉として使われているものだけではなくて,英語そのものが例えばテレビのニュースでもどんどん流れる,流行歌の中でも使われるという状況の中で,一体日本語をどう考えるか,日本人のことをどう考えるか,この辺のことを審議会はやっていいのか,よくないのか,その辺のことをお伺いしたい。
 それから,先ほどの表記の問題に多少かかわるが,最近,法律の表現を刑法に関しても変えようという動きがあるようだ。あの難解な法律の言葉について,国語審議会としては方向性を示すということをしていいのかどうなのかというあたりについて,西尾委員がおっしゃった,目的や使われる領域にかかわる形での日本語の問題について,もし具体的な御経験などをお持ちだったら,たくさん伺いたいと思っている。

坂本会長

 冒頭申し上げたように,そういう問題について私が答弁するということではなしに,各先生方の御発言をいただいて,私はむしろ整理役をしてまとめていきたいと思うが,ただ,多少愚見を申し上げれば,大いにそういうことについての御議論はあってもいいというふうには思う。
 確かに外来語の表記のときも,日本語とのかかわりでかなり御議論があったけれども,もう一度そういうところに目をやる必要があるのではないか。
 ただ,これは私見だけれども,日本語というのは,本来,外来語を受け入れて,それをうまく日本語化するという,そういう特徴があるんじゃないか。

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