国語施策・日本語教育

HOME > 国語施策・日本語教育 > 国語施策情報 > 第19期国語審議会 > 第2回総会 > 次第・議事要録

次第・議事要録 意見交換3

村松委員

 これも前回の審議会でちょっと申し上げたことだが,前回の審議会は主題が違ったので,申し上げるだけに終わってしまった。
 外来語については,私は非常な危機意識を持っている。今の日本語は,多分日本語だけで哲学論文,科学論文を書ける,欧米を除くと世界で数少ない言語だと思う。それができたのは,明治の文明開化のときに,何万という数じゃないかと思うが,とにかく大変な数の新しい時代に適応した外国語を日本語に訳しておいてくれたからである。それは「自由」「平等」「博愛」から始まって,「文明」もそうだし,expectation,「期待」もそうだし,「感傷」というのも「彼女」もそうだ。全部明治時代の造語である。それがあるから,私どもは日本語だけで文章が書ける。ところが,今は外来語を日本語に訳し直そうとする努力は一切行われていない。
 言葉というのは生き物だから,変な言葉が流行したって,私はそんなことは別に驚くに足りることじゃないと思っている。明治30年ごろに女の子が「よくってよ」「知らないわ」という言葉を盛んに使って,当時の人々が非常に眉(まゆ)をひそめたという有名な話があるけれども,今だれも眉をひそめはしない。むしろ古い言葉になってしまっているかもしれない。そういうような流行語は別に構わない。
 また,企業がわざと物珍しくするために何か訳の分からない片仮名言葉を使うのまで,こちらとして文句を言うことはできる話でもない。
 ただ,行政機関までが平気で外来語を使うようになってくると,ちょっと大げさな言い方をするが,こうやって技術革新が急速度で動いている時代だから,一世代,ニ世代後には,一つの文書が全部片仮名言葉で埋まって,英語で書いた方が速いという時代になってしまうのではないかという気がする。私が危機感と申し上げたのは,それなのである。
 民間が勝手に得体の知れない片仮名言葉を使うのは,よく分からないので困るけれども,別に分からなくても生活に不自由しないから,それは構わない。少なくとも政府,行政機関は,日本語で言えるものは日本語で言う努力をするよう要請することぐらいは,国語審議会としてできると思う。そういう意味での危機感を私は持っているので,何とかこれを議題に取り上げていただければ幸いだと思う。

山川委員

 アナウンサーの実況にもそういう外来語を持ち込むというのが非常に多くあって,かつては例えば「打った,ショートゴロ,遊撃手,逆手につかんで一塁へ」というような初期の放送から,今度は「逆シングル」という言葉ができて,「三遊間深い当たり,逆シングル取って一塁ヘ投球,一塁アウト」,こういう実況が出てきた。「逆シングル」というのは,日本語と英語を交ぜたものだが,それがしばらくたつと,今度は「バックハンド,深いところから一塁へ」と,こういう言い方になった。
 必ずそういうのをアメリカから持ってくるのがいる。だれかがそれを持ち込むわけだ。それがまたいいことだと思って,次々とその言葉がまた違う使い方で,あるいは違う場所に使われていくというようなことで,それが氾(はん)濫していく。一つの外来語が入ってくるプロセスを見る思いがする。
 しかし,そういうようなことは防ぎようがないわけで,アナウンサーの感覚で,「バックハンド」の方が格好いいとか,「センター前に痛烈な当たり」と言っていたのを「ラインドライブ」と言ったりする。そうすると,一生懸命野球を聞いている人は,最初は「ラインドライブって何だろう」と勉強したのだが,今は「ラインドライブ」は普通になった。そういうふうにしてだんだん実況放送も変わって,これは放送の大きな責任でもあり,自分の身内からの反省点でもある。

石綿委員

 外来語がどういうふうに入ってくるのか,どういうふうに使われているのかということを考えてみると,実にいろんなケースがあって,現在では一つの見方だけで律し切れるものではないように思われるが,むしろ先ほど水谷委員が言われた,日本において,私たちの言語生活の中で使われる外国語について,生の外国語が日本語の中にとり入れられるようになってきている状態についても,先ほど提案されたまま取り上げられていないが,その問題はやはり重要ではないか。場合によっては,そのようなことが外来語が広まる原因になっている可能性もあると思う。
 NHKの方がいらっしゃる前で申し訳ないのだが,例えば「トライ&トライ」というような番組,その番組の名前は私たちに訴えかけるものが非常に強いので,そういうものが好まれるのは,NHKだけを責めるのでなく,そういうものを受け入れることを好んでいる一般の人,視聴者,そういうものが持っている構造こそ一番の問題ではないかと考えるのだが,いかがか。

山川委員

 「トライ&トライ」は非常に評判が悪かったので,「くらべてみれば」と変えた。(笑声)

坂本会長

 難しい話に少しのめり込んでいったようだが,やはり日本語というものの持っている特徴の一つに,例えば平仮名ができ,片仮名ができという変化の中で,外来語などが割合とあんばいされてきているというようなことがなきにしもあらずじゃないか。そういう日本語が持っている本質的なところに,外来語という言い方は少し狭すぎるけれども,外国文化を受け入れるという姿勢があるのかなというふうに思わないでもないけれども。

村松委員

 今おっしゃったような平仮名,片仮名,あるいは漢字の日本風の読み方,あれは外国語になじみやすい日本人ということではなくて,逆の例を示していると私は思っている。全く独立の日本語にしてしまったわけだから。
 ただ,私が申しているのは,大衆心理とか,そういう問題を申し上げているのではない。それはもう任せておくほかない。ただ,せめて政府だけは,先ほど申したような点, ほかの部分は得体の知れない外国語がいっぱい出てきても,これは我慢しているほかないわけで,それはそれで耐えていくほかないと私は思っている。そういうものでない部分を私は申し上げているので,それは誤解していただくと困る。

俵委員

 最近, こういう言葉を使ってはいけないんだよというふうなことを言われることが大変多いなと感じる。先日も日本語の遠慮化現象ということで,どなたかが「浮浪者」という言葉が使えなくて,「路上生活を余儀なくされている人」とか,そういうふうなことを話題になさっていたけれども,私自身もそういう言葉を使ってはだめなんだよと言われることが大変多い。
 例えばNHKの「日曜美術館」で絵を紹介するときに,その絵のタイトルに「小人」と入っていたら駄目だとか,あるいは国語の教科書の編集を手伝っているのだが,そこの教材にするのに,こんな小説はどうかしらと持っていくと,ああ,この言葉が入っているから絶対駄目と,その言葉だけで,作品以前に落とされてしまうということも何度かあった。
 だから,人々の意識が高まってきているためだと思うのだけれども,何か暗黙のうちに,使っていい,使ってよくないというふうなことが最近多いなと感じているので,この際だから,使ってはいけないとするのではなくて,でも,知らずに使っている怖さというのもあるので,そういう言葉について話題にできたらと思う。
 最近,新聞で記憶に新しいところだと,学校で「父兄会」とか「父兄」という言葉が問題になって,父兄ではなくて,お母さんだって来るんだし,最近はお母さんの方が熱心なくらいだから,「父母」と言わなきゃというふうなことが話題になっていた。
 これはなぜ「父兄」という言葉が駄目なのか「父母」の方がいいのか,あるいは「父兄」という言葉の背負っている歴史というのはどういうものがあるのかということまで含まれてしまうと思うけれども,そういう差別語というか,いろんな歴史を持った言葉について,若い者としては,その歴史を含めて知りたいなという気がする。

坂本会長

 いわゆる差別用語というのは,これはなかなか微妙なところがあるから,言葉遣いに注意しなければならないところは当然出てくるんじゃないかと思う。一概には言えないと思うが,いかがなものか。
 日本語というのは,ある意味では外国語と比べて複雑で,ニュアンスが微妙だというようなことで,また読んだり聞いたりする側の一種の年齢差みたいなものもあるのではないかと思う。
 今度秋篠官で内親王がお生まれになったニュースが,全部「ハツマゴ」と言う。我々の年代だと,あれは「ウイマゴ」と言ってもらいたいなという感覚的なものがある。NHKの『発音アクセント辞典』では,「ハツマゴ」も「ウイマゴ」も,両方使っていいということになっているけれども,現実のNHKニュースでは,全部「ハツマゴ」である。
 「初」というのを「ウイ」というのは,「初々しい」で,まさか「初陣」を「ハツジン」とは言わないと思うけれども,同じ「初」という字を使いながら,「初孫」とか「初産」というのを,「ハツマゴ」「ハツザン」でもいいという,そこら辺の受け取る側の年齢差みたいなものも多少あるのかなという感じもする。
 どっちが正しいとか,どっちが正しくないとかではなしに,日本語のそういう読み方とか感覚とかいうのは難しいものだなと,最近しみじみ思ったりしている。差別用語とは別だけれども。ほかの外国語でこういうことがあるのかなと思う。

竹田委員

 最初に申し上げることは,私の感想だが,村松委員の御発言は私もその趣旨に賛成である。せめて政府関係の文書では,正しい日本語というか,外来語の片仮名文字などをむやみに使わないようにという趣旨の御発言だったと思う。街にいろいろな眉をひそめるような言葉,あるいは片仮名語が氾濫しても,それは我慢をするよりしようがない。確かにそうかもしれない。それで消えるものは消えていくと思うが,その中間に教育の問題があると思う。
 私も10年近く前に,子供の小学校の授業参観に参った。女の先生が全く男の言葉を使われるので,これはうちの女の子に,「女の子はそんな言葉を使っては駄目。」と言っても駄目だと,そのとき観念した。
 お配りいただいた資料の俵委員の御発言の中にもあるが,そこが先生の難しいところで,生徒と同じような言葉を使わなければ親近感が生まれてこない,そういう問題もあるし,先生だけが生徒と全く違う正しい言葉というか,きれいな言葉というか,そればかりを使っていられないということもあると思う。
 そういう教育の問題を考えないと,正しい日本語とか乱れた日本語とか,そういう問題はなかなか片がつかない。
 それから,家庭で使う言葉が一体どういう言葉になっているか。さらにマスコミのテレビ,ラジオなどの言葉。これはいかに国語審議会がどうのこうの言っても,とても力の及ぶところではないし,むなしさを感じるだけだと思って,私はそういうことにまで立ち入りたくはないというのが率直な気持ちであるけれども,教育の問題がもう少し何とかならないかなという気がする。しかし,具体案は持ち合わせていない。
 それから,漢字の問題,前回私は交ぜ書きだけは何とかしてほしいということを申し上げたけれども,書ける漢字,書くことを要求する漢字と,読んでほしい漢字,読める漢字,これは分けて考えてよろしいのではないか。冒頭に山川委員がおっしゃったように,「虎」という字を子供がよく的確につかむということで,書くことは要求できなくても,読めるということは随分広い範囲にわたって要求していいし,それだけの力を現在の若い人は持っていると思う。だから,無理に常用漢字以外は仮名書きにするということではなくて,ルビというのは技術的には難しいかもしれないけれども,何か読めるようなガイドをしていくべき字があるのではないかというふうに感じている。

坂本会長

 教育の場というのは大事なことだと思う。何といっても教育の場で子供と先生との間のスキンシップからいろいろ覚えていくんだろうから。
 それから,最後におっしゃったルビの問題だが,昔の新聞は全部ルビが振ってあった。

竹田委員

 あれで字を覚えた。

坂本会長

 今は一切ルビが振ってない。ルビは確かに効用があるように思う。これは新聞側の経営の問題に立ち入るから,そう簡単には言えないかもしれないが。

諏訪委員

 今,ルビは少し入っている。例えばこの前おっしゃった「補てん」というのも,平仮名にしないで「てん」を漢字にして,「ほてん」と二つそろえてルビを振ることができる。
 前は活字が小さかったからできなかったけれども,このごろコンピューターになって,各社とも活字が少し大きくなったから,だんだんできるような余地はできてきている。毎日新聞の場合は,全部ではないが,一部でそれが可能になっているから,進んでいくのではないか。

坂本会長

 全部振ったら,もちろん紙面が煩わしくなるのは分かるけれども,ある程度そういう配慮があってもいいんじゃないかなと思う。

佐久間委員

 今ルビの問題が出たけれども,まさに我々も本を読んでルビによって漢字を自然に覚えていったような気がする。今の中学生,高校生は,いわゆる文学書を読ませると,読めない。読んでやると,意味は実はよく分かる。だから, さっき竹田委員がおっしゃったように,書かなければならない,書き方を覚えなければならない漢字と,読み方だけ覚えればいい漢字と,この二つに分けたらどうかなというような,これは要するに教育上の問題だけれども,そういうふうに文部省で指導されたらいいのではないかなと思う。
 ただ,それをやると,例えば教科書に,読むだけでいい字と,書かなければならない字と分けても,入学試験なんかで大変難しい字を要求される,こういった悪習があるので,その辺だけは気をつけていただきたいと思う。

渡辺委員

 今,教育の問題の中で漢字のルビの話が出ているが,来年から新しい学習指導要領が始まるわけである。その中で小学校の取扱いが,今皆さんのお話があったように,ルビを振れるようにした。先ほど書く文字と読む文字と分けた方がいいのではないかという御意見があったが,そのとおりであって,読める漢字というのは,社会一般の中から子供はたくさん学んでいる。そういう中で教科書の扱いとしては,1年から6年まで配当の漢字があるけれども,この配当漢字はとにかく読めて書けるようにしようというものである。
 そのほかに,交ぜ書きの問題もあって,配当の枠内だと交ぜ書きをしなければならないことがあるが,それでは語彙(い)として理解しにくい場合には,上の学年の漢字を使ってルビを振ったらどうかということで,今度の新しい教科書からはルビが振れるようになって,かなりルビが使われている。
 戦前,円本というのを皆さんも多分お読みになったと思うが,これはみんなルビが振ってあった。そこから私たちは漢字は書けなくても読める,そういう生活があったわけである。ところが,戦後の国語政策でそういうことがなくなったために,交ぜ書きの問題が出てきたり,あるいは語彙の問題が出てきたり,なかなか理解しにくいということもあって,今回は文部省としてはそういう形で取り上げていくということで,既にそうした方向で進んでいる。
 皆さん御承知のように,新聞には読めない漢字がたくさん入ってきている。これは目安でいいかもしれないけれども,中学生ぐらいになると,かなり新聞を読むわけである。そういうところで,どのくらい字が読めないか,調査をしていないけれども,かなり読めない字が増えてきているんじゃないかという気がする。固有名詞などはやむを得ないにしても,一般に使われるような名詞については,例えば教育漢字外の漢字が出てくれば,そこにちょっとルビを振るというような配慮が必要なように思う。

尾上委員

 固有名詞のことで,去年,韓国から来ている学生から言われたのだが,例えば「金日成(キムイルソン)」を,私ども普通日本語の漢字で「金日成(キンニッセイ)」と読む。これは差別であると言われて,かなり言い返したわけである。じゃ,外国人はローマ字で書いたり英語で書いたりしても別に構わないのかというと,向こうも困ってしまったわけだけれども,そういうふうに言われるのだったら,これは横にルビが振ってあったら,多少ともその問題は解消するのではないかと思う。だから,固有名詞に関しても,難しいのは振ってもらったらいいと思う。

坂本会長

 私事であるが,私の「朝一」は,「トモカズ」と読んでくれた人はほとんどいない。「アサイチ」「チョウイチ」, そのたびにこちらは言い直させるのだけれども。本当に簡単な字でも,そういうことがあるから,そういう心配りは確かに必要かもしれない。

蓮池委員

 本日初めて出席したが,小学校である。
 前回の議事要録,それから今のお話を承っていて,今の子供たち,あるいは社会における言語の不的確な使い方,あるいは字が書けない,読めないということ,ましてや先生のことも歯がゆいというようなことの中で,何かその根源が学校教育の不十分さにあるような,学校の教員なもので,被害的な意識でいたわけであるけれども,子供たちが小学校の低学年のころは,国語と算数は非常に好きな教科なのである。それが高学年になると,逆転する。一番嫌いなのは,国語であり,算数だと。算数の場合は多少意味が分かるけれども,国語の場合は,なぜそういうふうに嫌うのかということになると,今,私学の入試問題分析なんかをしているのだけれども,非常に哲学的な高度な文章の意味を解読させる,こういうようなことがテストの一つのパターンになっているために,これは極端な例だけれども,非常に厳しい文字の使い方や書き方,表現に余りにも高いものを求め過ぎるがゆえに,逆に国語離れ,言葉離れになっていく,そんなようなことが現実である。
 私も昭和30年から教育でずっと来ているわけだが,年度を追うごとに漢字数が増えていったり,送り仮名の表記が変化していったり,そういうようなことを非常に厳しく見詰め,美しく正しい日本語を守っていこうという,そういう意味ではよろしいのだけれども,それがかなりの強い制約というか,特に教科書などでそこらのものがきちっと出ると,その点で指導する側も非常に神経を使う。教師も国語離れしている,子供も国語離れしている。それで最終的には自分で物を書いたり,自由に話したりということを嫌っていく,離れていく。そんなような状況があるというのが現実であるわけだ。
 だから,こういう会議の中で大所高所から審議し,また意見をいただくのに,教育としてこれをどう取り上げていくかといった場合には,子供が大人になって自分の意見を自由に伝えられるという,その意欲と方法というようなものについても,広い角度からのゆったりしたものになっていたらいいのかなと思う。
 それから,特に先ほどから出ているように,読むことは好きなんだけれども,漢字を書くことがなかなかできない。したがって,これからの社会の中では,読むということに対する漢字の量は多くなってもいいと思うけれども,書くということまでが学力,一つの物差しということになると,教育の中でも大変取り扱いにくくなっていくだろう。
 そういう意味では,ルビを振るとか,そういうようなものについての新しい方向というのは歓迎しているわけであるが,国語離れの子供を作らないように,いろいろこういったところでも御指導いただければありがたいと思っている。 

菅野委員

 今のお話に多少関連があるが,話し言葉と書き言葉について一言申し上げたい。
 これまでの国語審議会では制約があって,書き言葉に非常に重点が置かれていた。18期までは特にそうだったと思う。きょうの先生方のお話を伺っていて,書き言葉にもまだたくさん問題点があるということは重々分かったけれども,実は日本語を変えていくのは,書き言葉ではなくて,話し言葉の方である。書き言葉の方は大体小学校に入ってから勉強が始まるが,話し言葉の方は,今や一歳児どころか,ゼロ歳児でもテレビの言語をたくさん耳に入れている。そういうことで,少しずつでもいいから,話し言葉の議題を増やしていただきたい。
 数え立てればたくさんあるが,とりあえず敬語の問題がある。これは昭和27年に国語審議会の報告が出ている。その当時としては非常に立派なものだったと思うが,今では大分社会事情に合わない部分が出ている。それだけお願いしたいと思う。

坂本会長

 確かに話し言葉というのもテーマとしては大きいと思う。最近のお話で例を引くと,「ら抜き」の言葉が多い。「見れる」「出れる」など。我々の年代になると, どうしても「見られる」とか,ら抜きについては耳障りになるけれども,それが今や一般的になっているというような問題について,もう少し発言してもいいのではないか。これはNHKあたりでもそういう傾向があるので,あえて憎まれロをきいたわけだけれども。
 それから,若い方が母音を伸ばす。「何とかでぇ」「何とかはぁ」というのは,これは一つの現象だから,そんなところまでくちばしを入れるのはどうかと思わないでもないけれども,確かに話し言葉についての議論は大いにしていただくテーマかなと思う。

北原委員

 2回出席していて,何もまだ申し上げていないので,一言。
 各界の先生方の御意見を伺って,非常に勉強になったけれども,言葉には単位とか使われ方とか,いろんな面があって,そのいろんな面についての御感想で,私のメモしてきたことと非常にダブるところがあって,もう発言する必要がほとんどないのだが,言葉をどういう場面で使うかという面から考えると,話す場合には話し言葉,書く場合には書き言葉,それから,話す相手は男の人に話すか,女の人に話すか,どちらが話すかということもあるし,近い関係とか遠い関係とか,そんな面から見ていくと,最近,国際化ということに絡めて,外国人に対する日本語というものが大きな問題だろうと思う。
 もう一つは,先ほどから出ているけれども,ワープロとかパソコンを相手の日本語というような,その辺は今までにはなかった非常に大きな状況ではないかと思うが,国際化という面から申すと,日本語教育の指針というか方向づけ,そういう面を国語審議会として考える必要があるのではないかという気がする。
 それと同時に,日本語教育というのは,外国人に対するものだろうが,日本の子供たちに対する国語教育もやはり日本語教育に配慮したものになっていく必要があるのではないかと思う。最近ではもう田舎でも外国人が随分いるし,そういう人たちとこれからもっと密接に付き合うことになると思う。だから,子供たちに,言葉が分からないような人に対してどういうふうに話すか,そういう観点も踏まえた国語教育,今よりもっと国際的視野を持ったような言葉の使い方,そのような方向の教育も必要ではないかと思う。
 これはぜひ御議論いただきたいと思うのだが,日本語をどれだけ知っていたら最低の言語生活ができるかというような基礎語彙とか基本語彙,スタンダード・ジャパニーズとか,べーシック・ジャパニーズとか,そういうものを決める必要があるのか,ないのか。
 その辺の基礎を固めて,日本人も外国人も安心できるような指針が示せないかというようなことである。
 今までの審議会は,発音とか,それの表記あたりが中心だったと思うが,もう少し言葉の単位を大きくして,語彙,単語の問題,そこまで扱えないか,扱う必要がないか,そういうことを具体的に御提案したいと思う。
 もう一つ,先ほどから出ていることで,もう申し上げることはないかもしれないけれども,機械を相手の日本語ということから申すと,先ほどから読む漢字と書く漢字の区別ということが出ているが,本当にワープロで打ってきた書類は漢字が多すぎる。これは変換すれば漢字になってしまうわけだから,その辺で読める漢字をもう少し広げる必要があるのかどうか。読む漢字と書く漢字は区別すべきではないかというようなことも,十分考える必要があるのではないか。
 その2点を申し上げたいと思う。

坂本会長

 大分具体的な御意見をたくさんいただいたようであるけれども,ほかに何か御発言があるか。
 この参考資料の中にも,外国人が日本語を勉強して,「バイオリン」とか「べートーベン」というのが,「ヴァ」と「バ」と二つ出てくるけれども,同じ「バイオリン」とか「べートーベン」を表現する日本語の書き方に「ヴァ」と「バ」と両方あるのはどういうことだと,外国人が困惑したという一くさりがあるけれども,我々はあれは随分侃々諤々(かんかんがくがく)して,結局,「ヴ」を認めていただくような結論になったわけで,面白いというとしかられるけれども,そういうものかもしれないと思った一くさりがあった。
 確かに国際的になればなるほど,いろんな意味合いの問題がきっと発生してくるだろうと思うので,これは勉強しなければいけないなという感を深くいたした次第である。
 それでは,4時が間近になったので,次回のことに触れさせていただきたいと思う。
 前回と今日の総会,2回にわたってたくさんの御意見が出て,「現代の国語をめぐる諸問題」という広いテーマなので,どういう切りロから迫っていったらいいのか,その方法をまた考える必要があるのではないかと思っているわけで,そういう意味で,もう一回ぐらい総会で意見交換をしてみたらどうかということである。
 実は先般の運営委員会でも御相談願ったのだが,当面の日程としては,年内にもう一回総会を開かせていただいて,それでもまだ言い尽くせないという向きがあれば,書面で御意見を提出していただくことにしてはいかがかと思う。それとともに,問題点の整理をするために,委員会を設置するということにして,年度内,平成4年3月には第4回の総会を開いて,今申した委員会から,それまでに出された意見に基づいて問題をある程度整理して報告していただいて,共通の理解を深めるための意見交換をやりたい,こういうことが当面の日程として考えられるのではないかと思うが,いかがなものか。
 事務局から何か補足することがあったら……。

河上国語課長

 今,会長から年内にもう一度というお話があったが,それについては,今のところ具体的には12月5日に,木曜日であるが,第3回総会を予定させていただいてはどうかというふうに考えている。

坂本会長

 日取りだけで恐縮だが,次回は12月5日,木曜日,午後2時から4時ぐらいということで,会場については多少流動的なことがあって,今ここで申し上げかねるけれども,その日を予定させていただきたい。年末であるし,いろいろお差し支えの向きもあろうかと思うけれども,よろしくひとつ御協力いただきたいと思う。開催の通知は,会場が決まり次第,事務局から差し上げるということで,あらかじめ御予定に入れていただけたらありがたいと思う。
 それでは,本日はこの辺で閉会とさせていただく。

トップページへ

ページトップへ