国語施策・日本語教育

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次第・議事要録 意見交換1

坂本会長

 それでは,議事の2に移らせていただく。意見交換ということで,きょうも活発な御意見の開陳をお願いしたいわけであるが,まだ御発言をいただいていない委員もおられると思う。せっかくの機会であるから,なるべく御発言をいただきたいと思う。
 何分,言葉というのは生き物で,複雑,微妙なところがある。そういう事柄について論じるので,同じ問題でもいろいろな見方ができるし,様々な御見解の違いがあり得るものと思われる。そういう意味で,今までに出ていない問題について御提言をいただくのはもちろん結構であるし,また今までに出された問題についても,更に問題を掘り下げて論点を明らかにし,共通理解を深めるという意味で,重ねて御意見をいただければと思う。
 特に,問題点整理委員会も設置したことであるから,整理する材料をいろいろ提供していただくという意味でも,どうぞ盛大な御論議をお願いしたい。事柄によっては,委員の先生方同士で甲論乙駁(ばく)という形になっても結構かと思うので,議論を発展させるような形で,お話し合いをいただいてはいかがかと思う。ひとつよろしくお願いする。

三次委員

 私は,メーカーの立場で出席しており,コンピューターと機械との関係についての示唆をいただいている。そういう点で,感じた点を四つほど申し上げさせていただきたいと思う。
 昭和55年ぐらいから,特に新聞社ではコンピューターを使った紙面作成が非常に盛んになったことと,ちょうどそのころワープロ等が普及してきた,こういう二つの面があって,我々メーカー側でも,文字の問題,文法等についての関心が非常に深くなったわけである。
 まず第1に,文字そのものであるが,常用漢字だと約2000字弱,JISにしても6000字ということであるが,私どもメーカーの立場で意識するときには,そのような規定された文字の種類の問題と,書体という問題がある。さらに,文字を打ち出す機械が様々であるので,それぞれに合った文字が必要になる。
 それから,市場ニーズによって,文字の大型化であるとか,特殊な文字等が出てきて,55年から私どもの会社で文字作りをした字数のトータルは約300万字になっている。そのうち,大体100万字が新聞社用の文字であって,印刷企業向けの文字が約50万字,それから自社使用の文字――コンピューター関係で特段の御指定がないときに使う自社用の文字が約50万,ワープロ等のOA機器の文字が100万,大体そんなような報告になっている。これは,字体とか,大きさとか,いろいろあって,どうしても増えるわけである。
 我々としては,これを制限していただきたいという気持ちは一切なく,それを賄うように,技術を高めていかなければならないと思っている。
 そういう意味では,文字の表現にしても,ドットと言って,点の集合であったものが,最近は輪郭をなぞるような形になっており,拡大,縮小が比較的可能になってきたわけである。文字作りをしている人に聞くと,単に拡大,縮小をしているのでは,文字はきれいにならないということで,拡大,縮小に伴って,縦の線と横の線の比率を変えるとか,かなり細かい点に気を遣いながらやっているのが現状のようである。
 いずれにしても,そういった点で,現在の必要な文字については供給体制が徐々に整ってきているので,その辺の御心配はないが,いわゆるインフラ的な広がりがあるので,文字を作るルールとか,字体が変わるようなことがあると,かなり慎重にやっていただかないと,過去の遺産が重たくなってきているということがある。そういった点で,もし何かあった際には,ルールの尊重というようなことが重要ではないか。そんなことを申し上げておきたいというのが第1点である。
 第2は,現在の主としてワープロ等では,「かな漢字変換」というのが一般的になっているが,その変換の辞書がどうしても必要である。例えば複数の読みを持っている漢字があり,「難しい(むずかしい・むつかしい)」「寂しい(さびしい・さみしい)」「一日(いちにち・ついたち・いちじつ)」というふうに,いろんな読み方があるので,それぞれの辞書を準備している。これも特に御心配いただかなければならないことでもないのだが,そういう辞書作りという問題が一つある。
 それから,私自身が気になったのは,送り仮名について,例えば「あらわす」といったときに,「現す」が出てくる。たしか「現わす」と「わ」が入ってもいいと思うのだが,今のところ,そういう辞書になっていない機械がある。それは後で「わ」という言葉を追加すればよいのだが,それは機械に使われているような感じになって,余り感じがよくないので,そういった点の整備はこれからもやっていかなければならないかなと思っている。
 ちなみに,私の「三次」という名前は,私の使っているワープロでは「みよし」と入れるとすぐ出るが,大体は「さん」で一回変換して,「つぎ」でもう一回変換するということをやっている。自分の場合は,自分の名前を登録して,「みつぎ」と入れて漢字が出る。それはできるので,全般的に網羅的な辞書というのは大変だから,個人用のところは,そのような工夫で補うことも可能になってきているかと思う。
 このようなことがきっかけになって,機械処理を前提とした日本語文法の研究というのは,現在非常に盛んになってきていると思う。
 例えば,情報処理振興事業協会では,御出席の委員の先生方の御指導もいただいているようだが,計算機処理用の日本語の基本動詞とか,基本形容詞,基本名詞等の辞書作りが進んでいる。こういう研究の推進によって,一層使いやすい機械が出てくることを願っている。このために,この面の研究を強化する必要があるのではないかと考えている。

 3番目は,機械とは直接関係ないと思うが,一つ御検討いただきたいと思っているのは,語順である。日本語の語の配列というか,辞書の見出しの場合に,例えば長音とか濁音,半濁音,平仮名,片仮名,そういったものを含む語の並べ方が,何通りかあるようである。
 最近,ISO(国際標準化機構)で各国の状況を調べたときに,「日本の語順というのはどうなっているのか」と聞かれて,困ったということを聞いている。この辺は,将来この審議会委員に外国人が入ってきた場合に,片仮名の名前の場合にどういう語順になるのかということが気になるので,今後の一つの検討課題になるのかなと思う。私は素人であるから,ぜひほかの先生方の御意見もいただければと思っている。

三次委員

 4番目は,国際化ということで,いろいろお話が出てきて,たしか最初の審議会のときに,市川先生から,留学生から先生の字はおかしいと言われたというお話があった。その問題は,ほかの先生のお答えで,許されている幅があるんだということでよく分かったのであるが,考えてみると,外国人にとっては,日本語の時間が純枠培養的な教育の時間であるが,私ども日本人の場合は,国語の時間以外にも日本語に囲まれているので,環境が違うと思う。
 日本語を母国語としない方で,これから日本語を勉強したいという方が随分多いと聞いているので,教える際には,書き方のみならず,読み方とか話し言葉が入ってくると思う。前回の御意見の中で,書き方だけではなく,読み方,話し方も大事だということがあった。我々メーカの立場で言うと,マルチメディアの世界ということになると思うが,そういったものもかなり可能性が出てきているので,研究としては随分進められていると思う。
 ただ,実際問題として,こういう教材を作るということは随分お金のかかる話なので,方法論としては研究されているが,なかなか普及が進まない。これはこの審議会の議題ではないかもしれないが,日本もこれだけ国際化を求められているので,そういうお金のかかる問題について,国としても相当力強く進められるような体制があってもいいんじゃないかという感じがする。場違いな発言かもしれないが,以上4点申し上げた次第である。

坂本会長

 今の三次委員の御発言に対して御質問なり何なり――最近は何といってもワープロが盛んのようであるから,いかがか。もちろん別の御意見でも結構であるが。

江藤委員

 体調を崩して入院していたので,第1回,第2回の総会に欠席したが,議事要録で皆様方の御発言を拝見させていただいた。幸い,すっかり回復し, きょうは出てまいった。
 今の三次委員の御意見にもかかわろうかと思うし,問題点整理委員会が設けられることが決まったわけであるから,今まで申し上げられずにいたことを一,ニ申し上げて,御議論の資に供したいと思う。
 まず,第1回,第2回の議事要録を拝見すると,非常に多様な御意見が出ている。皆貴重な御意見だと思うが,問題点を整理していただくにしても,拡散しかねないという感じがするわけである。そこで多少求心的な,真ん中に絞り込めるようなことをやっておかないと,これから収拾がつかなくなるぞという感じがする。
 それは何かと言うと,過去の審議会で議したこと,特に昭和41年,中村梅吉文部大臣のときから,「国語施策の改善の具体策について」に基づいて,戦後直ちに行われるようになった「当用漢字」「現代かなづかい」等の行き過ぎた面等を是正するということを,一貫してやってきたわけであるけれども,今期は,この8期以降18期までにやってきたことの,つまり見直しの確認ということを最初にやっていただかないといけないのではないか。
 これは,主として漢字も含めて表記法にかかわることである。これについては,随分長いことやってきたんだから趣旨が徹底しているかと思うと,必ずしもそうでもない面もある。
 実は,ここにいらっしゃる委員の先生方のどなたかが執筆者ではないかと思うのだが,先日,ある新聞のコラムを読んだ。非常にすばらしいコラムで,感心して読んでいたのだけれども,「柿」という字は「常用漢字表」に禁じられているので,ここで「カキ」と片仮名で書かなければならないのは甚だ残念だ。やはり「柿」という漢字でなければ,この文章は落ち着かないと執筆者は書いておられる。その御趣旨はそのとおりで,私もそうだそうだと手を打ったのだが,事実関係として,「常用漢字表」は「柿」と漢字を使うことを禁じているわけではないのである。
 それは川村文化庁長官のごあいさつにもあって,第1回の議事要録にあるように,「国語というものは現代社会における生き物であるから,法令とか,公用文とか,新聞雑誌,一般の社会生活において現代の国語を書き表す場合の「目安」又は「よりどころ」とするということを基本としていただいたわけである。したがって,科学技術とか,芸術とか,その他の各種専門分野とか,個々人の表記までも規制をするものではないし,また,過去に行われた表記を否定するものではないといったように,伝統的な表記に対する配慮をもお示しいただいた。そういう「目安」又は「よりどころ」とするということが,大変特徴的であったと思うわけである。」と川村長官はおっしゃって,昭和41年以降,つまり第8期からこの前の期の第18期国語審議会までに尽くされた議論を大変手際よく要約してくださっているわけである。
 したがって,「目安」又は「よりどころ」で,禁止事項ではないということが,なぜそういうふうに禁止ととられるかと言うと,これは私の忖(そん)度であるが,例えば新聞協会,雑誌協会,書籍協会というところでは,内部で表記法の準則を作っておられる。この準則に合わないというので――コラムというのは,書き手の個性の出るものである。ただし無署名である。その辺,個人的な文字遣いの好みと,よって立っている準則との間の矛盾でちょっと戸惑われたということかなという感じがまずする。
 同じようなことは,義務教育,あるいは義務教育を超えて高校教育に至るかもしれないが,教育現場でも行われているはずで,ここでは「目安」又は「よりどころ」が,準則というか,むしろ規制というふうに働いている向きがないわけではない。
 そこで,一体どうするのか。「目安」,「よりどころ」とした後で,一つはジャーナリズムにおける表記法の自由度をどうお考えなのか。もちろん,メディアは時間との競争の世界だから,それぞれの協会等で一つのルールをお作りになって,それでやっていこうとお考えになるのは当然のことだと思う。それに少しも反対するわけではないけれども,そういう事務処理上の迅速さを促進することと個人の表記の自由さの問題は,古くて新しい問題であるから,お考えいただければと思う。
 それから,学校教育においても,現場の先生方は混乱されるかもしれないけれども,国語現象そのものは非常に豊かで奥行きの深いものである。今,三次委員の御指摘にもあったように,機械のインフラをお作りになるのでも,300万字というのがすぐ出てきてしまうぐらい豊かなものである。それをどういうふうに締めくくっておくかというのが第1点である。

江藤委員

 第2点は,まさに三次委員がおっしゃったことに即するが,この国語審議会が第18期に至るまでやってきた作業と現在の言語状況との間には,かなり大きなギャップができている。その主要な導因は何かと言うと,コンピューターとかワープロとかいうようなエレクトロニクスの発展による格段の違った状況があって,これは昭和25年に国語審議会令が制定されたときに予測し得なかった状況である。
 例えば,送り仮名の問題が出たが,五十音図の問題もそれとのかかわり合いで,まさに三次委員からある一面を鋭く突いた御意見が示されたと思うけれども,それを踏まえつつ,かつ他の側面からも,五十音図の問題はもう一度きちっと見直す必要がある。また,送り仮名については,今までの答申を踏まえたものであるということを,逆にメーカーさんの方で御理解いただいて,それに即応するようにしていただくことも必要ではなかろうかと思う。
 それから,漢字ということになると,従来,漢字は非常に書きにくいから,なるべく簡単にしようという思想があったわけだが,今ワープロを使うと,むしろ漢字を多用するようになる。そうなると,いろんな漢字をどう読むかという読みの問題が出てきて,義務教育を受けた日本人の多くが上の教育を受けて,だんだん社会に出てくるにつれて,逆にいろんな漢字が読めなければいけないということになってくるわけである。仮名入力をするにしても,ローマ字入力をするにしても,漢字を表現することは非常に簡単になったけれども,これが読めるかどうかという問題がある。これは小学校,中学校できちっとやっていただかなければならないとなれば,「読み書き」という基本的なもののうちの「読み」の能力の水準については,今までになかった状況が生まれていると考えざるを得ないのではないかと思う。
 したがって,話し言葉の問題はもとより大事だが,これは千差万別と言うか,地方によっても違う。したがって,書き言葉をどういうふうにきちんと整えるかという問題を常に念頭に置きつつ,多様な御意見を整理していただければ幸いであると思うわけである。
 国語審議会は,事務的には文化庁が所管されており,文部省の領分ということになっている。それでずっとやってきているのだが,コンピューター,ワープロの問題になると,JIS規格で通産省の問題がすぐ入ってくる。人名になると法務省ということになろう。地名だったら自治省か。これも全部国語現象であって,みんな非常に重要なわけである。
 だから,この第19期においては,文化庁の音頭取りで,通産省とか法務省,自治省,必要なら外務省,厚生省等々,各省庁に呼び掛けていただいて,委員と各省庁の方々がひざを交えて懇談するような機会を設けて,学校教育,ジャーナリズム等の世界ではカバーしきれない,言葉を扱っている広がりというものを確認した上で,審議会の議論をもう一度お深めいただければと思うわけである。
 以上である。

中西(進)委員

 江藤委員の御意見に相わたるものなので,考えてきたことを申し上げたいと思う。
 今までのいきさつを知らないので,暴言になるかもしれないが,少なくとも1回,2回目で問題になったところは,単語というか,言葉一つ一つについて,それをどう書くかとか,送り仮名をどういうふうに送ったらいいかとかいう問題が多かったと思う。ところが,言葉というのはもっと大きな単位の中で動いているもの,組織されているものであり,単語を扱うというよりは,むしろ私の言葉で申せば,「表現」として国語を考えるという点を我々はもう少し問題にしてもいいのではないか。もちろん,今までもあったと思うけれども。今,問題点整理委員会もできたことであるし,そこで問題にしていただきたい。
 例えば,余りいい例ではないけれども,道を歩いていると,学校の前に看板が立っていて,「許可なく校庭の使用を禁ず 学校長」と書いてある。私どものような国語の教師から見ると,「許可なく校庭の使用を禁ず 学校長」というのは,「許可もないのに勝手に校庭の使用を禁じている」ということにもなる。だから,さて,これはどういう意味だろうと思うわけであるが,つまり,許可なく使用することを禁ずるという意味だろうと思う。私はそんな嫌みな小姑(じゅうと)のような立場にないので,それで分かるのだけれども。
 非常につまらない例ではあるが,そういうことは,「許可」とか「校庭」とか「使用」とかいう言葉だけを問題にしているときには出てこない問題であるから,ごく単純に,文脈とか,修飾とかいうことになってくると,それなりの問題でしかないけれども, それを含めて,我々にとって表現とは何なのかということを考えたい。
 さらに,それをもっと広げると,国語とは一体何かという理念,言語の理念といったものを国の中に示すとか,外国の人に示すとか,日本人は日本語をこう考えているんだというふうな,ディテールを離れたより大きなことを一つ問題にする。幸い,ここには有識者がたくさんいらっしゃるわけだから,そういう方々のお知恵を結集して,大臣に対して,細かいルールの取決めの答申をすることもさることながら,我々は国語をこう考えていますという答申をするとか,そういう冊子をつくって世に示すとか,国語とは何かを考えようということを論点の中に入れていただきたい。なかんずく,それは表現の問題ではないかと思うわけである。
 もちろん,細かい言葉遣い,実際に日常的に困っていることがたくさんあることは重々知っているけれども,それだけではなくて,そんなこともお願いしたいと思う。 

市川委員

 私,第1回のときに,日本語の国際化に関連して,日本語と国語の相違ということをお伺いしたが,先ほど来の三次委員,江藤委員,中西委員のお話は,どうもその辺に関連してくるようなので,それに関連して意見を申し上げたいと思う。
 私は,第2回は欠席したのだが,尾上委員の御発言を議事録で拝見して,次のような解釈を進めたわけである。要するに,国語というのは,先ほど江藤委員から御紹介があったように,我が国で使われる言葉の「目安」,「よりどころ」という形で,必ずしもそれに限定されないというぼかしが入っているわけであるが,私は別のぼかし方もあるのではないかという気がする。
 実は,言語には2種類あって,一つは自然言語と言われるもの,もう一つは人工言語と言われるものである。自然言語というのは,定義するのは難しいのだが,自然発生的にある文化を持った集団に使われているコミュニケーションの手段とでもさせておいていただければよろしいかと思う。人工言語というのは,先ほど三次委員もやや触れられたところがあるけれども,そこで用いられる文字,単語,文法等が厳密に人工的に規定された言語である。計算機のプログラムの言語はその典型的なもので,要するに,計算機という機械とそれに極めて深くかかわるプログラマーという特殊な集団のもとで,意思疎通に誤りがないようにという目的で規定された言語である。
 さて,この自然言語及び人工言語という二つのカテゴリーを考えてみると,我々は一体何をしてきたかということがはっきりするわけである。と言うのは,日本語というものは,かつては自然言語であったと考えられるわけで,あるいは平安朝時代に母音を五つに減らしたことがあるそうだから,あの辺で人工化をされたのかもしれないが,それは別として,自然言語であったものが,明治の初頭に「日本の国」という意識が出てきて,標準語が制定された。ここが近代的な意味での人工言語化の第一歩であったのではないか。以後,営々孜々(しし)として今日まで,「日本語」と称する自然言語を「国語」と称する人工言語化してきたのではなかろうか。
 そう考えると,私は,「日本語」と呼んだときにはこれを自然言語と思い,「国語」と呼んだときには国語審議会が人工言語化を進めている言葉であるというふうに定義するとよろしいのではないかという気がする。
 そうすると,次の問題は,「日本語」と「国語」を我が国という集団の中でどう扱うかという問題である。
 人工言語であるから,はっきりと人工言語を適用する場を決めなければならないわけである。例えば私なら私に,私の知らないプログラム言語を使えと言われても困るのと同じように,それを知らない人に強制するわけにはいかない。となると,基本的には,国が定めた国語審議会が規制あるいは人工言語化したものであるから,国の機関がかかわるところで用いられる言葉である。こうすることには問題はないだろうと思う。
 ただ,こうしても,周辺はぼけてくる。国にかかわる機関の中では国語をお使いになるのは結構だし,国の機関から外へ出すときに国語をお使いになるのは結構だが,国の機関が受け付ける文書,言葉等は国語でなければいかんかというと,これは不可能になってくるので,受け付けるものは日本語にせざるを得ない。
 これは極めて自然なことであって,今日,御存じのように,国際入札に関連して,日本政府は政府調達において英語の入札を受け付けるべきであるという主張が,かなり現実感を持って出てきているわけであるから,明らかに日本語ではないものを受け付けざるを得ない状況になったとすれば,いわんや日本語を受け付けるのは当然であって,国語でなければ受け付けないということはあり得ないという気がする。
 さて,そうすると,次は国の機関以外のところで国語を使うかどうかという問題が出てくる。先ほど来御指摘のように,新聞とか,その他公共的機関,さらには計算機メーカーはどうなさるかということだが,これは基本的にそれを主宰なさる方の自由意思ではないかと思う。だから,国語しか知らない人が読めない新聞があってもいいし,使えない計算機があってもいい。いかなる言語においても,こういう言い方は嫌な言い方かもしれないが,教養のある人しか読めない言葉はどこにでもあるわけで,あらゆるものがぎりぎりの義務教育的なもので理解できなければいけないということは,少なくともその文化圏においてはないはずであるから,国語を準則としてお決めになるかどうかということは,それぞれの御自由ということでよろしいのではないかという気がする。
 以上,いろいろ申し述べたけれども,問題点整理委員会等で整理なさる上での仕分けの一つとして,お考えいただければ幸いである。

沖野委員

 私,政治記者を30年ばかりやってきて,政治記事は大体情報第一で,言葉とか文章は,ないがしろとまではいかないけれども,割と簡単に考えるという習性があるわけだ。そういう意味で,過去2回の皆さんの御審議,御意見を拝聴して,非常に啓蒙されたわけであるけれども,その中で3点ばかり,今後整理委員会で検討していただいて,推進していただきたいと思うことがある。
 まず第1点は,村松委員だったか,政府官公庁と外来語の問題を提起されたけれども,あのことは非常に重要なことではないかと思う。
 第2点は,ルビの多用というか,これを活用すべきだということ。
 第3点は,私どもの会社でも非常に急速に進んでいるワープロ化の問題である。これもさっき江藤委員から出たが,JISと常用漢字表の字の問題,JISの方が異体字が多いとか,辞書にない字があるとかいうことである。これは通産省と文部省で二元化していくんじゃないか。これは今のうちに手を打たないと,急速に二つのレールで進んでしまうという感じがする。私どもの会社でも,近々ほぼ100%ワープロ化するので,今のうちにやっておかないといけないんじゃないかと思っている。
 以上3点を整理委員会の方で早急に検討されて,推進していくようにお願いしたいと思う。

石井委員

 先ほど江藤委員が御指摘になった「柿」の字の問題だが,多分,それは私の書いた駄文だろうと思って恐縮している。
 ちょうど今ごろになると,晩秋の風物詩として,各新聞は白壁に映える干しがきの写真を撮って,夕刊などに使う。そのときの説明,見出しでも本文でもそうだけれども,「干しがき」というときに,漢字を使うと校閲部で大概片仮名に直されてしまう。そういうことで,この間,塩田丸男さんがテレビで,この「干しがき」の「柿」が片仮名では,「悪ガキ」と一緒じゃないかという御指摘があったので,なるほどと思いながら書いたコラムなのである。
 やはり,これからの問題整理としては,常用漢字表にない漢字の問題にまで踏み込まざるを得ないんじゃないかと思われる。今のところ,私の方はルビで逃げているのだけれども,これも大変不便というか,ルビを振ったり振らなかったりというのは,読者にとってどういう印象かなということを恐れながら,恐る恐るルビを振っているというのが,新聞界の現状じゃないかと思っている。

菊池委員

 日本語と国語の問題と,国際化の問題を結びつけて考えてみたいと思う。今までのお話は,大体書き言葉,漢字を中心,に出てきたと思うが,話し言葉のレベルで申し上げてみようと思う。
 日本語を学んでいる外国の人は,日本語は大変分かりにくい,理解しにくい点が多いとおっしゃるわけである。その中に,まず敬語の問題があるけれども,敬語の話は長くなるのでまた次の機会にすることにして,日常私どもが話している国語の中に,非常にあいまいな言葉が多いということがある。例えば,買い物に行った場合に,「リンゴを五つください。」「ミカンを1キロください。」を「五つぐらいください。」「1キロぐらいください。」と,アバウトという形で表現するのが,何となく相手に思いやりがあるとか,情けが含まれているとかいうことがある。
 それから,外国人は,日本人はイエス・ノーがはっきりしないとおっしゃるけれども,日本人は例えば「いいえ」と言った場合でも,それは全面的に否定しにくくて,相手の気持ちを酌んで,何となく「いいえ,一応考えてみましょう。」と,否定に肯定をくっつけたりして話をしている。そのほかにも,幾つか分かりにくい言葉があるわけだ。固有名詞を一々言わないで,「あれ」「これ」「それ」と,代名詞を使ってしまうということもある。
 私どもは,日本語,国語として,無意識のうちに分かり合った人たちの中で話し合っているけれども,国際化の視点から考えた場合に,外国人には理解しにくい,分かってもらえないという日本語がたくさんある。私は,3年間ヨーロッパで生活していたときに,向こうの人とお付き合いをしていて,何でもかんでも言葉で表現しなければ理解できないという生活感覚と,日本人のような言外ににおわせるニュアンス――それが人間味になって出てくるわけだけれども,そこでお互いに理解しにくい問題が随分出てくる。
 これから国際化という視点から考えていく場合に,こういうものは日本語の伝統的な文化の中で育った言外ににおわすニュアンスといったものだから,守っていく方がいいと考えられるものなのか,それとも国際化の中でお互いに理解し合えなければまずいのだから,こういうことも今後は改善の一つの課題として考えるべきものなのか。
 私もよく分からないし,言語学が専門ではないから,詳しいことも申し上げにくいけれども,伝統文化を守っていくという立場から考えれば,国語を正確に伝えていきたいし,一方,日本語を世界に普及させていくというのも大切な役割かと思うわけで,その辺は大変大きな問題なので,ひとつお考えいただけたらいいなと思うわけである。

坂本会長

 なかなか大きな問題の御提示かと思う。

中西(朗)委員

 私,教育の立場から発言をさせていただきたいと思うが,3点ある。
 一つは,先ほどの指導上の規制の問題であるが,現在の小学校,中学校においては,一つの決まりというものがある。それに従って指導しているわけだが,そこで一番ひっかかってくるのが,中学校及び高等学校の入試問題との関連である。現在は,これは指導外の漢字であるというように,それぞれ中・高に対して指摘を繰り返しているわけだけれども,本当にそれでいいのかどうかという疑問をいつも感じている。
 方向としてはいいのかもしれないけれども,どうしても仮名書きでは書けないものがあるような気がする。仮名で書くと,その人の心がどこかに飛んでしまうのではないか。さっきの「柿」の話になるかもしれないが,漢字を書くことによって本当の気持ちが表れてくる場合がある。しかし,それが規制されているから書けないという状況もあるのではないか。その辺のところを今後どういうふうに考えていったらいいのか。
 例えば,「信頼にこたえる」というのは,「応」という字は書けないわけである。「こたえる」という仮名もちょっと合わないし,「答える」を書いても全然意味が違ってくる。その辺の制限をこれからどういうふうに考えていったらいいかということが一つ疑問になっている。
 2番目は,これからの新しい学力環境を考えてみると,表現力というものが非常に大切になってくるのではないか。今までは,一つの知識として言葉だけを一生懸命覚えて,いい点をとっていくという子供たちが多かったわけだけれども,これからは表現のすばらしさということを重視していきたい。そういう意味で,表現力をどうやって培っていけばいいのだろうか。日本の言葉のすばらしさを表現を通じて表わしていくにはどうしたらいいのか。
 3番目には,文字を書くということであるが,美しい文字を書くことによって日本語というものを感じてもらえるだろうと思うが,現在の子供たちの字を見ていると,要するに,漫画文字等がはやっていて,くるくる回るような,丸い漢字になっている。これもこの前ちょっと指摘があったけれども,美しい文字を書くためにはどうしたらいいのか。その辺に関しては,現在,中学校が書写関係では一番落ち込んでいるそうだが,その指導をどうやって高めていったらいいのか。
 その三つの点が今私の抱えている課題である。

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