国語施策・日本語教育

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次第・議事要録 意見交換2

山川委員

 今の中西委員のお話と重複するかもしれないが,私たちが子供のころ,小学校などで基本的に教わったのは「読み書き」ということで,その後,いろんな段階を経て入学試験が行われるが,ほとんど「読み書き」の問題であって,「聞く」とか「話す」とかいうことは入学試験にはほとんどないわけである。最近は,就職試験でも,筆記試験を割合軽く考えて,面接を重視するというふうになってきたので,「読み書き」のほかに,「聞く,話す」ということが,これからの学校教育では非常に大事だと思う。
 単純に,知識,知識と言うけれども,知と識は違う。「知によりて識によらず」という言葉があって,人を選ぶときに,識は余り関係ないんだ,一番大事なのは知なんだということを言う人もいるけれども,まさに知の部分は聞く,話すということであって,識が基本的な読み書きになるのではないかと思う。その辺の「聞く,話す」ということを初等教育でしっかりと植え付けていく。
 各県の自治体,学校によって教科書はいろいろ違うけれども,日本語というものが広く全般に理解が得られるように,そして日本語は面白いというような興味を持たせるためにも,文化庁なり文部省なりの指導がトータルシステムでとれないだろうかということを感じる次第である。

坂本会長

 まだ御発言いただけない先生方もおいでになるかと思うが,いかがか。

寺島委員

 国際化というお話が出たが,第1回のときから出ていて,多分それは欧米の方を向いた国際化というお話で――もちろん,いろんな技術の進歩とか,そういうことを考えると,そうなるのは当然だと思う。
 この間,新聞を読んでいたら,漢字の問題について,日本・韓国・中国・台湾の学者の方たちが集まって,国際漢字振興協会というのが設立されたんだそうで,漢字を使う範囲とか,略字の統一の問題なんかを話し合ったと書いてあった。
 私は,実は中国生まれで,子供のころに中国にいたから今でも中国の新聞なんかをもらうと,読めると思って見ると,愕(がく)然としてしまう。中国のはみんな略字になっているから,全然読めないのである。韓国の新聞でも,漢字を拾って読めば何か意味がわかるかなと思っても,圧倒的にハングルだから,ほとんど分からない。同じ漢字,共通の字を使っている国なのに,とても残念だなといつも思っていたものだから,こういうことをやってくださっているのか,いいなと思った。
 もちろん,欧米に向かった国際化というのも必要だけれども,せっかく共通の漢字を持っている国同士として,別に国語審議会がどうするという意味ではないけれども,こういうことがもっとどんどん行われて,私どももそういう情報を知ることができるといいなと思った。

坂本会長

 ほかにどうぞ。せっかくの機会であるから,御遠慮なしに御発言をお願いしたい。

中西(進)委員

 これは長官などにも伺いたいのだけれども,いわゆる官庁用語というか,そういう特殊なものがあるのか。
 例えば,私は今国立の機関にいるが,勤めから帰ることを「退庁する」とか,「退庁時間」とか言うわけである。自分は偉くなったのか,何かむずがゆいような気がする。そういう言葉が,正式な言葉としてあるのか,どうか。どうもあるのではないかと思うのだけれども。
 今ちょうだいした資料にも,諮問の「諮」という字で「諮って」と書いてあって,会議なんかでよくお目にかかる字だけれども,普通の生活の中では,「諮」という字を「はかる」と読んで使うことは余りないように思う。
 もしそういう独特の言葉があって,割合に日常的なものでないのならば,そちらの方も変えていただければ,一層我々の言葉の問題も分かりやすくなるだろうという気がするのだが,その辺について, これはむしろ私に対する教育であるけれども,いかがか。

坂本会長

 これは直接の質問のようだが……。

川村文化庁長官

 大変難しいお話であるけれども,官庁用語というのは,やっぱりある。それぞれの役所ごとに使う言葉が定例化されているわけで,今の「諮る」という言葉もそうだが,非常に特徴的な言葉を挙げると,例えば,外務省でよく使う言葉で「前広に……をする」とか,あるいは相手方と交渉をしたときに,「……と言いおいた」というように使う。これは,調べてみると,明治以来使っている言葉だということである。
 文部省は,そういう意味では,特定の言い回しには割と固執はしていないように思う。けれども,役所というのは人間の集合体で,それが上司と部下に分かれて仕事を分担すると,やっぱりそこの社会の言葉,その仲間うちの言葉がだんだん固定化していって,それを外部の人に普通に使ってしまうということがあるのだろうと思う。
 私などは,仲間うちでしゃべるときは符牒(ちょう)としていいけれど外部の人に使うときにはよく気をつけてくれということを随分言うのだけれども,日ごろ使い慣れた言葉ということで言ってしまう。
 それは別に官庁でなくても,我々が民間の方から書類をいただくと,その中で面白いなという表現もあるから,そういうことは,多かれ少なかれあるのだろうと思う。
 ついでに,つまらぬことを言うと,昔はそうやって官庁用語をみんなが使いたがってしようがなかったけれど,最近の若い人はそれを覚えようとしないから,結果として官庁用語はだんだんなくなっていくのではないかという感じがする。

坂本会長

 なかなか微妙な御答弁で……。

中西(進)委員

 それは頼もしい未来なのか,嘆かわしい未来なのか分からないが,それでは使う必要はないわけか。例えば,書類に「退庁時間」と書かなくてもいい,「帰った時間」と書いても構わないということであるか。
 ほかの例を申すと,ある地方自治体で「セイカヒン,セイカヒン」としきりに言われた。「青果」のことかなと思ったら,そうではなくて,「成果を示す品物」ということなのである。例えばここで答申を出せば,これが成果品になるわけである。そういうことを役人が言うものだから,私は最初とにかく耳で聞いて,ニ,三秒はうろたえるわけだ。
 この間,母親が死んで,墓地の権利を引き継いだ。そうすると,権利は「継承する」というのが普通であるけれども,そこには「承継する」と書いてある。法律的な言葉では,「継承」ではなくて「承継」であると決まっているのか。多分決まっているのだろうと思うが,そういうふうなものを変えると,これは権利にかかわる問題だから,いろいろ問題が出てくるということもあるのかもしれないけれども,とにかく私どもに耳慣れない言葉が非常にたくさん官庁,地方自治体,その他墓地の管理事務所,そういうところまで含めていっぱいある。そういうものは何とかならないのかという素朴な質問である。

川村文化庁長官

 今例に挙げられた言葉は,ちょっと私も判断がつきかねるけれども,官庁用語の中にも2種類あって,一つは法令用語で一つの概念が決められているものがあると思う。その法令で決められた概念をそのまま正確に使う。だから,今の「継承」「承継」は多分それじゃないかと思う。
 そういうことは,ここに大出委員がおいでであるけれども,法制局の方で法令用語の審査をされるときに,そういう配慮をされると思うが,非常に複雑な概念を正確に伝えるときに,どうしても一つの決められた専門用語として使うということは必要なのだろうと思う。役人は法令用語をそのまま使うのが好きだから,その定められた概念を正確に表現するために使っている。
 だから,その根っこになる法令用語をどこまで通常の言葉に近づけるのか,あるいは一つの概念を表すテクニカルタームだから仕方がないんだと思うのか,ということだと思う。
 今おっしゃった「退庁時間」というのも,法令に根拠があるのか,ちょっと調べてみないと分からないが,先生のおいでになる国際日本文化研究センターの中で決めているのだろうと思う。勤務時間は何時から何時まで,退庁時間は何時と。そうだとすれば,法令用語としてそれをそのまま使うということは,まあ,仕方がないんじゃないかなという感じがする。
 それ以外に,その役所独特の言葉――今おっしゃった「成果品」というのは法令用語にあると思えないから,多分そうだと思うが,その役所独特の言い回しがあるんじゃないかと思う。

中西(進)委員

 とにかく易しく分かりやすくしていただきたいということだけであって,私の見るところ,一番分かりにくいのは,そういう官庁の文書と旧約聖書ではないかと思う。(笑声) よろしくお願いしたい。

永井委員

 今のお話を伺っていて,言葉というのは非常に難しいものだと思う。官庁用語はもっと易しくする余地が随分あると思うが,一番難しいのは裁判所じゃないか。判決文,起訴状など非常に難しい。それは裁判所の中でも変えようという動きが出てきている。若い判事さんたちがこれはこう変えられるという研究会をやって,大分これから改善されていくのだと思う。例えば「……を奇貨として」とか,「……を欺罔(もう)し」とか,これはあっさり言い換えられる。ところが依然としてそれを使っている。しかし,裁判官,検事でもそれを直そうとしてきているのだから,いわんやほかの官庁においても,そうあってほしい。法令に一定の意味があるので使わないわけにいかぬというのは,裁判なんか特に重要だと思うが,それでも変えようとしているのだから,中西委員が疑問に思われた官庁の言葉は大いに改善の余地があると思うし,もっと分かりやすくできると思う。
 ところが,私はそれは誠にそうだと思うのだが,逆に今度は一般で使われている言葉は,これは難しければいいというものじゃないんだけれども,簡単になり過ぎたというか,豊かさがなくなってきたというか,「分かりやすく簡単」に励んだばかりに,江藤委員が言われた「柿」には漢字が使えないとか,石井委員や私もコラムを書いているのだが,新聞社のスタイルブックに縛られて非常に不自由になってくる。石井委員はルビで逃げているとおっしゃったが,コラムニストはルビで逃げられるけれども,普通の記事はルビを振れといっても,なかなかやれない。あえて使いたかったら,丸括弧で読みを入れるわけだけれども,そうするとまた長くなってしまう。こういうことがある。
 新聞社でも苦労しているのだが,若い人たちの言葉遣いなんか,逆に簡単になり過ぎた。日本語で「雨」の種類はたくさんあるというのは有名な話のようだが,「時雨」「五月雨」などたくさんある。恐らく若い人はどんな雨でも「雨」としか言わなくなってきているのではないかという気がする。
 簡単にするのは易しいし,官庁にもお願いしなければいけないのだが,一度柔軟さを失ったもの,豊かさを失ったものというのは,取り戻すのはなかなか難しい。だから,豊かさを残すというか,そういった方をどういうふうに考えるか,それを考えなければいけないんじゃないか。
 外国人に分かりやすい言葉をというお話があったけれども,これは一緒になる問題ではないと思う。二つ別々の問題で,分かりやすくすることはうんと分かりやすくしなければいけないけれども,そればかりに傾くと,せっかくの豊かな我々の日本語が死んでしまう。外国人に教えるような日本語だけになっても全く困ることで,全体の印象で言うと,私はどっちかというと,豊かさが失われてしまった方が残念だなという感じを持っている者である。

幸田委員

 初めに江藤委員,中西委員,それぞれがとてもいい私の代弁をしてくださったので, もう言うことはないと思って,いろいろ伺っていたけれども,「読み書きそろばん」の「読み」は,私は声を出して読むと解釈している。それが今は全くなくなって,頭で読む。だから,「書く」ことも,余り読まないからできなくなったけれど,「読む」ことはもっとできなくなった。
 今の御発言と全く重なるけれども,表現の豊かさがこれ以上なくなっていいのだろうか。言葉を国際的に通じるように,分かりやすく簡単にしていくことを大事にしていくということは,全く別なことで,私も外国の方に教えるようなこと,カセットに入れるようなことも随分やっていて,難しいということもさんざん聞かされているけれども,それとまた全然別なことで,私たちが日本人として,日本語で書かれた日本のすばらしい遺産,世界に誇れるようなすばらしい財産,文化を,読めなくなってしまっていいのかという,とても迫った問題があるのではないかと私は思っている。
 私自身がそういう文章を読んで,もう何十年も前になるけれども,なぜそんな難しいものを読むのか,現代語に訳して読めというようなことを言われたこともあった。それでもあえてずっと続けてまいったけれども,ますます読めなくなっている方が多くなっているのではないか。
 先日もそういう機会があって,いろんな方々と話した。私も大学で教えていて,今の学生たちがどれほど読めないかということを実感している。だからこそ,微力ながら,少しでもカを尽くさなければいけないのだと頑張ったり絶望したりしているけれども,私たちが考えて,その学校ではまさかというような学校ですら,もう明治文学は読めなくなったと伺った。昔の私たちの小学校時代は,先生が本を先に読んでくださる。全員四,五十名が声をそろえて読んだ。そういうことをその先生は実行していらっしゃるそうで,そうしなければ読めないんだそうである。
 もうちょっとすると,私が読んでいることも,お能か何か聞いているように全く通じなくなってしまうだろう。頭で読むということを続けていらっしゃる方は,すばらしい財産があるわけだから,それは続いていくだろう。もちろん,そんなことに絶望はしていないけれども,声を出してその表現を楽しむということ, しかも声を出して読むのが一番正当な享受の仕方であったころの財産である文学,それは声を出して読まなければ,その本当の魅力は感じられないんじゃないかと私は思っている。だから続けているが,そういうことはもうなくなってしまうのではないか,だれも読めなくなってしまうんじゃないか,これは大変なことだと思う。先生自体がもう読めない,読みたくないというようなことがあると,今の学生たちは,それがますます遠くなっていく。とすると,もっともっと絶望的になるわけだが,実際は国語教育の中でもそういうものが見直されて,私もこういうことを言い続けてまいったけれども,文部省も随分そういうことに力を注いでいるのではないかと思う。最近はまた,そういうことが大事だと言われ始めているけれども,その中で,先生たち自身が読めないということになっていて,それもとても心配なことである。読めなくてもいいのだろうか,そんなことを私なんかが言うのはおかしいことなんだろうかとか,ちょっと悲観的になってしまったりすることもよくあるのだけれども,それはどうなのだろうか。日本の中の何人かが読めればいいのか。そういうことは大事ではないのだろうか。
 経験から言うと,古典から現代まで,各学校で読む機会が多くあって,この間は中学校に行った。今の近代古典に入っているような文章は,中学1年生には難しいだろうと思ったが,何が聞きたいかとか,どれが良かったかとか,いろんな話を前後にすることができて,生徒たちは現代文よりも,むしろ美しい表現の感じ取れる文章を聞きたいと,そういう要望が,手を挙げてもらったら,5分の4ぐらいもあった。現代のものと両方読んだ。そして読んだ後,感動したとか,日本語の美しさを感じたとかいうのが,学校の先生たちが難しいとおっしゃって避けていらっしゃるような文章の方であった。
 そういうことを小学生でも感じることがある。だから,小さいうちにどんどんルビを振って,たくさんの時間でなくてもいいから,そういう美しい文章を声に出して読むというようなことをすれば,体の中でそれが何となく育っていくと思う。
 うまく言えないけれども,もう読めなくなってしまってもいいのかと,そこまで言っても言い過ぎではないようなことをちょっと感じたので,皆様に伺ってみたいなと思ったのである。
 もしそうではないとすれば,小さいうちにいい文章を,意味が分からなくても,いい文章は声を出して読むと気持ちがいいというように,体で読む楽しみを知らせることが大切ではないか。「読み書き」の「読み」は,言葉が分からなくてもとにかく読む。漢文なんかその最たるものと思うけれども,そういう言葉の美しさというのは,小さければ小さいほど感じてもらえる。子供にはそれだけのすばらしい力がある。上の方より,むしろ小さい方たちに新鮮な驚きを感じながらいろんなことをやっているので,ちょっと申し上げた。

坂本会長

 大変象微的なことも含めての御発言であった。

永井委員

 先ほど私が申し上げたことに補足して,今のお話を伺って感想があるのだが,中西委員がおっしゃった「許可なく校庭の使用を禁ず」の看板で,私の父親が言っていたことを思い出した。
 私の父親も国語の教師をやっていたが,ある大学のキャンパスの芝生に看板があって,それが10年か20年前は「この芝養生中」と書いてあった。芝が養生している最中だから入るなということなんであろうが,「この芝養生中」としゃれた文句で書いてあった。それが10年たつと,「芝生を踏まないでください」と,非常に分かりやすくなった。そのうちまた10年たったら「立入禁止」になった。(笑声)
 そんなことで,父が「この芝養生中」を非常に懐かしんでおったことを思い出すのだが,そのうちにひょっとすると,今の話を先に延ばすと,「オフリミット」になってしまうのじゃないかという気がする。
 芝生の「立入禁止」というのは,何も「養生中」と書く必要はなくて,分かりやすければいいんだけれども,つまり,言葉には両方の側面がある。目的がはっきりして分からなければいかんという側面と,「この芝養生中」のように,山川委員のおっしゃる面白い日本語というか,そういった面もなければいかん。そのどっちも大事にしていかなければいけない。これはどっちを捨ててもいけないんだろうと思う。二正面作戦でいかなければ仕方がないと思う。

菊池委員

 先ほど私,国際化の問題を申し上げたけれども,ちょっと誤解されたようなので,申し上げてみたいと思うが,表現の豊かさを阻害してまで簡略にして外国人に分かるようにという意図ではない。私の申し上げたかったのは,日本の伝統文化の中から来た思考力というか,考え方が,言葉で表現するときに,言外のニュアンスを酌み取らなければ分からないような簡略な言葉で表現されているというか,あいまいに表現されている。「五つ欲しい」というのに「五つぐらいいただけますか」とか,「だれだれさんは」という固有名詞を何度も繰り返すのが大変だから,「あれ」「これ」という形で表現をしてしまう。それが外国人には非常に分かりにくいということを申し上げたわけである。
 例えば私の経験の中でいろいろ対話をしているときに,愛情の問題を話し合う場合にさえ,言葉ですべてを表現しなければ納得できないという生活習慣というか,生活感覚がある。日本語であれば,そういうことは表現に出さないで,「好きなんだ」「愛している」と言わないで,もっと別の遠回しの言葉で表現していくのが当たり前のことになっていて,それを分かり合って,何となくうなずいてしまう。ところが,欧米式の思考様式ではそれが許されないということなんで,今の貿易の問題,米の問題等にはかかわらないかもしれないけれども,非常に契約の面でも誤解を招いている面が多い。学問のディスカッション等では余りないわけだけれども,個人的なお付き合いであれば,随分誤解されていることが多いのではないか。
 そういう意味で,表現をもっと豊かにする必要があるかもしれない。むしろそちらの方で明確に表現する必要があるんじゃないかということを申し上げたかったわけである。
 それから,「読み」の問題については,私も幸田委員と同じように,大学生を扱っているけれども,新聞用語のようなものも読めない学生が大変増えている。これは悲しい現象だと思って,一々直してあげたりしながら指導していく。大学生の実力がこれでいいのかと反省することが随分あるので,その辺は全く同感である。その辺,誤解のないようにお願いしたい。

幸田委員

 決して誤解していない。非常に大事なことだということは,同じように思っている。

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