国語施策・日本語教育

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次第・議事要録 意見交換3

市川委員

 先ほど来話題になっている文化の問題と国語の問題について考えてみたいと思う。
 自然言語という言葉を使わせていただくが,ある文化は必ずその文化に固有な言語を持つ。私が文化と申したのは,生物の個体がたくさん集まってきて集団になって,その個体間に通信が始まり,かつその集団がある環境のもとにさらされたときに自然に定まる行動様式,これを私は文化と呼んでいる。その自然に定まる行動様式の一つとして,そしてコミュニケーションの一つとして固有の言語があるということは当然のことである。それが簡単とか複雑とか,分かりやすいとか分かりにくいとかの問題ではない。
 だから,私はさっきの中西委員の御発言にちょっと反対なのは,官庁用語というのはあってもいいので,それは官庁という文化の中において自然に発生し,そこで非常に効率的に機能し得る言語なわけであるから,それはそれでいいわけである。
 同様に,例えば五十何年間親しんだ夫婦の場合には「あれ,取って」「これ,取って」で通じるかもしれない。それはそれでいい。そういう自然言語なのである。
 ところが,問題は,例えば日本人――日本人の定義がまた難しいかもしれないが,ここは国語審議会なので,言葉が大変なんだけれども,(笑声)この37万8000平方キロメートルの上に住んでいても,気候が違い,何かが違えば,たくさんの自然言語が発生してくる。これもまた当然のことなのである。
 そうしたときに,複数の自然言語,これを仮にα,βと呼ばせていただくと,そういう複数の自然言語が発生して,一番望ましいのは,そこの構成員が全自然言語を分かって,それで交信できることである。ところが,それは次第に駄目になってくる。そうしたときに,人類は――人類はというのはオーバーだが,どういう手段をとったかというと,一つは翻訳である。すなわち,αという自然言語をβという自然言語で表現するからくりを考え出した。これが一つ。
 もう一つの方法は,ある区域なり,より大きな集団を規定して,そこで使う標準化された言語,コモン・コア言語,共通核言語というべきものを設定することであり,少なくともこれだけは全員がそれを用いて交信できるようにしようという,そういう核を作ることである。
 私は先ほど「国語」というものを人工言語と規定させていただいたけれども,私がここで言う「国語」というのは,そういう性格を持った限定された人工言語であると,こう思いたいわけである。
 そうすると,先ほど来,国語が何とかになると,文化がどうかなるというお話は,これはおかしいのであって,それは標準言語,コモン・コア言語を定めた責任ではなくて,それぞれ固有の文化というものを継承する機会を与えないか,あるいはそれを継承しようとしたとき禁ずるか,そういうことが効いてきている問題なのである。
 例えばお芝居の上で非常にきれいな読み言葉としての言語があったとすれば,それが継承されないというのは,それを継承させる努力をしないか,あるいはそこで用いられた言語を例えば学校で使ったときに×をつけるとか,そういうことがあるから継承されないのであって,そういう特定の集団の中で――集団というと言い過ぎかもしれないが,特定の文化の中で使われている言語を駄目にしないようにさえすれば,文化というのは継承されるものなのである。したがって,これはコモン・コアの言語を定めることとは別の次元の問題である。これは教育の問題であり,文化の伝承の問題であり,それをコモン・コアの言語と一緒くたにしない方が私はいいと思うわけである。もう一つ,国際化について申し上げようと思ったら,先ほど御意見が出たので,省略させていただく。

江藤委員

 私,市川委員と東京工大で20年ぐらい御一緒でして,今非常に懐かしく御発言を伺っていたわけである。
 工大で会議をするときには,先生の人工言語の概念規定というのは多少特殊だと思うけれども,大体私の定義による自然言語でしゃべっていて,αとかβとか,コア言語がどうしたという話にならないで,普通の話をしているのだが,工大の学生は,市川委員の前だけれども,どっちかというと,数学が得意で国語の嫌いなのが多い。
 けれども,これは幸田委員にちょっと申し上げたくて発言したのだが,その数学が好きで国語が嫌いな工大生といえども,私が朗々と――と言いたいが,つっかえつっかえでも『平家物語』をそのまま読むと,みんな理解する。完全に理解する。しかもそれについてレポートを書かせたり,試験をしたりして,感想を書かせると,すばらしいのを書く。数式であるとか,化学方程式であるとか,コンピューター言語の体系であるとか,それらを脇に置いておいて,彼らを自然言語にとっぷり潰からせて,しかも伝統的な韻律のある言葉をこちらが読む。本当に琵琶法師になったつもりで読む。これを1年生にやらせるということを,私は5年ぐらいやった。そうすると,完全に理解する。これを完全に理解するということは,つまり,自然言語の何千年来か分からないけれども,日本語という言葉をお互いに使い合って心を通じ合わせてきたこの人々の長い歴史が,これは一体どう説明していいのか分からないけれども,血肉となって伝わっているからであると思う。
 彼らは英語ができると思っているかもしれないけれども,例えばシェークスピアをそのまま英語で読んで分かるかというと,絶対分からない。ところが,『平家物語』なら分かる。『源氏』ですら分かるのである。私は3,4年生に,『源氏』の英訳本,アメリカ人が訳したのとイギリス人が訳したのと,非常に対照的な英訳本があるが,いかに『源氏』が変えられているかということをゼミでやったことがある。これには数学の先生が伝え聞いて出てくださった。一生懸命に全部テキストを買ってきて,「なるほど, 日本語というものは数学の方に還元できないものである,本当の自然言語の世界である。」といって,納得してくださった。だから,全然絶望なさることはない。日本人は日本語を理解して,どんなに国際化したって,英語を理解するよりはるかに深く深く理解する。

石井委員

 私非常に恥ずかしい告白をするけれども,今,樋口一葉が分からなくなってきている。一葉を活字で読むと,つっかえつっかえ3行,4行ぐらい行くと,あれ,3行前は何だったろうかと,すらすら読めなくなってきた。ところが,私は幸田弘子さんの舞台が大好きで,しばしば拝聴するけれども,幸田さんの朗読する『たけくらべ』にしろ,『にごりえ』にしろ,『十三夜』にしろ,不思議なくらい一発で分かる。耳から入ると,あの難しい明治文学の難渋した活字が,一発で分かる。
 あれは多分日本人が持っている日本語というものに対する,血脈を流れているようなリズムというものを,私が私なりの頭でなくて体で受け取るのだと思う。文章,言葉というのは,リズムなんだなあ,吐く息,吸う息,人間のバイオリズムのような何かそういうリズムがあるのだな,それを子供たちに繰り返し繰り返し暗唱させたり,朗読させたりということで,血肉とさせることができるのではないかなと思う。

尾上委員

 私,前回の議事要録の16ぺージに書いてあるけれども,国語と日本語の区別について,近代国家の形成によって日本とかイタリアとかいう場合に, ナショナル・ランゲージ,あるいはリングァ・ナチォナーレという政策的な意図でそういう統一が行われて,それまでは国語という概念はなかった。国語というのは,近代国家の政策的誘導が多少とも入っておるということを申して,それを市川委員に非常に的確に御理解いただいてうれしいのだけれども,人工という言葉は私は使っていない。これは恐らく江藤委員が言われたように,ちょっと強調し過ぎというか,言い過ぎではなかったかなと思う。そういう意味では誤解ないようにしていただきたい。
 それから,今まで余り問題になっていないけれども,それまでの言葉――それまでというのは近代統一以前の言葉ということだが,それにはある程度方言というものがあるわけだ。方言というものは,また国語とは違うものだが,日本語であることは間違いない。私どもの場合には,東京の大学に入ったら東京の言葉は私の本来の言葉とちょっと違っていて,ニつ覚えるというのがこの国で生活するには一番いいなと思った。方言の研究をしている杉藤先生という女の先生がおられるけれども,その方に言わせると,まだ日本の現状では,方言と標準語の二つをしゃべれるのが一番理想的だと。私もそうだろうと思う。それから,易しいほどいいのか,豊かな表現を残していったらいいのかということであるが,1度ヨーロッパで日本学者ばかりの会議があって,私は経済学だけれども,柄にもなく司会をした。そうしたら,議場から質問が出て,日本のことはいいことが多いけれども,あの難しい漢字を何とか廃止して,ローマ字にしてくれないかという質問が出た。私はまた動かされやすいものだから,ローマ字主義者というのがおって,私の先生の中にもローマ字主義者がいたという話を調子良くしゃべっていたら,また別の方から手が挙がって,そんなことをしてもらったら困る,あの難しい,しかしあんなきれいな漢字をどうか保存してほしいという意見が出て,私も弱ってしまった。(笑声)
 それで答えたことは,二つ目的がある。コミュニケーションを容易にするということと,固有の文化を残すということ。この二つは別の目的なのだと言って,何とか切り抜けたのだけれども,これは切り抜けたというより,先ほどから先生方のお話を聞いていると,大体皆さん,そういうことになるんじゃないかと思う。
 この国語審議会も大体そこら辺を共通認識として,審議会としては,国語を易しくする,しかし,日本文化の豊かさはできるだけ教育上残していこうという両目的でいくよりしようがないだろうというふうに思う。

大野委員

 大学生の実態の話が出たので,送り手の方のお話をさせていただきたいと思う。
 私は国語専攻でなくて,数学の専攻なので,本当に場違いなんだけれども,それでもよろしいからぜひ受けろということで,この場に出させていただいている。
 昨年,古典の研究授業をするから来てくれということで,見せていただいてびっくり仰天したんだけれども,今の古典の授業というのは,読むことはそこそこにして,この言葉の品詞は何だとか,尊敬か謙譲かとか,そういう細かいことばかりをつついているという授業だった。私が高校生のときは,先生が音吐朗々と読んで,どうだ,いいだろうという調子で,僕らはきょとんとしていたんだけれども,何となくその雰囲気に浸ったという面があった。それが今ほとんどない。例えば料理を出されたときに,ゆっくり,ゆったり味わうのでなくて,カロリーは幾つだ,材料は何だとか,そんなことばかりつついているような感じがした。それはなぜかというと,大学入試にそれが出るからで,それができないと合格しないからという面があるのだろうと思う。
 つい先日も,面接に行く生徒に面接練習をしてくれということで,いろいろ聞いたんだけれども,長編小説を読んでいる生徒はほとんどいない。読んだものは何かと聞くと,同じようなことばかり言う。教料書にある一節を読んで,それでその小説を読んだというような答えをする。そういう面がある。読んでいる小説も,非常に短い短編のものしか読む余裕がない。だから,大学生で読めないのも無理はないような気がする。
 ただ,現在の高校1年生は生徒の急減期の第一波で,それがあと4,5年もたつと,浪人生もはけて,大学も広き門になる。そうすると,高校生にもゆとりが戻って,また昔のような古典の授業,国語の授業が展開されるのではないかなと考えている。

諏訪委員

 電車の中で聞いていると,子供たちは男の子だか女の子だか分からない難しい言葉でしゃべっているけれども,私どものところには手紙がよく来る。例えば小学生,中学生の女の子だったら,花とか人形が付いたようなレターぺーパーに自分の似顔なんかも入れてくれて,文章もちゃんとしている。それも私よりはるかにきれいな字である。だから,言葉が分裂しているのではないか。つまり,日常は仲間うちの自然言語でしゃべっているんだが,手紙を書くときはちゃんと書ける子もいる。そのかわり,大人が私どものところに電話をかけてくるときは,いつもけなすとか,文句を言うために電話をかけてくるせいもあるが,実にぶっきらぼうで,木で鼻をくくったようなひどい電話がかかってくる。日本語をできるだけ短くして,つまり,怒りということだけ,文句ということだけに抽象したような言葉になる。
 要するに,私が言いたいことは,言葉がいろいろ錯綜して,ニ重の言語生活を我々も子供たちもしているのではないかということである。今,言葉の貧困な大学生もいるし, とてもよく分かる大学生もいるということは,言語生活が二重になっているのではないか。
 一番いい例は新劇で,新劇の言葉は分裂している。現象的に貧弱な言葉になっている。だけど,一部分には美文が残っている。分裂しているのは新劇のせりふが象徴していると思う。
 前に『言語生活』という雑誌があって,とても面白い雑誌だったが,今あれに代わるものがない。それで,今日本の国語が衰弱しているのか,あるいは衰弱しながら,何か別なエネルギーを中に蓄えているのか,今の国語の現状はどうなのか,国語の勢いはどうなのかというようなことをもっと科学的に知る方法があれば,それを知る努力をしなければいけないのではないか。つまり,国語の国勢調査をやる。悉(しっ)皆調査の必要はないから,抽出調査で,読書調査とか国民意識調査とかいろんな調査を組み合わせて,国民それぞれの各階層の人たちがどんな意識でどんな言葉を今しゃべっていて,どう思っているかということを,国語研究所でやっているかどうか分からないが,もしできたら,そういうことをお考えになったらどうかという気がする。

坂本会長

 大変活発にたくさん貴重な御意見を拝聴いたしたが,副会長,いかがか。

沖原副会長

 私も国語が専門ではないのだが,今いろいろお聞きしていると,教育が悪いという声が大分ある。学校がうまくやってないんじゃないかという声が出てきたので,関連する校長先生方にお聞きしようと思っていたのだけれども,私の大学でも国語の先生方が十数人もおられる。ちょっとお話を聞いて見ると,国語教育の現代の一つの大きな問題点は,先ほどからいろいろ出ているが,「読む」「書く」ということに重点があって,「話す」ことについては非常に弱い。少なくともイギリスとかアメリカではスピーチというものが国語の時間に非常に重視されている。これは日本でも,社会生活をするのに,説得するとか討論するとかいうことが重視されれば,当然学校教育でスピーチが重視されることになると思うけれども。読むことも不十分だと幸田委員からお話があったが,現在の国語教育では「読み書き」に重点があって,「話す」ことには重点がなくて弱い。その辺を改めなくてはいけないのではないかというわけである。
 きょうは国語教育の一つの問題だけ申し上げたが,その辺,小中の方ではどうなっているのか。話すということは余りやっておられないのか。やっぱり入試が関係するのか,いかがか。

大野委員

 先ほど申したとおり,私は国語の専攻ではないのだけれども,古典の授業なんかに行くと,何かもの足りないような気がする。

坂本会長

 きょうは大変貴重な御意見をいただいて,充実した総会であったように思う。江藤委員から,所管の文部省だけでなしに,日本の官庁の縦割りのそれぞれのところに呼び掛けて論議するような場を持つようにしたらどうかという御意見もいただいたので,そういうことは今後,文化庁に考えていただいたらと思ったような次第である。
 なお,初めに申し上げたように,御意見をお持ちだけれども,きょう発言できなかったという方は,書面の形でも結構であるから,事務局へお出しいただけると幸いかと思う。
 次回の総会は来年の3月を予定しているが,それまでに問題点整理委員会において問題の整理をしていただいた上で,総会を予定したいと考えている。この辺のことで事務局から何か補足することがあったら御発言をお願いしたい。

河上国語課長

 今会長からお話があった書面による御意見については,できれば12月末までに国語課あてお送りいただければありがたいと思う。様式等は別に定めていないので,御自由にお書きくださればと思っている。
 なお,問題点整理委員会は明年の1月から3月まで,4回ぐらい開催していただくことになるのではないかと思う。
 次回の総会は3月末であるが,日取りとか会場については,まだ決まっていないので,決まり次第御連絡をさせていただく。
 以上である。

幸田委員

 一言だけ, さっき江藤委員の後で申し上げようかと思ったのだけれども,それぐらい日本の古典というのはすばらしいもので,読めば分かる。今のように,江藤委員をはじめ読める方がたくさんいらっしゃるうちはそれでいいのだけれども,もうその後を継ぐ人たちが読めなくなってしまっている。そういう段階である。読める方がいなくなってしまったときはどうなるのかということをちょっと申し上げたいと思う。

坂本会長

 なかなか手厳しい御質問で,それは会長としては御返答しかねるので,今後の問題とさせていただく。

市川委員

 事務的なことで恐縮であるが,また理工系ということでしかられるかもしれないが,大変立派な議事要録をお作りいただいている。若干のてにをはの修正とか表現の修正を除いては,ほぼ全文に近い格好のもので,拝見いたすと,大変私は勉強になって,これこそ国語であるという感じがする。これはこれとして,何か表紙の近傍に抄録とでもいうか,前回の議論ではこういうことが話題になり,それについてどういう意見があったかというキーワード,キーセンテンスのようなもので整理をいただくと,私のような怠慢な人間はぱっと見て分かる,それがあると大変ありがたい。多分今後の問題点整理委員会等での御議論にも役立つのではないか,という提案である。

坂本会長

 これは国語課長,試験問題としてお受け止め願いたい。(笑声)
 本日はこの辺で閉会とさせていただく。

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