国語施策・日本語教育

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次第・議事要録 協議1

坂本会長

 そういう意味で,本日のこの報告について十分皆様の御意見を伺わせていただきたいわけである。もちろん,御質問でも結構であるから,この報告に関して活発な御発言をいただきたいと思う。

林(雄)委員

 第1点のところで「目安・よりどころの趣旨が生かされるような柔軟な取扱い」という問題が出されている。私は報道機関の方であるけれども,殊更に厳格にしようとするわけではない。しかし,報道機関の仕事の性質上,ルールはどうしても作らなくてはいけなくて,それによって記事を書いたり流したりしなければならない。書く記者によって毎日書き方が変わったり,略字体だったり,略字体でなかったりというわけにいかないので,綿密に決めた以上は,報道機関の中ではどうしても一つのルールでやらざるを得ないことになる。
 それで,この「目安・よりどころの趣旨が生かされるような柔軟な取扱い」という場合に,これは具体的には,例えば文学や芸術の分野において柔軟なやり方をするようにということをお考えになっているだけなのか。そうでない場合は,仕事の性質上,非常に問題が起こるだろうと思う。つまり,ある一定の基準や勧告をして,それにのっとってやる場合には,業種によっては厳格にきちんとルールに従ってやらざるを得ないということになる。
 だから,柔軟な取扱いをすべきじゃないかと提言された場合に,それは具体的には社会ではどういうふうなことをお考えになっているのか,よく分からないと思った。

坂本会長

 私からお答えしていいのかどうか分からないけれども,先般の外来語の表記の問題についても,例えば「バ」についても「ヴァ」も認めるというような,多少柔軟な姿勢を国語審議会としてはとったわけである。報道機関の表記は,従来一応「バ」ということに決めて,現在も恐らくそれに準拠しているんだろうと思うけれども,私の育った放送の世界では,例えばNHKのニュースの表示では「バ」になっていても,特に芸能の音楽関係になると,「バイオリン」の「バ」が「ヴァ」に表示される。そういうフレキシビリティー――余りフレキシビリティーと言ってはいけないのかな,そういう融通性は認められてもいいんじゃないかというようなことから,委員会での御議論につながっていくのではないだろうかと思うわけである。そこら辺のところは,これから最終的におまとめいただく過程の中で御議論いただけたらと思うのであるが,いかがか。

林(雄)委員

 「ヴァ」か「バ」の場合,我が社の中では大変混乱を起こして問題になったところである。決め方に問題があるという意味ではないが,我が社の中で,通信社として加盟各社に流す毎日の記事の中でどうするのかということは随分問題になった。簡単にこういうことを変えられては困るという意見も随分出た。
 今の場合,ただ単に「バ」だけではなくて,場合によっては「ヴァ」も使うけれども,例えばこのケース,この地名については「ヴ」とか,そういう意味では厳密にルールを決めることは決めて行うわけで,どうでもいいやというわけにいかないという問題である。 

坂本会長

 先ほどの委員会で,そういうことも含めてどこで切るかという,国語審議会としての一つの見識と申すか,そういうものが求められるのではないだろうか。そういうこともあるので,そういうところが一番難しいところになるかと思う。
 ちょっと話題は違うのだけれども,例えば人の名前の問題でも,ローマ字で書く場合に,日本の名刺は名前を前にして名字を後にするけれども,それは不見識ではないか,例えば私の場合なら「Tomokazu Sakamoto」というのを「Sakamoto Tomokazu」とすべきではないかと,そういう御議論もかなりあって,これもなかなか難しい。まあ,どっちでもいいやというのも少し不見識ではないかというので,これも今後の表記の問題になるだろうというので,先ほども例示として挙がったわけである。
 私自身,NHKの中では,現状では「Tomokazu Sakamoto」という形の名刺をもらうけれども,私自身が今度会長になった国際演劇協会というところでは,前の内村直也先生が御存命中に姓を先に名前を後にする形で証明書を出しているというので,それを引き継いで私がITIに証明書を出す場合には,「Sakamoto Tomokazu」というふうにローマ字でやっている。(笑声)だから,私は「Tomokazu Sakamoto」という名刺と「Sakamoto Tomokazu」という英語の名刺を二つ持って歩いているわけで,外国人にしてみたら,おまえは何なのだということにもなりかねない。
 多少笑い話めくけれども,そんな問題もあって,これから御議論いただく一つのテーマではないかなと思う。右往左往しているところなきにしもあらずである。

江藤委員

 今の共同通信の林委員の御発言に関連して,一言申し上げたいと思うが,私最近,新聞,通信社等が用いておられる表記法で奇異に感じていることがある。それは恐らく今おっしゃった御趣旨から推測すると,あるルールを厳格に適用しようとしておられるからではなかろうかと思われるのだが,それはソ連が崩壊してロシア共和国になって,「日露関係」とか「日露交渉」と書くときに,「日」の後に片仮名の「ロ」を使う。初め私は何で「ヒグチ,ヒグチ」と出てくるんだろう,「ヒグチ」関係とは何だろうと思った。(笑声)
 ある新聞社では「日露戦争」の「日露」を使っていらっしゃる。しかし,放送局,大多数の新聞社ではヒグチの「日口関係」の方である。
 ところで,「日露」という言葉は,熟した言葉として日本語に定着している。だから,こういうのをあえてルール違反と考えずに使ってしまう。一部の新聞社のように,「日露戦争」と同じように「日露関係」と書いて使うのを,私は柔軟と言うんじゃないかと思う。しかし,外来語表記の基準を出したので,これに厳格にお従いになると「日口関係」になるので,同じ「ニチロ」関係に二つの表記が併存しているというのは,非常に奇異な感じがする。「日露戦争のとき,日本は奉天大会戦で勝った。」という記述の場合には,「日口戦争」とは決して書かない。「日露戦争」と書く。ところが,実際には二様の表記が社会に氾(はん)濫していて,それが一方は厳格にルールを適用した結果だとおっしゃると,国民一般の言語意識,言語感覚の方から言うと,何で屋上屋を重ねて,1990年代における,あるいはそれ以降における日露関係については「日口関係」であって,19世紀から20世紀初頭における,あるいはロシア革命までの日露関係については「日露関係」と書かなきゃならないんだということになる。そうなると,これは国語の問題ではなくて,何か妙な問題になってくる。
 この辺のことを要領よく柔軟にやっていただいた方がいいんじゃないかという趣旨で,恐らくこの文章には――私はこの起草者ではないが――「柔軟」という言葉が使ってあるんじゃないか,というコメントである。

林(雄)委員

 ちょっとお答えすると,その辺,実は柔軟になっていて,私の会社では漢字を使っている。(笑声) ただ,片仮名でも構わないというか,どこも統一してない問題だとは思う。

杉本委員

 今の御発言にややかかわっているが,今までの経過の御報告を読んでいただいたときに,この中には該当してない問題なので,ちょっと発言したいと思う。私,小説を書いている立場として,とても気になることがある。
 それは些(さ)細な問題のようだけれども,国語の将来というものを見ると,やはり重大なことになるのではないかと思うことなのである。
 漱石や鏡花等,もう半分古典化している明治の作品,こういうものを読むときに,ときどき「ひと」と出てくる。このことは,私と山川委員と俵委員とで『ノーサイド』というところで雑談みたいなことをしたときに,私がちょっと発言して,それが皆様のところに配られたというので,御存じの方もたくさんいらっしゃるかもしれないが,明治から大正,昭和初期にかけての文学作品の中で「ひと」と出てくる。ところが,今の人は「ひと」と書かれていても,何だか分からない。
 これは「ひとをばかにして」という当時はやっていた女性語で,「もう, ひとを……」とか,「ひとを」とか,「ひとつ」とかと言えば,イントネーションだとかしぐさが加われば,「ばかにして」の省略語だということが分かるのだが,単に活字の上で「ひと」と書かれていると,もう今の人は分からないということがある。
 それから,有名な芥川龍之介の『河童』に,「ラップ君,どうしたねと言へば。」という言葉がある。ところが,ある文庫本の解説者は,解説の中で「と言へば」は明らかに誤植であろうと言っている。その解説者は権威ある人で,初版本だとか初出本すべてに「ラップ君,どうしたねと言へば。」と書いてはあるけれども,この「と言へば」は地の文に回るべきで「ラップ君,どうしたね。」で括弧を閉じて,「『ラップ君,どうしたね。』と言へば。」とやるべきであろうということを言っている。そうすると,次にラップ君が「いや,何,つまらないことなのですよ。――」と答えているのだが,芥川氏の感覚でいうと,「と言へば」が地の文に入ったら,彼はすごく嫌がると思う。こっちの地の文とこっちの地の文と「と言へば」がつながってない。
 「と言へば」は,もう御年配の委員にはお分かりのように,「どうしたんだって言へば,どうしたんだよう。」という「って言へば」を「と言へば」と言っているわけで,「どうしたんだって言へば,どうしたんだよう。」という後ろの「どうしたんだよう。」を省略して,「ラップ君,どうしたんだねと言へば。」と言っているわけで,明らかに問い掛け人の括弧の中に入るべきことを,誤植であろうと言っているわけである。
 もし現代の我々作家が,「君は菜食主義者だそうだね。未公開蕪(かぶ)なんて蕪は好きかい。」と書いたとする。我々現代の作家が書いて,現代の方に読ませれば,わざと株式の「株」でなく,食べる「蕪」の字を当てていても,「未公開蕪」というものに皮肉やらユーモアを感じるわけだけれど,これが50年,100年たって,もしその作品が残ったときに,解説する人が「未公開蕪」というのは乱丁か誤植であろう,これは野菜の話なんだから,「未公開蕪」は取るべきで,「君は蕪が好きなんだね。」と言うべきであろうと書かれてしまったならば,大変なこと――でもないが,とにかくその作品の価値はそこのところでおかしいことになるわけである。
 それと同じことがもう現に明治,大正,昭和初期の作品の中で起こりつつある。芥川氏の『河童』だとか,漱石作品,鏡花作品,鴎外作品というのは,日本人の大事な財産でもあり,そして学生の副読本だとか試験などにも使われている作品である。その中で既に権威ある解説者によって,「と言へば」が誤植であろう,地の文に回るべきであろうというようなことが起こりつつあるということ。
 これは何か重箱の隅をつつくような些細な問題のようであると同時に,日本の古典を正しく継承して次の世代に伝えていくという意味では,なかなか重大な示唆を含んだ問題ではないかと思う。であるけれども,我が国語審議会でそれをどうしたらいいかということは,私には見当も付かないので,ただ,ここで一つ問題を提起しておいて,皆様にお考えいただければということである。

坂本会長

 そういう問題も含めて,新しい国語審議会には朗読その他をしてくださる山川委員だとか,幸田委員だとか,俵委員などにお入りいただいているわけで,今ここで結論は出ないにしても,やはり十分検討に値する問題だろうと思う。今後の委員会でも御議論願ったらどうかと思うが,いかがか。

西尾委員

 次の件でよろしいか。

坂本会長

 どうぞ。

西尾委員

 14ぺージで「国語審議会として今後更に審議を深める必要があると思われる問題」として2ページにまとめられたのは,前にたくさん出た意見を要約されたのか,あるいは取捨選択されたのか,その辺りが多少気になるところである。
 その中で,一番最後の5の国語教育というところを見ると,(11)の「漢字を読む能力を伸ばすこと。」と(12)の「朗読などの重視」という二つの項目にまとめられているが,その前の国語教育に関する意見が12ぺージから幾つか出ている中に,私としてはぜひこの中に13番でもいいから,付け加えておいていただきたいと思うことがある。
 それは「入社試験でも筆記より面接が重視される。」云々とあるが,音声教育のところである。「音声教育,話すこと・聞くことの教育を充実させることが必要ではないか。」という(3)の意見の中に,「話し言葉にどういう問題があるかを詰めて,一つの指針を示すとよいと思う。学校教育だけでなく,社会教育,家庭教育……」というふうにあって,さらに「聞く・話すを初等教育から重視してほしい。」という意見が出ている。ところが,この15ぺージに,まとめられたところには記述されていない。記述されていないところにも,実は前に出ている意見の中で重要な部分がまだあるということを忘れないで,取り上げていただければありがたいと思う。
 と申すのは,このようにまとめてしまうと,そこから脱落したところが素通りされていくような気がして,危険を感じるのである。きちんと意見が発表できるようになるということは,これからの日本人として大事なことではないかと思うので,一つ気付いたところを指摘させていただいた。

坂本会長

 今の西尾委員の御発言,今後の整理委員会でも十分検討していただくということでよろしいか。

竹田委員

 私が申し上げることは,敬語の問題に入るのか,今御指摘になった国語教育の問題に入ることなのか,恐らくその両方にかかわることだと思うけれども,私以前ここでいろんな話題を出してほしいという場において,子供が小学生であったときの父親参観日のことを申し上げたことがあるのだが,女性語の問題である。
 敬語と並んで,男女の言葉遣いの区別があるというのは,日本語の優れた点,美しい点だろうと思う。御承知のとおり,今かなりいわゆる女性語というのは減ってきている。ある面で言えば,男女の言葉遣いがくっついてきている。で,我々として,そういう男女の言葉遣いの区別がだんだんなくなってくるというのは仕方のないこと,自然の趨(すう)勢としてそのまま見過ごしていくのか,あるいは言葉は本来男女の区別がないのがいいのだという御意見もあるかもしれない。しかし,最初に申し上げたように,日本語として男女の言葉遣いの区別があった方がいいという御意見もあるかもしれない。その辺のところをもう少しこの場で御意見を伺って,国語審議会として何か意見を出すようなことがあれば,出したらいかがかと考える。

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