国語施策・日本語教育

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次第・議事要録 協議2

坂本会長

 今の問題,女性委員の方から何か御発言ないか。やはり重要な御提言かと思うので,問題点として検討することは当然だと思うけれども。

山川委員

 女性ではないのだが,(笑声)この間たまたま日曜日の「こころの時代」という番組を見ていたら,あるお坊さんが面白い話をしていた。家庭でおじいさん,おばあさんが昔からお米の御飯を前にすると,必ず「お米の中には仏がござる。」と言ってから御飯を食べるんだそうである。その家では,お父さんもお子さんもお孫さんも,みんなそういうものかなと思っている。そのお孫さんがだんだん大きくなって,小学校2年ぐらいになって,理科の実験でお米を顕微鏡で見ることになったらしい。
 そしてそのお孫さん,いよいよ本日初めて仏に会えると思って,喜び勇んで実験室に入って顕微鏡をのぞいたところ,ちっとも仏さんが見えない。それで先生に,「先生,仏さんがないんです。」と言ったら,先生も前後の事情が分からないものだから,「おまえ,米の中に仏なんかあってたまるか,あれはたんぱく質と含水炭素と水とでん粉だ。」このように答えた。
 そこでお孫さんは非常に寂しい思いをして,家に帰って「おじいちゃん,お米の中には仏がなかったんだけど。」と言ったら,おじいちゃんはとても寂しそうな顔をして,ただ一人仏壇に手を合わせて,相変わらず「お米の中には仏がござる。」とぶつぶつ言っていた。その様子を見て非常に感動したという,たわいない話なのである。
 私は,言葉というものは,何でも理詰めに規制してしまったり――それは目安ではあるかもしれないけれども,もっと自由な表現というものを育てていかなければならないと思う。
 例えば甲子園の夏の高校野球で,ふるさとリポーターというのが出て,各県の代表のアナウンサーがスタンドに陣取って,応援団と一緒に放送するが,そのときに,勝つか負けるか,最後まで分からない。予定原稿は書けないのである。しかし,その勝った瞬間,負けた瞬間にアナウンサーが発する言葉は,本当に心のこもった「今,わたしのところにあるおじいさんが抱きついてきました。よかったねえ,おじいさん!」というようなことを言うのだが,それがいかに人の心を打つか,生き生きとした表現かということが分かる。
 日本の国語というのは,非常に高いレベルにあるとは思うけれども,実際使う段階になると,誠にお粗末である。たくさんのパーティーでいろんな方がスピーチされるけれども,そのスピーチのまずさ。あれでいかにパーティーの興趣が損なわれるかということは,皆さん御経験済みだと思う。それは私とても五十歩百歩であるが,そういうことで,何とか小さいうちから言葉の持つ大きさ,感動,強さ,そういうことを先生に教えていただきたいということである。新しい指導要領で小学校から聞く・話すということを重視しようとしているわけだけれども,それをうまく教えられる先生がまたなかなかいないということで,今後その問題は非常に大きな問題になると思う。
 国語というのは生きて使おうということを何とか教育の方でお願いしたいということも,加えていただきたいと思う。

坂本会長

 女言葉,男言葉のことも含めて今の山川委員の御発言は示唆しているかと思うので,今後議論をさせていただきたいと思う。

菊池委員

 私は意見というより,お伺いしたい,御一緒に考えていただければと思うのだが,大変よくおまとめになった中で,教育の問題であるが,4番は国際化に絡んでいる場合は飽くまでも「日本語教育」,5番は従来の「国語教育」である。これは現状で考えれば,どっちかに一本化することは大変難しい,無理だとは思うけれども,ここのところに大変すっきりしない,言語文化を伝えていくのに二重構造がいつまで続くだろうかという不安,そういうのが常に感じられるわけである。
 例えば一つ例を申し上げたいのだが,私どもの大学では,文学部の中に国語国文学科という形でかつてあったものが,今は日本語日本文学科という形で,留学生等を入れながら指導している。
 そしてカリキュラム等の内容を聞いてみたら,やはり国文学者がそこでたくさん教えているわけで,古典は,『源氏物語』だ『万葉』だといろいろやっている。現代文学は現代文学でそれもやっている。そして日本語の使い方等もそれぞれ指導はしているかと思うけれども,そういう形で,卒業生は国語教員の免許をもらえることが一つと,それから外国人を相手にした日本語教育の教員としての――これは国の水準の免許ではないけれども,一応そういう資格がもらえる。一人の人間が同じ勉強をして出ていくわけだけれども,それはそれで過度期の問題として考えられるが,これからそういう立場で教育を受けた子供たちが自分の国の言葉をどうとらえ,どのように伝えていくかということに大変難しい問題があるのではないか。
 例えば,英語を母国語としているイギリスでは,やはり「イングリッシュ」である。私はスウェーデンにいたけれども,「国語」と言わないで「スウィーディッシュ」と言っている。「国語」の場合は,「ネイティブ・ランゲージ」とか「マザー・タング」とかいう形が共通の言葉じゃないか。これが今後の教育について少なからぬ影響を残すのではないかと思うのだけれども,もしできれば,その辺をどのようにまとめられたかを伺えればと思う。

林(大)主査

 ここで「国語」と言ったり「日本語」と言ったりするので,その「国語」と「日本語」という言葉についてどう考えるかということをここへ書いておいたらいいんじゃないかというようなことを,事務局と話し合ったことはあるのだけれども,まあ,それはこのままにしておこうやといって,(笑声)載せないことにしたわけである。
 これからはちょっと意見みたいになるが,私は,自分では非常に重要だと思っているわけで,「国語」と言うときは,国民的自覚において使うところの言語であるというふうに考えたいと思っている。だから,大学における学問として考える上でならば,日本文学,日本語学で結構だけれども,学校教育において国民を教育する上においては,日本語教育じゃなくて,国民としての言語的な自覚を持たせる,日本国民として共通に言語を使う責任を自覚させるというのが国語教育の目標であろうと思うのである。
 「国語」ということには私はこだわっているけれども,そういうふうに言うと,日本の歴史は国史で,我々は「国史」を習ったのに,戦後は「日本史」になってしまって「国史」と言わない。昔の言葉で言えば「御国文(みくにぶみ)」である。「御国」なんていう観念がどこかへいってしまったけれども,言葉も「御国言葉」だったわけである。「御国言葉」が「国語」だったと思う。だけど,国語と言っている以上は,国を単位にして考えるという考え方を私は尊重したいように思う。
 その使い分けがうまくいくかどうか分からないが,私自身はそういうふうにしたいと思っているのである。これは意見である。

坂本会長

 先ほどの運営委員会でも多少同様の議論があって,私は国語審議会としての哲学を持つべきではないかという言い方――「哲学」という言葉を使ったのだけれども。それが多少行き過ぎると,また別の意味の弊害もあるだろうというようなことで,今の言葉の使い分けなどは,今後もやはり議論していくべきではないかというふうに運営委員会としても話し合ったことであるので,この席での結論は御勘弁願うことにして,引き続き話し合うということで御了解いただけたらと思うが,いかがか。

菊池委員

 それで結構である。

沖原副会長

 今の点であるが,大変大切な問題だと思う。英語でも,「イングリッシュ」と「イングリッシュ・アズ・ア・セカンド・ランゲージ」と二つ分けてあって,外国人が英語を学ぶときには,「第二言語としてのイングリッシュ」ということで,教え方も教材もそれに向いたものができているわけである。だから,「イングリッシュ・アズ・ア・セカンド・ランゲージ」に当たるものが,今の日本語教育と言われているものではないかと思うが,そのことはしばらく続くのではないか。最終的には統一されるときが来るかもしれないが,当分はやはり分けざるを得ないのではないかという気がする。

坂本会長

 大分時間も迫ってまいったが,せっかくの機会であるから,ほかに御発言があったらいただきたいと思うが,いかがか。

林(大)主査

 一言だけ付け加えさせていただきたいと思う。
 私,いろいろな御意見を伺っているけれども,どうしたらそれが実現できるようになるかという問題も,我々自身の問題として考えるようにしたいと思うのである。いろいろなことがあって,これはこうした方がいいのではないかという意見があるとすれば,それはどのようにしたら実現していくのだろうかという見渡しがないと,ただ旗を振っているだけになってしまう。旗振り役が国語審議会の役目であると考えるならば,それでもいいのかもしれない。旗振る人がいなかったら大変だから,我々は旗を振るのであるというふうに考えるなら,それでもいいのだけれども,今までは,こう書いてはいけない,こう書かなくてはいけないみたいなことばかりやってきたわけだから,それから飛び出せるかどうか,それを考えてみたい。
 規則を決めるというのは,割合簡単に技術的に決められるわけだが,もう少し高尚な問題,例えば言語意識を高めよう,国民の国語意識を高めようというようなことになると,それだけ言っているのでは,富士山のてっぺんで旗を振っているようなものである。どうやって国民に旗を振ってるのを見せるか,あの旗を見なさいということをだれが言うのか。旗を振っているのを見なくては駄目だということを言っていかないと,駄目じゃないかなという気がする。その辺の議論になると,私にはどうしたらいいか,実は分からない。
 美しく豊かに,言語を大事にしよう,愛護しよう――まさに私賛成だけれども,それではどうしたらいいか。そうすると,ある意味では国語教育というところにしりを持っていくわけである。
 それで,国語教育で何をやってくれるかというと,国語の先生が考えることは,5年生の第何課に持っていって,「日本語の美しさ」なんて文章を書いて,それでやりましたということにしてしまうわけ。それではしようがないんじゃないか。平生の言語の中でやっていくようにしなければいけないんじゃないか。
 ちょっと,これは自分で言ったら,つばきが自分に戻ってくると思うけれども,教員養成の仕方を根本的に考えていただきたいと思うのである。今,国語以外の教科の先生方に対して,国語の授業がない,国語の単位を取らなくていい。言語の単位を取らなくていい。外国語はやるかもしれないけれども,言語はやらない。言語学をやらない。何か1単位ぐらいあるけれども,国語のことはやらない。それは「国語」でも「日本語」でもどっちでも構わないけれども,言語のことを教員資格の一つにぜひ入れてほしいと私は思う。
 それができなければ,理科の教育をするときにでも,社会科の教育をするときにでも国語教育をやっているんだという先生ができないと思う。そうしていただければ小学校低学年の国語科に9時間なんて授業は要らないのである。そのかわり,理科の授業のときにも国語教育だ,社会科の授業のときにも国語教育だという自覚を先生方が持ってくださればいいのではないか。
 前に「国語の教育の振興について」という建議があったときに,この問題に触れられそうだったのだけれども,大学局の方では教員養成課程においてそんなことは全然理解してくれなかった。教育関係の先生方に私本当にお願いをして,言語こそは教育の根本だ。国語教育の根本ではない,教育の根本だということを学校の先生方に考えていただきたい。それをどうするかというのは,やはり大学局の教員養成課程の何かをいじるということに具体的にはなると思う。

坂本会長

 いろいろ貴重な御意見を伺わせていただいたが,きょうの御意見を参考にしながら,4月以降の問題点整理委員会で更に検討を進めていただいて,6月の総会を目途に,中間的な報告を取りまとめるという方向で進めさせていただきたいと思う。
 整理委員会の委員の方々には大変御苦労をおかけするけれども,よろしくお願いする。
 最後に,事務局から何か事務的な連絡があるか。

河上国語課長

 4月以降の問題点整理委員会の開催については,その都度所属外の委員の方々にも御案内するので,御都合がつき次第,御出席をお願いしたいと思っている。
 次回の総会は6月の末ごろを予定しているが,日程等が決まり次第御連絡をさせていただく。
 机の上に資料のファイルが載せてあるが,これは会議用であるので,できれば,そのままにしておいていただきたいと思う。よろしくお願いする。

坂本会長

 それでは,本日はこれをもって閉会とさせていただく。

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