国語施策・日本語教育

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次第・議事要録 協議1

沖原副会長

 ただいまのように,「報告〔素案〕」が読み上げられ,また主査の方から御説明をいただいたのであるが,この「報告〔素案〕」は,昨年6月の審議経過報告を土台として,審議会全体としての見解を適切な形でまとめていただいたものと思っている。
 なお,審議会の今後の日程であるが,これは後ほど事務局から説明があるかと思うけれども,次にお集まりいただくのは一応4月を予定している。そして6月には文部大臣に報告書を提出するという運びにしたいと考えている。したがって,本日はこの素案について,委員の皆様方の意見を十分に伺わせていただきたいと思う。
 それでは,御質問,又は御意見等,何でも結構であるので,御発言をお願いしたい。

市川委員

 まず初めに,問題点整理委員会の御協力に感謝したい。6月の中間報告に比べると,文字どおり,問題点はすっきり整理されて,論旨も明確になっているので,大変な御努力があったものと思う。
 この素案について,二つの点で意見を申し上げたいと思う。
 第1の点は,ここで使われている言葉についての用語の問題である。
 どう言えばいいか分からないが, ここでは「国語」「共通語」「方言」「日本語」という四つの言葉が出てきているが,この間の関係が一体どうなっているかということである。どうなっているかということをあえて言うのは,若干どこか混乱が見られるのではないかということである。
 まず,「国語」と「日本語」の関係であるが,私,大分気になったので,国語学というか,日本語学の先生にも大分聞いて回った。現在定着している関係としては,国語を母国語としている人は「国語」と呼び,国語を母国語としていない人が国語を指して「日本語」と言うというのが,大体了解を得られている定義だそうである。これには私は不満があるが,それはそれで結構だと思う。
 次は,「国語」と「共通語」及び「方言」の関係である。幾つかの仮定を置いてお話を申し上げる。
 「国語」というのが「共通語」だけを指す,「国語」と「共通語」がシノニムであるとすると,当然のことながら「方言」は「国語」ではなくなるわけである。そうすると,「日本語」というのは「国語」を母国語としない人の言葉であるから,「日本語」の中に「方言」は含まれなくなるわけである。自然言語としての意味から言うと,私はいろんな「方言」も「日本語」であるような気がするから,「日本語」から取り除いてしまうと困るなという気がする。
 ということで,「国語」を「共通語」を指す言葉だとすると,1ページ等の国語審議会のこれまでの審議経過を理解する上では,非常に適切。と申すのは,私は,この国語審議会では,少なくとも「共通語」についてしかその表記等について検討してきていない,「方言」についてはその表記等言及してないと思うので,そういう意味では1ぺージ等の国語審議の経過を説明するには適当だが,「方言」が「日本語」の外ヘ出てしまうなということで気になる。
 2番目として,「国語」というのは,実は「共通語」プラス「方言」であるというふうに定義することができるかと思う。そうすると,「日本語」という言葉は,「共通語」と「方言」を含んだ国語というのを,外からというと変だが,母国語としない人が見るわけであるから,それはそれで先ほどの問題はなくなるが,今度は1ぺージから2ページにかけて書かれている国語審議会が国語を対象にして表記をやってきたということが言い過ぎになるわけである。
 そういうことで,ここで「国語」「標準語」「方言」「日本語」の相対的関係を定義していただいて一々定義は書く必要はないけれども,その定義の下で全体の論旨が矛盾しないようにしていただければ大変に有り難いという気がする。
 ついでに,私の個人的意見を付け加えさせていただくと,一つの言葉に,母国語であるか,そうでないかによって,二つの用語を当てるというのは余りいいことではないなという気がする。それはどう使ってもいいんだけれども,少なくとも国語審議会の報告の中で二つを使うのは,という気がするが,それはまた別のことである。
 次に,大きな2番目の意見であるが,5ぺージの一番下に「大辞典の編集」ということが出てきている。その下に書かれている趣旨は誠に立派なことで,そのこと自体に私は余りとやかく言うつもりはないのであるが,これを一体だれがやるのかという問題である。これは国語審議会の答申であるから,国の施策に対する助言,あるいは何らかの意見を言うということになるんだと思う。したがって,これを受けた国は今後この事業をどうして進めるかということになってくるわけだが,もしこれを国が行うということになると,私はかなり慎重に扱わざるを得ないという気がする。
 と申すのは,国語審議会はこれまで表記の問題を扱ってきたわけである。それについてはいろんな御意見があるのだが,それはそれで結構である。しかも,今回のこの素案のトーンとしては,表記についてもかなり柔軟にしようという気配が見えるから,それは結構だと思うが,大辞典では用例というものが入ってくる。そうすると,結果として,用例を通じて意味の世界に踏み込むことになる。国がやると,用例,意味という形で,国が意図するしないにかかわらず,結果としてコントロールすることになるおそれがある。したがって,もしこれをやるとするならば,これをやるか,やらないかということについて,大いなる議論をした後の方がいいような気がする。
 念のために申し上げるが,学術研究として大辞典の編集をやることは全然問題ない。そして学術研究としてこの大辞典編集をやったとしても,恐らくここに書かれてある趣旨はほとんど満たされるものだろうと思う。
 以上まとめると,(4)は(3)の中に含めてしまえば目的は達せられるし,また結果として国がある種のコントロールをしようということにもならない。
 ついでに言うが,こういう大辞典というのは本当に大変な仕事,というよりは,1回やれば済むというものではなくて,通常やってもやっても追い付かない性質の編集事業であるので,これを本当に我が国としてやり切れるのかなというのが率直な疑問である。

林(大)主査

 お答えをするというのもおかしいような気がするけれども,用語の問題である。ここでは,十分な定義をしてから,「国語」とか「日本語」とか,「共通語」,「方言」というのを使っているわけではないので,多少あいまいな点が残るかもしれないと思っているが,私の解釈で申し上げてみようと思う。
 まず,人間としての言語能力というものがあって,「言語」というものがあると思う。我々が今日常使っているのが我々の言語なのだが,それを「日本語」と言っているつもりである。
 ただ,その「日本語」というものはいろんなところで使われていて,我々が通じる範囲のものはみんな「日本語」であるけれども,その中で,これは皆さんから御異論があるかと思うのであるけれども,国民としての立場を持って理解したときに,それを「国語」と言うのではあるまいかと私は思っている。国というものを基準に考えたときに,それは「国語」。だから内容的には同じものである可能性がある。全部一致するかどうか分からないが,ある場合には,そんなものは国語の中にないよというような日本語があるのかもしれない。だけれども,そういう議論をする必要はないと私は思っている。国民としての立場をとって,それを理解しようとしたときにそれを「国語」というものだと私は考えている。
 それから,「方言」と「共通語」であるけれども,「方言」と「共通語」は一応対立させて考えているもので,「方言」というのはその地方地方による――地方というのも,広いところもあれば狭いところもあるし,また社会階層的な方言ということも考えられるけれども,ここでは主として地理的な区域における特殊な言い方,そこで用いられている言葉を「方言」と言うわけである。
 これも考え方により,その土地で使われているものは皆方言であるという考え方もあるし,その土地でしか通じないような言葉を特に方言と言う場合もある。その辺のところは,使う人によって多少違っている。方言集とか,方言辞典とかいうもので集めるときには,その土地の特色ある言語だけを取り上げて「方言」と言っておるけれども,共通語と同じ形で使っているものも,その土地の人がその生活の中で使っていれば,それも「方言」である。
 近ごろはどういうふうに言ってるか,分からないが,50年も前のお話であるけれども,「地方言語事実」という言葉を使っていた。地方で行われている言語事実をみんな「方言」と言おうという考え方と,そうでなくて地方的な特殊な言い方を「方言」と言おう,いや,それは「俚(り)言」と言うべきだという議論があったわけだけれども,ここでは余り厳格にはしておらず,地方の言語事実の中には共通語と同じ言葉があるかもしれないけれども,地方における言語事実というものを「方言」と見ておいてよろしくはないかと私は考えている。
 それから,言語はもともと共通でなければならないわけで,方言の中でも共通でなければならないので,「地方共通語」とか,「全国共通語」とか,そういう言葉もあるけれども,今日,普通に「共通語」と言うようになってしまったものは――私「共通語」という言葉が出た時に余り賛成じゃなかったのだけれども,今や「共通語」と使うことになった。その「共通語」というのは,全国に共通する言葉,全国共通語として使われるような言葉である。
 だから,NHKの放送で使われているような,アナウンサーの方が言われているようなものは,正に共通語の実現である。共通語を実際に使ってみせておられるのが,アナウンサーの言語であるというふうに考えているわけである。そういう意味では,その共通語を使う立場が,国民的な立場において――恐らく放送協会は国民的な立場をとっておられるだろうから,その意味では国語の一つの姿である。そういう関係を持っているものと私は理解している。

市川委員

 ありがとうございました。
 今の主査の御説明の前半の方は,実は私が言いたくて我慢していたところで,「日本語」という言葉は――「日本」の定義も難しいけれども,「日本」は無定義で使うとして,日本というところで使われている自然言語を指しているというふうに理解しているので,主査のおっしゃったことは全く賛成である。
 ただ,いろんな言語の成り立ちの問題,言語の使い分けの問題,いろいろあると思うけれども,私は素案の中での論理的な構造としてだけ申し上げたつもりなのだが,今の主査の御説明で,昭和41年以来,これまで国語審議会が営々として積み上げてきた表記の問題は,「共通語」に関するものであるのか,それとも,いわゆる「方言」を含んだものであるのか。

林(大)主査

 国語審議会で取り上げている趣旨は,私は,国民の言語としての「国語」の趣旨だと思う。だから「方言」は入らない。問題にしてもいいかもしれないけれども,国語審議会で取り上げる問題ではなかったろうと思う。地方に方言審議会というのができれば,そこでなさるかもしれないが,国語審議会においては取り上げる問題ではない。

市川委員

 私は自然科学系で頭が簡単なものだから,今の主査がおっしゃったことを整理させていただくと,国語審議会が今まで議論してきたのは,「共通語」である。ローカルにしゃべられている地域的な共通語を含めて「共通語」であると。

林(大)主査

 そこは皆さん方の御意見を伺いたいところであるけれども,私はどうしても国民としての立場というものを特に出したいのである。ちょっと国家主義的かもしれないけれども,国を基準に考えたいんで,ただ単なる「共通語」じゃないのである。

尾上委員

 この問題については私が一度発言して,そのときに市川先生は私に賛成されたのだが,私は今まで議論されてきたことに特に反対はないけれども,人文科学,社会科学では,数学者の言われる「あいまい」ということは避けられないし,またそれでいいときもあるから,そこはファジーぐらいにやっておく。これがまず一つ。
 それから,ただいま林先生が「国民」というふうにおっしゃったが,これも大賛成。ただし,国境とか,そういう感じじゃなくて,やはり国民国家の成立というのが特に大きな意味を持っていたと思う。というのは,あの時にもしそれまでの朝廷が存在した大和地方なんかの言葉を国語にしていたら,それが国語の役割になっていたと思うのである。
 私,実はイタリアに縁が深いのだが,イタリアで国民国家ができた時に,フィレンツェのあたり,トスカナの言葉を国語に意識的に政策的に採用したわけである。そういう歴史的事実で「国民」という言葉を使うなら,明治以来制定され,小学校で使われてきた国語,日本語というのは,まさしくそういう国民国家の標準的な,共通的な広がりを持つ言葉であるから,多少あいまいなところがあっても,私はそういうふうに理解している。
 だから,みんなが使っている言葉を意識的に審議するのはおかしいじゃないかというのは極端な議論で,やはり国民的広がりを持っておる国語というものがどういうふうに使われるべきかというのは,こういうところで審議すべき対象だと思う。
 市川先生の議論を支持しておるのか,林先生の方の味方をしているのか,極めてあいまいであるけれども。(笑声)

沖原副会長

 今の問題は大変難しい,また基本的な問題でもある

中西(進)委員

 これは常識的なことだけれども,せんだって沖縄の石垣島へ参ったら,その資料館に方言札というのが陳列してある。つまり,学校で方言をしゃべったら,方言札というのを首ヘ掛けて1日いなければいけないという教育がかつて行われたわけである。それは何かというと,正に今の国とは何かとか,標準語,共通語とは何かという問題であって,自然に発生してこないものをそこに行使しようとする。それが方言を撲滅してきたわけだし,半面,国家体制みたいなものを造り上げてきたということになるだろうと思う。
 だから,正にそういうふうな悪い出会いをしないように我々は国語を考えていこうとするのが基本の姿勢である。それを考えればいいのだということで,市川先生は大変あいまいだとおっしゃるかもしれないけれども,少なくとも私の中では割合明確にそういうのがある。私は国文学だから,国文学的なあいまいさと言えばそのとおりなのだが,そんなふうに思う。
 ついでに,もっと別の意見を申し上げたいのだが,一つの感想と三つの提案をいたしたいと思う。
 最初の感想は,この「報告〔素案〕」は御苦労がよく表れていると思うし,基本的には大賛成である。それはどういう点かと言うと,国語審議会というのは,国語に対して母親的な立場でなければいけないだろうと私は考えている。父親的な立場でなくて,母親的な立場ではないか。世の中には母性原理と父性原理というのがあるわけだが,その父性原理の中で,強引にスパルタ式に子供を教育していくということによって成功する場合ももちろんあるけれども,そうではなくて,見守ったり,後押ししたり,包んだりという形の中で子供が成長していく場合もある。これを私は母性原理というふうに言いたいのだけれども,そうすると,国語審議会というのは,父性原理をかなり慎重に考えて自制しながらいかないといけないんじゃないか。むしろ母性原理でいくべきではないかと思う。
 言ってみれば,国語審議会の性格は後進性というものも必然的に持っていると思う。こうすべきであるということではなくて,世の中に現れてきた現象を後から追いかけながら,それを認めていくとか,もうちょっと修正していくとかいうことで,常に後進性を余儀なくされている審議会が国語審議会ではないかと私は思う。それは言葉を換えれば,母性原理によって運営されるべきものではないかということである。別の言い方で言えば,牛と馬にも例えられるけれども,牛は引っ張っても動かない,馬は引っ張らなければ動かない。馬は引っ張って,牛は後押しをするわけで,我々はその後押し組の態度を考えなければいけないと思うのである。
 「素案」の書き方は,強制するものではないということを繰り返し言っておられる。ここに母性原理が表れていて,そういう点はこれからも大事にしていただきたい。私どもは3か月に1回ぐらい集まるだけなので,ワーキング・グループの方々にそれをお願いしたい。そういう感想を一つ持った。
 あとの3点は,大変細かい問題であるが,ここへ出てくるたびに,言葉が乱れているということが話題になって,私もそう思うのだが,その乱れというのは主として話し言葉の中にあると思う。妙な言葉,「いいじゃん」とか言っているような女の子も,ちゃんと書かせれば「いいでしょう」というふうに書けると思う。つまり,話し言葉と書き言葉との乖(かい)離というか,距離が大きくなったというところに現代語の特徴があって,それはやはりワープロとかテレビとかいうものが発達するところが原因だろうと思う。
 だから,我々は新しい言文一致の時代を迎えている。明治10年来の例の言文一致の時代をまた平成で迎えているんだろうという気がする。「言文一致」というのは古いが,話し言葉と書き言葉との関係をどのように考えるかという視点を一つ入れていただけないだろうかというのが,提案の第1点である。

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