国語施策・日本語教育

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次第・議事要録 協議2

中西(進)委員

 第2点は,具体的なことで,最後のぺージの「表記に関すること」という中で,報道関係等での基準として厳格に取り扱われてしまったから非常に窮屈なものになったんだというところだけれども,報道関係の方々もたくさんおいでだが,その方々だけに責任を帰するのではなくて,むしろ教師の側にも問題があったのではないか。
 つまり,学年別の漢字の配当があって,そのところまで来なければ使わせないとか,自分の名前もちゃんと書けるものを平仮名で書かなければいけないとか,これは伝説だと言われるけれども,木偏をはねてはいけないとか,手偏ははねるべきだとか,出てはいけないとか,出るべきだとかいうふうな,窮屈な教育をしてきたところに非常に大きな原因が一つあったと思う。私も教師の一員なので,自戒を込めて申し上げてもいいと思うので,その辺を5の(1)で入れていただけないかと思う。
 3番目は,その下の(2)の「交ぜ書き」のところである。私も「交ぜ書き」というのは非常に困る。どうしてこんなことになってしまうんだろう。「補てん」「ばん回」「伴りょ」,特に「憂うつ」などというのは,いつも考えると,それこそ憂うつになるのだが,これは社会的なニーズがあるにもかかわらず,難しいということで漢字を締め出してしまったところから起こってくる。これは正にさっきの母性原理にも反するだろうと思う。
 ニーズがあれば,それを認めるというところから始まるのであって,「補てん」の「てん」という字は難しいから多分書けないだろうというのは,いささか国民を侮辱したことにもなりかねない。ニーズのあるものについてこれを認めていく。どんなに画数が多くても「憂うつ」の「鬱」は生かすとか,そういうふうなことでもしていかないといけない。
 特に,言い換えという言葉は,私は違うと思う。「補てん」という言葉で言う場合と「補う」というふうに言う場合とは,言葉の表現としてはまるで違う。「補てん」と言えば,晩翠の詩を読んでいるみたいになるし,「補う」と言えば藤村の詩を読んでいるみたいになるし,言い換えなどでは済まない問題だと思う。
 だから,このあたりは,「常用漢字表」というのができてしまっていじれないということなら,附帯意見みたいなもので,こういうものも使うのはどうだろうかという提案をするとか,使いながら仮名を振っていくとかいうことで,言い換えとか当て字をしないということにすべきではないかという気がする。
 もちろん漢字もどんどん簡略化してきて,例えば我々が使っている「花」という字は本来なかった字で,音の「カ(化)」という字を使っているだけの話だから,慣れてしまえばそれでいいということになるのだろうけれども,さっきのように,その折その折の基準を示すという審議会から言えば,その辺をもうちょっと慎重に考えていただければと思う。以上が第3の提案である。

韮澤国語課長

 先ほど市川委員からお尋ねがあった国語大辞典の件で御説明申し上げたい。ここで想定している国語大辞典は,国立国語研究所で十数年前から始まっている辞典の編集作業を指している。上代から現代まで各時代ごとの用例をたくさん集めて,国語辞典の基礎となるような大辞典を作ろうという作業であって,全160巻程度で第1巻が出るのが21世紀になってから,最終的には22世紀に近いような,そういう計画であると聞いている。そういった意味では,飽くまで国語研究所がやる事業であって,いわゆる学術研究としてとらえられるものというふうに考えている。

沖原副会長

 そういうことであるが,御意見があったら,御発言を……。

辰濃委員

 三つほど質問したいと思う。6ぺージの「表記に関すること」の一番上に「目安・よりどころ」という言葉が出てきて,これは前にも「目安」と「よりどころ」と区別されて使われているわけである。語感としては「目安」と「よりどころ」とは大変違うと思うけれども,どういうふうに区別されて使っておられるのか。区別されていなければ,それはどちらかにした方がいいのではないか。「目安」というと,これは目安だからこの辺は基準外でいいんじゃないかというふうにとれるし,「よりどころ」というと,むしろ肯定的に,これはよりどころなんだから従った方がいいんじゃないかというニュアンスが強くなる。その違いがあると思うのだが,どういうふうに区別されて使っておられるのかということが第1点である。
 それから,交ぜ書きのことは今,中西委員がおっしゃって,私も全く賛成である。ここに振り仮名を用いるとか,言い換えのことを書かれているけれども,やはり「常用漢字表」の見直しを含めないと,この交ぜ書きはうまくいかないのではないか。例えば「叱(しっ)責」という言葉があるが,これを「しっ責」というふうにしている。日常使う言葉で「叱(しか)る」というような言葉は,「常用漢字表」見直しで使えるようにしていった方がいいのではないかと思うので,この(2)の交ぜ書きの項目と,(3)のその他の中に「常用漢字表」は「見直すべき点が生じた場合には,慎重に検討する必要があるのではないか」というふうに書かれていることとは,やはり結び付けておく方がいいのではないかと思う。
 第3点は,5ぺージの3の「国際社会への対応に関すること」として(1),(2),(3)とあるが,(3)で「官公庁等の新奇な片仮名語の使用」と,「新奇な」という言葉をわざわざ使っている。これは新奇でなければ使い放題使ってもいいのだと思う方もいないとは限らないので,ここにわざわざ「新奇」という言葉を使われたのはどういう意味なのか,ちょっと分かりかねる。
 ただ,全体としては非常によくまとめてくださったので,その労は多とするけれども,若干疑問の点があったので,あえて質問させていただいた。

江藤委員

 今の中西委員や辰濃委員の御意見と通じるところだと思うが,私は日本文芸家協会から送り込まれている委員である。日本文芸家協会からは各委員のお手元に既にテキストは渡っていると思うけれども,去る2月2日に国語審議会への意見書というものを出させていただいた。それに私は附帯意見を付け加えた。それを御紹介しながら付け加えておきたいと思う。
 文芸家協会というのは文筆家の団体なので,当然のことながら,書き言葉が中心になる。今度の素案は大変良く出来ているというのが大方の意見であるけれども,書き手としては,書記言語を正すということに力点を置いてもらいたい。話し言葉とそれとの関係というのは,中西委員のおっしゃった問題は非常に大事な問題で,大いに御検討いただきたいと思うけれども,書き言葉中心,でお考えいただきたい。
 その中でも問題になっているのは,今辰濃委員もおっしゃった交ぜ書きである。交ぜ書きというのは非常に不合理であって,ナンセンスである。これはほとんど一様の意見と言ってよろしいかと思う。それから,振り仮名,ルビ,縦ルビ,こういうものは大いに生かしてもらいたいというような意見が出ている。
 私の付け加えた附帯意見というのは,それにつながるものであるが,考えてみると,今両委員から提起された「常用漢字表」見直しの問題は,非常に大事な問題じゃなかろうかと思う。特に戦後の国語政策というものは,この「素案」でも振り返られているように,何を主眼としたかというと,結局,学びやすく用いやすい国語を作ろう,そういう国語にしようということだったろうと思う。そのために漢字制限をする,歴史的仮名遣いをやめて現代かなづかいを採用する,そのようにして国語教育を進めていくべきだというのが基本方針であったかと思う。
 その基本方針は,しかし,昭和41年6月の文部大臣の諮問以降,「改善の具体策について」という見直しが行われて,逐次「目安」あるいは「よりどころ」というふうに緩和されつつ改善の実が上がってきた,こう解釈すべきじゃなかろうかと思う。
 ところで,現在見ると,この「素案」の第4ぺージに,「情報化への対応に関すること」という項目があって,(1),(2)でワープロ等の発達というものが現在の国語状況を非常に大きく変えているという指摘がなされている。私は,記憶に誤りがなければ,たしか前に総会で一度それに触れて発言した覚えがあるのだけれども,ここにも触れられているワープロの仮名漢字変換方式というのは大変普及していて,これを今使っていると,交ぜ書きなどというのはナンセンスで,ぽんぽんと漢字が出てくるわけである。だから,書記を簡易にする,そのために漢字を制限するという基本的な発想というのは,もう転換すべき時期に来ているんじゃないか。
 実は同じことは仮名遣いにも言えるわけで,歴史的仮名遣いで作られたワープロソフトを一つぽんと入れておくと,これはちょうど仮名漢字変換方式と同じように,現代仮名遣いにしても,歴史的仮名遣いにしても変換できるわけである。どっちがどうということは言わないけれども,二つの仮名遣いが今国語の表記として併存しているという事実を認識してもらって,そこに教育が行われれば,あとはもうそれこそ母性原理で,それに任せておけばよいということになる。教育の力点というものも,漢字については読みであり,仮名遣いについては両種の仮名遣いがあるという事実を知っておけばよいことになる。例えば古典の文献を読むときと現代の文献を読むときに,現在非常な断絶がある。慣れればすぐ慣れるのだが,当初学生は,戦前の文献,資料等を読ませると,英語の方が読みやすいというようなことを言う。1か月,2か月たつうちに,国語であるから習熟してくるもので,これは英語の学習とは全然違う。そういうことも考えられるのではないか。
 したがって,今期の審議会の答申においては,そういうふうな国語状況が,これは父性的か母性的か,むしろ機械だから,無性的かもしれないけれども,激変しているということを十分認識しているぞということを,何かうまい表現で入れていただけないだろうかというお願いである。
 もう一つは,国語現象というのは,まさに全国民的な現象だから,国語審議会は文化庁の審議会だけれども,国語を扱っている役所はほかにもあるわけで,法務省は人名漢字,情報機器の文字の規格とか何とかということになると通産省,外国の人名・地名は外務省というような関係省庁があるわけである。その関係省庁がやっているのは勝手にやれ,文化庁はこれだけやるというのでは,ちょっと文化庁の沽(こ)券にかかわるので,この際国語審議会という審議会は日本に一つしかないのだから,そこで全般的国語現象について,他省庁所管のことについてもちゃんと目端を利かせているということを,上手に,やんわりと,そう言ってはなんだけれども,すごみを利かせておいていただけると有り難いなというのが私の意見である。

沖原副会長

 随分いろいろな御意見が出ているが,更に御意見がある方は御発言いただきたい。

尾上委員

 私は旧制高校で英語の先生から,イェスペルセンという言語学者の言葉で,世の中に正しい言葉というのはない,最も広く使われている言葉か,部分的に使われている言葉かという違いがあるだけだというふうなことを教えられて,この先生は大変厳しい先生だったのに,基本的考え方はこういうことであった。今,江藤委員が母心ですごみを利かせるという面白いことをおっしゃったけれども,そういうところではないかと思う。

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