国語施策・日本語教育

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次第・議事要録 第1委員会の審議状況について

坂本会長

 続いて,本日の議事に入らせていただく。
 前回の総会では,第1,第2の両委員会から,それぞれの審議状況についての御報告を伺ったれけであるけれども,本日はその後の両委員会の審議状況について御報告を伺い,それをめぐって御協議いただくことを予定しているわけである。
 したがって,まず,第1委員会の御報告を野元主査からお願いしたいと思う。

野元(第1委員会)主査

 資料1の「第1委員会における論議の概要」というものに基づいて御報告する。
 第1委員会は「言葉遣いに関すること」を扱っている。項目については,1枚目の目次のところに挙げてあるので,これを御覧いただきたいと思う。
 このうち,4の「敬語の問題について」までは,前の総会で論議の概要を御覧に入れ,また御説明申し上げた。今回はこのうち5を主体として御報告するけれども,4も重要であるし,その後,また多少論議もしたので,4の「敬語の問題について」以下を重点的に御説明申し上げる。
 前総会以後の論議の日程については,1枚目の下の方に記してある。
 なお,最後のパラグラフに述べてあるように,ここに御報告するのは委員会の決定ではなく論議の内容であって,委員会としての決定案は,この総会後から話し合うということになっている。
 2枚目の1の(ア)については,話し言葉・書き言葉の一方に限定せず,全体的に論議してはどうかということである。
 同じく2枚目の2,(1)(ア)の一つ目の○のところは,最初の案では「国語を愛護する精神を養うことの必要性」とあったけれども,これを「重要性」と変え,また今の状況ヘの説明が加わっている。
 二つ目の○のところでは,セクターとか地域などによっても異なるので,具体的に何を美しく豊かな言葉とするかということは,一人一人異なるであろう。それゆえ,国語審議会としては,(ア)の最後の○のところに書いたように,こういうことでいいのではないかという論議であった。
 3枚目の(イ)は,主として一つ目の○の二つ目のパラグラフから,二つ目の○にあるようなことが言えるであろう。
 3枚目の(2)(ア)では言語環境の重要性について述べており,(イ)以下で,学校,家庭,地域社会,マスコミ,国,それぞれが国語環境の整備に努めることが必要であろうと述べている。具体例としては,教員志望者の基礎的教養としての国語の重視,地域における総合的な言語環境の整備,国語大辞典の編集事業促進などが挙げてある。
 5枚目の(3)には方言のことが出てくる。方言は地域の文化であって,共通語と共存していくべきであろうということである。
 6枚目の3について,(2)のところでは,国が国民の言葉遣いについてどうかかわるか。どうかかわるかということについては,基本的な理念や原則を示す程度でよいというのと具体例を添えたごく緩やかなよりどころを示すというのとの両用の考え方がある。判断材料として世論調査は必要であり,有益であると考える。そこで,先ほど課長から説明があった来年度の調査の実現に向かって今動いているところであるが,国語審議会は,この結果の多数意見に従うということではなく,これを参考としながら,独自の結論を出すべきものであろうと思う。
 7枚目の4「敬語の問題について」というところであるが,(1)の一つ目の○のところは,敬語の簡単な定義を下している。国語審議会での検討事項としては,敬語のうち,共通語,標準語の語彙・語法などにかかわるものにしたらどうかということである。ここに「言語的要素」と書いてあるけれども,言語的要素を広くとるならば,言葉の速さとかイントネーションも加わるけれども,今のところはこういう速さとかイントネーションについては考えに入れていない。
 (2)のところでは,二つ目の○で,現代の敬語の特徴として,表現形式の簡素化,親疎関係の重視,聞き手への配慮などが中心となったというように,あるいは「社交敬語」としての性格が強くなったということが考えられるとしている。敬語の基本は平明で簡素,上への尊敬をも含めた相互尊敬であり,要は場面に応じた適切さが肝要ではないかという話があった。
 8枚目の(3)の(ア)の最後の○のところにあるように,今期は,昭和27年の国語審議会建議「これからの敬語」を中心に敬語を検討して,問題点を明らかにし,来期以降でのこの課題のまとめ方を論議してはどうかということで,これに関しては(4)にあるような意見があった

野元(第1委員会)主査

 また(3)に戻るが,「これからの敬語」の「基本の方針」については,(イ)で述べてあるようなことが論議の対象となった。また,これらの論議に必要な観点として,9枚目の(ウ)にあるような意見があった。
 「これからの敬語」に述べてあることについては,もう実現したもの,現在の実態に合わなくなったもの,これからの望ましい形などが話し合われ,9枚目(4)の(ア)ではこれらについて報告してある。
 実情に合わないものとしては,例えば「「相手をさすことば」として「「あなた」を標準の形とする」と述べているけれども,実際はこれは定着しなかったということ,あるいは「自分をさすことば」として,男性の「ぼく」というのは,社会人となってからはいかがなものかというような否定的な見解が述べてあるけれども,余り堅苦しくない場面などでは,今も広く使われているということが挙げられると思う。
 10枚目の(イ)はそれ以外のもので,(ア)で述べたものとともに,ここで述べたものも,先ほど話があった世論調査で取り上げたらどうかと今考えているところである。
 学校教育での敬語教育は必ずしも十分でないという世間の指摘に関するものとして,(5)に挙げたように,学習場面の充実改善を図ることが望ましいとしている。
 外国語としての日本語学習に関して難しい点とされている敬語については,(6)で述べてある。
 11枚目の5の「その他の問題について」というのは,前の総会以後の2回の委員会の主要な議題であった。この大きな問題を「その他」で一括するのはいかがかとも思われるけれども,第1委員会で討議すべきものとして示された文言を今はそのまま使っている。最終的には,これを幾つかに分けて,それぞれの項目名を付けるのが適当かと思う。そうした結果,また,そこにその他の問題がもっと小さいものとして出てくる可能性はもちろんある。
 (1)は,敬語以外の言葉の乱れとかゆれについて述べている。「乱れ」という言葉については,さきに述べた3枚目の(イ)の一つ目,二つ目の○のところで触れている。「乱れ」という言葉は,少し主観的であるから,国語審議会としては「ゆれ」という言葉を使った方がいいのではないかということで,この点も前総会で申し上げた。
 (ア)は「ら抜き」の問題が書いてある。これについては,使う人が近年増えているけれども,現在のところでは破格とされている。ここには「新聞・放送等ではほとんど用いられていないようだ」と書いてあるけれども,放送も,チェックを経たニュースなどの中にはほとんど出てこないものの,臨時的なレポートの類とか,いわゆるトーク番組,ドラマなどでは,今はそう珍しくなくなっている。現に今朝の『春よ,来い』でも「授業に出れない」と言っていた。
 しかし,今のところ,日本語の文法がこの面で全面的に変わったと言えないことは,五つ目の○のところにも述べてあるとおりで,それゆえ,まだ破格とすべきものであろうかと思う。
 最後の○のところで,「ら抜き」を使う人は本来の形を知らないとあるけれども,これは恐らくほとんどの人であるかもしれない。しかし,人によっては,前にも書いてあるように,書き言葉では使わないだろうと思うが,話し言葉では使うという人もいるわけであるから,こういう人は本来「ら」が入るということは承知して使っているのだと思う。
 12枚目の(イ)のいわゆる「若者言葉」については,仲間うちで使うものとしてはそれでもいいと思うけれども,改まった場面では使わないように,教育では正しい言い方を教えることが必要ではないかという意見があった。
 (ウ)は,慣用的な表現や語法のゆれについてである。
 一つ目の○のところでは,ここに書いた意見が強かったのだけれども,当然これも言語の自然変化の一つであるから,止めることはできないという考え方もあろうかと思う。しかし,これらの変化を安易に容認せず,本来の意味を確認せよというような意見もあった。
 二つ目の○にあるのは助数詞である。弓を数えるのに「張り」を使うとか,鏡を数えるときには「面」を使うとか,タンスは「棹(さお)」であるとか,そういった特別なものについては必ずしも使用を求めなくてもいいのではないかということであるけれども,では何を特別なものとして整理するかということについては,まだ話し合っていない。
 三つ目の○は,いわゆるイチニ系とヒトフタ系の混乱のことを述べているけれども,ここにはまた,例えばフロアの勘定をする場合の「3階」(「サンガイ」)とか「何階」(「ナンガイ」)というものを「サンカイ」「ナンカイ」という新しい傾向が見られるということも入るかと思う。
 四つ目の○は,ここには助動詞の場合が述べてあるが,形容詞の場合は,例えば「思慮がなさすぎる」のように,「さ」を入れるのが普通とされているものである。

野元(第1委員会)主査

 (ウ)の最後の○のところに関係したことでは,「きれい」を関西方言では形容詞としているところがあり,「きれい人」と言うことから,「きれくない」も出てくるのではないかと思う。
 (エ)のところは,第2委員会とも関係するところである。12枚目の下の(2)の「発音・アクセントの問題について」というところであるが,発音やアクセントは標準を決めるのがなかなか難しいところであろうかと思う。
 (ア)に書いてあることは,アクセント自体は動きが多いと言うか,変化が早い。したがって,ゆれている語がたくさんあるというようなことを付け加えておきたいと思う。
 13枚目の(イ)は,いわゆるガ行鼻濁音であるけれども,三つ目の○のような意見が強いように思われる。区別しなくなったものを元に戻すということは,原則としては大変難しいことではないかと思う。東北地方のことは,このガ行鼻濁音とともに,濁音の前に鼻音が入るということも関係しているかと思う。例えば,共通語の弓矢の「的」のことを「マド」と言うけれども,ウインドーの方の「窓」は「マド」というふうに「ド」の前に軽く鼻音が入るというようなことで,ニつを区別しているわけであるが,それとの関係があろうかと思う。
 (ウ)の二つ目の○のところには,現代の若者のロの構造が変わったことに関係がありそうな記述が出ている。そういう話があったので,ここに書いたけれども,このことを確言するためには,なお専門家の見解を聞くべきではないかと思う。近ごろは,みんな軟らかいものが好きになって,あごの発達が不十分であるというようなことも聞いているわけであるから,ロの形が変わることもあり得ようかとは思う。
 (エ)のイントネーションに関して,ーつ目の○の第1のパラグラフは,若者言葉の一つの傾向としてのものである。私自身には,この現象は近ごろは少なくなってきているように思える。また,このような話し方をする人も,こういう話し方はいけないというふうに注意すると,少なくとも注意をした人の前では容易に直すことができるということもある。このこともあって,先ほど言ったように,多分減少傾向にあると思うので,それほど心配することはないのではないかと私は個人的には思っている。
 二つ目のパラグラフは,これとは全く違う方言の現象である。したがって,直すべきかどうかということがまず問題としてあろうし,直すべきだとなっても,そう簡単に直せるものではない傾向かと思う。有名な北関東の尻上がりのイントネーションなどはこの例となる。ここはアクセントのない方言で,アクセントを担っている文節などを統括するような働きの一部をこの尻上がりがしているのではないかと思っている。例えば,「お茶と,コーヒー,どちらがいいですか」という言い方になるわけである。
 二つ目の○のところは,近ごろよく聞かれるので,御承知のことと思うけれども,例えば,「今,敬語とかは国語審議会で問題にしているようです」というような,「今,国語審議会」と上げて,確認というか,聞いているというか,そういうニュアンスを表そうとしているものである。今も例として挙げたけれども,「敬語とか」の「とか」という言葉と一脈通じるところがあるように思われる。
 以上,非常に簡単であったけれども,これまでの第1委員会の論議のうち4と5,特に5に重点を置いて御報告申し上げた。
 以上である。

坂本会長

 ありがとうございました。

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