国語施策・日本語教育

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次第・議事要録 第1委員会における論議の概要について2

清水会長

 これからの敬語について基本的にどう取り扱うかということで,言葉そのものの面だけでなく,学校教育,家庭教育での問題,更に教科書とも絡んでいるわけである。
 先ほども申し上げたように,今,総体的にお話があったので,あれこれといろいろ御質問等々がおありかと思う。10分ないし15分くらいで自由な御質問等をいただいた後,第2委員会の方の御議論をいただき,引き続いて総括的に御意見をいただくというやり方で行きたいと思う。
 ただ今の御説明に対して,基本的にはどうあるべきかということについて,総会で問題点を出しておいていただくと有り難いと思う。

緑川委員

 敬語というものは,日本語という非常に大事な言葉を美しく表現するということだと思う。今のお話の幾つかの中で,例えば実態調査とか,現代の人たちの話し言葉を考えながらということであるけれども,それをやっていくと,確かに言葉は生きて動いているものだというふうには思うが,だんだん世間の言い方に迎合していくような感じにとらえられる。そうなると,第1委員会のやっていることは非常に弱いものになってしまうのではないか。やはりきちっとしたよりどころを作るのが我々の役目ではないかと思う。
 それというのも,こんなことを言うと年を取ったからと言われるかもしれないが,最近の若い人たちが出るテレビドラマなどを見ると,非常に聞き苦しい言葉が出てくるわけである。人々はテレビや何かで言われている言葉が一般的である,普通だというふうに考えがちであるし,小さな子供たちはあれを見て,ああいう言い方に倣ってしまうというのが現状だと思うから,はっきりさせるべきところというか,敬語とはこういうものである,こういう使い方をするものだということを,日本の文化伝統を守るというような意識の中で,きちっとやっていただきたいというふうに私は感じた。

山口委員

 今,緑川委員がおっしゃってくださったことは,「第1委員会における論議の概要−3」の6ぺージ目の「(2)標準作成への取組」というところにある@を推進すべきだという御意見だと承った。第1委員会に属している者としては,総会で,ほかの方が@,A,Bのうちのどの考え方に近いのかということを伺っておくと,これからの議論に大変役に立つような気がするので,その辺りを皆さんに是非もんでいただきたいと思っている。

清水会長

 これだけに絞る方がよいか。

北原(第1委員会)主査

 今の山口委員のお話は,先ほど私もお願いしたけれども,特にお願いしたいことを重点的におっしゃってくださったと思う。是非その辺を……。

江藤副会長

 今とても大事なことをおっしゃっていただいたので, 一,二申し上げたいと思う。
 2ぺージ目の「@言葉遣いの基本は「心」である」というのは,大前提なのかもしれないけれども,私は大変引っ掛かる。「心」というものがここに出てくるのは非常に危険だという感じがする。
 国語学者の方々がたくさんいらっしゃる席でこういうことを言うのは大変僭(せん)越であるけれども,うろ覚えながら,ソシュールという言語学者が「言語というものは,社会的制度である」と言っているが,社会的制度としての言語を我々は扱っているのではないだろうか。敬語についても,日本語の著しい特微であるところの社会的制度としての敬語を扱っているのではないだろうか。個々の人間の心や思いやりがある方がいいんだ,思いやりがおのずから表れて敬語になるんだというようなのは,一つの考え方ではあろうけれども,私は少なくとも政府の審議会が一人一人の「心」を云々(うんぬん)するということには反対である。思いやりがなくても丁寧な敬語を使うということは幾らでもあるわけである。それがまた社会生活を円滑にするわけで,思いやりと言語の問題とは別問題だと思う。そこははっきりしていただきたいという気持ちがするのである。そのような観点から,私はやはり標準を示すべきであるという考え方である。
 フランスでは,アカデミー・フランセーズという国家機関が言語の問題をずっと昔からやっており,今でもかなり積極的に基準,規範を示そうとしている。英国ではそういう例はないかもしれない。しかし,御承知のとおり,英語は多様であるというのは,エデュケーティッド・イングリッシュとアンエデュケーティッド・イングリッシュというふうにごく大ざっぱに分けたとしても,エデュケーティッド・イングリッシュは良い英語であって,アンエデュケーティッド・イングリッシュは良くない英語という明確な社会的な区別がある。それはみんながそのように判断していて,例えばミセス・サッチャーの英語は実によくエデュケートされた英語であるというふうに考える。メージャー前首相は,そんなに高い学歴を持った人ではないようだが,英語としてはいい英語を話す。それは社会制度としての言語というものがあって,それがそういうふうにそれぞれの国民によって位置付けられていくわけであり,フランスが国家的基準を示し,英国はそれを必ずしも示していないにしても,言語現象としては同じであって,そこは国柄の違いということになろうかと私は考えている。
 一つ付け加えると,先日,日本芸術院の総会があった。第2部は文芸関係で,定員が37名,現在31名であるけれども,部長は三浦朱門さんである。そこで,これは公式の議事に上ったわけではないけれども,三浦部長が,非公式の発言としておっしゃったのであるが,御参考になるかと思い申し上げると,「言語の問題,国語の問題について,日本芸術院第2部が何らかの意見を表明することがあってもいいのではないか。芸術院は会員の補充と芸術院賞の選定, 恩賜賞の推薦ということだけをやっていていいのだろうか。」というような意見であった。将来,この問題が煮詰まってきたときには,日本芸術院としてか,あるいは日本芸術院第2部としてか,何らかの意思表示が行われる可能性がないとは言えないということを申し上げておく。

清水会長

 ありがとうございました。
 文化庁の事務局に伺いたいのだけれども,芸術院や何かが,そういうことを言った例は今まであるのか。

霜鳥文化部長

 芸術院に関しては,今,江藤委員が御紹介くださったような事柄が基本的な役割になっており,特に,日本語について何か言うというふうなことにはなっていなかったと思うけれども,芸術院の中で今伺ったような御議論が場合によってはあるのかもしれないという感じはある。

清水会長

 日本の知性の代表の集まりということであり,私は,いろいろな立場から,いろいろな発言があってもいいのではないかとは思うけれども,せっかく国語審議会としてこの問題を取り上げているのであるから,それなりの役割を果たせるように,ひとついろいろ御意見を伺わせていただければ有り難いと思う。

井出委員

 先ほど北原主査がお読みになった「概要−3」6ぺージの上から4行目の*のところをもう一度引用してみたい。
 ここに,「21世紀の世界の中の日本語,その中の敬語をどう位置付けるかを問題にしなければならない。今までの日本社会を支えてきた敬語について客観的に社会の在り方との関係で分析することが必要である。」とあるが,私は,正にこのことが分析できていないのが現状であるということを申し上げたいと思う。何度か理論武装が必要だというお言葉があったけれども,理論武装するためにはここのところを分析しなければいけない。
 ただ,私は,一人の言語研究者として自己批判も含めて申し上げるのだが,今までの言語学は言葉だけを扱ってきた。言葉というのは文化とかかわり合いがある,社会とかかわり合いがあると言っても,どういう言葉を使ったら,どのように社会,文化とかかわっていくのかということの分析の方法が非常に遅れた状態である。全くないわけではないし,これからは大いに発展する学界の流れにはなっているが,非常に遅れている。
 その原因は,ここで江藤委員に緩やかな反対を申し上げたいのだが,江藤委員は言葉遣いの基本は「心」であるということに反対なさったが,「心」の問題に触れてこなかった言語の分析の伝統というのは,ソシュールが元凶であると私は見ている。言葉をシステムとして見てしまったために「心」との関係で見てこなかった。ソシュールは,言語研究の道具立てをラング,パロールに分けて,ラングだけを見ていこうとした。それを今世紀最高の言語学者と言われるチョムスキーも受け継いで,言語をコンピタンス(言語能力),パフォーマンス(言語運用)の側面に分けて,コンピタンスだけを見ていこうということで分析を深めた。そのために,確かに言語学はある意味では発展したけれども,言葉を使っている人間という側面から見ると大いに落としてきてしまったものがたくさんあるわけである。
 敬語の研究について言えば,構造の研究はよく行われてきたが,それ以外の本当の意味での敬語の側面,つまり人間が社会生活の中で敬語をどうして必要としているのか,それがどういう効果,機能を持っているのかということに対して,言語学者たちが余りやってこなかったという現状がある。そこで,先ほど山口委員から三つの立場のどれを取るのかという提案があったが,私としては困ってしまう。将来あるべき「これからの敬語」のガイドラインは,国語審議会として,みんなで考えたい。どうしてこういう敬語が必要かが分かるような,一番芯(しん)になるフィロソフィーというものが,ある理論武装として書かれていなければならない。こうしてはいけない,ああしてはいけないというものだけでは,本当の意味で世の中の人が納得し,進んで守りたいと思うような建議はできないのではないかと思っている。
 結論として,もう少しお時間をいただきたいと思っている。

細見委員

 新しい標準というか,そういうものを議論することには賛成である。今回の世論調査の結果について,「概要−3」の9ぺージの一番下のところに,学校教育で,男子,女子とも「さん」という言葉を使うというのが15.4%あって,これは注目に値するという御意見が書いてある。どういう意味で注目に値するとおっしゃっているのか,よく分からなかったんだけれども,「国語に関する世論調査」の21ぺージのデータで見ると,先生が生徒に呼び掛ける場合,男子,女子にも「さん」という呼び方をするのが望ましいと思っている人が15.4%いるわけである。この数字を敬語の新しい動きというか,丁寧語の一つの新しい要素という形で理解してみたらいいんじゃないかなと私は思うわけである。
 もう一つ,これに関連して,丁寧語は非常に用途が広がっているということを痛感する。例えば,会社なんかでは,上司がスタッフの人たちに「君,これをやってくれたまえ」とか,そういうような形で命令するわけであるけれども,女性が上司になった場合は「君,これをやってくれたまえ」というような形ではなかなか命令しにくい。どういう言葉を使おうかと悩むことが多いわけである。女性が上司になった場合には,「やりましょう」とか,「やってくれますか」とか,そういう形で,部下に言ったり命令したりすることが多くなるわけで,命令するのも,丁寧語を使った新しい命令形というか,そういうものがすごく使いやすいというのを割と実感している。
 したがって,男性,女性という性差を是正する,いい意味での平等社会に対応したような形での言葉遣い,その意味では丁寧語をもう少し評価して,家庭なんかでも丁寧語が生かされていくという方向になれば,思いやりとか,心とかいうことを議論する土壌が出てくるのではないか。私はこういう視点も是非議論の中に加えていただきたいと思う。

神谷委員

 国語学とか言語学の専門ではないので,考えていることを的確に申し上げることができるかどうか等々,やや躊躇(ちゅうちょ)しながらであるが申し上げる。私は旧制中学に学んだが,その中学で教わったことでいまだに一番頭に残っているのは,1年生の入学後の第1時間目に,それはちょうど国語の時間であったが,国語の先生が1年坊主の私たちに対して敬語を使われたということである。その先生は「君たちは,こういうものを読まれたらいいと思います。」と言われた。
 今どき,甲子園の野球などを見ていると,監督が「子供たちが,子供たちが」と連呼している。新制の高校であっても,高等学校の生徒が子供なのか。子供としか扱えないという,その先生が既にして失格だと私は思う。旧制中学の先生は,1年坊主の1時間目に敬語を使われたのである。私は襟を正して,それ以来,大変なところに来たなと,ずっとある種の緊張感を持続して中学を終えた経験がある。
 そういったことを思い出すにつけても,私は敬語の基本はしつけだろうと思う。つまり,学校にしろ,あるいは家庭にしろ,しつけなければいけない。幾ら心がこもっていようがいまいが,とにかくしつけて,最小限度の敬語はきちんと言わせる。私は,そういうしつけの方が大事ではないかというふうに思えてならない。しつけというのは,目に見えて,形に表れて判断できるものであるから,なるべくそういったはっきり判断できるものを基本に置いて敬語を考える。そういう態度も必要ではないかと思う。

清水会長

 先ほど山口委員から御指摘があった「標準作成への取組」については,大変大事なところなので,第1委員会としても総会の意見を十分伺って,それなりの合意の上で進めたいということだと思う。

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