国語施策・日本語教育

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次第・議事要録 第1委員会における審議状況について2

清水会長

 多分,具体例となると,これからまたいろいろ御議論もおありかと思うけれども。
 いかがか。「敬意表現」という名称については,改めて検討する必要があるということで,第1委員会としてはまだ答えを出していないわけであるが,こういったことをまとめる最後のところでは,何か答えが出るということ――答えというか,表現の仕方というか,その辺でひとつ御意見をいただければ有り難いと思う。丁寧語の方がいいのではないかとか,委員会ではいろいろ御発言がおありになるようである。
 「敬」が入っていることに対して,それが今お話しのように上下関係にも結び付いてきたのかとも思うけれども,そういったことではなくて,場とか,いろいろな状況の中での言葉遣いということで,「丁寧語」ということが表現として出てきたと思う。この辺のところは,また委員会で検討していただくので,どうぞ御自由に御発言をいただきたいと思う。

坂上委員

 第2委員会に所属しているので,余り中身を知らないで申し上げるのは気が引けるが,簡単な意見として申し上げる。
 敬意表現のコンセプトというか,スタンスというか,フィロソフィーが,相手を大事に思う気持ち,相手の場に対する配慮である,この二つであるというふうにお決めになっていることは,大変すばらしい立場だなというふうに思う。
 それで,そこからが大変大事な議論になるんじゃないかと思うけれども,僕は子供のころ敬語で大変苦労した経験があって,こういうことだけはない方がいいなと思うのは,敬語を間違えて使ったことによって,社会的なあるいは心理的な,いろんな意味でマイナスを被るというような,そういう社会であってほしくないということである。
 というのは,敬語というのは,フィロソフィーでお考えのように,相手の立場を思う気持ちとか,相手の場を考えるという言葉の使い方であるから,習得するに越したことはないけれども,それは年齢によったり,その人の住む社会によって,あるいは会社とかいろんな組織によってちょっとずつ違うと思う。そういう中のTPOがあって初めて生きてくる問題であるから,国語審議会から何やらいろんな具体例が出てきて,それが一つの規範,模範になるようなことではないと思う。その辺の御議論は十分尽くしていただきたいと思っている。

井出(第1委員会)主査

 大変貴重な御意見ありがとうございました。私どもがこれから具体例を出していくに当たって,先ほど山口委員が大変楽しみにしているとおっしゃってくだすったのであるが,今,坂上委員から,その具体例が人を縛るようなものであってはいけないというふうな御意見もいただいたわけである。どういう形で出していくかということで議論を始めて,ウォーミングアップをしている段階である。具体例を出すというときに,どういうものがいいのか。出てくる前に,例えばたくさんあった方がいいんじゃないかとか,いや,なるべく少ない方がいいんじゃないかとか,どういう形のものがあるべき姿かということについて,私どもは大変悩んでいるので,何か御意見があれば,おっしゃっていただけたら有り難いと思う。

坂上委員

 先ほどちょっと言い忘れたことで,今の問題に関することで一言だけ申し上げると,表現というのは,話し言葉もあるし,聞き言葉もあるし,書き言葉というのもある。さらに,日本語のように漢字がある場合は見る言葉というのもある。そういうふうに,いろんな形の表現があるので,その中で相手を考えたり,あるいは丁寧語,敬語,いろいろあるわけである。そういうことも御議論の対象にしておいていただけると,恐らく具体例は豊富になるのではないかと思う。

片倉委員

 私も長らく出席させていただいていて,前にもちょっと申し上げた記憶があるけれども,ここは国語審議会なのであるが,今回御説明いただいたIの最後の方に「日本語による外国人との意思疎通」という項が見られるように,日本語はもはや国語という域を越えて,これからは国際語の一つとして外国人も使える日本語というようなことが,21世紀を前にして考えられなければいけないのかなと思う。
 そうすると,敬語というのは,上下関係とか,相手を思うとか,みんなそれぞれの社会,文化によって違うわけで,このように哲学というか,抽象的に表現していただいても,日本人ですら,先ほどお話が出たように具体的にはどうなのかと思わざるを得ないし,外国人は更にそうで,あんなややこしいのがあるから日本語はとても勉強したくないというところまで来ていることが多いと思う。
 そういうことからすると,国語として私たちが慈しんできた日本語,美しさということはもちろんあるけれども,国際的にも日本語で意思の疎通ができるという――日本語学習者は今どんどん増えてきていて,日本語を学びたいという人は物すごい数になっている。このところ30%ぐらい増えてきているというようなことであるので,敬語に関してはその点を大いに考慮してくださって,平たく言えばできるだけ単純に,シンプルに,これぐらいのことは,日本語を学ぶならば,日本人も外国人も覚えなくてはいけないというようなミニマム敬語,ミニマム敬意表現をど一んと出していただいて,それは小学校のレベルから,あるいは家庭のレベルからしっかり教え込む。後はそれぞれの習得能力に応じて,あるいは場に応じてというような,そういうふうなことを考慮していただけないかと思う。

宇治委員

 先ほど小林委員から御指摘いただいた2ぺージの「(3)敬意表現の考え方」というところについて申し上げる。井出主査の方は,具体例をまとめるに当たって,フィロソフィーが非常に大事だというふうにおっしゃったが,この3行を読んでみて,特に2行目から3行目にかけてのところであるけれども,「敬意表現は上下関係で使い分けるのではなく,相互尊重の配慮に基づき,社会的関係によって使い分けるものである」となっている。そこの部分はこういうふうに言い換えることも可能なのか。「敬意表現は上下関係で使い分けるべきでなく」という意味を含めてお書きになっているものなのかどうか,あるいは3行目のところも「社会的関係によって使い分けるべきものである」というフィロソフィーに立たれているのかどうかを伺いたいと思う。

井出(第1委員会)主査

 正にそうだと思う。この辺は,文言はまだ練っていないので,皆様に御不快な思いをさせて誠に申し訳ないと思っている。要するに,私どもが今期考えていることは,21世紀に向けて日本語の敬語は基本的にどうあるべきかといったときに,「<敬語使用>」というところの一番最初の意見のところに出ているが,敬語批判の第一の理由は,上下関係で使わなければいけないと思わされている。そこが一番の障害である。それをどうやって乗り越えるかということで,このように使い分けるべきものではないんだということを言いたくて,このように書いてまいった。
 そうかといって,人間には経験の豊かな人とそうでない人,年の差とか,いろいろな社会的関係の複雑さを明らかにしつつ言葉を使うというのは日本語の基本であるので,「相手を立てて,上位の者として扱う」というものは残るということである。
 私どもは,「これからの敬語」にその部分がどう書かれているかということを復習した。それによると,「基本の方針」というところに「これまでの敬語は,主として上下関係に立って発達してきたが,これからの敬語は,各人の基本的人格を尊重する相互尊敬の上に立たなければならない。」と昭和27年に言っているわけである。それがそのとおりにはなっていない現状を踏まえて,もう一度上下関係ではないということを言っているのである。この上下関係の中身は,身分の上下関係というものがまず第一にあったとは思うが,社会的な職階の上下関係などもこれに移行してきているので,会社の中で若い人の意見を大いに聞かなければいけないときには,若い人たちも敬語のことを気にしないで議論できるような社会にしたい。そういうような議論の結果,このようなスタンスを確認したわけである。御指摘ありがとうございました。

甲斐委員

 2ぺージの(2)のところについて発言したい。
 (2)のところに「円滑なコミュニケーション」を支えるものとして三つのものを用意し,その下に「ただし」という考え方があるが,私も「ただし」の方よりは上の方が良いと思っている。その場合に,「円滑なコミュニケーション」を支えるものとしての三つがあるというときに,敬意表現と平明,的確な表現というのがどういう関係になるかということなのであるが,1ぺージ目のところを拝見すると,まず,三つの箱の一番上のところには「言葉遣いをめぐる問題状況」ということで,「言葉遣い」ということが問題として取り上げられている。二つ目の箱も「言葉遺いの基本として」ということがある。したがって,「円滑なコミュニケーション」というときに,やはり「言葉遣い」ということを問題にしていく必要があるだろう。
 ところが,個々のところ,2ぺージの「(3)敬意表現の考え方」を見ていくと,そのときの「円滑な」というのは,コミュニケーションを円滑に推進していくときの潤滑油的な敬意表現という発想になっているのではないか。言語表現そのものをどういうように考えるのか。例えば手紙の文体とか表現の質とかという問題があるが,そういうものをどうとるのかということがなくて,場面とか,相手とか,話し手というような問題がここには非常に強く出ていて,それ以外のものが消えているようで心配になる。
 そこで,(2)の「円滑な」の下に三つの四角が並んでいるが,この三つのものを有機的に結び付けていき,それから真ん中の「平明,的確な表現」というのを主題に立てた,(3)のような@,Aも必要ではないかというようなことをちょっと考えた。

前田委員

 「敬意表現」のことについて,呼び方などが問題になっているようなので,そのことについて意見を申し上げたいと思う。
 私としては,「待遇表現」という方がなじんでいて,非常に良いのではないかと思っている。前からの流れで「敬意表現」ということなら,それはそれでいいのではないかと思う。「配慮(の)表現」という場合は,ちょっと広過ぎて,どういうふうなことに配慮するのかということに非常にあいまいな点があるから,幾らでも広がってしまう。「尊重表現」という言い方は,何を尊重するのか。その前がなければ,「尊重表現」だけでは非常に分かりにくいと思う。「礼儀表現」だけが敬意表現ではないように思うし,「丁寧表現」というのは,やはり丁寧の範囲に限定されてくるので,敬意表現の中で丁寧だけというふうな考え方には問題があるのではないか。
 そういう点では,私の考え方だと,より良い関係を作るための「待遇表現」とか,そういうふうな言い方がいいのではないかと思う。「待遇表現」というのはここでは説明しないが,「敬意表現」を「待遇表現」の代わりにすることも可能ではある。ただ,下の(3)全体の中で,例えば,「相手に応じて情報を伝える」というのは,「敬意表現」にはちょっと入らないのではないかというふうなことも思うので,個人としては「待遇表現」の方が適当ではないかと考える。しかし,そうでなければ,今までの流れで「敬意表現」で限定していくのも一つの考え方かというふうに思う。
 一応意見を述べさせていただいた。

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