国語施策・日本語教育

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次第・議事要録 第1委員会における審議状況について2

水谷(第3委員会)主査

 日本から中国大陸に向けて,国及び民間レベルで意識的な情報発信作業を行うことが,今,非常に必要だと考える。情報発信のためには以下の3点に留意すべきである。
@  自分を理解してもらう方策として,相手のコミュニケーション形態(中国人は自己主張が大切だと考え, また「依頼,謝り」などは「上下関係」より「権限」や「面子」に着目して行うなど)を知る努力をする。
A  日本人や日本文化を説明することの大切さを日本人が意識し,日本語の公開講座には必ず中国語の通訳を付けるなど,一般の中国人の日本理解を広げる努力をする。
B  中国語が片言であっても,非言語コードや漢字を介してある程度のコミュニケーションが可能なことを,一般の日本人に知らせる。

 次のぺージ,「(2)情報機器や通信網の活用とコンテンツの充実」。ここは新しいものは出ていない。
 (3)の「通訳の位置付けと通訳教育の重要性」のところは,最初の一つだけ新しく加えてある。

 異なる言語の間で質の高い発信・受信をするためには,言語の背景にある文化的・社会的文脈を熟知している通訳者の養成が必要である。

 前回までにも,そういった意味合いのことは出ていて, (3)は割合に深い内容になっているけれども,(2)についてはちょっと情報の収集が足りないという反省をしている。
 下の方へ行って, 5の「国際化時代の日本人の言語能力の在り方」,「(1)国際化時代の日本人の言語能力像――現状とこれからの方向――」。 これが先ほどの第1委員会のお話とどんな形で絡んでくるのか,今後の課題になるだろうと思うが,第3委員会の枠組みの中で, これはこれで進めておくというふうに考えておきたいと思っている。

言語活動は, 日常言語,知的言語を問わず,人間の認知能力を大前提とし,スキーマ(ある事柄に対する知識の枠組み)・スクリプト(筋書き)を用いて行われるので,第1言語を用いた言語活動においてそれらを身に付けていることが前提となるとともに,第2言語を用いるときにもそれらが非常に大きな問題となる。異文化間コミュニケーションにおいては,相手が自言語におけるスキーマ・スクリプトを持っていることに注意しなければならない。
 各国からアメリカへの留学生600名による英作文を分析したところ,英語話者は結論を先に述べて後を従属的に展開し(直線型),セム語系の話者は表現したい内容に直接かかわらないが平行的な例を次々に出していき(平行線型),東洋言語の話者は周辺的なことから述べて次第に表現したい内容に到達する(渦巻型) といった, 内 容展開の類型が確認できたという研究がある(カプラン 1966)。また,英語母語話者は順接・逆接を用いて直線的に論理を展開し, 日本語母語話者は換言・例示・注釈などを積み重ねて結論に達するという研究結果もある(西原 1990)。また日本語は文脈に依存する割合が高く,英語は低いと指摘されている。異文化間のコミュニケーションにおいては,相手の文化の表現スタイルやコミュニケーションパターンを知ることによって,相手にとって理解しやすい表現をすることができる。

 これは委員からの報告の中身であるが,それをめぐって,以下ずっと並んでいる意見が出てまいった。

 カプランの研究は言語表現における思考過程の違いを示している。アメリカの「書く」教育は,パラグラフを作り言いたいことを積み上げていくやり方で行われており,国際的に通用する英語を書くためにはこれを身に付けなければならない。
 カプランの研究における東洋のサンプルは韓国語話者である。この研究に対しては,西欧人のオリエンタリズムで東洋を一括しているとの批判がある。むしろ, 日本人の側から日本人の表現についての見解を出していくべきである。
 我々は, 21世紀の国際化した社会で生きていくための, 日本人の日本語による言語表現の在り方を提言する必要がある。その際,英語の表現が直線的だというのは英語話者からの見方だということも考慮されてよいのではないか。
 思考の流れは文化である。自分の背負っている文化を前面に出すか,相手の文化に入り込んでいくかによって,言語表現のスタイルは変化するであろう。思考の流れを変えることは可能であり,異文化接触においては述べ方の切替えが必要だと思う。多文化的な視点を持って思考を表せることが望ましいが,それができる人は限られるので,文化による幾つかの表現類型を心得た上で,相手の文化を意識してコミュニケーションを行えればよいと思う。
 現実に,日々,文化差の問題への対応を迫られている。すなわち,学生を留学させるための推薦状は, アメリカの大学に出すものは英文の発想でストレートに書き,国際交流基金に出す日本語のものは,担当する審査員の持つ文化を想定して書き方を調節する。 日英両方の書き方を習得した上で,出すものの目的によって使い分けるのである。
 あるネイティブの英語教師が「天声人語」の英訳を読んで,何を言っているのか分からない文章だという評価を下したが,有名なコラムであることを知ると,日本人らしい発想として大切にすべきだと言っていた。外国人に発信するから外国人の表現法に合わせるのか, 日本人だから日本語らしい発想法に立つのかの折り合いをどう考えるかが問題である。

水谷(第3委員会)主査

 日本人の言語運用は共同体意識の下に「高文脈」で行われる。そこには, 自分と違う考えを持っている人に言葉を使うという意識ではなく,相手も自分と同じ考えを持つべきだという意識がある。そこで,言葉が“柔道,剣道,言葉道"のように意識され, 日本人の間で言葉について問題になるのは「礼儀」や「乱れ」のたぐいである。英語も“床の間英語"のように扱われがちであったが,実際に外国に出て外国人と丁々発止のやりとりをしている自然科学分野の人などは,表現する中身を問題にし,相手を説得するために“言葉の正しさ"を超えた次元で苦心しながら活躍している。言葉の使い手としての勇気と自信を日本人に持たせるための提言をする必要があると考える。

 次のぺージになるが, 日本人は人と向かい合ったときに,同じ質問をするといったような問題のこととか, 中国の人が, 日本人は自分の考えを言わない,何を考えているのか分からないなどの不満を抱くというようなことについての発言などがあった。
 (2)の「国際化に対応する日本人の言語教育の在り方」については,三つ目及び八つ目の○のところに新しい意見が載せてある。三つ目のところを読ませていただく。

コミュニケーションを円滑に行うためには,平明・的確な表現を可能にする日本語が求められる。話し手は相手に理解可能な表現をしているか,聞き手は話し手の意図を十分に理解する聞き方をしているかが問われるが,その態度や能力を養うための訓練は家庭,学校,社会で行われ,特に幼少時及び学校教育での訓練がその後の言語生活に大きな影響を及ぼす。

 教育の在り方について,私どもがどこまで発言していいのか。 日本の小学校の英語教育が社会的な課題になっているけれども,それに関連して,どのようにかかわるべきなのかということについての判断は,今後の議論の中でしていくことになるかと思う。終わりから三つ目のところに,言語形成期に関連する問題が挙げられているが,こういったことを考えるときに,少なくとも小学校の英語教育の前提となる日本語の教育の在り方ということくらいまでは,私たちの責任の範囲に入るのではないかと思っている。
 次の10ぺージのところでは,上から三つ目の○の部分が新しいところである。

 中国の学生は,日本の英語教育と同じかそれ以下の期間しか日本語を学んでいないにもかかわらず, 日本人の外国語運用能力とは比較にならないほど高度な日本語運用能力を身に付けている。日本でも実用を目的とする語学教育への転換を徹底し,細かい発音などは余り気にせずに堂々と話そうとする意識を養うべきである。

 これは英語教育に関してである。
 以上が,2回の第3委員会を通して出てきた新しい情報である。先ほども申したように,この後,ここに集められてきた事実の指摘や考え方を整理し,さらに,拾われている事実や意見と我々が主張しなければならないことの枠組みとのギャップを探すという作業に入ることになる。
 以上である。

清水会長

 いろいろな事実関係をとらえ,それを分析し,言わなければならないことにまとめる。そういうことで,今,新しく御議論になったところの御説明をいただいたけれども,御質問,御意見があれば伺わせていただきたいと思う。こういう視点で抜けているところがあるじゃないかというようなことでも結構である。

内館委員

 5ぺージのところで, (5)の二つ目であるが,「欧米的な哲学が壁にぶつかったときに,それを救えるものを日本文化は含んでいると考えられる。」という部分について,もう少し具体的に知りたいと思う。

水谷(第3委員会)主査

 この時は,何か一致してしまって,それほど突っ込んだお話に進まなかった。したがって,こんなことが話し合われましたというふうには申し上げられないけれども,ヨーロッパの学生などに多いのであるが,日本語の勉強をしようとして来る人たちは,フランスやドイツのヨーロッパの学問や分野の中ではもう行き詰まっている。その中で新しい考え方を見付けることができない。でも, 日本には何かあるだろう。それを私たちは求めて日本語を勉強に来ているんだというのが結構多い。確かに,ユダヤ的というか,今のヨーロッパ,アメリカ的な考え方の背景にある非常にしっかりした一つの考え方とは違う考え方があり得るはずであるし,これは私個人の考え方であるが,人類が総心中する可能性も必ずあると思う。一つの考え方で,同じ生き方,同じ価値観を共通して持ったときには,壁にぶつかるか,あるいは総心中をしてしまうか。人間というのはやっぱり生きものであるから,違った個体が一杯集まっていて,必要性も違う。だから違う考え方を持っていなければ,――もし英語だけを軸にして欧米文化だけが正しいという生き方になってしまったら――北欧のネズミが何年かに1回海の中へ飛び込んで総心中してしまうような,そういう事態を引き起こすのではないか。
 知らない人間同士が接触するという態度を社会生活の基本とする生き方というのは,非常に大事である。今話題になって議論されている,知らない人にもあいさつをするとか,議論をして通じるようにするというのは非常に大切だけれども,もう一方で,別な生き方もあるはずで,家庭の中で,夫婦の間で,何も言わなくてもふろと飯が用意され,あるいはお茶が出てくるというのは,私,個人的には非常にいいことだと思っていて(笑い),知らない人間がそれをやってはいけないけれども,人間の社会の理想的な在り方について一元的な考え方だけで判断していくことは良くないと考えている。今の英語中心で進んでいる行き方は確かにいろんな問題を解決している。でも,解決し得ないものがあるはずだ。日本文化の中にはそれがあるだろう。田舎の村の文化が持っているものというのはそれなりの意味があるはずであって,現在の欧米文化が壁にぶつかったときに,日本から輪出できるものがあるはずだ。ここにちょっと触れてあるけれども,人間の交流の仕方の中で,相づちを打ち合うやり方が基本的に英語とどんなに違うかというようなことについての認識を,私たち自身が日本の文化あるいは日本の歴史に根ざしたものとして持っている必要があるのではないか。
 自分の個人的な意見を言い過ぎたが,多分,皆さんがぱっと一致なさったのは,そういうようなことをお互いに感じていて,それで話が終わっていたんだろうと思う。

清水会長

 日本語の国際化ということに関しては,これから大変重要なことであると思っているので,そのきっかけだけでも,この審議会で作っておきたい。そういう意味から,今のようなお話は大変重要だと思う。商売上日本語を勉強しなければならないということだけで日本語を勉強されたのでは,余り意味がない。
 どうぞ,御自由な御発言をいただきたいと思う。

井出(第1委員会)主査

 ただ今,内館委員が御質問なさった短い文章は,私も全く同じように思っていて, はっと息を飲むような一文だったと思うが,そのお答えとして,水谷主査が,みんな納得してしまって詳しいことはなかったと言われた。そこが日本人が発信できない問題だと思うのである(笑い)。それを顕在化して言っていただいて,認識する必要がある。水谷主査のおっしゃることと同じことは,多くの方が思っていると思うが,それを明文化していただくことで,それと第1委員会の内容とがきれいにドッキングしていくことが大事かと思っている。これは意見である。

水谷(第3委員会)主査

 何も異存はない。

松岡委員

 もちろんどの委員会も自由に傍聴できるということは承知しているけれども,今これを拝読して,9ぺージの(2)の「国際化に対応する日本人の言語教育の在り方」の新しく加わったところに出ていることは,正に第1委員会でやってきているというか,前文に盛り込もうとしている内容であるし,先ほどもここに関することのお話があったと思うけれども,一度共通になっているところを幾つか拾い上げて,合同の委員会を開いてみてはいかがであろうか。これは一つの提案であるけれども,別々に独自にやっていて,こういう場で,同じことを考えていたわという発見も大事だと思うけれども,またそれぞれがそれぞれの委員会に持ち帰って個別に討論するということでは,同じことの繰り返しだと思う。
 私も今これをずっと目で追い,耳で伺いながら,いかにオーバーラップするものが多いかということがよく分かったし,私自身が考えていることが細かく割に近眼視的だったものが,いきなり広い部屋に連れ出されたような解放感を味わったので,ひとつそういうことをやってみてはいかがであろうか。

水谷(第3委員会)主査

 実は以前,井出主査からそういう申出があって,賛成した。ただ,ちょっと待ってくださいと申し上げたところ,井出主査御自身が第3委員会に出席してくださった。私も第1委員会に出席しなければならないと認識している。

清水会長

 御無理をいただいて,そういうことをさせていただくのは大変いいことだと思うので,どうぞよろしくお願いする。
 実は余り時間がなくて,水谷主査もこれから中座されるとのことなので,第3委員会の報告はこのぐらいにさせていただく。

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