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文化庁月報
平成23年10月号(No.517)

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対談

対談 〜 政治家が語る平城宮跡の保存整備の軌跡 〜

対談した2氏(右から,奥野名誉会長,近藤長官)

対談した2氏
(右から,奥野名誉会長,近藤長官)

 平城宮跡(奈良県奈良市)は,奈良時代の宮跡として特別史跡に指定され,また,世界文化遺産「古都奈良の文化財」を構成する資産の一つとしても,国民に広く知られた遺跡です。文化庁が土地の公有化や史跡整備を継続的に行い,遷都1300年を迎えた昨年には,第一次大極殿の復原が完成し,今も多くの見学者が訪れています。
 平成23年8月中旬,文化庁がこれまで平城宮跡の保存整備を進めていく上で,多大なご指導・ご尽力をいただいた奥野誠亮氏から,「政治家が語る平城宮跡の保存整備の軌跡」と題して,公有化の経緯をはじめとする保存整備の思い出,今後の平城宮跡の方向性などについて,お話を伺いました。

《対談者》
奥野 誠亮
財団法人アジア福祉教育財団名誉会長,元文部大臣,元衆議院議員
近藤 誠一
文化庁長官

目次

  1. 1 奥野誠亮先生の略歴
  2. 2 史跡保存に関心を持った契機
  3. 3 平城宮跡の公有化
  4. 4 平城宮跡の整備・大極殿の復原へ
  5. 5 平城宮跡に対する今後の期待や思い
  6. 6 東日本大震災からの復興に向けて

◆奥野誠亮先生の略歴

― 奥野先生は衆議院議員として長らくご活躍され,国民の方多くがご存じの著名人ですが,改めまして,先生の略歴を,ご紹介ください。

【近藤長官】
 奥野先生は,大正2年(1913),奈良県御所市のお生まれで,旧制第一高等学校,東京帝国大学を卒業され,内務省(戦後,自治省。現在の総務省)に入省,昭和38年の夏には自治事務次官に就かれました。同年11月の総選挙に奈良県全県区から出馬されて当選,長らく政治家としてご活躍されました。その間,昭和47年には第2次田中角栄内閣の文部大臣にご就任,それ以来,文部省(文部科学省)は先生に大変お世話になっております。また,アジア福祉教育財団等の幅広い活動をされ,我が国の戦後の発展,そしてバブル後の日本の進路を決める上で,いろいろな角度から大変なご尽力されたことは,国民の広く知るところだと思います。

◆史跡保存に関心を持った契機

― 奥野先生は奈良のご出身ということで,史跡に対するご関心もご幼少の頃よりおありになったと思います。史跡,文化財に対する思いを持たれるようになったきっかけ,あるいは思いの奥底になるお考えについて,お伺いします。

【奥野名誉会長】

奥野名誉会長

 奥野名誉会長

 私の公務員としての経験,特に大東亜戦争末期の混乱した状況から非常に強く思ったことは,天皇を頂点に置いているという日本の国柄,この仕組みは非常に大切だと。今作ろうと思っても作れない。だからこれを非常に大事にしていかなければいけないということでした。天皇制があったから大混乱を起こさせないで,とにかく戦争を終結に持ち込むことができた。やはり天皇を頂点に置いている日本というのはありがたい。それが言いたかったのです。私のその気持ちが将来の土台になっていますね。日本の国柄というものは大切にしなければいけない。こればかりは作ろうと思っても作れないものなのだということですね。
 私が文化財に接したのは,むしろ国会に出てからです。その時分,保存優先か開発優先かということが一つの課題でした。戦後は,破壊から立ち上がらなければならない。開発優先でした。開発が優先し過ぎて史跡が破壊され始めた。そこでね,昭和39年か40年の時分,私が国会に出てすぐ,鎌倉・京都の古都保存が問題になったのです。自民党政務調査会事務局,田川誠一さん(神奈川選出),田中伊三次さん(京都選出),奈良県選出の私,建設省都市局の5者で議員立法をやることにしたのですよ。古都を破壊から守っていく特別措置法ですね。それに明日香の問題が起こってくるでしょ。明日香は,やはり日本の始まりだから,ここを守っていかなければならないということを民間の人が言い出しました。御井敬三という東洋医学の研究家が松下幸之助さんに訴えるのです。松下幸之助さんがそれを佐藤栄作首相に伝え,佐藤さんが明日香を見に行くことになったのです。その時の官房長官保利茂さんに,「あなたも一緒に行った方がいいよ」と言われ,それで一緒に明日香に行きました(1970年)。その時分からだんだんと史跡に深入りし始めました。
 ですから,史跡の問題は国会に出てからですね,そういう経過を経ながら私は史跡に深入りしていったと思うのです。やはり史跡というものをいい加減にしてはいけないと。自分たちの国の歴史を先ず心得なければならない。歴史を知るには史跡を守っていかなければならないと。アメリカの占領政策で国を忘れた国民になってしまいました。これはやはり立て直さなければいかんということだなと思ったのです。

【近藤長官】
 太平洋戦争終戦時のご経験から,日本は天皇中心の国柄を維持すべきだという強い思いと,戦後の占領政策でそういったものが失われる危機にあるということ,そして急速なその経済開発の流れの中で,そういうものを体現している史跡が壊される,そういう思いで史跡に対して強いご関心が向かれたということですね。

◆平城宮跡の公有化

― 1960年代,平城宮跡の国民的な保存運動が起こりました。昭和38年には池田勇人首相が平城宮跡全域の国有化を表明し,国費による買上げが開始されます。先生が文部大臣として平城宮跡に直接関わられた時期で,特に土地の「先行取得」という,今から思えば画期的な方法を発案されたと伺っております。どういう経緯だったのか,お聞かせください。

【奥野名誉会長】

対談中の様子

対談中の様子

 いろいろな人が平城宮跡の保存運動をしましたが,明治時代に棚田嘉十郎という人がおりましてね。最後には自殺してしまいましたが,私はこの人が頂点だったと思っています。金を持っていませんでしたが,大極殿跡という標識を平城宮跡に立てまして,保存運動をしたのです。県知事だって公費で買ってくれという運動をしていますが,真剣な運動は棚田さんが頂点だったと思います。
 地元に対する説得は池田さんに始まると思います。池田さんが,「俺も史跡を買えるようになった」と,自慢げに話していたのを覚えています。ところが,私が昭和47年に文部大臣に就任した時,平城宮跡の公有化があまりにも微々たる状況だったので,びっくりしたのです。それが何とかしたいという発端でした。特別史跡は国が基本として買上げていくということでしょう。あれだけ広いところを,僅かずつ買っていたのでは何十年もかかっちゃうのですね。池田さんが全域国有化を表明して約10年です。高度経済成長時代ですから,地価が上がるのは当たり前です。高い値段で買おうとすると,先に売ってくれた人は補償してくれと言うんですよ。あんな広いところはチビリチビリ買って買えるものじゃないのですわ。
 それで時の文化庁長官に,買えるところは片端から県に買ってもらい,その代わり国が土地代と利息をつけて県から少しずつ買い戻していく手法をとらなければ国有化ができないじゃないか,大蔵省と折衝してくれと頼んだのですよ。2週間くらい経ってからね,私が長官を呼んで進捗を聞いたら,まだ交渉を始めていませんというのです。これはもう私自身が関与しなければならないと思ってね,大蔵大臣の愛知揆一さんに―彼は元々大蔵省の役人で,内務省の役人だった私とは役人時代,気さくにやり合っていた仲でした―直接,先行取得のアイデアを話したところ,「それはそうですね,私に予算を増やせと言われても増やせませんしね,それは良い方法だ」と言うから,それならと,私が奈良県の奥田知事に電話して頼む,愛知さんは主計局長に話を下ろすことになって別れたのです。それが始まりです。
 今も文化庁の予算には,地方公共団体による史跡等公有化への国庫補助事業として,単年度の買上げ方式と,土地代と借金の利息を毎年定額で償還していく方式(先行取得方式)の2本立てで事業がありますね。私が文部大臣を辞めた後に,国会議員をメンバーとする史跡保全議員連盟が組織されて,私が代表世話人になり,全国史跡整備市町村協議会(全史協)と協調して史跡公有化など史跡整備予算の拡充運動をしました。そのなかで私が主張したことは,史跡というのは本来,国のものではないかと。しかし全部国が買上げて,管理するのは不可能だ。だから,県や市町村に買ってもらい,管理してもらう。その代わりその費用は国が8割負担するようにしたらどうかということ。また,先ほどの先行取得方式を市町村にも当てはめて借金で買っておく方式の年ごとの事業規模を50億から20億増やしたらどうかということを提案しました。どちらもうまくいきました。

◆平城宮跡の整備・大極殿の復原へ

― 平城宮跡での先行取得は昭和47年度から実施され,その規模は差し当たり,年間50億円を予定したようでした。昭和49年,東院地区の国有化計画(奈良県による先行取得)予算が決定したことを契機として「平城宮跡保存整備委員会」が発足し,昭和53年5月には平城宮跡の保存整備の骨格が『特別史跡平城宮跡保存整備基本構想』として取りまとめられました。以後,文化庁は公有化した土地の保存整備を順次行っていきます。平成の御代になって,平成10年度には朱雀門の復原,平成12年度には東院庭園の整備,そして平成22年度には大極殿の竣工をみました。平城宮跡の整備についての思い出をお聞かせください。

【奥野名誉会長】

平城宮跡第一次大極殿正殿

平城宮跡第一次大極殿正殿

 天皇一代ごとに宮を作り替えていた飛鳥時代から,海外との交渉を持つようになって,代々使用する皇居を持たなければならないということで藤原京が造られ,3代16年間で平城京になります。日本の都城国家が始まるこの時分が,国際社会に対応できる日本国家の始まりだと思っています。京都や東京は形があるから誰でもわかりますが,奈良は都があったといっても,もう一つ締まりがないというか,しっかりした形がない。だから平城宮跡に目に見える形で復原をしたいという思いがありました。
 私は,買うと同時に,これを整備していかなければならない。下手に打ち出してもいかんなと判断していました。それで,文化庁の方で委員会をつくられる時に,文化庁からご相談があった。私は,誰が復原の主張をしてくれるかなと,ちょっと心細くなったので,2名の方を加えてくださいというお願いをしたのです。一人はのちの奈良大学の理事長。これは決断力のある人でね。もう一人は唐招提寺の森本孝順長老。この方はなかなか機知のある男でした。
 ただ,そう簡単に復原が実現するものではありません。私の知恵は,奈良県だけが言うのではなく,京都・大阪・奈良が一緒になった関西文化学術研究都市計画として,あそこにあるいろんな地域をどう活用していくか,ということです。筑波の学研都市は官主導,京阪奈の方は民主導の文化研究学園都市を創る。それが進み始めたときですからね,私はこれを利用することだと思いました。当時,関西文化学術研究都市建設推進協議会の会長である東洋紡績の宇野収さん(関西経済連合会長)にお願いして,中央に対する陳情書を出してもらいました。それで平城宮跡を中心とした地域を関西文化学術研究都市の古代文化ゾーンとして設定するなどの研究が行われたようです。そんな効果もあって,安定した予算を続けることになったなと,思っています。
 最後に大極殿を造る時にはもっと違った努力をしました。自民党の政調会長に対して,国は毎年補正予算を出しているが,過去の予算の不足を補うだけのことでは意味がない。補正予算を出す時には,何か将来に残るものにしなさいということ。それと同時に,今の若者は国を考えない人間になっている。若者に国を思う心を持たせなければならない。そこで大極殿を造って,先人の努力をみせれば,若者に気概が出てくるだろうということです。最初の補正予算は30数億でした―全体で180億―。私は出足でそれだけの配慮をしました。それでうまくいったと思っています。文化庁とも絶えず連絡をしながらいろんなオペレーションをやったのですよ。私は文化庁の一員みたいな感じがしていました。
 それからね,もう一つ参考に申し上げますと,次に予定している施設の復原について,もう一つ設計でまとまらないところがあるので,先に設計のよくわかっている平城宮を囲む塀を朱雀門の両側などに復原したい,という話しがありましたが,史跡は開放的に整備したらどうかと意見を言ったことがあります。これは文化庁(奈良文化財研究所)も同感でした。私が言うからそうなったのではなくて,両方とも同じ意見でした。長い間遊ばせておくのだから,市民が使いたいところは使えるようにした方がいい。市民から反発が出てこないように注意して,私は文化庁と一緒にやってきたと思っています。
 1300年前の建物を復原するということになりますとね,設計なんかも簡単にわかるものじゃありません。最初は平城宮跡資料館に模型を置いて世間の納得をしてもらうような努力をしていましたね。私はそれが良かったと思います。ポンと勝手にこうだったと作るのではなくて,100分の1でしたか,それが私は説得力があったと思いますね。

【近藤長官】
 先生のお話を伺いますと,官僚組織のトップに登られる過程で組織に対するご経験を積まれ,また,政治家として非常に困難な利害調整をされてこられたことがわかりました。その成果としてこれだけの土地の買取りができ,しかも復原ができ,開かれた史跡ということで誰も反発せず,むしろみんながそれを前向きに評価しています。いま大極殿を見れば,誰もがああ素晴らしいなと思いますが,出来上がったものを見るだけでは必ずしも直接は伝わってこない先生の大変なご努力があったということですね。本当に先生のお力あってこそ今の平城宮跡があるのです。

平城京復原模型

平城京復原模型

◆平城宮跡に対する今後の期待や思い

― 平城宮跡は国営公園として整備されていく予定ですが,今後の平城宮跡に対して何かご要望がございましたら,お聞かせください。

【奥野名誉会長】
 平城宮跡は,今度は,国土交通省所管の国営平城宮跡歴史公園になる。私はずっと国費でやってもらうということに主眼を置いて考えていたものだから,国営公園化には賛成でした。これまで文化庁が少ない予算の中から何十年も全額国費で続けてくれたおかげで,今があるのだから,奈良県の人たちは感謝しなければならないと私は言っております。
 平城宮跡というのは奈良県だけのものでなく,日本国全体のものです。その当時の人々の志は気宇広大でした。遣唐使の派遣も命がけで,当時世界最高の文化を受け取ってくるというようなことをやったわけですからね。万葉集には,庶民の歌も入れて,約4,500首にしている。そういう和歌の伝統を天皇家が引き継いで,毎年御題を出して,正月には歌会始をされる。御題で入選した歌は,天皇さんや皇族の方々の歌に続いて堂々と詠み上げられます。それは立派なものですよ。ああいうことを通じて庶民も大事な文化に浸っていたのですしね。日本の心というのはずっと繋がってきているのです。このような文化を持っている国は,私は世界にないと思います。『古事記』とか『日本書紀』も,単なる歴史書ではなく,日本の国をこうしたいという一つの理想を持ちながら歴史を書いているのだと,私は思いますね。
 平城遷都1300年祭記念事業に際して,国会議員による推進連盟が組織され,元総理・森喜朗さんが会長を引き受けてくれ,事業が国家的な行事になるよう支援されましたが,1300年祭の終了後は,推進連盟を解散してしまいました。私は,明日香の議員連盟のように平城宮を守るという組織として存続させて,今言いましたいろんな問題を掘り下げてもらってね,日本の将来への戒めをつくりだしてくれればいいかなと思っていました。


【近藤長官】

近藤長官

近藤長官

 昨年の1300年祭記念式典には,私も末席に参列しておりましたが,当時のことを偲ばせるいろいろな演劇や舞踊がありましたね。1300年前のわが祖先たちがいかに気宇広大な心で外国から文物を取り入れ,自分たちで咀嚼して素晴らしい文化をつくったことを改めて感じまして,その後,『古事記』とか『日本書紀』とかを時々読んでいます。あるいは地方に行く時も,そこは当時どうだったのだろうかと歴史を勉強することにしています。今,東日本大震災以来,東北のことが私の仕事でも増えていますが,福島や宮城,岩手では蝦夷の時代が長く,いろいろな変化を示す遺跡がございましたよね。日本国の成り立ちというものを改めて考え直しているのですが,やはりそのきっかけは,あの式典であり,1300年祭であり,大極殿なのです。日本国民全員が,大極殿を見て当時に思いを馳せて,この1300年の間に日本がどう発展してきたか,今後がどうなってきたか,今後どういうふうにしていくべきか,そういったことを広い目で考えるような,そういうシンボルとして,大極殿は素晴らしいものです。今後は,先生がおっしゃるように,末代まで日本国民に伝えていく何かの仕組みというか,組織というか,そういうのがあったらいいなと思います。

◆東日本大震災からの復興に向けて

― これからの日本,特に東北の復興とか,日本全体が再び輝く国になるために,文化・文化財,歴史といったものを,あるいは国の成り立ちを,1人1人がしっかりと噛締めて,これからの経済・政治に反映させていくべきだと思います。そういう点で,これからの文化や文化財というものに関する教育とか,あるいは政府の財政的なものも含めた対応の仕方とか,あるいは東北の再建にそれをどのように活かすか,そういった点について,何かアドバイスをいただければと思います。

【奥野名誉会長】
 私は時々言うのですけどね,戦後,昭和40年代に高度経済成長になり,ぐんぐん経済は伸びました。アメリカがトップであるのは間違いなく,日本がそれを追いかけていたわけです。その辺から,私はたるみが出てきたのではないかと思うのです。ペーパーマネーを追いかける日本になったのですね。それが10年,20年続いて,立ち直らなければいけないという空気が出てきたところに,あの災害が起きたのです。
 みんな,東日本の皆さん方立ち上がれ,我々も立ち上がる,といい空気になった時に政治がぼやぼやしていますね。この機運で私たちが考えなければならないのは,一つは道義に長けた日本人であるべきこと。それから人まねをするのではなくて,自ら新しいものを創っていくこと。この二つの人間教育を大きく展開すれば,日本が立ち上がることが不可能ではないと,私は思っています。

【近藤長官】
 本日は暑い中お運びいただき,貴重なご経験を長時間にわたってお話くださり,誠にありがとうございました。本日の先生のご意見,ご提言を今後の文化財や文化芸術振興,教育政策に活かしていきたく存じます。本日は本当にありがとうございました。

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