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文化庁月報
平成25年8月号(No.539)
連載 「伝建地区を見守る人々 伝建歳時記」
桐生市桐生新町伝統的建造物群保存地区
歴史的資産の保存活用と人が集うまちづくりの推進
目次
- 1 桐生新町伝統的建造物群保存地区
- 2 桐生の織物産業
- 3 桐生祇園祭
- 4 ノコギリ屋根工場
- 5 今後のまちづくり
桐生は古くから織物の町として発展してきました。現在でも織物産業の繁栄を今に伝える町並みがいたるところに残り,土蔵造りの店舗や白磁タイルを張った事務所,
平成24年7月,桐生新町地区が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。約420年前に町立てされた「桐生新町」,350年以上の歴史がある「桐生祇園祭」,市内各所に200棟以上も残っている「ノコギリ屋根工場」など,これらは先人が築き上げた貴重な歴史的資産です。桐生市では,歴史的資産を後世に引き継ぐために保存していくとともに,積極的な活用を図り,人の集うまちづくりを推進しています。
桐生新町伝統的建造物群保存地区
桐生市本町一,二丁目には,江戸初期に創設された「桐生新町」の敷地割りが残り,江戸末期から昭和初期までの織物産業の繁栄を象徴する土蔵や町屋,長屋,煉瓦倉庫,長屋門,井戸屋形,
保存地区の町並み(本町通り沿い)
「桐生新町」は,徳川家康の命を受けた代官 大久保長安の手代 大野八右衛門によって流通の拠点としてつくられました。天正19年(1591)から慶長11年(1606)までの15年間でつくられ,初めは一丁目から三丁目までが,その後,四丁目から六丁目までが整えられました。
「桐生新町」という呼び名は,大正10年(1921)の市制施行まで使われ,昭和4年(1929)からは現在の呼び名である「本町」に改められています。
「桐生新町」の町立ては,旧桐生領総鎮守天満宮を遷座し,そこを基点として,南に向かって一直線の道(現:本町通り)が引かれ,間口6〜7間,奥行き約40間の敷地割りが行われました。
保存地区は,歴史を経て形成されてきた建造物や環境が良好に残され,特に町の骨格は江戸初期以来のものが踏襲され,大きな変化を受けていません。
保存地区内には,約400棟の建築物があり,その内の約6割が昭和初期(戦前)までに建てられていますが,建築年代は,江戸末期から明治期,大正期,昭和初期と様々な建築物が入り混じっています。
これらの建築物は,主に木造や土蔵造で,店舗や事務所,住居などに使われ,その形態も様々なものとなっています。特殊な例としては,近代的な白磁タイル張りの事務所や大谷石造のノコギリ屋根工場も現存しています。
また,県指定文化財1件,市指定文化財3件,国登録文化財6件が,重伝建地区選定前から保存されており,保存地区として,これらの文化財を含む建築物173棟・工作物170件・樹木8件が保存するものとして指定されています。
大正10年(市制施行時)の本町通り
町並みの特徴については,本町通りに面する建物は,主に店舗や事務所として使われ,重厚な戸建ての建築物に混じり,長屋形式の建築物も見られます。
戸建て建築物の形態は,主に切妻造り,平入りとなっていますが,寄棟造りや妻入りの建築物もあり,ほとんどの建築物には,下屋が設けられていて,通り側が店舗となり,その後ろ側が住居となっています。
また,主に借家として建てられた長屋形式の建築物は,切妻造りで平入り,通りに面する場合と敷地の奥に建てられる例もあります。このように,様々な建築物が建ち並び町並みを形成しているところが,保存地区の特徴とされています。
桐生の織物産業
桐生の織物が商品として本格的に生産されたのは江戸時代以降で,慶長5年(1600)の関が原の戦いのときに,徳川家康軍に旗絹として献上したこともきっかけとなっています。
周辺の山村では古くから養蚕が行われており,絹織物は,江戸初期から桐生の特徴的な産業として,「西の西陣,東の桐生」と呼び称されるほどまでに発展しました。
元文3年(1738),模様を織り出す「空引き機」が,元西陣の大工を通じて導入され,「
天明3年(1783),桐生の岩瀬吉兵衛が水車動力で生糸を
明治期に入ると生糸の大量輸出などの影響で,桐生の織物産業が大打撃を受けますが,「絹綿交織織物」や技術革新を重ね今日を迎えています。「桐生新町」と織物産業は,密接な関係にあり,絹織物の生産や販売,流通の中心が「桐生新町」だったのです。
桐生祇園祭
一丁目の祇園屋台
「桐生祇園祭」の起源は,今から357年前の明暦2年(1656)にさかのぼります。その頃の「桐生新町」は,まだ140戸ほどの町でしたので,大げさなことはせず素朴な子供たちの手踊りが中心でした。神様は京都の祇園祭と同じく,牛頭天王(仏教の守護神)を
三丁目には,母衣輪権現,衆生院があり,
安永8年(1779)に,桐生は庄内松山藩の所領となりました。その後,天王社と市神社がいっしょに祭礼を行うようになり,神事のほか,付け祭りという飾りものや狂言などで楽しむようになり,一気に
織物産業の発展により,経済力のついた桐生で,安政元年(1854)に,四丁目では巨大な祇園屋台を建造します。間口が襖12枚分で2階建て,芸能を楽しむための正しく「動く歌舞伎座」とも言えるものです。その5年後には三丁目と五丁目,続いて六丁目,二丁目,一丁目がほぼ同規模の屋台をつくり,六町で六台が勢ぞろいしました。その間,三丁目が「翁鉾」,四丁目が「四丁目鉾」もつくっています。
三丁目の翁鉾
明治に入り,神仏分離令が布告されると,仏教の守護神の牛頭天王の神号は廃止され,京都の祇園社も八坂神社に改められたため,明治3年(1870)には,衆生院は廃寺となりました。天王祭礼も,八坂祭典と改められました。
明治41年(1908)に三丁目にあった八坂神社が移転となり,美和神社に他の神々とともに合祀されて,神輿蔵のみを建造して現在に至っています。
時代とともに近代化が進み,町中には電線が張り巡らされてくるにつれ,巨大すぎる祇園屋台と鉾の出番はめっきり少なくなっていきました。
昭和39年には祇園祭と七夕祭,商工祭などが統合され「桐生まつり」となり,昭和63年には「桐生八木節まつり」に改称されましたが,平成元年には,四丁目の祇園屋台が復活し,郷土の歴史を受け継いできた方々の努力により,「桐生祇園祭」として再出発しました。平成7年には鉾の巡行も復活し,「鉾の引き違い」も行われるようになり,歴史や伝統,文化を大切にしていく桐生人の心意気を示すものとなっています。
ノコギリ屋根工場
「ノコギリ屋根工場」は,産業革命の時代(19世紀)にイギリスの紡績工場で初めてつくられたとされています。それまでの手工業から機械工業に移行して行く中で工場の規模の拡大,経営形態の変化によって大工場が必要となり,「ノコギリ屋根工場」が建てられるようになりました。
大谷石造のノコギリ屋根工場
桐生でも,明治22年に,現在の桐生厚生病院や市役所が建つ周辺に日本織物株式会社桐生工場が建設されました。レンガ造りの大規模な「ノコギリ屋根工場」で,日本でも屈指の古さをもつ大規模なものでした。以降,日本絹撚株式会社,両毛製織株式会社など大規模な工場にノコギリ屋根が採用され,周辺の織物工場にも徐々に採用されるようになりました。
「ノコギリ屋根工場」の構造種別については,レンガ造が1件,石造が9件,RC造が1件で残りは木造となっています。また,大規模な工場は少なく2連,3連の小規模な工場が残っています。
桐生において「ノコギリ屋根工場」が,最も多く建てられていた時期は,昭和初期から昭和30年代までです。昭和40年代に入ると極端に減少していきます。
現在,約200棟の「ノコギリ屋根工場」が残っていますが,これらは織物を主産業とした桐生を代表する建造物となっています。
最近では,織物産業の衰退による工場閉鎖や建物の老朽化により年々減少していますが,空き工場を店舗やアトリエ,資料館,美容室,幼稚園など様々な形で活用されている事例も多くなってきました。
今後のまちづくり
今後は,桐生新町創設当時の敷地割りや江戸末期から昭和初期までの歴史的建造物の適切な保存に加え,現代の生活との調和や空地・空き家対策,防災対策などを順次進める予定になっています。
これからを,地域の活性化や町並み整備などに取り組んでいく出発点として捉え,保存地区を核として「歴史的資産の保存活用と人が集うまちづくり」をさらに広いエリアで推進し,桐生の地に残された貴重な歴史的資産に磨きをかけ,「住んで楽しいまち,訪れたくなるまち」を目指した取り組みを進めたいと考えています。

