国語施策・日本語教育

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議事 正書法について(3)

高 津

 正書法は,第1部会の調整でなく,ぜんぜん別に考えていっていいのではないか,現代かなづかいはそのままにしておいて,別のほうから考えてみてどれだけ違うかを見たほうがいい。

中 島

 結果は同じようなものになるのではないかと思う。校正などするときに復元することもあるが,1ページの中で特定なものを除いてはあまり出入りはない。学生の答案を調べてみると,これはまちまちになっている。言語を社会的現象とみるなら,その差異をもう少し合理的に考えていかなくてはならない。正書法の場合,現在どう使われているかということに重きをおくべきである。ほとんど同じもので,一部分が違うだけで,混用されていてもわからない。読むにはいっこう困らないが,みっともないから統一しようという気持ではないか。現代の発音をどう書くかということと口語文法とをにらみ合わせて考えてみてはどうか。率直に言えば,現代かなづかいを守るということでなく,国語審議会としてはもっと根本的に考えを変えていかなければいけない。現在は少し騒ぎが大きくなりすぎている。

土岐会長

 ことばの歴史的発展,推移のうえから見れば,歴史的かなづかいはアンチテーゼとして出るはずはないと思う。

颯 田

 現代かなづかいをやめてもっと実際かなづかいをやれということのようであるが,わたくしは,現代かなづかいを実際かなづかいと解釈している。今は過渡時代だから困るのは当然である。現代かなづかいを基礎にしてやらないと議論がいくつにもなる。議論をしやすくなる場を与えることも必要である。

高 津

 結果はそのとおりであるが,手段としてはそうではいけない。現代かなづかいの疑問にちゃんとした理論づけをしていけば疑問がなくなるだろう。理論でとおしてやってみるべきである。

土岐会長

 現代かなづかいはオーソグラフィーと考えなくてはなりたたない。それを発音式と考えるところにまちがいが起る。現代かなづかいは,現代の口語を発音どおりに写しているわけではない。オ列長音・連濁・連呼もオーソグラフィーとして考えればいいわけで,現代かなづかいを資料としてさしつかえないと思う。

吉 川

 さきほどの中島委員の意見を聞くと,現代かなづかいがある危機に臨んでいるような印象を受ける。

中 島

 そうは思わないが,部会の意見を聞いているといろいろな意見の対立から,不安定の感が強く受け取られる。部会はいろいろな分野からの代表で,ひとりひとり意見が違う。ああいう議論では不安定が醸成されるだけで意味がないのではないか。今は現代かなづかいに対して不必要に懐疑的になっているものもある。現代かなづかいは,そう不合理なものではないと考える。正書法を別の方向からやれば意義があると思う。

吉 川

 第1部会では,「ぢ」「づ」の問題ばかりやっているのではないか。かなづかいは局部的なものである。その中のさらに局部的なものについて議論しているのは政策としてもまずいのではないか。

土岐会長

 あれを語意識に基く語の表記として考えていけば,適用についても整理ができる。現代かなづかいは発音的にかたむく傾向があるが,語の意識で考えると,たとえば「かたがつく」と「かたづく」とは一致する。これが語の表記になるのではないか。その考え方は,連呼の場合にもあてはまるであろう。

吉 川

 オーソグラフィーでは,かなづかいに触れずに,どういうものをかなで書く,どういうものを漢字で書くということを決めることをやるのがいいのではないか。たとえば「いう」は,かな書き,「言」は「言論」「言語」などだけに使う。こういうものを決めていくのがよい。かなづかいをやっていくと第1部会と同じになる。正書法の立場から「ぢ・づ」の問題を解決しようとすると,迷路にはいってしまうかもしれない。

土岐会長

 道は少し変わる。今までとは別の道を通ってやるのである。

吉 田

 いずれにしても,かなづかいにのみとらわれていることはよくない。

土岐会長

 漢字・かなづかい・送りがなのすべてを向き合わせたところに妥当な点を見いだしていこうというのである。原則さえ立てば,一つ一つのことばを取り上げなくてもいいのではないか。

吉 川

 正書法は,原則をたてることを主とするのがよい。純粋な日本語の動詞・形容詞はかな書き,漢語は漢字で書くのが望ましいというような形で出てくるのであるか。

中 島

 吉川委員の意見と同感である。かなづかい・当用漢字の問題について,どういうときにかなを使うか,漢字を使うかということである。できる(出来),いう(言・云),これ(是・之)などは,かな書きがのぞましい。促音・よう音の書き方もある。小字を使うことなどについても同価値で論じるなら意義があると思う。公用文・官庁文書・教育ではある程度書いている。「いっている」また「い’ている」というふうにしてもよい。今は「ぢ・づ」の問題でかきまわしている。漢字かなまじり文なら,漢字・かなをどこまで使うかということに重点を移していくことである。現実はかなづかいよりも漢字の用法,あて字,慣行の漢字の使い方などのほうが重要な問題である。かなづかいなどは小さい問題で,実際は漢字の使い方のほうがよほどほねがおれる。

土岐会長

 それがオーソグラフィーである。オーソグラフィーの中で,漢字の使い方,かなづかいなどひっくるめて出てくるのである。

高 津

 それには具体的な辞書をつくらなければだめである。原則は立てながら,一つ一つ具体的に当ってみるのである。

土岐会長

 まず原則を立て,それと並行して具体的に考える。

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