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議事 その他
松坂委員
文芸協会から文部省に対して意見が出されたが,それに対して,当局がどう答えられたか伺いたい。庶務報告で,「言語政策をはなしあう会」のアンケートの結果が審議会に送られたといわれたが,それをプリントにして,委員全員に配布するお考えがあるかどうか。
土岐会長
文芸家協会の件については,当局からお答え願いたい。
白石課長
わたくしどもの聞いているところでは,文芸家協会のかたが文部省にみえ,大臣とお会いする時刻の約束もあったが,けっきょく,大臣にお会いできなかった。その後,大臣にお会いしたという話はない。大臣の正式の返答ということもきいていない。
土岐会長
国語課にいろんな意見書が来ているが,いちいちそれをとり上げてお目にかけるようなことは今まではしていない。これは,かなり具体的な資料であったために,特に報告したものであろう。もし必要があるなら,その会からもらえるかどうか問い合わせてもいい。
倉石副会長
これは,「言語政策をはなしあう会」で調査をし,限られた部数を印刷して,委員の若干のかたに配布した。もし印刷の可能性があり,見ていただけるなら会の係りに連絡してもいい。
松坂委員
その資料は,データがついていて妥当なものと思う,また,文芸家協会の申し入れについては,われわれも反省すべきでないか。
土岐会長
協会では,個々の委員に送ったというが,それは委員のひとりひとりに対してであって,国語審議会に対してではないと考えていいのではないか。審議会として取り上げるかどうかは,改めて考えたい。
成瀬委員
「ご参考までに送付します。」とあったようだ。
土岐会長
それなら,審議の際に参考にすればいいのではないか。委員の話し合いで,ここで取り上げることに賛成が多く,それによって,審議題目に取り上げるなら,それでいい,つまり,取り上げ方を変えていくのならかまわない。国語問題全般として考えるなら,世間にも耳をふさがなかったということになる。このような考え方について,ご意見があるか。(発言なし。)なければ,なんらかの形で国語問題一般にひっくるめて扱いたい。
成瀬委員
日本では,国語改良論が明治になってから唱えられだした。これは,ヨーロッパと接触した時期にあたり,急激に文明化する必要が生じたもので,言語だけでなく,生活様式全体が変わったためである。前島密の「漢字御廃止之議」は,今から考えると,漢字を廃止するというのは表面のことで,その背後には漢学が日本に不適当であるという考えがあり,漢学のもっていた弊害が科学の発展を許さなかった点が漢字にしぼられてきたのだと思う。明六雑誌には,森有礼・西村茂樹らの論が見えているが,特に西村茂樹には,漢字には「山・川」など字画の簡単なものがあり,mountain に比べてむずかしくないという議論もある。森・井上哲次郎・上田万年などの主張は,当時の文明開化の流れに沿った理想論の意味をもち,能率主義・便宜主義に立っている。ヨーロッパの言語が輸入されたとき,それを漢語的に解釈して使用した。もしヨーロッパのことばとして使用したら,精神・物理両方面にわたる急激が発展は考えられなかったのではないか。言語には,思想・感情を伝達する記号としての便宜的な面もあるが,漢字には,そのほかにわれわれの言語として,1,000年の歴史的存在としての価値をもっていると思う。木下杢太郎が,国語改良は,ギリシアの古代からもっている人間性の回復をめざしたヒューマニズムによってなされるべきだといっている。そうした意味で,日本語は,日本のことばと中国のことばの結び合いとしてできあがっているし,日本語としての言語のヒューマニズムに立って現代に即応した国語政策として考えなけばならない。これに対して,極端な能率主義・便宜主義の考え方がある。会社の事務が,かな書きによって能率があがったことなどから,簡単に,国語を書き表わす文字をかな,またはローマ字にしてしまえというような考え方である。これは,わたくしとは次元の違う立場である。この主義の人と同席して国語改良を考えることは困難であり,話し合いも不必要だと思うようになった。文芸家協会の意見も,このようなものではなかろうか。「国語問題協議会」は,方向がヒューマニズム的ではないようだ。ただ,文部省や審議会で決定するのはいけないという主張に一理はある。言語の改良は,おのずからなるもので,だれかがこうすべしと決める性質のものではないからである。送りがなのつけ方は,委員の中に保守主義者がいて妥協案を作ったものである。そうでなければ,もっと革新的なものになったかもしれないが,その場合には,一般的な妥協の線は出てこなかったのではないか。言語は,合理的に整理しうるものかどうか。特に日本語では困難ではないか。日本人の論理的でなく,感情的な性格を変えることができるだろうか。国語教育で,話すこと・聞くことが大きく取り上げられてきたが,昔は,沈黙は金で雄弁は銀であった。これは国語問題というよりも大きな倫理問題である。
最後に,送りがなが決まったのを機会に,委員も新しい顔ぶれになるべきではないか。少なくとも最初から委員であったかたは道を譲っていただいて,新しい構想で国語政策を考えていく必要があろう。そうすると,便宜主義・能率主義への批判も出てくるのではないか。
高木委員
だいたい同感であるが,ただ便宜主義・能率主義ではなんらのプラスにならないとは思わない。ことばには,自然科学的な面と精神科学的な面(文学的創造の面)がある。これを一本に調整しながら,実際的でもあり,文学的でもあるように推進するための会議でありたい。「自然にまかせる。」とか「話し合いはできない。」というだけではいけない。補正案の取り扱いも,当用漢字表そのものを,もう一度考え直してみる際の「補正案」と考えるべきだという報告を受け,善意によって両者に歩み寄りが行なわれたということをうれしく思っている。委員が変わることも望ましいが,善意があれば,このままの形でいい。今までの経験を生かすことも一つの方法であろう。
土岐会長
委員は,最初から見ると,かなり変わっている。一方的な考え方の人ばかりが集まって,一方的な運営をしているわけでは決してない。送りがなのつけ方は,保守的な人の参加によって妥当性が……という見方もあろうが,わたくしは,高木委員のように,審議の結果歩み寄りができてまとまったという印象を受けた。審議会を廃止せよとの意見も,世の中にはあるが,審議会自身でつぶすわけにはいかない。それよりも,今あるものを適当に変えていけばいいと思う。改選の際,委員を半数ぐらい変えたいと思っても,選考委員会にかけると,なかなかそういかないことを経験している。このことは,次期の選考委員会で考慮されよう。
成瀬委員
能率主義が悪いというのではない。事務・仕事の段階だけに使われるのならいい。それをそのまま全体にまで及ぼすのなら,言語の特質や,ヒューマニズムを考慮して慎重にやってほしいと述べたのである。
高木委員
言語は,単に道具として見るべきではない。相手の言い分を聞く態度が何より必要である。
成瀬委員
田丸卓郎氏の「ローマ字国字論」には,言語は記号だということが書いてあるが,とても考えられない。
颯田委員
反対論者がいることはけっこうだし,有益なことと思う。科学,応用科学の立場からは,日本語には言語以外のニュアンスとか感情がありすぎるように思える。それらを除いた正確なものを何より必要とする部門が多い。もっと話し合う場が多くなり,話し合う努力が続けられるべきで,部会の運営回数なども考える必要がある。
土岐会長
審議会を,民間から離れた文部省の機関,官僚の機構であるかのようにいう人があるが,実情は,民間の国語問題を考える人の集まりで,委員は,民間人の立場で参加している。建議機関であり,その建議が実施されると,国民を拘束するように見るものもあるが,審議は常に民間的な合議の形で行なわれている。かりに,審議がなければ,国語政策のあるべき姿はどこで考え,どういう形でやればよいのか。こういうことを考えると,むしろある意味では,国語審議会は安全な調節機関と考えてよいであろう。フランスのアカデミーのことが引き合いに出されるが,フランスの国語問題と,日本の国語国字問題とは同じには考えられないと思う。審議会は,委員の構成からいっても,広い目で国語問題全般をながめることができるので,ひとつの役割を果たしていると考えてよかろう。
颯田委員
傾向の違う人と話し合っても意味がないとは思えない。それぞれの人が主張する権利をもっている。一方的にならないようにするのが,会議のあり方である。
西原委員
部会で発言しても,取り上げられない場合もあるが,少数意見でも記録に残るので,じゅうぶん意義がある。審議の態度は,世の中では,なんでも早く決めてしまう,早く決めて押しつけるというように思われているが,実際にあたってみると,それほどせっかちとは思えない。ただ,刑法改正準備草案の扱い方から見て,さらに慎重を期すべきだと思う。欠席する委員については,ある事がらについても賛否や意見を口頭または文書で確かめ,部会の審議に反映させるよう事務的に配慮願いたい。部会の経過・状況などについて,もっと外部に伝えたらどうか。会長・副会長は進んで世間に出て,問題点を明らかにする必要があろう。
土岐会長
世論は聞いているつもりである。ただ,民主的といっても,国民会議というようなものは実際上できない。審議内容も,ある程度決まれば,新聞発表をしているし,送りがなについても,各新聞社とも,当時かなり大きく載せたのである。独善的にやってはいないつもりである。
宇野委員
送りがなのつけ方は,決めることに新聞側の要求があったからではないか。その後,新聞に出た記憶では,読者の批判がかなり強かったように思うが,国語課に賛否にデータはないのか。訓令でも,あれだけ批判のあったものを,さらに教科書でも採用したと聞いている。事実はどうなのか。世論にさらすというやり方自体はけっこうであるが,さらす期間があまりに短い。
土岐会長
訓令・告示の処置は,建議に沿って,文部省が各省と連絡のうえ決定した。もちろん,その間に世間の批判も考慮している。どう取り入れたかは,現在の新聞のやり方を見ればわかる。
宇野委員
文芸家協会の批判は,委員の構成についてではない。審議の結果が大臣に建議され,それが各省に及び,さらに当然のこととして教育面,教科書にも適用されてしまう。そうすると,事実上審議会が国民を拘束することに協力したことになる。この点を問題にしているのである。
石井委員
全般については知らないが,送りがなについては,教育上実施すべきかどうかを教育課程審議会にかける段階にある。わたくしは,中学校の学習指導要領の審議会に関係しているが,送りがなを議題に3回,委員会を開いている。その結果,送りがなのつけ方を決めた趣旨はけっこうだが,あの建議のまとめ方は,中学校の文法学習の構造と関連して,むずかしい点があるので,説明のしかた・まとめ方をうまくやればいいということになった。けっきょく,送りがなについて,教育面では,まだ決定をみていないと思う。教科書の検定でも同様で,編集者の良識によって,統一がとれていればいいということである。
白石課長
もともと,送りがなは,教育,官庁,法律を作る側,新聞などで一致したものを作りたいということで始められたが,それぞれの立場で,それぞれの意見が残っている。ただ,建議された送りがなは,従来のものと根本的に違っているものではない。建議後,世間の反響も見て,官庁間でこれでいいという見通しをつけ,官庁でやる送りがなを決めた。新聞では,建議案よりも,さらに送りを多くしている。官庁・マスコミ方面でやり,世間でも行なわれるということになると,文部省でも,教育面で実施するかどうかを検討する必要が出てくる。これが実際に行なわれ,指導上にもいいとなれば,それが反映されて,将来,そういう手続きがとられることが考えられる。
土岐会長
いろいろと意見が出たが,このへんで第41回の総会を終わることとする。