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議事 審議1
成瀬委員
この前の総会でいろいろと申し上げたが,要は,きょうまで考えなおしてこよう,もう一度考えなおす時間を与えていただきたいということであった。その際,やや言いすぎたところもあったが,会長個人に対して恨みを含んでいるわけではない。その文芸方面における業績の文学史的な役割につても,つねづね深く敬意を表しているものである。ただ,国語審議会における会長としては,これまでにじゅうぶんおやりになり,その間なみなみならぬおほねおりであったと思っているが,ともかくも,送りがなのつけ方のところまで扱ってこられたのである。さて,10年を振り返ってみて,どうしたらよいかという点については,新しい構成員で,広い視野で見なおす必要があるのではないか。今までのわれわれがそれをやったのでは批判にならないので,メンバーを大幅にかえ,新しい人によって構成された会で批判してもらいたいという趣旨のことを申し述べたのである。ただ,従来のような方法,一昨年度の選挙のような方法では,どうしてもそうした実があがらないので,なんらかの方策を考えられないものか。西原委員は,わたくしの総辞職論について,そうした方法では長年熱心に審議されてきたかたがたを全部除いてしまうことになるのでだめであると反対された。わたくしは,その点では同感であるが,多少意味合いが違うかもしれない。長年やってこられた委員は,型にはまっているので,そういう型にはまらないかたにやってもらいたいというのである。専門といっても,わたくしも国語国字問題について専門家ではない。わたくしは,文学研究としてやっているので,全体の国語問題を審議する適任者であるとは考えていない。ところが,この現在の委員を見ると,専門的に直接的にこの問題に取り組んでいるかたもあるが,そうでないかた,たとえば,報道関係者・法律家・実業家も集まっていて,われわれの日常生活の国語問題を扱っていこうというのである。そのため,広い分野のかたがたが参加されているのである。広く考えていこうというのであるから,その点から考えると,特に専門にこだわる必要はないのである。長年おいでになっているからといって,専門家であるというわけではない。2年なり4年なり委員をやっているかたなら,だいたい出席していれば,これまでの知識経験によって,次の委員に対して審議のいきさつなどは説明できるのではなかろうか。必ずしも,専門知識をもたなければならないものとは思えない。文部省の国語課には,専門のかたもいるから,知識的な面も備わっているわけである。専門家でなければならないという理由をつけて,特定の人をくぎづけにしてはいけない。この前の総会で,表音主義者がいるかぎり,この国語審議会は無意味であるといった。わたくしと表音主義者とは油と水のようなものであって,どうしても合致できないものである。国語問題は,現実のうえに立って,現実の国語,言語生活のうえに立ってやるものであるから,油と水ではもはや問題にならないといったところ,西原委員などから,多くの知識経験者が集まって,いろいろな違った方向の意見を交えて,話し合いの中で国語の問題が研究審議されるべきであるという反論をいただいた。わたくしも,できることなら,広く知識を求め,お互いに話し合っていくことを望むものであるが,ここでも多少の意味合いの違いがある。
表音主義は,けっきょく,言語の問題であり,国語問題は文字とからみあったものである。文字の機能と漢字の機能とは違うものであり,ひとたび文字となった以上,文字としての機能が出てくるものである。これについては,この間かいつまんで説明したが,表音・表意について,外国のことばを例にあげてみる。英語でプレフィックス(prefix),サフィックス(suffix)ということばがあるが,「プレ」には「前」という意味がある。また,「コン」には「ともに」という意味があり,その音がだんだんと意味をもってくる。英語が表音で書かれていても,文字が一つできると「コン」がいろいろのことろに出てきて,コミニケーション,コンパクトということばが造られ,いずれも「いっしょに」という意味をもってくる。つまり音につけられた意味が,だんだんとことばを造るようになってくるのである。ことばが文字になると,こんどは文字がことばを造って複雑になり進歩していく。かつて申したとおり,文字は言語の機能であるというのは,ローマ字について田丸さんが言ったことであり,さらに,文字は符号であり,日本語はローマ字で書いていいという主張もある。それについて,時枝博士が誤りと指摘している。ローマ字論は,国語生活・言語生活・文字生活の歴史に照らしてみても,どうにもならない困ったものである。田丸さんは物理学者としてはすぐれていても,言語問題については,所論に弱点をもっているようで,田丸さんのために惜しむものである。
成瀬委員
わたくしは,表音主義には絶対反対である。たとえば,「語彙」ということばがある。「彙」という漢字はむずかしい字であり,語の種類といった意味であるが,当用漢字表に「彙」の字がはいっていないために,「語い」とかなで書いている。そのようにかなで書くと,「い」の字はなんらの意味もない。符号として発音は確かにわかるが,「い」は何をさすのかというとわからないし,小学生に「ごい」といってその意味を教えこませることはできない。さいわい,われわれのように,ある点からいえば知識のある者は,「語い」と書かれても,それが語の種類という意味であることを知っているからいいのであるが,そうでない場合には,「語」と「彙」とがあるから,その漢字によって,語の種類の意味であるということが理解できるのである。また,もとの字ではわかりにくいからといって,他の漢字にかえるということにも賛成できない。いささか余談のようで恐縮であるが,そうした意味の表音であるから,表音主義によって言語問題・国語問題を考えるのでは困るのである。この点について,よくお考えいただきたいという趣旨である。表音主義の狂熱的な人々とわれわれとは,左翼と右翼のようなものであり,それらの人々とわれわれがいっしょに論議するといういことは,両翼の主張をもつ人のなぐりあいのようなもので,共通の場がないのである。それでは困る。
現在の国語改良の論議には,それほど極端な論が出たことはないが,表音主義者の人たちは,国語審議会の決定を表音主義のための一つの段階として,その方向にもっていくための手段として利用するのではないかという不安と疑いと恐れとを,わたくしはもっているものである。
そこで,共通の場での話し合いをするために,前回も,相当強く申したもので,そうした立場をはっきりさせるために強いことばを用いて発言したのである。西原委員その他のかたがたから批判を受けたが,それは覚悟のうえで申したものであることを,ご了承願いたい。
西原委員
前の総会で言い尽くしたようなことを申し上げたくはないが,成瀬委員の発言にわたくしの名があげられたので申し述べる。成瀬委員とは隣の席で,とんだまわりあわせで,ふだん信頼し合っているのが論敵となったような形であるが,思うところを率直に述べたい。きょうのお話は,前のときの発言について訂正もあったこと,例によって,反省自覚の度の強いことと感服したしだいである。それでもなお,意味合いが違うと言われる。最後に言われた共通の場ということは,そのとおりであり,国語審議会の歴史についての議論も興味深く伺った。この発言には学ぶべきものもあり,教示もあり,それらについては同感の点が多い。文字とことばの機能の違いは,仰せのとおり違っているものにしても,なんらかの関連をもっているということはいえる。国語改善も問題については,国語・国字として平行して考えている。教育界でも同様であるが,読む,聞くという場合でも,ただ読む,聞くということでなく,使う,書くという要求があり,文字の問題が出てくる。歴史的に見てもそうである。そして,文字となると機能が違ってくる。
表音主義者にはその立場があるとしても,国語国字について関心をもっているから,ことばの問題について疎外することはできない。ともに国語国字を改善しようというのが共通の場である。音声学者・方言学者ばかりでなく,多方面なかたがたが集まって,国語改善について審議するというのが共通の場であると,わたくしは考えている。いずれにしても,一方に偏することこそ国語改善を阻害するものではないか。また,盲進してはばからないというのでは,会議にならないものと思う。2年間審議の席につらなったが,この間,表音主義者が個人的には説を出したにせよ,それをどこまでも押し通し,審議の進行を妨げたことは一度もない。むしろ,できるだけそのような主張を表に出さないようにしているかに見える。総会ばかりでなく,部会でも,どちらかというと,そのような傾向が強いように思われる。審議は多数決に従っていくべきであろうが,それがどちらかというと,他の側からの発言に動かされているように見える。見ていてもはがゆいくらいに自説をひっこめている。それに反して,他の側からの発言はやかましく,かえって自説を固守するかたもあったりして,実に耳ざわりだと思う。会議に現われたかぎりでは,この審議会が一流一派に偏しているとは考えられない。長く委員であった人にはやめてもらうとか,委員の一部のかたには辞退してもらうとかいう主張もあるが,会議には会議の形式があるので,これに従って進めていかなければならない。文部省令を改正するということができるのであれば,話は別であるが,さしせまったきょうの問題としては,道は一つしかない。いろいろと個人的な考えはあるしても,けっきょく,問題は推薦の方法をどうするかといういことである。他の意見は,推薦の際,その内容の中におのずからはいってくることであり,推薦協議会でやることである。長期間委員であったとか,首脳部とか専門とかということを事前にうんぬんするということは,一種の選挙運動である。これらのことは,互選する際に,委員個人個人の判断で考慮すべきことである。成瀬委員が個人として,その意見を述べることは自由であるが,それによって総会でどうこうという申し合わせをするということは適当ではないと思う。成瀬委員も国語改善の意図はもっていられるし,国語審議会を成立させることの可否については,わたくしと同じ賛成の意見である。くり返して言うと,ことはすべて推薦をどうすべきかという点に集約しなければならない。
塩田委員
西原委員の発言は,最初の半分はだいたい賛成であるが,あとの半分については意見がある。ただいま,さしせまった問題は推薦協議会の委員の推薦の問題であって,次の国語審議会の委員の推薦の問題はあとまわしにするというように受け取ったが,推薦協議会の委員を選出することは,最後には国語審議会の委員を推薦することに結びついてくるのである。この前の会議の際,舟橋委員も発言されたが,現在の互選のしかたのままであれば,今までと同じことになるということを述べているのである。
国語審議会は,言うまでもなく,国語を審議するところである。したがって,その委員は,国語の知識と国語の歴史についての知識をもち,さらに見識をもたなければならない。ただし,その人たちだけでは現実の実情に即したものが考えられないということで,国語の実際面について,そういう方面の学識経験者・実業家・報道関係者・官庁関係者がはいっているのである。これはもちろん概括論であり,各方面のかたの意見は,応用面において参考にすべきことであるが,推進力は国語や文学の先覚者が多かった。それに対して,現在の国語審議会にそれらの国語学者が何人いるのか。わたくしは国文学を専門としているもので,国語学ではない。45人といわれる委員の中に,国語学専攻の委員は,りょうりょうとして暁の星のごときものである。国文学特に国語をもって民衆に接する文壇関係者もまた,同じく,りょうりょうとして暁の星のごときものである。こういう国語審議会の現状で,国語の見識や歴史よりも国語の応用面が重視されるような現状で,はたして正しい国語の審議ができるであろうか。国語に対して表音主義と表意主義があり,この国語審議会では表音主義が取り上げられている。松坂委員は紛れもない表音主義者であることを自身でも世間でも認められているものであるが,これをもって一生を貫いた人であり,確かにりっぱな委員としての資格があるのもと考える。しかし,ここにみえている委員の全部が全部そうだというのではないが,ほんとうに国語のことに熱情をもつ人がこの中にどれだけいるであろうか。たとえば,推薦協議会の委員の投票をする場合,皆さんが決してそうだとは言い切れないが,だれを選ぶかという場合に,国語の学識や見識がなくて,どうして判定することができるのであろうか。おそらく判定や投票に困るというのが偽りのないところではないか。長年の顔なじみであるからといって投票するとしたら,これは正しいものとはいえないし,便宜的なものにすぎない。委員に良識がないとは思わないが,きょう述べたような憂いがなきにしもあらずということである。舟橋委員の発言と違うかもしれないが,結論において,互選については熟考を要することと思うのである。
舟橋委員
わたくしは,この前の総会でかなりいろいろのことを言ったが,最後の児島委員の発言の内容は,わたくしに深い感銘を与え,帰ってからつくづくと考えたものである。まことにわれわれの盲点をついたものである。戦前,わたくしは,国語審議会というものを権威あるものと考えていた。30歳ぐらいのときには,国語審議会の委員を仰ぎ見るような気持ちであったし,そういうところには近づけないような印象をもっていたことを覚えている。この権威あるものと思っていたし国語審議会が,児島委員の発言によって,実はそうではないのではないかと考えさせられたのである。つまり,こういう一国の国語問題を扱うには,予算が少ない,手弁当でやっているようではしょうがない。内閣あたりで考え,大きな組織にしたらどうかということであり,まことにそのとおりであると思う。そういう国語審議会が発展的解消すべき時期に来ているのだということをいみじくも指摘しているからである。あたかも,国語審議会は改選期にあたっている。そのときに,国語審議会はさらに大きく飛躍し、国民的な組織に近づくために変化しなければならない時期に来ていると感ずるものである。ただいまの塩田委員の発言は,わたくしの考えとは違いはない。わたくしは,推薦協議会を早く作って,従来どおりにやっていこうというのは,今までの国語審議会と同じものを作ろうという下心であると思う。そうして,そのような便宜主義的な考え方をもつかたも委員の中にはあろうが,その内容は,今までどおりの現状維持でいこうという考え方があるものと思う。わたくしの希望を正直の申すと,だいたい二つの流れがある。今かりに,表音と表意と名づけたとすると,それがだいたい五分五分であってほしいということである。しかし,今までの歴史を振り返ってみると,表音主義者が圧倒的多数であった。わたくしは,10年間委員をしていて,おおざっぱに言うと,前半の5年間は孤立無援であった。寛大にものを言いたいのであるが,国語審議会に来ると心臓がふるえて,何やら興奮して言わざるをえなくなる。圧倒的多数の表音主義者に対して,たった1票を揚げて反対したという前半の時期には,表意的な発言をすることは困難もはなはだしいものがあった。現在では,数名の同意者・賛成者がいるので,多少は楽にものが言えるようになったのである。西原委員からは,審議の過程で圧迫がなかったという意味の発言があったが,それは非常に賢明な会長・副会長が,遠慮深く,わたくしの意見をよく取り入れてくれたからである。土岐・原両氏が丁重に意見を採用してくれたからよかったので,そうでなければ,もっとひどかったのではないかと思うのである。しかし,いかにわたくしが意見を述べても,圧倒的多数にはたち打ちできない。たとえば,朝日新聞で国語問題を扱っているが,その際に,かりに表意主義者ひとりに対して表音主義者5人の意見を新聞紙上に並べたとすると,どう見ても表音主義者の勝ちでなないか。最近は,表意主義者の主張を掲げると,そのあくる日には,表音主義者,さらにその翌日は表意……というように交互に載せて,甲論乙ばくさせている。そのようにして,国語問題の審議はつりあいがとれるのである。10年間の前半に時期に,わたくしが経験したような状況では,わたくしのような主張を述べることは実に勇気を要することであり,勇気が不足すると沈黙せざるをえないのである。わたくしの前半は沈黙の2年であった。かつて,芸能関係者なども委員になっていたが,それは飾りである。審議会のアクセサリーである。わたくしども作家がはいっているということも,それに近いような意味ではないか,そう思って黙っていた。しかし,黙っていたが,それでは良心が許さない。二,三年来しゃべりだしたが,相手が圧倒的な多数ではどうにもならない。今ここで推薦をするとすれば,新聞でやっているように,つまり1対1で書かせているように,この会も,わたくしのような考え方,表音主義でない成瀬委員のような側の立場の者と,松坂委員のような側の者とが,対でもってものが言え,甲論乙ばくできる会にしなければならない。この中の委員のひとりがわたくしのところに来て,とてもだめだ,これ以上やってみてもしようがないという。現に,今年度の原部会長の報告にしても,あのへんまでがせいぜいのところである。自分たちは,決して満足しているわけではない。もうやめようではないか,われわれは身を引こうではないか。そして,国語審議会は一方的のものとなり,表音主義者によって表音主義者の集まりとして,文部大臣に建言していくという機関としていくほうがいいのではないかという意見が出てきたのである。国語審議会にわれわれがいることは,表音主義者にとってじゃまになっている。われわれもそのじゃまはしたくない。そして,お互いに別の場で所信を推進してはどうか。わたくしは,今までもたびたび,やめたいと言ったが,いよいよやめる時期が来たのではないかと思う。ただ,この改選期に,もう一度おはかりして,もし幸いにして共通の場ができるのであれば,もう少ししぼうして国語審議会にとどまるのが,国語に対する愛というものではないかと考えた。これが,今日までやめないで,ここにとどまっていた理由であり,これが実情である。今日,われわれの側の発言に激しすぎた言い方があったとしても,それは審議会全体に対してわれわれがきわめて少数党であるためのあせりによるものであって,聞き苦しい点もあったであろうが,やむをえないものをお考えいただきたい。個人攻撃に類した失言や,ぶざまな形をとった発言についても,同様である。わたくしがもう一ぺんしんぼうしてこの会に出席していたのは,国語審議会の構成をだいたい五分五分に,表音主義者と表意主義者とが半々になるような場としていただきたいこと,その場で真に国民のための国語について考えたいということにほかならないのであるから,そのような選出方法を考えていただきたいのである。