国語施策・日本語教育

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議事 審議2

舟橋委員

 前の推薦協議会では,表意主義者の立場をとる者は,舟橋ひとりである。もはやこのままにしてはおけないというのが,福田恒存氏その他の言い出したことであり,それでは国語審議会と「言語政策をはなしあう会」とが同じ性質のものとなってしまうというのが,われわれの側の主張である。 国語について考えているものとして,このほかにも,「国語問題協議会」というものもあるのである。もはや舟橋ひとりを国語審議会に送ってあんじょうとしてはいられないということで,それに便乗するわけではないが,審議会に出席するだけで,わたくしなど心臓がどきどきし何を言ってみたところで結果が明らかであり,いつまでたってもうだつがあがらないということは明らかである。
 推薦協議会を作れば,それでもう公正な人選ができるはずであるというのは俗論である。このまま推薦協議会を作れば,前と同じものになることは明らかなことである。そこで,今までと違った公正な審議機関を作り出すための公平な選び方をあくまでも主張する立場からは,現状維持の国語審議会からの互選では,その目的を達することができないということである。この点,じゅうぶんの考慮を払ったうえで,選出方法の討議に移っていただきたい。

山岸委員

 前の総会できょうに延ばすことに賛成した責任から,ひとこと発言する。塩田委員の発言のとおり,一国の国語を審議するということは重大なものであり,専門の理論が必要である。さらに,多角的に審議する必要があることも当然である。そのようにしてやっていくのは当然であるとしても,塩田委員の言うとおり,国語の専門家が中心となることは当然であろう。今までのようすを見ていると,児島委員の発言のように,この国語審議会が,一国語課に属するということはおかしいのではないか。国語課から手紙が来る,事務をそこで扱う。この審議会が文部省の一つの課に属するということは,貧弱ではないか。金のことを言うと,きたないようであるが,1回出席して400円である。400円出してもらっても,タクシーで来るとマイナスになる。われわれが出席するのは,そんな金のためではない。国語政策に関心をもち国語に対する愛をもって,一国の国語のためにという尊い目的をもっているからである。職をもっているために,いつも出席してじゅうぶん審議することができず,内心じくじくたるものがある。このような関心や目的などは,わたくしだけでなく,他の委員も同様であろうと思う。児島委員や舟橋委員の,国語を審議するための組織を強力にしていくために,発展的解消をしてはどうかというのは,一つの意見である。じゅうぶん考えるべき意見と思われる。今の新しいかなづかいは,保科孝一氏が案を作ったといわれ,森鴎外が批判している。それは,今日の現代かなづかいとほどんど変わらないものである。これらについての資料も,大正の漢字整理案についての資料も持っていたのであるが,戦災で焼いてしまった。国語の歴史を知り,国語の本質を知る人が原案を作り,そのできあがったものを各方面のかたがたに検討していただき,多角的に審議するところに審議会としての意義のあり,それによってすぐれた結論が出るのである。
 国語の問題を審議する会はなかなかにむずかしく,会長・副会長・部会長などもずいぶんのおほねおりであろうということは,よくわかるが,このような状態では,いかにがんばってみても,審議の実績は上がらないのである。国語審議会をもっと強力にせよ,そして日本の国語政策をもう少し考えてほしいという児島委員の発言にまったく同感である。塩田,舟橋両委員の意見にも,じゅうぶん耳を傾けて,その意味を取り入れ,日本語の正しい審議をするのだということを国民全体に知らせ,その存在を知らせ,国民全体に信頼されるようなものにしたいのである。
 国語政策は実にたいへんなしごとである。文字言語・音声言語の関連をどうするのか。国語の改善の中に,音声言語の改善までも含めているのか。それはできないという考え方もあると思うが,国語改善とたやすく言うが,これは両方をさすのか。西原委員は,そうした意味で改善といわれたのか。

西原委員

 改善とは,歴史的に国語の改善と言いならわされているのであるから,わたくしも普通の意味で用いたのである。改善の意味は音声言語の場合と文字言語の場合とで意味が違うのではないか。音声言語の改善までも含める場合も,そうでない場合もあろうが,それには音声言語など,ことばの意味を正しくはっきりさせることが必要であろう。改善という方向づけについても,慎重に考えたい。

山岸委員

 改善の方向づけということを言われたが,軽々しく,国語の改善,改善と口にしながらも,その内容はあいまいな点が多いから,これをはっきりさせたい。発展的解消の意見もあり,もっと強力にやれという意見もある。考えてほしい。日本の国語政策をいかにすべきかということについて,真剣に努力したい。

松坂委員

 前の総会のときも,きょうの席上でも,委員のかたがたから,わたくしの名まえがたびたび出て,まことに光栄に存ずる。わたくしがカナモジ論者であり,表音主義者であることは,自分でもよく知っているが,両委員があげられた表音主義者などの人数を示した数字は,その根拠がどこから出たものかあやしいのもと考えている。しかし,表音主義者が何人いようとも,また何人であろうとも,いっそうにさしつかえないことである。この席でも,われわれ表意主義者が……というような言い方が数名の委員のかたから出た。ことばじりをとらえるのは適当でないが,なにも表意主義者といっても,日本語をすべて漢文で書こうというものでなく,普通の漢字かなまじり文で書こうというのである。したがって,表意主義者などということばは妥当ではない。どうも,わたくしが個人の念願として表音化を考えるということと,国語審議会の委員として審議にあたってどうしたということとを,飛び越えていっしょにして考えるきらいがあるのではないか。これは,はっきりと区別すべきものである。
 国語審議会の委員が,国語改善の最も重要なものとして,当用漢字表・現代かなづかいを取り上げ,改善の実施のために必要なこととして,今までそれを推し進めてきたのである。これは,この審議会として決まった大きな方向に沿ったものであり,それに従って,やってきたものである。
 当用漢字表・現代かなづかいなどは,公用文ばかりでなく,教育の面でも行なわれ,社会の各方面でもすでに実施されている。訓令としては官庁だけを拘束するもののようであるが,これは,たとえてみれば,大きな木を育てるための苗木を育て守るようなものであり,われわれは,それを育てる役目をもっている。これを,今日になって,いわゆる表意主義がくつがえそうということを考え,そのような主張をしているようであるが,方向はすでにはっきり決まっているのである。いわゆる表音主義者は,国語審議会の席上で,このような国語審議会の方向を否定するようなことを,否定するような発言を,かつて一度でもしたことがあったか。あくまで良識をもって,審議会の使命に忠実であろうとしたのではなかったか。かりに,この戦後の大きな流れを無視し,当用漢字表・現代かなづかいうを否定するようなことになるのであれば,それを食い止めることこそ,何よりも必要なことであろうし,それこそが,われわれの態度であるべきである。ごく少数の表意主義者によって,国民多数の実態が無視されるということは,許しがたいことと思われる。昨年の夏5月に「言語政策をはなしあう会」で,日本のいわゆる有識者が,当用漢字表・現代かなづかいなどについて,どう考えているかという点について調べた。これは,朝日年鑑の名簿の中から,機械的に5名おきに抽出して,1,000人についてアンケートをとったものである。その結果,当用漢字表に対して反対するものは12%,今のままでよいとするもの40%,もっと制限の方向に進めたほうがいいとするもの36%であり,現代かなづかいについてもほぼ同じような数であった。これが,横書きがどうこうということになると,もっと促進させようという強い要望があるのである。もっとも,文芸家協会の意向では,実態はこれとは違っているとして反論されるかもしれない。文芸家協会で,昭和31年に調査を行なっているが,それによると,国語政策は現実のままでいいとする者が43%,やむをえないという者が32%,認めないとする者は7%にすぎない。大多数が現代かなづかいに反対していないのが実情ではなかろうか。したがって,この点から言えば,文芸家協会や文芸家の意見のほうが特殊なものであるといえるのではなかろうか。かりに,漢字を自由に使うのでなければ,文芸作品がなりたたないというのが正しいとするならば,極言すれば,漢字のない外国には文学と名づけるものがあるはずがないといえるのである。
 国語の機械化が進められ,その方向に進んでいくためには,それに妥当な文字であることが必要とされる。この意味で,文学者も国語政策に協力していただきたい。したがって,文芸家が古い習慣や過去に愛着をもつことが,わたくしに理解できないというのではないにしても,そのことが国語政策の中心になってはいけないと考える。
 従来,国語審議会の委員は熱心に努力してきた。国語審議会としては,各方面のかたがたが参加して,それぞれの立場から論議するということが妥当であることは言うまでもないことである。けっきょく,きょうは,この推薦協議会の委員の互選を従来どおりの方式のままで行なうということが,もっとも妥当であり,それを強く希望しておく。

山岸委員

 ただいまの発言の中に,「方向はすでに決まっている。」ということばがあったが,もし,国語審議会の方向がすでに決まっているということが事実であるとするならば,もはや審議の必要を認めないものと思われるが,どんなものか。この「方向はすでに定まれり。」ということについて,このように解釈するのは,私の誤解であろうか。

土岐会長

 国語の改善がどういう方向をめざすものであるかということは,それ自体が審議会の内容になる事がらであり,第1期の初めに「国語問題要領」をまとめたのも,そのためであった。国語の改善は,いろいろの形をとって現われてくるものであり,改善の内容として建議となったり,報告となったりするのである。
 きょうも,4時半までという予定であったが,あらかじめ延びることをご了承願いたい。
 今までの発言から考えて,会議の進行をどう整理したらいいかということでおはかりしたい。17日の児島委員の発言については,そのことを今ここで決めるわけにはいかない。また,発展的解消ということについても,国語審議会は文部省設置法に基づいているものであり,きょう,ここでわれわれが決議することはさしひかえなけでばならない。しかし,それらのことについて建議する可能性はあると思う。今は推薦協議会の選出の方法を具体的に決めて,第5期の任期を終わりたいものと考えるが,それでご異議はないか。

大塚(明)委員

 わたくしたちが現在,国語審議会の委員であるのは,現在の国語審議会令によっているものである。だから,わたくしたちが意見を述べるのは自由であるとしても,その意見は,現在のきまりに従った委員としての意見であるべきである。現在の役割を果たすことは当然である。このきまりを変えるというのであれば,そのように重大の問題が,推薦協議会の委員を互選するというこの機会に出てきたことがへんなのではないか。もっと早く出されるべき意見ではなかったのかという印象を受ける。その発言の内容の中には,ごもっともと思うふしもあるから,それらは次期の問題にしたいということを記録に残しておけばよいと思う。特にお願いしたいのは,総辞職論もあり,長い間委員としていられたかたにやめてもらいたいという意味の発言もあったが,そういう意味で,特にやめるような意思をおもちのかたについては,ぜひとも第6期の委員にも推薦していただきたいと考える。選挙運動のようにとられるおそれもあろうが,かりに推薦された場合には,決して辞退などしないでいただきたい。そして,国家的な見地から国語政策を決めるという方向に,いっそうの努力をしていただきたいと希望する。

土岐会長

 今の発言の要点は,推薦協議会の委員を選ぶということは,われわれの責任だから,その責任を果たして任期を終わろうということである。国語審議会をもっと有力なものとすることについては,いろいろご意見も出たし,文部省にも自然に反映するものと思う。推薦協議会を作るという当面の問題に絞ってよいとなると,先に決めなくてはならないのは人数である。規定では7人以上15人となっている。参考までに,今までの人数について申し上げると,第1期12人,第2期11人,第3期7人,第4期10人,第5期つまり現在の委員を選ぶ際が7人である。7人よりも少ないことも12人よりも多いこともなかった。このあたりで,どのへんの人数が妥当かを決めていただきたい。

実方委員

 この前の17日の総会の際,この人数についてふれた発言をした。
推薦のあり方などについての意見もあり,話し合いの中では,国語審議会の発展的解消うんぬんということも問題にされている。このようなことは,この10年に論議されたかどうかについてよくは知らないが,次の国語審議会がこのような重大な問題をもっていることに大きな期待がかけられているということは明らかである。したがって,質的に見て可能なかぎり,おおぜいのかたを選び出すということにしたい。第6期の委員を推薦するという使命の重大さを考えると,ごく少数のものを選んだとすると,この委員たちが推薦した結果について,必要以上の批判のあることを予想しないわけにはいかない。そのようなことになってはならないと思う。文部省令によると,15人というのが最大数である。実際の互選の過程で,13人あるいは14人になることもありうるが,少数に絞るよりは,多方面の人材を推薦するという意味からも,多くの人数にすべきではないかと考える。

土岐委員

 少数よりも多数の委員を互選したいとのことである。これまでの例では,いちばん多いのが12人であって,15人のことはなかった。

大塚(嘉)委員

 国語審議会の委員は,70人以内ということになっているが。

土岐会長

 定員は70人であるが,実際上は,だいたい50人ぐらいである。

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