国語施策・日本語教育

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議事 懇談1

阿部会長

 ただ今から開会する。この前に引き続いて,皆さんの自由な意見を遠慮なく述べていただくことにしたい。
 まず,波多野委員からどうぞ。

波多野委員

 わたくしは,今までの国語審議会の決めたものの中で,送りがなはまだ日が浅いのでよくのみこめない。むしろ漢字の問題などをゆっくり討議して,自分自身納得したり,お互いに了解し合ったりして進めていってはどうかと思っている。これらを再検討するかしないかよくわからないが,もしするなら漢字の問題からやるようにしたい。それも漢字をふやすとか減らすとかいうのでなく,今までのものについて多少の手直しをするならどこかというようなことですればと考えている。

細川委員

 ことばを決めて,官報などに載せて強制力をもたせることには反対である。標準の形を示すことは必要と思うが,ことばをくぎづけにして閣議決定などの方法で国民に強制するようなことはすべきでない。あるわくは必要だろうが,方法の問題も取り上げていただきたい。自主性をもつ新聞などが,右へならえのようなやり方をするのはよくない。標準を示して,新聞が採用するのはいいが,あくまで自由意志ですべきで,ただ右へならえ式のような不見識な態度は反省を要する。
 文字のこともかんじんであるが,ことばの使い方を検討することが重要な問題であろう。漢字制限の型を示すことなどは末の末の問題である。日本のことばの乱れを考えることがだいじである。
 先ごろ,北海道へ旅行して,「シナソバ」と注文したところが,店のものに通じなかった。シナを使うことがなぜ悪いのか。もっと日本の主体性を重んじないと,ことばそのものも動揺する。日本語の主体性をよく考えてことばの表現,ことばづかいを取り上げることも,国語審議会の対象となるであろう。
 現代かなづかいは便利な点もあるので,ものを書く場合に使っていることもある。かねがね思っていたことに一致しているから使っているまでである。
 ひな型を示すのはいいが,強制力をもつような結論にもっていくことは反対である。

千種委員

 今のお話の趣旨はよく分かる。しかし,国語審議会で決めたものを国語審議会が内閣訓令として出したのではない。国語審議会は審議機関で,訓令として出すのは内閣である。一般には,内閣で訓令を出すことに誤解があるし,また誤解を招くような言い方をする人がいる。訓令は,各官庁での使用を希望するということで他に及ぶものではない。官庁で取り扱うものが,官庁によってはばらばらでは困る。裁判所は,訓令の及ぶところではないが,かつては判事が判決文にくとう点,濁り点を打つことを要望したことがある。人により官庁によってかってにすると,まちまちになって事務を扱う上に困る。統一してほしいという声は,内から出た要望である。各官庁からの法律案がまちまちでは統一がとれない。官吏の立場からは,内閣で統一することを希望している。官吏の側からは反対論は出ていない。むしろ,一般の人に反対があるが,一般国民,新聞などに強制しているものではない。各方面ではおそらく自主的に採用されているものと思う。当用漢字別表を,官庁が訓令をもって採用するのはけしからんという気持ちもわかるが,訓令を出したことよりも,内容自体を批判し,その内容をじゅうぶん審議することが重要な任務と考える。国語審議会ではできるだけ国民全部に納得されるとような案を決めることが大事である。

浦上委員

 新聞の立場から所管の一端を述べる。国民に強制するものではないといわれたが,新聞はだいたいのめやすを義務教育終了においている。教科書の検定基準は告示どおりになっている。先ごろの送りがなのつけ方は,多く送るのと少ないのと二とおりであるが,教科書では,低学年では多く送ったほうがよく,高学年では少なくてもいいということである。今発行の教科書はそうなりつつあるようである。新聞としては自主的にやってはいるが,それで教育を受けた人が読者となるということから,だんだん多いほうになっていくだろう。社内で,入社試験の集団討論に,当用漢字,現代かなづかいについてどう思うかという問題を出したところ,自分たちはそれで教育されたのであるから,よいもわるいもわからないという。
 会社の名,固有名詞を表記するとき,新聞社が自分の立場から当用漢字表の範囲内で書こうとすることは,相手の立場を尊重しないやり方で,危険であるから,現在,本社ではとめている。
 新聞用語懇談会というものがあって,各社から校閲関係の者が出て,新聞の上で使う字のことについて協議している。
 漢字テレタイプができたことによって,これまで手で拾っていた活字を機械作業でやるようになった。これは,当用漢字1850字が決まったからできるようになったのである。共同通信社はニュースを漢字テレタイプで送っている。それで,それを採用している社では,その表記をいちいち直すことはたいへんなので,共同の表記をそのまま使うことになり,その表記が全国に広がることになる。したがって,統一化の動きが強くなる傾向がある。
 当用漢字ができてまもなく,科学技術用語を改めていくことがされていると聞いたが,10年たった今日もまだあまり進んでいないようである。科学では,だいたい原語を使っているということであるが,そうするとかたかながふえてくる。そうなると,新語辞典とか新聞紙上の一部をさいて,時のことばを載せることが必要になってくる。
 教科書でも,国語以外の教科書では,高学年にいくほど当用漢字表外の漢字を相当出している。これなどこのままでいいか反省してみる必要がある。送りがなについては,新聞用語懇談会では,はじめ送らなくていいものについて120の例外を示したが,その後,例外は20にとどめてあとは多く送る傾向になっている。当用漢字,現代かなづかいが出てから,10年になる。初めはそのとおりにせよという機運が強かったが,最近になってその趣旨がわかりかけてきた。たとえば,「お父さん」を「おとうさん」とは読まない。音訓表によれば,「父」には「フ」と「ちち」としか音訓が認められていない。音訓整理も少し進みすぎている面もあるのではないかと,近ごろになってわかってきた。

金田一委員

 この前,国語研究所の話があったが,国語研究所では国語政策に協力するような研究を出されたということであるが,それについてどういうものをどういう形で出されたか,見せていただきたい。

吉田委員

 わたくしは医学をやっているので,国語は専門外であるが,その立場から感想を申し上げる。当用漢字,現代かなづかいを見たとき,はじめは,少なくともわたしには非常に抵抗を感じた。前に,翻訳をした書物を出したとき,自由な書き方をしていたが,印刷のとき,漢字,かなづかいを新しいものに直すよう,本屋の要求もあったので,抵抗を感じながら直したことがある。なぜこういうことをしなければならないのか,どういう根拠があってかと,はじめのみこめなかった。統制する必要のある面もあるが,統制の面だけというのでは納得できたかった。今度,「国語問題要領」を読んでみると,ことばは,思想伝達の手段であると述べられているが,ことばはそれ以前に,ものを考える手段であると思う。漢字を制限されることは,ことばを制限されるのと同じことになると思う。国語審議会では,どういう文字をもって国語というのかということを審議して進まなければならないと思う。漢字,かなを使う国語,ローマ字を使う国語,カナモジを使う国語,また新しい文字を作ってやる国語などがあり,少なくとも,漢字かなまじりとローマ字との二つの審議会ができなければならない。また,漢字かなを使う国語とローマ字を使う国語とは,立場が根本的に違うから,これらを一緒に論議するのは混乱をきたすことになる。まず,どういう文字を使うかということから始めることである。一度漢字によって表現されたことばは,漢字以外で表現することがむずかしい。たとえば,医者のほうのことばには特に漢字が多い。今,医学用語の統制をやっているが,漢字なしには現代の医学の研究を進めていくことはできない。全部ドイツ語でやれば別だが,ローマ字,かなだけでは白紙となってしまう。そういう立場で考えるのと,われわれがもっている考えの立場とは違う。区別して考えていきたい。国語を伝達の手段として,物品のように考えるとのは危険と思う。保険医療制度でも,医療は,医師の人格に基づく行為であるのに,物品と同じように扱おうとするところに問題がある。国語も人間と不可分のものと思うのに,それを人から離して考えることになると思う。現在の国民は,漢字かなまじり文をもっているのであるから,将来はローマ字化されるなどいうこととは別の立場で考えたい。国語は思想の手段であるということだけで考え方を進めていくことは危険である。

金子委員

 近ごろ学生の新聞を見ても非常に乱雑である。ときたま公文書を書かなければならないとき,どれが正しいか迷うときがある。送りがな一つにしても,いろんな問題を含んでいる。多く送るのと少ないのと両方あるが,だんだん多くとるようだという話があったが,たとえば「取締役」は「取り締まり役」ということになるのであろうか。義務教育のときに「取り締まり役」と教わったということになると,世間で「取締役」を使っているとき,こどもに対して何か考えておかなければならない。議論を聞いていると,将来,日本語をかなにしてしまうかローマ字にしてしまうかというようにも考えられる。漢字は象形文字で具象的に考えさせる。学術論文でもあまりかなが多いとわかりにくい。100年後にはどうなるかわからないが,今は現実離れのしたことは考えないで,漢字を使っている現在の立場で考えてほしい。送りがなも,名詞の場合は多くつけない,その他の場合はかなにするなどのことがいいと思う。漢字は具象性をもっているから,それを生かすべきである。「悲しい」「哀しい」などは語感が違っているから,名詞の形で生かすように考えていく。「明らか」などは,「明けわたし」のこともあるからから,「ら」も必要だろう。われわれには送りがなはなくてもいいが,はじめてものを習うものはだんだん送るようになっていくだろう。小さいこどものことを考えていくと,そこに何か考えておかないと混乱をきたすことになる。

細川委員

 先ほどの千種委員の意見はよくわかるが,法律等は法制局でひな型をつくればいい。特殊な表現もありうることだし,法律はその範囲内だけでやればいい。また,新聞社など機械化されているが,これらはどこまでも手段である。表現が目的であるのに,手段のために,目的がこわされていくのはよくない。日本全国一律にならなくても新聞独自のやり方で,日本の国民の言語生活の向上を考えてやるべきで,義務教育終了者が労せずして読めるようにするというのはやはり手段である。外国の新聞でも義務教育で習ったとおりにはなっていないと思う。国民の水準を高めなければならないという義務をもっている。ことさらむずかしいことばを復活したり,送りがなをつけないというようながんめいなことを言っているのではない。思想が根底である。その調和を考えるなら,法律の文章,新聞の文章,国民が日常書く文章など,いろいろな形の文章があってよいと思う。

井深委員

 ものを考える手段として漢字でなければならないという意見に反対である。日本は漢語にとらわれている,漢字を使うと思想があるような感じがするのである。ローマ字電報では,漢語の表現ではむずかしいので,やさしいことばにしている。
 日本語をよく知っている外国人に「奥ゆかしい」という意味を聞いたら知らなかった。5人の日本人に聞いたところ,5人とも皆意味が違っていた。
 漢字に各自の判断が加わってくると,漢字に対するニュアンスはおのおの皆違う,文芸家には必要だろうが,医学のことばに漢字を使わなければ意味がとれないという考えはまちがっているのではないかと思う。

吉田委員

 それは違う。術語を日本語にするとき,「炎症」など,かなで表わしたのでは何かわからない。漢字で見ればわかるが,ローマ字やかなで書いたのでは理解するのに困る。語源がわからなくなるのである。原語でいうならわかる。やまとことばではとても考えられないものがある。かなで表わせるものはかなでやろうとはしているが,現在ではまだ,どうしても漢字を使わなければできないことばがある。

井深委員

 それは,「炎症」などということばをつくったことがまちがいである。

吉田委員

 それは違う。電話ではできなくても,専門家の間では漢字でいい。

丹羽委員

 国語を将来,ローマ字で統一するという方針を当局ではとっているのか。

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