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次第 木内提案について
3 私の意見
一 | 提案は凡ての問題点を疑問の形で掲げております。これは最大限自由な発言を得たいと考えたからでありますが,上記の「提案理由」に添えて,提案者たる私の解答を或る程度述べておけば,提案の趣旨は一層わかりよくなる,という御意見もありましたので,以下にはあらまし私の意見を申し述べたいと思います。 |
二 | 提案の(一)と(二)は,政府の施策態度に関する問題でありますが,私は,一国の言語もしくはその表記法は,訓令・告示といった性質のものでは,その改革はおろか新しい方向付けを行うことも出来ないと考え,強いて言えば,その弊害は甚大であると考えております。 |
戦後の国語施策は,通常「表記の簡素化」という言葉で理解されているところの国語表記法の改革もしくは新しい方向付けを,「官庁並に教育の場を縛るところの訓令・告示」を中心に,マスコミ機関の同調を得て達成しようとしたもの,といってよいと思いますが,それは少くともその手段において誤りを犯しているものであったことは,その後逐次現われて来た各種各様の弊害によって,すでに十分に証明されたと考えます。また世の中の実際の動きは,当初の期待とは反対に,一応は訓令・告示の示したところに従ってはみたものの,時と共に相当に激しい逆流が始まったことは,この種の改革は一片の訓令・告示によっては行い得ないものであることを示しているものと考えます。 | |
私は国語の表記法が時勢と共に変って行くことを当然そうある筈と考えております。また可能なる各種の変化のなかで,特に現代が求めている変化が,「簡素化」と呼ぶに応わしきものであることも,認めていいと考えております。しかしそのような変化を実現するために,現に採られたような手段に訴えたことは,"簡素化のためにも"甚だまづかったと判断するものであります。 | |
ですから第8期国語審議会は,十分に以上の点に留意して,すでに起っている各種各様の弊害を是正しつつ,しかも簡素化という目的も達成されるような,適切な手段を検索することを,その任務と考えねばならぬと思うのであります。 | |
三 | 提案の(三)と(四)とは,いやしくも国語施策を推進したいと考える場合,国語に対してどのような理解を持つべきか,という根本的な問題に関することでありますが,私の理解するところによりますと,日本語という言葉は,日本本来の言葉に,それとは全く性質を異にする支那の言葉が,それを書き現わすのに最も適当である漢字という一種独特の文字と共に入って来て,両者は長い年月を経て複雑に交り合った,という特異なる性質をもった言葉であります。従って日本語は,漢字カナまじりという表記法によらなければ,これを満足に表記することは出来ない。従ってその表記法に制限を加えることは,言葉そのものをその範囲殺して行くことに他ならないのであります。 |
ところでその漢字は,それを学ぶことが非常にむづかしいかというと,必らずしもそうでない。また仮りにむづかしいとしても,一度学んでしまえば,それを使う場合の能率は,自他双方にとって実に高い。と考えられるのであります。またそれを学ぶための努力は,小中学校の児童生徒の頭脳を過労せしめて他の学科を受け入れる余地も少くするかというとそうではない。漢字を学ぶことは,それによって頭が鍛えられると考えるべきであって,さればこそ日本国民の今日の如き進歩があった。その進歩は,明治以降をとってみても終戦後をとってみても,世界を驚かし日本人自身を驚かしているところでありますが,もしも進歩した社会科学者が新らしい照明をこの事実にあてるならば,そこには「漢字カナまじりを表記法」とするという事実が,意外なる効能を発揮していることを発見するであろうと考えられるのであります。 | |
ところがそれらの点の理解が全く逆であったのが戦後の国語施策を推進した方々の当時における考え方であったと考えられます。思うにそれらの方々の当時における国語の考え方は,敗戦のショックと戦勝国アメリカに対する無理からぬとはいえ過当な讃美の感情に彩られていたのであって,アメリカ的合理性に欠けたものは,凡て排除に値するかの如くに見えていた。そのような「見方」と「考え方」が戦後の国語施策の根本を決めた,と私は理解するのであります。話はやや前後しますが,ひとつの漢字に音訓共にいろいろの読み方があるのは,確かにアメリカ的合理性を欠くものでありましょうが,その事実こそ漢字という異質なものを取入れた日本語乃至はその表記法が,必然の結果として持つ性質であります。戦後の国語施策の推進者達が「音訓整理表」となるものを作成して国語施策の重要なる一翼を荷わしめたことに,端的に,当時の理解が奈辺にあったを示しているものと考えます。 | |
四 | 提案の(五)と(六)とは,直接に戦後の国語施策に関することではありません。ただこれらのことを研究すれば,今後われわれが施策を考えて行く上に,恐らくは非常に大きな利益を得るだろう,と考えて掲げた問題でありますが,すでに一言しましたように,この頃特に目につきますことは,日本国民の極めて高度なる能率であります。これは現在全世界に亘って逐次人々が気がつき始めたところといってよいと思いますが,仄聞するところによりますと,アメリカではショムスキーという学者が,日本語の現在の表記法は非常に能率のよい表記法だといっている由。私はそれを聞いて,さもありなん,と思うのであります。世の中がこのように複雑化し,印刷文化がこのように発達した現代におきましては,漢字カナまじりという表記法を持つ日本人は、何と恵まれたことかと,と私自身はかねてから考えていたからである。 |
それに加えて,先年来石井勲氏が唱導しておられる国語の考え方,特に漢字の教え方は,正に驚威に値するものでありますが,そのような「新しい教授法」というものも取り入れて考えれば,従来の考え方に対して,新生面が啓けることと思います。 | |
五 | 以上三節に亘って述べましたことが,提案の各項に対する私の一応の意見であります。提案の狙いとするところはそれによって,ある程度明確になったことと存じます。誤解を避けるために一言申し添えますれば,私も戦後の国語施策が成就したところの大きな功績は,これを認めるものであります。確かにそれによって,旧来の固陋なカラのようなものは破られたのであります。然しながら,戦後の国語施策は,それが立っていた根本的なものの見方において,大きな誤りを犯していた結果として,折角のその功績も,これが捲き起こしたところの各種の弊害によって,いまは埋没せんかにみえているのであります。ですから私は,その根本に反省の眼を向けることによって,無弊害なる新しき道を探り出さねばならぬと思うのであります。 |
そのための不可欠の第1歩として,提案に掲げたような根本的なる疑問点に関して,活![]() |
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前期3節の記述は,勿論私の一応の意見の開陳に過ぎませんから,今後,補充拡大して参りたいと思いますが,その上において,右の「新しき道」とはどのようなものかについても,私の意見を述べさせて戴きたいと存じます。 |
(以上)