国語施策・日本語教育

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次第 自由討議(直接漢字に関するもの以外の国語の諸問題について)〔その2〕

福島会長

 話し言葉についても積極的に検討を加える必要がある。またそのためには適当な組織が要るのではないかという御発言があったと思う。
 国語審議会は,文部大臣からそういう点についての諮問を現在受けていないと思うが,場合によっては,文部大臣に対して国語審議会にそういう問題も含めた諮問をするように,もし我々の意見がまとまれば,働きかけるのかどうかという問題もあると思う。
 この問題に関連しての,又は,次の敬語なり外来語なりについての御意見でも結構であるので,続けていただきたい。

鈴木委員

 外来語について申し上げたい。これは,もちろん教育や話し言葉の問題と関係があるが,話を短くするために結論だけを申し上げる。
 公的な性格を持った言語生活の場面で,私のようなある意味ではいろいろな外国語を専門にしている人間でもすぐは分からないような外来語がしばしば口にされる。それが新聞その他に文字化されて使われている。よく外来語の問題ではデパートの婦人もの売場のことが言われるが,それは全然問題がない。いずれ淘汰(とうた)されるであろうし,また淘汰されなくても,それを望む人が多いからで,これは自由社会として当然だと思っている。しかし,例えば国会の討議であるとか知事の発言であるとかの中に,ちょっと聞いただけではよく分からないような外来語がどんどん出てくるということは,国語審議会のようなところで問題にする必要があるのではないかと思う。
 こういうことを申し上げる趣旨を少し述べたい。
 漢字制限の大きな目的の一つに日本語を一部特権階級の独占物にしないで,広く一般の人々に分からせるということがあったと思う。それで着々と漢字制限というものがなされたと思う。ところが,外来語は,その間を縫って仮名で書いてあるので,制限にひっかからなかった。
 漢字のうち,難しいものは,書いてあっても読めない。読めないからすぐ難しいといって,一般の人々は反発する。それに対して仮名書きの外来語は,読めるし,また耳で聞いても一応分かるから,内容が分かったような錯覚を与える,という麻薬のような悪質な性質を持っている。
 もう一つ悪いことには,漢字の場合は難しければ調べることができる(漢字の辞書があるから,労をいとわなければ調べられる。)が,仮名書きの外来語は,調べる方法がないということがある。まず,何語であるか分からない。多分英語であろうと分かっても,日本語の片仮名になってしまった英語は,元の英語のつづりがどうであったかなかなか分からない。例えば,政治家が「これから国民にはシビルミニマムを与えたい」というときの「シビルミニマム」とか,「コンセンサンスを得たい。」という発言中の「コンセンサス」とか……。
 私はそのような見地で随分調べたところ,政治の場,ジャーナリズム,警視庁,国鉄等では最近非常に仮名書きの外来語が使われているようである。「スクランブル交差点」は「かきまぜ交差点」で何も悪いことはない。また,国道の立札に「キープレフト」と片仮名で書いてあるが,これも「左側通行」でよいと思う。
 もし国語審議会で何か制限的な建議をするとしたら,公的な,一般の人々の理解を前提とする言語生活の場では,ある外来語を使う場合には,それを審査するということになるであろうか。私は日常の日本語の中に入っている外来語を全部追い出せという国粋主義的な考えは持っていない。それは言語史から見ても,世界の言語から見ても,全然意味がない。いずれいいものは入ってきて残る。しかし公的な場面で,一般の人々が分からないような外来語をいち早く使うということに対しては,この審議会の精神からいっても,何か手を打つ必要があるということを感じる。
 更にまた,最近警視庁が仮名書きの外来語では飽き足りなくて,ついに英語そのものの交通標識板をある場所に立て始めた。外交官の駐車違反が多いということで,ブルーのプレートに英語で駐車違反の車は移動させるというような意味が書いてある。警視庁へ行って調べたところ,何百枚か,要所要所に立てたという。これは法治国としては,自国の言語に対する一種の権利放棄である。外国人は日本に来たら日本の交通法規を守ればいい。そのための日本語であり,また最低限の記号は国際化されている。それにもかかわらず,いち早くそういう生の英語を使った補助板を予算を使って作っている。これは漢字制限の問題よりもはるかにたちの悪い,一種の国語に対する冒とく(とく)行為ではないかと思う。
 私は決して外来語を全部追い出せと言っているのではない。最近フランスではそういう法律を通したと聞いているが,どうもそれは余り成功しないと思う。かつてのトルコでも,最近の韓国でも国語の純化運動のようなものをやった国は後になるとほとんど元へもどっている。全然影響がないとは言わないが,それはむだだろうと思う。
 明治から昭和15年ぐらいまでに入った外来語を全部まとめた荒川惣兵衛氏の「外来語辞典」を見ると,私でも分からないような外来語がたくさんある。つまり,使われなくなっているものがかなりあるということである。戦争中「トーチカ」というロシア語が入った。そのころは皆,「トーチカ,トーチカ」と言っていた。今の若い人は「トーチカ」と言っても全然分からない。したがって,外来語はほうっておけば,必要でないものはどんどんなくなるということである。入っても出ていく。ちょうど流行語と同じである。このごろはだれも「ギョッ」とは言わなくなった。言い出したころは非常に反撃して怒ったりしていたが,この言葉も定着しないで消えてしまった。
 であるから,外来語そのものが悪いというのではなくて,公的な場面での一般の人々が,惑うような,ないしは理解できないような外来語の使用に対しては,国語審議会で何らかの意見をまとめて出していただきたいと思っている。

福島会長

 もっともな御意見だと思うが,なかなか難しい面もあると思う。

遠藤主査

 ただいまの鈴木委員が述べられた外来語については,今までの建議,報告を読んでみると,どういうふうに表記したらいいかということは,いろいろあるが,ただどういう外来語をよしとするかという選択基準といったことについては,今までの国語審議会ではほとんど審議されていないのが,現状ではないかと思う。
 また,先ほどの話し言葉の問題であるが,昭和31年の建議は,私の記憶している限りでは,具体的にそれ以上の審議をするという方向には進まなかったと思う。その後,言葉の揺れについては審議したことがあるように記憶しているが,話し言葉については審議が進んでいない。
 ただ昭和31年の建議の時には相当深い審議をしたようである。というのは,「国語審議会答申・建議集」には載っていないが,当時の部会長が総会でこの建議をするについての報告をしているが,その報告が現在文書として残っていて,それによると,8項目((1)話しことばについて(2)話しことばの教育(3)特に話合いの教育について(4)書きことばとの交渉(5)放送のことば(6)映画・演劇などのことば(7)敬語について(8)話しことばと生活)にわたっていろいろ研究し,しかもいろいろな言葉を採集したということである。
 昭和31年には,ビデオとかテープレコーダーとかが,今ほど一般化していなかったから,言葉の採集は非常に困難であったということが書いてある。現在ではそれが非常に容易になっている。既に20年前にこの建議まで出ているのであるから(これは主査として申し上げるのではなく,一委員としてであるが。),これと関係のある項目を参考にして,是非もう一度話し言葉の問題を取り上げていただきたい。もちろんこれをいつどうせよというのではなく,昭和31年からもう20年もたっているのであるから,もう少しいろいろな言葉の採集なり何なりをやって,話し言葉をどうしていくかという問題をもう少し具体的に取り上げていただきたいということである。

鈴木委員

 今の遠藤主査の発言に関連して意見を述べたい。
 最近,日本の外来語についてなされた研究や外来語辞典などを調べてみたところ,今までの研究はほとんどがどういう外来語があって,表記がどういうように揺れ,またその同じようなもとの外来語がどのように二つの意味になったか,という言語学的興味のものである。
 ところで,私が申し上げたいのは,そういう研究以前に,一般の人人が分からないような外来語の使用について,その是非をどうやって判定するか,というような実際の問題をもう少し突っ込んで考えてみたいということである。これはフランスの最近の外来語追放運動からヒントを得たのであるが,過去1年間にいろいろな文献に使われた外来語を集めて,その中から定着していないと思われるものとか,当然普通の日本語として使用して何ら差し支えないと思われるものとか,というような幾つかの基準で,ある言葉を選び,例えば「コンセンサス」はなぜ「合意」ではいけないのかということについて,この会議で審議し,「コンセンサス」でなければならない理由はない,それは「合意・同意」でいいというようになったとすれば,この審議会なり何なりで,「コンセンサス」はまだ熟していないから,公の書類,発言では使わないようにしたい,ということを言ったらどうであろうか。過去1年か2年か期間はどのくらいにするかは別であるが,普通の教育を受けた人を被験者として,使用されている外来語の調査を国立国語研究所のようなところにお願いして,その調査の結果を踏まえて,普通の日本語として使ってもよい外来語を毎年発表するということにしたらどうであろうか。
 場合によっては1年前にいけないとされたものが,今度はいいということになる可能性もある。言語は動くものであるから,それでいいと思う。
 そういうふうに研究機関の調査を踏まえた上で,具体的に何らかの実施に移すということがないと,国語審議会の発言が支えられない。年に数回の審議会で幾ら討議しても,結局は建議だけに終わってしまい,何らその方向にいかない。
 国語の問題は非常に多岐にわたっているだけに,ここで建議され,討議されたものをしぼって,それを何らかの実施に移すという制度をもう少し考えないと,結局は,何かやっているというゼスチュアで終わり,実際は何もやれない。文化庁の国語課に広汎(はん)な調査を期待することも難しいであろうし,我々もいろいろな意味で必ずしも専門家ではないから,いろいろな国語の問題について,短い期間の中でどういうふうに研究調査を積み重ねていくか,という制度の問題も同時に考えなければうまくいかないのではないかと考える。

下中委員

 話し言葉と言うよりも,国語を話す,国語を書くというもう少し広い観点で取り上げていきたい。しかも,書き読む言葉と話し聞く言葉,又はその表現というものの距離をちぢめるような方向にしていきたい。そういう方向で研究していきたい。例えば,敬語の問題で,話すときにやたらに「お・ご」をつけるという丁寧すぎる表現の乱用がある(これは社会的な問題で,当然淘汰されていくと思うが。)が,これも敬語の問題というよりも,英語のポライト・エクスプレッション,つまり丁寧な言い回しというような観点で話し言葉の問題としても取り上げられるのではないかと思う。

沢村委員

 私は,印刷の仕事の関係上,表現する方の立場からの意見になるが,本質的には鈴木委員の御意見に似ている。
 まず,外来語は鈴木委員の御意見のように,だんだん内容的に整理した方がいいと思う。そして,その書き表し方の問題は,最近の新しい言葉にはいろいろな書き方が出ているし,また,敬語の問題については,大変いい建議が前に出されているにもかかわらず,これが余り一般に標準として知られていないような点もあると思うので,特に表現の問題については,こういうことが国語としての一つの標準であるというようなものが何かはっきり示されているとよいと思う。仕事をしていく場合,個々人にとっても,一体どれが正しくてどれが標準なのかということがつかめていると,はるかにやりやすくなると思う。
 実際に仕事をしている立場から言うと,普通は原稿のとおりに組みさえすればいいわけであるが,それだけであるとやはり世の中へ出てからおかしいという批判を受ける場合もあるし,また余り従来の慣習にとらわれて仕事をしていると,余計なことをすると言われることもあるので,なるべく書き表し方等については,これが標準だという線をもう少し強く押し出していただきたい。内閣告示・訓令になっている「当用漢字表」「現代かなづかい」「送り仮名の付け方」等については,それらを適用してやれと言われれば,そのとおりに仕事をすることになる。
 それらに近いような基準を何らかの形で示していただくと,一般に世の中に出ていくものも,もう少し基準的に整理されていくのではないか,また,そういうように基準的に整理されてもいいような内容のものが非常に多いと思う。我々の方で内部的に相当校正をする場合がある。全く任される場合もあるし,あるいはまた,編集者等と相談してやっていく場合もあるが,いずれにせよ,そこに明らかな基準を何らかの形で示していただけるようになれば,大変好都合ではないかと思う。

福島会長

 話し言葉,外来語,敬語について,それぞれ御意見をいただいた。その他の問題でも結構であるから,引き続いて御意見をいただきたい。

江尻委員

 国語審議会の役割は非常に大きいと思う。そして,国語審議会の努力が正当に受け止められるかどうかは,結局広く社会一般の人々にかかっている。したがって,国語審議会の努力と平行して,学校教育,社会教育の場面でも,りっぱな国語をつくり,これを普及していくことがいかに大事であるかという意識を広く持ってもらう活動をやる必要があると思う。そういう点が果たして十分に行われているかどうかということを考えていかなければいけないのではないか。そういう意識の支えがなければ,どんなものをつくっても,これが用いられない。
 また,いいものを推進していくということは,そういう知識の普及の中から生まれてくると思う。国語教育の中でも,ただ漢字とか表現とかいうことを教えるだけでなく,美しく正確で効果的な表現ができる日本語をつくっていこうという国語愛の精神というか,国語を大切にする精神というか,それを育てていくことが非常に大事であると思う。またそのためのキャンペーンも常時繰り返していく。
 そうなれば,先ほどから問題になっている公的場面における外来語の使用も必ずそれに対する反発が社会的に起こってきて,公の場ではやたらに外来語を使わないという社会的雰(ふん)囲気ができてくるのではないかと思う。

前田委員

 私も今の江尻委員の御意見に賛成である。今,フランスがやっているように法律などで抑えるということは,現実無視のやり方である。むしろ,国民一人一人が常識として日本語を平明な分かりやすい言葉,しかも大概のことは表現できる言葉にしていこうという気持ちを持つことの方が大切である。つまり,国民のできるだけ広い層に分かる言葉で,できるだけ世界中の古今東西のあらゆることが伝えられるように国語を育てていくことが,またそういうように国語を大切にする精神を養うことが大方針かと思う。そういうものが欠けているために,新聞関係も学校教育関係も動揺することになる。
 私は,16,17世紀のフランス文学が専門であるが,その2世紀間のフランス語の発展を見ていると,明治以来の日本の現状に対して参考となることが多い。フランスは数世紀にわたる中世文化の間では,その用語はラテン語であった。難しいことは皆ラテン語で表現し,フランス語では大したことは書けないという状態が続いた。16世紀の初めにイタリアのルネサンス文化,進んでいたスペイン文化などと接触し,それらを通じて更にギリシアの優れた文化を再発見して,自分たちよりも優れた新しいものに気が付いて,そういうものをフランス語にどんどん取り入れた。16世紀において10年,20年という期間で,言葉が入れ替わり,いろんな形の言葉が入ったため,フランス語は大きく早く変わった。
 ところが,17世紀に入ると,かなり難しいこともフランス語で言えるようになり,フランス文化がその当時のヨーロッパ文化の先頭に近くなってくると,落ち着いて,今度は新造語をやたらに使わなくなった。例の有名なアカデミー・フランセーズの存在もそのためである。国語の純化,すなわち,なるべく皆が分かるフランス語で何でも表現する,新しいこともフランス語で工夫して,余り外来語を入れないで使おうという運動が起こった。更に18世紀になると,フランスは自分で新しい文化をつくっていき,例えばモンテスキューのような一流の著作に使われている言葉でも,決して変な難しいものではなく,サロンの人たちに分かる言葉である。そういうふうにフランスはやってきた。
 ところが最近は既に文化の創造力はフランス以外のところへ移った。そのためにフランス人の書くものにも,例えばサルトルのものなどにも今までのようなだれにも分かる,外国人にも分かりやすいフランス語ではなく,わけの分からないフランス語がどんどん出てきた。また,英語をそのままかなり取り入れている。殊に自分でつくったものなら,よく考えて,どういうふうに従来の自分の国語を組み合わせれば説明できるかよく分かっているが,他の国でできたものを取り入れる場合には,それは自分がつくったのではないから,それにはどういう意味があるか,これをどういうふうに言い換えたらいいか,分からなくて,仕方がなくよその国でできた言葉をそのまま持ってきてしまうということになる。
 我々は今のフランスがやっているようなことをずっとやってきた。フランス語にも他国でできた言葉をそのまま取り入れるという傾向が強くなったので,今度は反動的になって法律で抑えようとしている。ほかの国のものをまねることばかりでなくて,自分の新しいものをつくっていくという段階に日本も幸いにしてやっとなってきたので,ここらで易しい,だれにも通じる日本語で,できるだけ広いことを言えるようにすることが,日本語をよくすることだという国民運動を大いに起こしてくださることをお願いしたい。

碧海委員

 ただいまの前田委員の御意見に全面的に賛成である。

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