国語施策・日本語教育

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次第 協議(2)

宇野委員

 鈴木委員の御質問のことに関連して申し上げる。去年,法務省で28字の追加の問題があった時に,私は,今,国語審議会ではこういう方向なんだから,こういうことはやめてほしい,制限するということはやめてもらいたいということを随分申したが,戸籍の窓口の意見としては,全然制限をしないと,とんでもない字を持ってきて受け付けろという,それも,仮にも字引にあるような字ならばいいが,明らかなうそ字を持ってくる。間違っていると言っても,いやこれでいいといってがんばって,非常に困る。したがって,やはり何か標準が欲しいということであった。
 これは,私はもっともな話だと思うが,その時にも申したことであるが,それならば,例えば現在において,一番権威のある諸橋大漢和辞典にある字ならよい,ない字は一切認めないということぐらいはしてもいいのではないかと思う。
 日本の戸籍では,ローマ字は認めないとか,符号は認めないとかいう制限があるから,漢字についてもそれぐらいの制限はやむを得ないと思う。つまり明らかなうそ字とか,由来をたどれば氏素性の正しい字であっても,少なくとも現在の普通の楷書体の字引にないような字とかは受け付けないという程度ならば,誤字の問題は避けられると思う。私はそういうふうに考えるので,鈴木委員の先の御質問の一つに対してお答えすると同時に,私の意見を申し上げた。
 もう一つ,会長がしきりに印刷技術の立場からいろいろ述べられたが,とんでもない字はめったに出てこないということが予想されるので,必ずしもそうは言えない。しかし,もしそういうことを心配するならば,現在においても,例えば,人の名字とか地名などには,普通の人が読めないとか,普通の人が知らない字が随分あるが,放送,その他では,きちんと処理しているということがある。非常識な名前を付ける人はそうはいず,よほど特別な人がごく少数いるに過ぎない。そういう人のために,普通の人が,だれでも読めるような字を名前に付けられないということは,私は,憲法で保障する表現の自由に反することになると思う。
 つまり,印刷上困るという議論は誠にもっともであるが,現在だってあるではないかと私は申したい。これから先は申さなくてもいいことかもしれないが,実はいまから十数年前,地名の仮名書き論が国語審議会において大きく取り上げられた。地名の場合も読めない字があっては困る,地名を仮名書きにすればだれでも読めるではないかという議論がその根拠であった。私はその時たまたま委員会に関係していて,外国の地名,人名にだって読めないつづりがある,地名などを漢字で書いたものが読めなくても一般の人には問題ない,そこと関係を持った人は必ず知るわけで,知っていればこんなに分かりやすいことはない,特別な字が書いてあって,変な読み方をすると,かえってすぐに覚える,ごく普通のありふれた地名,人名はむしろ覚えにくいが,特別な字が使ってあると,初めは読めないが,一度覚えれば忘れない,ということを言ったことがある。人間というのはそういうものだと思う。地名の仮名書きは結局,多分郵政省方面からの反対によってつぶれたのであろうと推察している。
 しかし,これは単なる地名だけの問題ではなくて,その裏には人の名字も仮名書きにしようという明らかな意図があったと思う。名字をいきなり仮名書きにすることは非常に抵抗が多いから,まず差し当たり地名でいこう,地名が成功したら,次は名字にいこう,名字にいったら今度は名前もということではなかったかと思う。あるいは名前の方をまず制限して,それから名字にいこうということであったかもしれないが,それは昭和34,35年のころである。これは,実際,自分でそのことを体験しているので,はっきり申し上げることができる。そういうことがあったので,私は人の名前を制限するということに対して,どうしても承服できない。せっかく国語審議会において,「新漢字表試案」というすばらしい趣旨のものができたので,私は名の方も是非そうしていただきたいと思う。切にお願いしておきたい。

角田委員

 戸籍法が施行されて,人名漢字がいわゆる制限を受けた直後に,それが裁判所の問題になったことがある。今の議論のとおり,人名漢字を制限することが,憲法の表現の自由に違反するのではないかという点が問題になった。それについて裁判所がどういうことを言っているか紹介したい。ただ誤解のないように申しておくと,私がその裁判所の意見に賛成であるという意味では決してない。個人的に申せば,制限にはむしろ反対である。
 裁判所が言っていることには,恐らく当時被告として訴えられた茅ヶ崎市長の考え方が反映されているのではないかと思うし,茅ヶ崎市長の背後には恐らく法務省の考え方があったのではないかと思う。そういう意味で一つの歴史的文書として紹介したい。
 これは,ある人が自分の2番目の娘に「玖美」という名を付けて出生届を出したところ,茅ヶ崎市長が受理を拒んだということであった。結局昭和26年東京高等裁判所でこの人が負けたわけであるが,裁判所は,名付け文字を制限することは憲法違反ではないといっている。その理由としては,先ほど会長が言われたことと大体同じ趣旨である。少し長いが,その部分だけ読み上げてみる。
 「そこで問題は,名づけ文字を制限することは公共の福祉のために必要であるかである。名は名づけられる当人のものであると同時に,社会のものである。かりに人がはなれ島にひとりでくらすならば,名の必要はない。人は常に社会的生活をするものであり,社会生活上当人が自らを指示し,他人がその人を特定指示するに用うるためにあるのが名であって,現代のごとく人間の数が多く,交通機関,通信機関が進歩して,人間と人間との接触交渉が複雑多岐となった社会においては珍奇難解な文字を用いた名は他人の利益を害する。
 たとえば,新聞官報その他印刷にあたり,名のためにのみ,多数の活字を用意し,もしくは活字を作る設備をしておかなければならないという社会的不経済があり,モノタイプとかライノタイプを利用することを,不能ないしは著しく困難ならしめ,印刷の能率を害し,タイプライターの利用など,書類作成の機械化をさまたげて,公私の事務処理の能率を害し,かつまちがいをおこす原因となるなど,要するに社会生活の能率を害すること多大である。名づけられる当人以外の人々がめいわくするわけである。」
 なお,この事件は,原告の方が負けて,最高裁判所へ抗告しているが,抗告をするために必要な期間を過ぎていたために,その形式的要件で最高裁判所では却下されている。事件としては,最高裁判所の実質的な判断は得られなかったという経過がある。

下中委員

 「新漢字表試案」の「前文」の「新漢字表の性格」に「新漢字表は,法令・公用文書・新聞・雑誌・放送等,一般の社会生活で用いる場合の,効率的で,かつ共通性の高い漢字を収めたものである。一般の社会生活で分かりやすく通じやすい文章を書き表す場合の目安となることを目指した。」というようにはっきり試案の性格が述べられている。したがって,「人名用漢字別表」とか「当用漢字別表」とかについては,それぞれに今までの議論の長いいきさつがいろいろあるが,目安としての新漢字表を法務省なり一般の社会の人たちなりがどういうように受けとめるか,また教育界がどういうように受けとめて,この目安という目的に合致するように教育を組み立てていくか,というむしろ外側の問題であると思う。もし国語審議会として,受けとめ方が少しまずいのではないかと考えれば,そのときに改めて提言すればよいのではないか。
 例えば,人名の場合だと,この「人名用漢字別表」ができた当時は,結局,親伝来の名前を持っていて,自分の名前を息子に付けたいと自分の難しい名前を1字持ってきたところが,それは表外字であるということで,戸籍係とトラブルが起こったということであるが,20年間にそういうことも現実的に処理されて問題が非常に狭まっているということもあるし,従来の人名漢字についての議論を捨て去って,新漢字表ができたときには,これを人名にあてはめてどういうように処理するかということを国語審議会でも従来のいきさつから当然提言する必要があるだろうが,むしろもっと広い外側に問題があると思う。教育の問題も同じように考える。

志田委員

 人名については,制限をしないで親が良識をもって名付けるというようになれば,一番いいと思うが,一方から言うと,事実上制限しなければならない面もいつまでも残るだろうと思う。例えば,昔は変体仮名を用いた女性の名が随分あった。(今は変体仮名というが,昔は一様に平仮名の中に入っていた。)それが今のように平仮名がそれぞれ1体ずつに整理されてから,変体仮名で名付けることはしないし,またできなくなった。一般の人から言うと,女性の名を平仮名で付けてある場合には大変読みやすいということがある以上,変体仮名を勝手に使ってもいいということは,再び起こらない方がいいのではないかという気がする。国語審議会としてどうすればいいかという結論から申すと,先ほど御意見もあったように,当審議会としては人名漢字について何も言わないわけにはいかない,意見は言わなければならないが,その意見に基づいて最終的にどういうように決めなければならないか,処理しなければならないかということ,殊に戸籍法上の問題については法務省にまかせるという考え方でいいのではないかと思う。新しい漢字表がこれまでどおりの「目安」という約束で通すことができれば,人名についてもそれに基づいて処理してほしいという漠(ばく)然とした言い方もできると思うし,また,それをもう少し国語審議会としての言い方で固めることができれば,なおいいと思う。つまり,当審議会としては,そういう方向づけを漢字表につけていっておく程度にとどめる方がいいのではないかという気がする。

林(大)委員

 先ほど印刷とテレビの話が出たが,昭和26年の東京高等裁判所の判決で出てきた「通信」という言葉を考えに入れておく必要があるのではないかと思う。単に「印刷」というと,活字を拾ってきて打つというだけのように取られる可能性が強いので,電気通信のために一つの制限が必要であるということを考えておかなければいけないと思う。それについては,先ほどの御指摘のように地名と姓が野放しになっていることは,片手落ちであると言わなければならないかと思うが,制限をすることの効果は,やはり印刷,通信にあるというように,「通信」を入れておかなければならないと思っている。
 それから根本的には,人名というものはどういうものなのかということがあると思っている。
 人名が保証されているのが戸籍であると考えるのが,通念かと思うが,実際はそれでいいのかどうかということを疑問に思っている。例えば,森おう外は「先生,諱(いみな)は高湛,通称は林太郎,おう外漁史と号す。」というように,名前は幾つもあったが,戸籍に登録する名前は林太郎でいいのではあるまいか。先ほど,号は難しい字を使っても構わないということが出たが,そのとおりであって,私は,墓石にはどんな名前を書いても構わない,これは自分の名前であるというのを書いておけばいいが,戸籍はもっと実用的なものではあるまいかと思う。そして,実用的なものであるならば,やはり現代の印刷,通信に便利な,先ほどの判決文に述べられていたような公共の便利のためということになるのではあるまいかと思う。実際上,名前は自分も署名などで使うが,他人が使う方が多いのではなかろうか。自分が使うとき,例えば,給料をもらうとか証文を書くとかのときには,戸籍上の名前を使っておく方が便利である。しかし,その他の場合には,実は自分はこういう名前なのだと思っていれば,それで済むのではあるまいか。
 それから,人名というものは,一体本質的には何なのか。声なのか,文字なのか。今は戸籍上では文字でしか登録されないから,文字で済ましているが,実際上,我々は戸籍上の文字をどうするかということを人名用漢字として議論しているのであって,自分の名前というものは,別に考えてもいいのではあるまいかと考えている。

木内委員

 今の戸籍係は字体をどう扱っているのか。つまり,私の言う正漢字で届けてきたら,受け付けるのか。例えば,「栄」の字を「火」を二つ書いた「榮」で届けてきたら,戸籍係は受け付けるのか。

松原専門員

 昭和21年の「当用漢字表」には,略字体が131字あるが,これについては,旧字体という正字体では受け付けないことになっている。それから,昭和24年に「当用漢字字体表」が出て,その時に新字体というか略字体で示された字については,新旧両字体どちらでも受け付けることになっている。
 それ以外にいろいろな字体について疑問が生じて,各戸籍窓口で問題が起こったものは,地方の法務局を通じて,法務省民事局に問い合わせが入っている。それについて個々に民事局から回答が出ていて,戸籍の実例の中に相当数字体に関する回答が出ている。

木内委員

 自分で新しい字体をつくった場合はどうなるのか。受け付けるのか受け付けないのか。

福島会長

 それは受け付けないと思う。

澤村委員

 印刷の立場から一言申し上げる。現在使われている当用漢字が制定されてから相当長い期間たっており,いいか悪いかは別問題として,国語に対する表現の形が一つできている。それが印刷の側から見ると技術の進歩にもなってきている。それで,技術の進歩もまだこれからどうなるか分からないが,現在の機械化の範囲では,一応既存の文字を使っていく,現在のように一つの枠(わく)を持ってその中で仕事をしていくという形は当分続くのではないかと思う。原稿を見て新しい文字が自由につくれるようになっていくということは,いろいろな問題があってそう簡単には考えられないことである。今はその字の内容は別問題として,日本語を表現していく印刷の形態の中で(これは横文字から比べれば大変難しいことだと思うが。),2,000字内外のものならまず機械化されており,新聞とか週刊誌などを非常にスピーディーに出して読者に供給するという上で,一応用を足していると思う。ただ,現在当用漢字があってもそのほかにいろいろな文字が使われているから,機械の枠としては3,000字でもあるいはもう少し上でもやる用意をしている。しかし,これは一般的な文字・文章の中だからこそ成り立つのであって,人名の漢字の場合に幅を緩めてしまうということになると,どういう文字が出てくるか非常に心配になる。本日の御意見の中にそう極端なものは出てこないだろうということもあったかと思うが,通常物を書いていく場合と,改めて子供の名前を考える場合とでは大分発想が違うと思うので,何でもいいということになると,これはどういう文字が出てくるか想像がつかない。それに,必ずしも親が自分の子供の名前を付けるものでもない。名前を付ける商売が相当現在でもある。そういうところで,こった難しい名前をどんどん付けられると,せっかく何とか枠の中に入ってきたものが,それだけのために非常に混乱を来す。仮名でいいということで済めばよいが,必ずしも仮名でいいとか,ルビでいいということになるかどうか,疑問に思う。
 そういうことは当局の方でいろいろ考えることだと思うが,せっかく今まで一つの形ができてきたものを,人名だけのために,そういう進歩が,あるいは能率が壊されてしまうことは十分あり得ることなので,その点の一つの筋目を考えていただきたい。新漢字表は今までの経験,経過からいって,大体これぐらいならば収め得るあるいはもっと増えても十分やっていけるものを持っているので,人名だけのためにそれを壊さなくてもいいのではないかと思う。
 社会通念上の目安ということが,人名の面に振り向けられるかどうか分からないが,一つの常識の範囲内で何か考えていけるような方法を取るべきではないかと思う。国語審議会としても,人名だけは自由だという表現は,私はすべきではないと思っている。
 今,新漢字表に掲げられている文字が1,900字。それに当然現在だっていろいろな文字が使われているから,1,900字が2,500字あるいは3,000字程度で落ち着けば問題はないと思う。そういうことで,その辺の枠を常識的に考えながら進むべきではないかと思うので,印刷の立場だけになるが,そういう点をお考え願いたいと思う。

福島会長

 今の話に若干関連があることを申し上げたい。以前,新聞協会の案が漢字表委員会に提出されたことがある。従来の「当用漢字表」から20字程度削って,新しく90字程度を追加するという案を,漢字表委員会に,新聞協会の編集委員会が出したことがある。実はその案が新聞協会の理事会に出てきて,私も新聞協会の理事の一人として「そういう案を専門家が考えて国語審議会に出そうというのならばそれはそれでいいが,もし新聞協会の理事会の決定として国語審議会に出して,もし国語審議会がそのまま御採用にでもなれば,差し引き70字ばかり増えることになる。現在の新聞の印刷設備は,手拾いを極力避けて全部自動化してある。そうなると,新しい字をモノタイプの中に字母で入れなければならないので,新聞協会の会員がモノタイプを改造するということを前提にしないと理事会の意見としては出せないのではないか。しからば,そのモノタイプを改造するのに幾らかかるかというのを,工務委員会かなんかで検討したらどうか。」という発言をしたことがある。
 それで,理事会を1回延期して,その間に新聞協会の工務委員会でコストを計算してみたら,新しい字を追加すると,新聞協会の会員社が機械を改造する費用が200億円と出た。これではとても理事会の意見として出せないということで,理事会の決議はとりやめになり,編集委員会ということだけで出すことになった。
 それから,先ほど林(大)委員から,印刷だけではなくて「通信」もという御指摘があった。それは誠にそのとおりであるが,今日の印刷と通信とは,技術上ほとんど選ぶところがない。印刷する際には通信上の技術で自動的に機械を動かすわけである。それから,先ほど宇野委員から,現在でも地名・名字等で漢字表にも何にもない字が随分使われているではないかというお話があったが,これはその部分だけ手拾いをする。これで弱っているわけであるから,これが更に増えてくることになると,現在でもできているからもう少し増えてもできるはずだということにはならない。現在,一応機械的に,字のないときには,間をあけておき,後から手ではめるという番外文字の扱い方になる。それが,現在既に相当あるので,てこずっているわけで,この番外文字を増やそうということになると,相当問題になる。
 コストに関連して申し上げると,50字,60字程度増えると今の印刷のモノタイプだけでそれぐらいかかり,それに,現在は電算システムによる印刷工程が相当普及しているので,電算機におけるプログラムまで変更するコストを入れるともっと大きな金額になる。金額の方は新聞社がかぶればいいのではないかということになるが,能率という点からいってもかなりの問題になる。将来はいずれ技術的な進歩もあるだろうから2,000字でなくても2,100字になっても2,200字になってもやれるはずであるが,現在の技術水準では,2,000字を大きく超えることは非常に困難であろうということを先ほど少し申し上げた。
 人名漢字問題に対する審議会の取り扱い方としては,総会での各委員の御発言を参考にして,どの委員会になるか,必要とあらば新しい委員会ということもあるかもしれないが,当面は運営委員会で検討するよう取り計らってみたいと考えている。先ほど志田委員が言われたように,当面,法務省の問題でもあるから,国語審議会としては,人名漢字問題について,このような方向で考えるべきであるといったようなことで,法務省の善処を促すという形の意見の表明が可能なような気もする。
 多少まだ時間が残っているので関連して御意見があったらどうぞ。

木庭委員

 私は,そういう考えに反対である。人名は,付ける場合に,親が子供の幸福を祈るという「祈り」みたいなものがあると思う。そういうものを全く無視して考えることは,どうも納得がいかない。
 先ほど,人の名前は自分のものでなくて社会のものであると言われたが,本当に社会のものになってしまえば,名前は不要になり,番号で済んでしまう。名前というものは,人間個人が自分を主張するときに必要なものである。親が妙な名前を付けるのも何かそういう祈りの気持ちがあるからである。また,いわゆる名前を付ける専門家がいて,難しい名前を付けるというのも,名前の一種の神秘性みたいなものに対する信仰があるからで,姓名判断などというものがいいか悪いかは別として,そういうものがあることは認めざるを得ない。人名漢字制限の大変な風潮の中で,とにかく当用漢字と別に何字か残ったというのも,人名は普通の漢字と違って制限の枠に入り切らないものなのだということの現れのように思う。

鷹取委員

 私は実業界というか,会社の中における問題として申し上げる。会社の中では,戦後の教育を受けた人が大体50歳ぐらいになっている。部長若しくは取締役ぐらいまでが,戦後教育,そして当用漢字の教育を受けてきている。それで,我々が会社の中で日本文を書く場合には余り難しい字を使うと困ることになる。したがって,絶対に漢字を増やすべきではないというのが,経団連・実業界の意見である。国語というのは日本人同志の意思疎通を図る大変大事なものである。そしてそれを文字で表すことも大変大事なことである。これを30年やそこらで変えるべきではない。しかも議論している我々はもうしばらくすると国民からリタイア,現場からリタイアすることになる。我々が教育を受けた考え方で漢字の問題を議論している時期ではないのではないか。
 統計上,戦後生まれの国民が人口の50%に達している。そうすると大体人口の3分の2近くが当用漢字で教育を受けてきているのであろうと思われる。したがって,そう軽々しく30年やそこらで,大事なコミュニケーションの日本語の表現の手段を変えるべきではないと思う。文芸とか学問的な分野とかは個々でいろいろな字をお使いになればよい。もっとも,明治時代に書かれた高山樗牛なんかの文章はもう読めないし,近ごろの人は読もうともしないということは事実としてあるが。
 人名漢字その他の,せっかく我々の先輩が決めた一つの基準を,余りいじらない方がいいのではないか。人名漢字に対しての反応が自然に出てくる時期をもう少し待つことが必要ではないだろうか。そのことを是非お願いしたい。

福島会長

 先ほど申し上げたように人名漢字問題を今後どのように取り扱うか運営委員会で一遍考えてもらうようにしたいと思う。その上でまた何らかの大枠を出して審議会総会で御意見を伺うようにしたい。
 ちょうど時間になったので,人名漢字問題についての話を伺ったということで本日は終わらせていただく。次回は問題点整理委員会からの提出資料「総会等で出された問題点」の4の(2)「上記以外の国語政策について」ということで一般的,基礎的な問題で発言をお願いするように取り運びたいと考えているので,御了承願いたい。
 次回の総会は,11月11日の金曜日か,18日の金曜日かにしたいと一応考えている。会場の都合等もあるので,正確な日取りは追って文書で事務局から御連絡する。
 何か御発言があったらどうぞ。(発言なし。)本日はこれをもって閉会とする。

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