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次第 国語問題・国語政策について(自由討議)人名漢字について1

鈴木委員

 前回総会で人名漢字を取り上げて,大分長い審議をしたが,本日は多くの問題があるので,人名漢字のことは特に話題にはできないか。

福島会長

 いや,そんなことはないと思う。前回その問題で御発言をお願いしたが,それだけで尽きたわけでもないし,前回で結論を出したわけでもない。いずれ人名漢字問題について,国語審議会がどういう態度をとるか決める段階になると思うが,その前にはどうぞ自由に御意見を述べていただきたい。

鈴木委員

 実は私個人として少し人名漢字の問題を前回の発言に関連して考えてみた。本日御出席の委員で専門の方に伺いたいことがある。
 現在,ガス,水道,電気関係とか,NHK,銀行,証券会社,デパートなどの社会的に大きな会社なり集団なりの多くが,コンピューターを使ってであろうが,住所も名前も全部仮名で書いてくるということがある。前回にも議論があったように,名前は個人的なものでもあるし,社会的なものでもある。社会的には経済的であるとか,その他いろいろなことを考えて名前をある程度制限する必要があるというので,特殊な名前などは現在付けられないことになっているが,名前を漢字でなく仮名で書くということは,法律的に考えると,自分の名前ではないと言えるのかどうか。つまり自分ではないから払わないと言えるのかどうか。簡単に言うと,名に付ける文字については使っていい字と使ってはいけない字とがあり,しかも使っていい字で登録されている名前を示すのに,あえてそのように使わないことが許されているのは,慣習的にそうなっているということであろうか。もし「スズキタカオ」と片仮名書きで請求書がきたら,これは見たことのない人である,ここに住んでいない,というようなことを言った人は今までにいないのか。そしてまたそれは裁判になるのだろうか。
 こういうことを言うのは,この問題そのものに興味があると言うよりは,名前は読み方が大事であり,むしろ社会の共通財としての面は正しく読めることの方に重点があるのではないかと思うからである。むしろ仮名でも「スズキタカオ」と正しく読める方がいい,なまじ漢字で書いて「鈴木孝夫」を「鈴木考夫」と書いてしまうよりもいい(「鈴木考夫」と書いてくる人が圧倒的に多い。)ということであろうか。
 つまり,仮名は読み方を表していて,しかも社会的には名前の共通財としての面はどちらかといえば読み方に重点があるという無意識の我々の理解がいつの間にか慣習的に片仮名で名前を書かれても怒ったり,支払いを拒否したりしないということになっているのではないか。そして一方であり得ない漢字とか難しい漢字で人名を書くことは法律的に抵触している。
 そこで,漢字と仮名の二つの問題の側面を考えるときに,仮名書きのあて名がとにかく流布しているという点が,今後人名漢字を考えるときのかぎというか考えを進めていくときの非常にいい材料になりはしないかというように考えた。
 現在,割に公的な社会生活の場で仮名書きで人の名前を書いてしまうことが,規則ないし法律でどういうように受けとめられているのか。今まで一度も問題になったことはないのだろうかということを,まず具体的な質問として,もしお分かりの方がおられたら伺いたい。

福島会長

 ただ,私が一つ気がついていることがある。仮名書きで銀行などから送ってくる,コンピューターを利用した印刷物は,仮名でなければ印刷できないからそうしているということでは本当はない。あれは電信回線による印刷であるが,私の関係している通信方面では,全部漢字でやっている。日本では電報は片仮名でなければ打てないということであるが,私どもの通信社からの通信は,漢字仮名交じりで電信線に乗っている。それだけの機械を銀行などが使っていないというだけの話である。片仮名書きで配達されてくるのは事実であり,その際,仮名で書いたものはそういう音を示しているだけであって,自分の名前ではないということで,支払いを拒否することができればいいが,これはどうであろうか。

鈴木委員

 私も今までに裁判があったとか,法律で許されているとかいうことはないと思ったが,一応伺ってみた。
 実はそのことを取り上げた趣旨は,国語,私たちが使っている言語については,余り他の人の使っていることに制限を加えない方がいいのではないかということである。基本的には表現の自由とか何とか難しい言葉でいろいろ言わなくても,私たちはまだ言葉について知らないことはたくさんある。それに名前だけとってみても,この前どなたかからも,親が子供に名前をつけるときは祈りを込めるとか,そういう気持ちが日本人には強く,姓名判断ということも繁盛しているし,実際涙ぐましいほど努力して,名前をつけるとき苦労する親もあるから,一概に経済性だけで論じ切れないのではないかという話があった。
 私個人としては,名前には余り祈りを込めない方で,そういう趣味はないが,日本人の中にはそういう脈々とした,名前に関する深い,いろいろな問題を感じている人がいるのも事実であるから,できるならば私はこういう漢字は使うべきでないということを言わないで済むような体系を考えることができたら,それが一番いいのではないかと思う。自分がつける気がない,自分はそういう趣味がないから,人もしない方がいいというのは非常に危険であり,かつまた,ある意味では表現の自由とか,いろんな深い問題にも関連してくる。
 そこで私が申し上げたいのは,次のようなことである。自分が付ける名前は,自分の登録どおりの漢字,つまり現在法務省が認める「人名用漢字別表」とか,「人名用漢字追加表」とかいった,ある程度の範囲は認めるにしても,名前の社会的な共有財としての面は発音であるということをもう少し我々が考えてみる。実際にそう感じているような面を,もう少し理論的に,ないしは研究の対象として考えてみて正しく読めるということが社会的に一番大事で,どういう字を使うかということは,その人の個人的な生活の,いわばプライバシーの問題だから,規則ではなるべく制限しないというふうに考えると,経済の原則でものを考えたいとする人々と,祈りとかそういったような問題を考える人々の間で,余り独裁的に,どちらが正しいという判断をしないでも済むのではないか。

鈴木委員

 そこで,私が前回総会で少し提案申し上げて,十分説明できなかったが,名前は必ずその読み方を社会的に明示する習慣をつけるということにしてはどうか。例えば役所で登録するときも,自分の名前は必ずこう読んでほしいと示すこととする。そうすると,発音が分かる以上,仮名であろうと,ローマ字であろうと,その名前はほかの人間が正しく使う手がかりが明示されるわけである。
 そして,官公庁なり,公的な,先ほど木内委員の言われた俗的な国語の使用の場面なりにおいては,いわゆる「目安」としての「新漢字表試案」の漢字だけそろえていればよく,それ以外の漢字を使った名前が出てきたら,漢字を使わないで,正しい読み方を仮名を使って示すというように指導ないし理解を求めることにする。その人が自分で署名するときは,非常に難しい漢字を使っても,その人と通信するときには,その人の名前を正しく読み表した仮名,又はローマ字で書いてしまえば,義務的に漢字テレタイプの字3,000を5,000にしなければならないという問題はない。そして,私企業としての印刷などの公的なものでない場合には,自由競争の原理で,多数の活字をそろえておいた方が,仕事がより多く取れるというところはそうすればいいし,多数の活字をそろえることは効率が悪いからしないというところはそれでいいと思う。
 繰り返すと,私は名前の個人的な面,社会的な面を両立させるためには,現在,仮名書きで非常に広く社会的な慣行として認められているあて名とか他人の名の書き方とかの問題をもう少し考えてみて,それに沿った形で名前を処理することによって,事実上は制限がなくても,印刷関係及び官公庁が迷惑を受けることがない,つまり,両方とも得な方法がありはしないかというふうに,この前からずっと考えて,いろいろ自分でも調べてみたりした。それを今も申し上げた。

福島会長

 関連して御意見はないか。

馬淵委員

 今の鈴木委員の話に関係あるかどうか分からないが,少し申したい。自動車のライセンスには,私の姓は馬淵(マブチ)であるのに,「ウマブチ」と書いてある。係員の説明によると,これは名前を表すのではなくて,字を表しているというわけである。そうすると,片仮名で書いてあるからといって,読み方を期待することはできないわけである。この場合は,漢字を仮名に直しているわけである。これは一体どういうことになるのであろうか。読み方ではなくて,漢字を頭に置いて片仮名にしているのではないかという気がしたので,御参考までに申し上げた。

鈴木委員

 実はそのことは,前にも審議会で申し上げたことがある。私の場合はもっとひどく,鈴木孝夫(スズキタカオ)が「ススキコウオ」となっている。私の聞いたところでは,これは同音の漢字がたくさんあるために,警視庁が私に勝手につけた符牒(ちょう)であり,私の姓名をファイルから引き出すための索引であるということであった。
 私はこれは非常に便利だと思う。つまり,同音の漢字を多数持っているという宿命というか,現実を担っている国語を,いけないとして無理に直すよりは,それを生かせるシステムを関係の各方面で考えることが大事なのだと思う。逆に言うと,ものを簡単にするということだけで突っ走ってきた結果が,いろいろな問題を生んでいるわけであるから,言語生活を非常に多面的,多角的で複雑にすることを恐れてはいけないということになるであろうか。
 私はあくまで名前というのは正しく呼ばれなくてもいいというふうに譲るべきではないと思う。「ススキコウオ」と呼ばれたら私は返事をしない。しかし「ススキコウオ」というのは実は私を番号化して表しているのだと思えば,それはそれで構わないのではないかというように私は考えている。

福島会長

 先走って申し上げるのもどうかとは思うが,そういう御意見などを詰めていきながら,審議会として当面持っている問題を整理するということになると,1,900字を土台とした「新漢字表試案」(若干の手直しは行われるであろうが。)のほかに,人名漢字表というような別の表が存在すべきであるという結論になるのであろうか。(人名漢字表の修正,あるいは拡充の必要の有無などの問題があるにしても。)

鈴木委員

 人名漢字として,非常によく使われるような字は既に表になって認められているのであるから,人名漢字の表を今のような趣旨で多少広目に作って,せめてその中から人名を付けるというくらいのことにして,野放しにしないというのが,一番通りやすい意見ではないかと思う。
 ただ私個人としては,この前どなたか述べられたが,「諸橋大漢和辞典にある字なら構わない」というようなことでよいと思う。つまり,自分の子に付けて登録する字は,その人個人の問題だけだったら,字であれば本当は構わないのではないかと思う。
 しかし,一方では,それが社会的にはね返ってくる面がすぐ問題となるわけである。個人の気まぐれないし哲学の片棒を,社会が担ぐ必要はないということの方をむしろ重点的に考えてしまう。だが,こういう委員会形式で時々集まって,例えば人名だけについて見ても,2年間で延べ数時間しか議論できないという中で,場合によっては憲法違反ということが問題にされるような大きなことを,簡単によした方がいいとか,悪いとかいうのはそら恐ろしい気がする。
 社会的な面を考える場合に,前回でも伺ったように,唯一の原理は経済原理であるということである。ところで,経済のことを考える委員会はほかにたくさんあるが,それらの委員会では文化のことは考えるということはない。そうすると,当審議会で一番考えるべきことは,少数意見ではあったが,「名前とは祈りではないか」というようなことであろう。しかし,そういう問題が余り表面に出ないで,とにかく安上がりに,早くという経済原理を中心にした審議になっている。一体,本当の文化の問題は,どの審議会で考えるのか心配になっている。
 私はできるだけいけないということを言わないで,うまく逃げることに審議を集中した方が,良心の呵責(かしゃく)なく答申を出せるのではないかと考えて,今のように申し上げた。
 結論を言うと,相当広い範囲の字を人名漢字として認めてしまう。しかし,それは決して官庁が我々に出す文書にその字を使わなければいけないとか,官庁はその字をそろえておかなければいけないということではないことにする。現に税務署にしても,我々の名前を堂々と仮名で書いてきている。そして,それに対して憲法違反の訴えなどがないとすれば,そういう庶民の語感を踏まえて,読み方を間違えないような手を今まで以上に打った上で,「新漢字表試案」の漢字はある程度義務的にそろえなければいけないが,それ以上のものは仮名書きでよいということにする。新聞でも何でも,そういう特別の名前の漢字を堂々と仮名で書いてしまうことにする。そういう字をそろえても構わないが,そろえなければいけないという訴えの対象にはならないような安全弁を,規則で決めておけば,余り経済的な負担を心配する必要はないのではなかろうかというように考える。

下中委員

 第12期審議会の時に,何字かの人名漢字の追加があった。その時にも考えたことであるが,人名用の漢字表を国語審議会が取り扱った過去のいきさつがあって,法務省に対して,追加したらよかろうというような意見で,結局まとめたと思うが,今期限りで人名用の漢字表とはオフィシャルには,国語審議会は縁を切った方がいいのではないかと思う。別の機関が人名用の漢字については,もし必要があれば取り扱う。あるいはそういう別の機関が国語審議会に対して人名,あるいは人名漢字について何か意見を求めてきたら,ある程度審議し答えるというような形にしたら一番問題がないのではないかと思う。

福島会長

 もっともな御意見とは思うが,人名漢字について国語審議会は取り扱わないというわけにはいかないのではなかろうか。

宇野委員

 今の下中委員の,人名漢字については当審議会は取り扱わないことにするという御意見に対して,会長はそうもいくまいと述べられたが,私も会長の御意見に全く同感である。
 なぜなら戸籍法は法務省令かなんかで決めることになっているので,国語審議会がとやかく言うのは,むしろ越権とさえ言えるのであって,従来,国語審議会が全く人名に対してノータッチであったならば,私はそれが正論だと思うが,現行の「人名用漢字別表」は国語審議会が自発的に決めたものである以上,その後始末はしなければならないと思うからである。どう考えてもそうとしか思えない。
 次に,鈴木委員の御意見に関して述べたい。さきほどの諸橋大漢和辞典の話をしたのは,私であるが,それは,うそ字やなんかを出生届の窓口に持ってきて,「それはうそ字」と言っても,「いや,こうつける」と言ってがんばって窓口の係が大変困るという話を伺ったので,それならば,従来認められている漢字なら認めることにしたらよい,従来認められている漢字はいろいろあるが,現在において諸橋大辞典が一番権威のあるものということになっているから,それによったらどうかということで申し上げたのである。
 国語審議会が,今度の新漢字表はいわゆる「目安」である,「制限」ではないという方針を立てたが,これは,我が国の戦後の国語政策──といっても主として漢字の政策に関して,非常に大きな出来事だと思っている。「目安」であって「制限」ではないという立場をとった以上は,人の名前だけを制限するということは,これまた筋が通らないと思う。「目安」と言いながら,1,900字なり何字なりという漢字表をつくっているわけであるから,人の名前の場合でも,私なら差し当たり3,000字ぐらいと思うが3,000字でも5,000字でもよいが,名前につける漢字を一応こちらとして選定して出して,戸籍の窓口ではなるべくその中で書いてくださいということを勧告する。しかしそれでも,どうしてもいやという場合は,それでは仕方がない,御自由にというふうにすれば一番筋が通ると思う。
 ただ,口で言うと簡単であるが,3,000字なり5,000字なり(2,000字でも3,000字でもよいが。)どうやって選ぶかということになると,これまた大変なことである。そんな面倒なことをしたって余り役に立たないのだから,そんなことはしなくてもよかろうと,私は思うわけである。
 それからもう一つ,名前の読み方のことについて延べたい。自動車の免許証のことでいろいろおもしろい話を伺ったが,現在は次のような事情がある。
 人名漢字として最初は当用漢字1,850字しか認められていなかった。それが昭和26年に92字追加された。その段階でもなおかつ子供の名前につける漢字というのは非常に制限されていた。しかも規則としては,読みについては全く,これこそ野放し(私は野放しという言葉は好きではないが。)であって全然制限がない。その結果,私は漢字についての知識は多少はあるつもりであるが,その字をそういうふうに読むのは無理ではないかと思うような読み方をさせている例がある。
 学生の名簿を見ていると,大体は素直な名前であるが,時々とんでもない名前がついている。いまは,制限されているから字は簡単であるが,とんでもない読み方をするという例が間々ある。
 なぜそういう現象が起こったかというと,私は字を制限したからだと思う。名前について漢字を制限したから,その制限の中で字は使わなければならないが,読み方としては,自分としてはこういう読み方にしたいという気持ちからこういうことが起こってくる。
 最後にもう一つ延べたい。名前というものは他と区別するためのものである。個人の姓でもそうであるし,名前ももちろんそうである。したがって,その名前というものはなるべく紛らわしくないのがよい。もちろん中には一郎とか,太郎とか花子とか,これらはこのごろ少ないが,極めて一般的に通用するような名前を好んで付ける人もいるが,中には,だれでも使うような名前をきらい,自分の子供には少し違った名前を付けておきたいという人もかなりいる。私は,名前というものは本来そういうものだと思う。
 昔は,いわゆる諱(いみな)(日本では諱と言ってはおかしいが。)があって,本名と通称とがあった。前回総会で,号を幾つも付ければいいという意見があって,大変おもしろく伺った。通称は,それこそ太郎とか次郎とかいうのでよいが,本名は別にあるというように昔はやっていた。名前というものについて,国が干渉するということは,少し強い言葉を使うならば,文化に対する弾圧だとさえ私は思っている。いやしくも国語審議会がそういうことをすべきではないというように私は思う。
 なお,前回議事要録の私の発言で訂正していただきたいところがあるので,しかるべき時に申し出るので御訂正いただきたい。

林(知)委員

 私も,鈴木委員,宇野委員と同じような意見である。漢字を易しくしたからといって名前は読みやすくならない,あるいは制限したからといってコミュニケーションとして便利なものにならないというふうに感じている。
 私の名前,知己夫(チキオ)について言うと,字は非常に易しいが,小学校に入って以来正しく読まれたためしがない。逆に「チキオ」と口で言って,その字を書いてくれた人はいない。コンピューターを利用した片仮名書きでは「トミオ」と書いてくるのが一番多く,次に「トキオ」「チミオ」である。「チキオ」というのはほとんどない。それを考えてみると,「知」という字があると,コンピューターでは「ト」と読むようにしてあるのではないかと思う。「己(キ)」は「巳(ミ)」と似ているものだから,「己」の字が出てくると,「ミ」ということになるのではないか。不思議なことに「トミオ」というのが一番多い。
 そういうことがあるので,幾ら制限しても,名前の問題はコミュニケーションを便利なものにすることにならないと考えている。

赤松委員

 新聞社に籍を置いている人間として少し意見を申し上げたい。
 鈴木委員の御意見を大変興味深く伺ったが,新聞社の記事で一番注意を払うのは固有名詞である。何と言っても固有名詞の誤りは非常に致命的なものであって,よく訂正要求がくる。固有名詞に関しては何度もチェックするということを,どの新聞社でも実行していると思う。
 今の鈴木委員の御意見を,NHKなどからの料金の請求が来る場合に片仮名を用いているのと同じような形で,新聞社の場合でも,紙面に「新漢字表試案」以外の字を使う場合には,片仮名をあてたらよいではないかという趣旨に拝聴した。個人あてにくる書類の場合と公に発表されるような文章の場合とでは,別個な問題があるのではないかという気がする。例えば鈴木委員の名の字が仮に使えない字であったとして,それが仮名に書き換えられて載ったとすると,全然別個の人のことが新聞に載っているというような印象を第三者に与えるという一面もあるような気がする。
 そういう意味合いからして,「新漢字表試案」とは別個の人名漢字表をつくるにしても,それにおのずから枠(わく)を考える必要があるのではないかと考えている。

馬淵委員

 鈴木委員に少しお伺いしたい。今の御意見だと,名前を届ける場合には漢字に仮名を添えて届けるということにならざるを得ないと思うが,そういうことか。

鈴木委員

 現場のことは分からないのでそのことも伺いたいと思っていた。現在名前を届けるときは,振り仮名がなければ受け付けないような事務になっているのかどうか。もし今そうでないとしたら,当然読み仮名を付けるようにすべきだ。つまり,正しく読んでもらうのも自分の名前を表すことであるし,社会的にはその方が,混乱を起こさないとかその他いろいろな意味でも重要なのではないか。
 例えば「神戸」と書いて「ゴウド」とか「カンベ」とか,四,五通りの読みがある。この場合,違って読まれれば,名簿も違うところへ分類されるとか呼ばれても自分ではないと思うとかの問題が出てくる。違って読まれることに段々慣れて,自分の名前を大体10通り呼ばれるくらいの心がけの人が多いと思うが,名簿なんかの場合には,自分がどこに分類されているか分からないということが,名前の読み方がはっきりしない場合には起こり得る。だから,読み方も名前なのだという意識をもっと補強するというか,現に社会では読み方の方が大事なのだという意識を持つべきであると思う。
 それから,今,新聞に私の名前が仮名で書かれた場合に第三者への反応と本人の反応と二つあると思う。ただ仮名書きをいやと思う点から言えば,他人のことを心配して,「仮名で書かれるのは不愉快であろう」と,気に病むよりは,私自身がいやと言う方が度合いは強い。ところが,その強い度合いの場合でさえも,社会的に現在いつの間にか暗黙のうちに仮名書きが認められている。それを第三者が不愉快に思う場合にも適用すればよい。そのためには当然,啓蒙(もう)とか努力が必要だと思うが,第三者の不愉快感と本人の不愉快感というものを考えた場合には,当然私は本人の方が強いということを考えると思うが,いかがであろうか。

村松委員

 鈴木委員の御意見を先ほどから伺っていて,呼び方の厳正な方法といったものの国民的徹底が必要だと思う。例えば,柳田(やなぎだ)国男先生と,私たち申し上げていたが,戸籍的には「やなぎた」なのだそうである。パスポートを戸籍のとおりにローマ字で書いたものをドイツに持っていって,向こうで金を銀行から引き出す時に,うっかりと「やなぎだ」と書いた。そうしたら,本人と違うと言われたそうである。ローマ字で書くと,非常に違う印象を与えて,「やなぎた」と「やなぎだ」は同一人物だと証明するのに2か月掛かったそうである。
 馬淵委員の御発言の例であると,「ウマブチ」というライセンスを持っていくとすれば,外国では恐らく自動車に乗れないのではないかと思う。「まぶち」と「うまぶち」が同一人であると証明するのは大変である。
 したがって,警視庁はそうなっているにしても,例えば,私は村松定孝(さだたか)と親は付けたらしいが,他人は皆「ていこう」と言うから,はいと答えているが,こういうあいまいさを是正する方向を持つように審議会は要請する必要はあろうかと思って,少し気がついたことを申し上げた。

宇野委員

 馬淵委員が先ほどお尋ねになった,新たに届けるときに仮名を付けるかどうかという問題であるが,たまたまつい先日,名前を付ける用紙を見たところでは,振り仮名をしなければ受け付けないというのではないように思った。名前を付けて,いろいろ整理をする上に好都合だから読み方をつけてくださいという添え書きがあったように思う。

松原専門員

 振り仮名をすることになはっていないようである。振り仮名をした場合に受け付けないということにもなっていないようであるが。

宇野委員

 振り仮名をしなくても受け付けないわけではないらしいが,振り仮名をしてくれと書いてあったように思う。その方の専門の方がおられたら伺いたいと思うが,私はそういうふうに理解した。
 それから,ついでに今,新聞での仮名使用の話が出たので申し上げる。印刷技術上やむを得ないと思うが,例えば航空機事故などがあった時に,日本人の名前がよく片仮名で新聞に出る。あれを見てすぐ分かるであろうか。もしかすると自分の知っている人が乗っているかもしれないと思いながら,片仮名でずらずら書いてあると,とても私は読む気にならない。また読んでも,同一人物であるかどうかを照合することが非常に困難な場合があると思う。例えば「いとう」という名字の場合,自動車の免許証なら「いふじ」と書くのと「いひがし」と書くのとあるわけである。自分の知っている「いとう」氏が二人いるとすると「東」が書いてあればあの「伊東」氏と思うし,「藤」が書いてあればこちらの「伊藤」氏と思うわけである。多分ここに御出席の方々のほとんどはそうだと思うが,そういうように字によって頭の中に入ってきている。
 名前にしても,「孝夫」とあれば鈴木委員,「孝雄」と書いてあれば,終戦の時の総理大臣の弟というように思うわけで,漢字とかなり密着している面があるように思う。
 これはかつて何かに書いたことであり,恐縮であるが少し申し上げたい。
 昭和36年か37年ごろの「言語生活」のある座談会で,人名と仮名に関連したことが取り上げられている。その座談会の出席者は,私の記憶では,生命保険関係,国民年金関係,警視庁指紋文書関係の3人,つまり少なくとも何百万という名前を処理しなければならない担当者の3人と司会者であった。

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