国語施策・日本語教育

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次第 協議(1)

有光会長

 「現代かなづかい」の検討に当たっての基本的な問題,また仮名遣いとは何か,というような本質的な問題についても,委員会でいろいろ入念にお話し合いが行われた様子を伺わせていただいた。また今後にいろいろ抱えておられる問題の検討についてもお話があった。こういうような問題について,更に共通理解を深めていくという意味で,これから十分に御協議いただきたい。
 御質問の形でも結構であるし,また御意見,御提案でも結構である。御自由に御発言をいただきたい。

木内委員

 私は,仮名遣い委員会の委員ではないけれども,今までの5回あった委員会には割合に数多く出席した人間である。ただいま面白いお話があって有益だったと思うが,今日の要旨の御説明は,大変要領がいいけれども,これでは味のあるところがまるで抜けているような気がして,あのときの記録はちょうだいしているが,あれを皆さんにお配りになるということがあるのか,ないのか。これは質問である。

中村国語課長

 仮名遣い委員会の議事録については,議事要旨の形であるが,次回の仮名遣い委員会で必ず確認していただき,それを仮名遣い委員以外の委員の方にも御参考のために全部お送りしてある。

林主査

 4回まではお配りしてある。

木内委員

 それから,今日お話にあった,これからどういうことを取り上げるつもりだというのは,大変面白そうなお話であるが,あれを耳で聞いただけでは,私は耳が悪いせいかもしれないが,到底ついていけないので,あれを書いたものにしていただけないか。

林主査

 今日はそれを用意しなかったが,前回,第5回委員会では具体的な問題点については資料をお配りしておいた。

木内委員

 そのときにお配りになったものは,皆さんにも回っているのか。

林主査

 それはまだ回っていない。

木内委員

 これは非常に重要なので,そこのところは皆さんに回らないとまずいだろうと思う。

中村国語課長

 ただいまお話しにあったような資料については,4月以降に全委員にお配りしたいと思う。

林主査

 ただいま御注意があったとおりで,今後の問題点というのを幾つか早口で申し上げたわけであるけれども,それは大体「現代かなづかい」の問題点として従来言われてきたそのものであって,別に新しい問題というのではないわけである。「は」「へ」「を」の問題であるとか,「じ,ぢ」「ず,づ」の問題であるとか,オ列長音であるとかいうようなことであって,別段新しいところはないようなものである。従来「現代かなづかい」が問題にされてきたそのところであるので,それを個々に取り上げて,また全体から見てどのように取り扱っていくかということが今後の問題であるというふうに考えている。
 どういうふうにしてそれを検討していくかという検討の方針については,まだ項目を確認したぐらいであって,その方針については,まだ委員会としてはお話をしていない。そういう点でまた今日,細かい点についてもいろいろ御意見がいただければ,今後の審議の参考にさせていただけるだろうと思う。よろしくお願いしたい。

村松委員

 私も専門の委員会に出席していて,こういう質問をするのは少しおかしいけれども,ちょっと確認しておきたいことは,今日のお話の中に,外来語の表記についてのお話が出るかと思うが,この問題については,確か専門委員会の方では余りそこまでいってないのではないかと思うが,この前の総会のときに,外来語の表記について何か御意見が出されたように承っておるので,それについても検討すべきではないかということが一つ。
 本日の資料の一番最後の4ページのところの(ケ)の最後から二つ目のところに「明治の文学作品も最近はどんどん「現代かなづかい」に直して出版されており」とあるが,これは,明治の文学作品の中に文語文の場合と口語文の場合とがあるし,それから韻文の場合も詩などで歴史的仮名遣いで書かれたものと,そうでないものとがある。だから,そうした方が読みやすいということを(ケ)の仮名遣いと古典教育という項目の中に載せるのはちょっと無理ではないかという気がする。

林主査

 外来語の問題については,第2回の総会のときに,そればかりではないが,いろいろ取り扱うべきだという御意見が出ていたわけであるけれども,委員会でお話をしていく段階では,別に準備をしなければならないような問題があるので──と申すのは,外来語と申しても英語ばかりではないし,各国の言語についての対応を考える必要がある程度あるのではないかということと,それの特別な表記を考えるということになると,ちょっと今は準備が足りないのではないかということで,それで,外来語の問題は後の問題にしよう,この委員会では,差し当たりこの任期の委員会の間は,それは取り上げないことにしようということを,第4回の委員会のときにお話をした。そこで私,先ほど合意を見たと申したのであるが,村松委員の御欠席のときだったかもしれない。議事要旨には書いてある。

村松委員

 この前の総会で質問などあったので申し上げた。

林主査

 将来の問題としてでも,それは問題でないからというわけでは決してないので,将来の問題としてこうしたいという,私も実は希望を持っているわけであって,十分に御意見をお出しいただくことは,私自身としては大変歓迎をしたいと思う。
 それから,明治のものについても,古典ということをどういうふうに規定するかによるけれども,明治あたりのものは,もう既に古典として考えていいのではないかというようなところで,ひっくるめて私は古典と言ってしまったわけである。言わば歴史的仮名遣いで書かれたものはみんな古典というようなものではないかと思うのであるけれども,それをどういうふうに受け取るかということが後で問題になるわけだろうと思う。
 委員会で決めたことは,外来語については延ばそうということだけであって,後の点は,項目についていろいろ意見を出し合ったということであって,何も決めるという形ではないのでどうかよろしくお願いしたい。今後決めていかなければならないと思うので十分御意見を総会の席で承りたいものだと思っている。

有光会長

 先ほど林主査からもお断りになっていたようであるが,委員会の主査の御報告の中で,委員の中ではこういう点はどうだったろうかというような御質問等があったら,併せてひとつお述べをいただきたい。

広瀬委員

 不勉強なので大変プリミティブな疑問を持っていて,あるいはもう既にお聞きしているかもしれないけれども,恥を忍んでお聞きしたい。
 四つ仮名の問題であるが,「じ,ず」という発音を原則として「じ」「ず」で表すというふうに決めたが,私の疑問は,どうして「ぢ」「づ」でなく,「じ」「ず」に決めたのか,その当時の議論はどうであったかということが一つと,もう一つは,元の表音で「じ,ず」の単語と,「ぢ,づ」の単語と数の上でどちらが多いのか,私の感じとしては「ぢ,づ」の方が多かったのではないかと思うのであるが,その点,何か御研究があれば知識として持っていたいと思うので,御質問したい。

林主査

 「現代かなづかい」を決めた当時のことは,ちょっと私もよく知らないが,私もその当時「ぢ,づ」の方がよくはないかなどというふうに考えたことがあったことを記憶している。ただ「ず」などについては,打ち消しの「ず」があって,例えば「知らず知らず」のようなものを,これは何といっても「ず」にしないと具合が悪いというようなこともあったと思う。
 それから「ぢ」の数については数えれば出る資料はあるけれども,細かくはちょっと今,私お答えができない。

広瀬委員

 余り統計的な,若しくは論理的な討議や検討なしに,とにかく「じ,ず」というふうに決めてしまったという感じがするが,そうでもないのか。

林主査

 あの規則を立てるのには歴史があって,多分あれは明治以来の仮名遣いの改定案の中でずっと「じ,ず」できていたように思う。それが踏襲されたのであって,昭和21年に初めて「じ,ず」になったわけではない。だから,その当時の議論は,従来を踏襲するのであって,余り細かい議論はしておられないのではないかと思う。

前田副会長

 私も,ああいうふうに決まったとき,どうして「じ」「ず」が選ばれたのかと,今,林主査のおっしゃったような歴史的なことは全く無知であったから,発音の上から言っては不思議に思っていた。と申すのは,私,30年近く日本人にフランス語を教える仕事をしていて,サ行のシスが濁った場合には,タ行のチツが濁ったのと区別する習慣がないので「じ」()も「ぢ」(d)になってしまう。英語ではメジャーのジャーは「ぢ」じゃなくて「じ」の方であるが,ブリッジと,一遍舌をつけてから発音するのは「ぢ」(d)になる。ところが,フランス語はむしろ逆に「じゅ」の方が多い。「私」(je)とか「日本」(Japon)とか。そうすると,日本人は,私の母も,私の家内もそうであるが,外国で暮らしてきて,先生にしょっちゅうしかられている。「d」じゃない「」だと言われると,何のことか分からないと母も,私の家内も言っている。私は子供のときにフランス語を覚えたからすぐ分かる。
 そういうことから言って,フランス語をずうっと初歩の日本の学生に教えてきて,問題なく日本語は「d」の方である。「」はない。地方にどこかあったような気がするけれども,みんな「d」である。だから濁らないときにははっきり区別をつけるものが,濁ってしまうと,日本国民には普通区別できなくて,みんな同じだと思う。だから「d」じゃない,「」だと言われて母が首をかしげていたのが今でも見えるような気がする。私には分かるけど,日本語を普通に話している人間には区別できない。だから当然発音から言ったら,御質問の濁り,「ち」の方を濁らした方が合理的だと思う。だから,よほど何かれっきとした事情があったのか,私も実は伺いたいのである。

松村副主査

 これは私の個人的な考えがかなり入った発言であるから,間違ったりあるいはほかの御意見があったら,ほかの委員の方から出していただきたいと思うが,要するに,四つ仮名の混同については一つにはいろいろ歴史的な事情がある。それから,現在という時点で言えば方言の問題もあるわけであるが,少なくとも現代語の「現代かなづかい」がなぜ「じ,ず」をとったかということは,その当時の委員会のことは,私,全然知らないので,実際のことは分からないが,私なりに理解すると,それはそれなりに理由はあると思う。
 それは,「現代語音」というものを現代共通語音として,その現代共通語音の土台を現代の東京語音を中心に考えるということにすると,現代の東京語音では,サ行の濁りザジズゼゾ,これはみんな軽く舌先が上の歯茎にちょっとついて,そしてその後で摩擦音が伴う。本来,サ行の濁音というのは,歴史的に見ると,これは単なる摩擦音,つまり舌先が全然つかない摩擦音の方のザジズゼゾであるべきはずなのだが,江戸の後半から現代にかけて,いわゆる東京語音ではその前提の江戸語以来,実はdzaとかdzeとか,そういうふうなローマ字で書かれてもいいような形になってきている。したがって,「じ」「ず」という二つの音にしても,実はこれはダ行の「ぢ」「づ」の方の音にむしろ歴史的には近い方になるわけである。
 だから,今,副会長から御発言があったように,東京語音をもとにした,いわゆる共通語音的な発音でやると,「じ」は要するに「di」式の発音になってしまうので,フランス語の「i」の方はできないというか,そちらの方ではない方になっていく。つまり,東京語音では「ざ」とか「ず」とか「ぞ」とか,ザ行全体としてそうなので,サ行の濁りとしては「じ」「ず」の方をとっても,発音上は一向構わないということだろうと思う。ちょっとこれは蛇足であるが,付け加えておきたい。

有光会長

 私も当時関係したわけだから,もう少し明快な御説明ができなければならないわけであるが,私は高知県生まれなので富士山の「じ」と藤の花の「ぢ」との区別は苦労しないでできる。ところが,現代語音で東京の人たちは,富士山は「ふじ」というが,藤の花については「ぢ」に何か力を入れて発音するような言い方をしていない。だから,「じ,ぢ」のどちらか一方の字を使うとすれば,皆が発音しやすい「じ」の方がよい。音から言うと「じ」の方が現在東京の人のしゃべっている音に近いと,私たちは思った。その方が我々の持っている音韻のイメージに近く,抵抗も少ない。「ぢ」を使って富士山の「ふじ」を表そうなんて音が違うではないかという感じを,当時,非常に素朴な話だが,持っていたわけである。つまり現代語音を表すのに,どちらかと言えば,「ぢ」を使わず「じ」を使った方が,区別のできる者からすると楽だなという感じを持ったということを御参考に申し上げておく。

三根谷委員

 もっとほかに適切な方がいらっしゃるのに私から言うのはおかしいかもしれないが,副会長のお話しになっている区別は語頭の問題であり,会長のお話しになっている区別は語中の問題かと思う。東京方言では語頭ではdzになるかもしれないが,語中ではdが落ちてしまう。要するに,東京方言ではdzとzの区別がないというだけのことで,語頭ではdz,語中ではzというふうになっている。それをどちらで書くのがいいかということはまた別の問題であるが,議論の途中で混乱があったように思うので,発言させていただいた。

木内委員

 今度は少し意見を述べさせていただきたい。
 二つ,三つあるが,最初に,今後新しい研究のプログラムに入っていくのはいいが,伺っていると,それは非常にテクニカルであって,そういう研究にこの仮名遣い委員会が入っていくことになるかと思うが,その場合に,インタイムに余り遅くならないうちに,学校教育において学習が楽になったとか,易しくなったとかいうことは一体どういう意味かというようなことを,つまり哲学的な問題と言った方がいいが,それをお考えになってほしいと思う。今までは易しくさえあればいいということでまかり通っているが,学校というのは教えるところで,多少は苦しませるところである。ただ簡単簡単でいってしまえば,何も教えないことになってしまう。それが今の少年非行につながるとまでは申さないが,あるいは明確につながっているのかもしれない。とにかく教育の場合の理想とは一体何かということである。習うときはめんどうくさくても,習った以上は非常に得だというのは,これは漢字というものの特徴であるが,日本語全体にそれがあると思う。そんなことも仮名遣いを検討するときにお考えになった方がいいと思う。ほかにもあると思うが,基礎的なことにも目をやっていただきたいというのが一つである。
 それからもう一つは,今日の発表についてであるが,先ほど大変要領よくて,ちょっと味わいのあるところが抜けていると申したが,抜けているものの中に,私が申したことがある。これがひどく味わいがあるとは申さないが,もっともあのときは私,余り明確に表現できなかったので,後で議事要旨を見たが,それにも十分に表現されていなかったから,今日配布の「討議の概要」にそれが出てこないのはやむを得ないかもしれないが,こういうことを申したわけである。
 いろいろ話を伺っているうちに気が付いたことは,「現代かなづかい」というのは発音どおりとやれば,それで全部解決するように思って出発したら,そうでなくて矛盾にぶつかって四苦八苦しているのが今の姿である。それに大いに同情して,「現代かなづかい」の新版をつくってみたらどうだと,私は言い出したのである。
 国語審議会,あるいは国語を論じる人の間で戦後間もないころから論争になっているのは,旧仮名遣いがいいか「現代かなづかい」がいいかという論争である。すなわちそれは,「現代かなづかい」に対立するものとして歴史的仮名遣いなるものをここに置いて,それに戻るか戻らないかという論争をしてきたのである。しかし,考えてみると,「現代かなづかい」は確かに大きな矛盾を持っている。また歴史的仮名遣いが必ずしもいいとは言えないかもしれない。だから「現代かなづかい」の方から出発して矛盾のところは直していく。歴史的仮名遣いでは仮名で書き分けているから便利なことがたくさんある。植物の名前でもそうだし,さっき「ふじ」の例がちょっとあったが,そういうふうにたくさんある。そういうのを書き分けてあるからこそ,覚えたら最後非常にいいのである。見たときに考えなくてもすぐ分かる。そういう便宜というものがあるが,それを今は何もかも発音どおりにしてしまったから,言葉というものの意義が失われてしまった。これは哲学的に非常に大事なことだ。今の文明国においては言葉というものは,聞くばかりではない。見るものなのである。目から入ってくるのを遮ってしまっているのは,だれかが形容してテレビとラジオの違いだと言ったことをちょっと思い出すが,非常な利点を失わせているものである。
 そういうことも考えて,「現代かなづかい」が苦労しているのを片っ端から直していって,新版「現代かなづかい」をつくって差し上げたらどうだろうと,私はそういう話をしたのである。これはその場の思い付きで全く未熟なものであったが,それを次回の総会までに私がつくって差し上げようと思う。こういうものは,議論でやっているよりも個人がパッパッとやってしまう方がずっと早い。もちろんいいものはできないであろう。それを後で直してくださればいいのである。今度までに一つつくってお目にかけようと思うから,それをあらかじめアナウンスしておく。
 私がつくったら,旧仮名そっくりに直していくと,全部旧仮名のとおりになっちゃうかと,さっきからそう思っているが,あれも旧仮名の方がいい,これも旧仮名の方がいいとやっていくと,例の「てふてふ」というやつ,これは顔を出さないからいいのだけれど,顔を出さないということは逃げているだけの話で,本当は「てふてふ」がいいのだということまで言えば,まるまる旧仮名になってしまう。ところが,今日のお話にもたくさん出ているように,外来語の書き方とか何とかかんとか,歴史的仮名遣いが知らない問題もたくさんある。そういうものは新しい目をもって裁いて差し上げる。
 仮に私のつくるものが歴史的仮名遣いぴったりのものとなったとしても,その上でいけないというところがあるなら,それは直していただけばよい。教えにくいとか,児童の負担などということは理屈にならない。それだったら私はあくまで反対するけれども,ともかく教える方がいい。教えるから頭がよくなるのだから,そういうふうにやってくださったら,ここの議論としては大変面白い議論になるし,審議がはかどるだろうと思うので,それをちょっと提案として申し上げる。

林主査

 委員会として決めたわけではないけれども,「現代かなづかい」をとろうか,歴史的仮名遣いに戻ろうかという二者択一が委員会の任務であるとは考えていない。皆さんもそうだろうと思う。

木内委員

 それは結構である。

林主査

 「現代かなづかい」には不具合な点があるではないかということで,ではその点はどこであろうかということが項目だろうと思う。ただその際に,私が皆さんの御意見を一般的に考えたところでは,やはり「現代かなづかい」の基本方針である現代語音に基づくということは,基本的には動かないのではないか。しかし,それだからといって,歴史的仮名遣いの識別力,あるいは識別効果というものを全然無視するわけにいかない。その点が「現代かなづかい」にも既に現れているわけであるが,その辺のところをもう少し発展させることが考えられるかどうか。それが今後の問題であろうということを,私は私なりの言葉で今日は申したつもりである。

木内委員

 今のお言葉には,ちょっと反論がある。というのは,現代語音をもとにしてという,その出発は実はおかしいのだと思う。およそ国語に対する法則を考えるのに現代語だけに限ったものというのはおかしいのであって,言葉というものは昔から続いているのだから,日常会話の中に急に候文を入れることもあれば,文語体になることもあれば,第一,頭の中には古典というものが渦を巻いて入っていることもあるわけである。
 そもそも戦後の国語政策が現代語音をもととしてというのは,私は当時の人の頭の中を想像すれば,一種の逃げ口上だと思う。だから私は,そこを吟味してほしいと思う。今ここでこれ以上論争しようとは思わないけれども,そこを吟味していただいたら大いに解明されるものがあると,私は考える。いずれ委員会の場でまた申し上げる。
 ちょっと付け足すが,今の「現代かなづかい」の矛盾というものには,そもそもフィールドをそこに限って出発したということにおかしい点があるからこそ出てくる矛盾というものがあると思う。

渡辺(実)委員

 今日の仮名遣い委員会での討議の内容に関する資料を拝見して,質問がある。
 まず(イ)の,「現代かなづかい」はどのような体系を持っており,その中にどのような矛盾があるか,というところであるが,それの最後のところを見ると「表記というものは発音の変化に対する歯止めの役割も持っていると思う。表記が単純に音の変化を追いかけるのは疑問である。」こういう趣旨の御発言があったようであるが,これはどういう意図でなされたものか。もしよろしければ,御説明いただきたいと思う。
 というのは,どうもこの流れを読んでみると,歴史的仮名遣いへ戻るべきであるとまで言うと,ちょっと強いかもしれないが,そういう方向に向かおうとする御発言のように理解されるところがあって,そういうことなのかどうかということが一つ。
 次に(エ)という項目の最後に「「現代かなづかい」は,現代の多様化し感性的になっている文字表現の世界を豊かにしてきたと思われる。現代のフィーリングに合う。」という御発言があるけれども,どういう事実を指して「現代かなづかい」は文字表現の世界を豊かにしてきたと言えるのか。私には何だかよく分からないので,それを御説明いただきたいということが第二である。
 第三に,(オ)で規範性の問題を取り上げているのであるが,この仮名遣いは「目安」なのか,そうではないのか,これはちょっと重要な問題ではないかと思う。今日の「仮名遣い委員会での討議の概要」のプリントでは,対立する意見が両方挙げられているが,委員会の空気がどちらに傾いているのか,なかなか想像できない。この「目安」とするか否かというような議論に関しては,委員会はどちらに傾いているのか,あるいは委員会は今後どのようにこれをお考えになろうとするのか。これは総会で正式に取り上げられなければならないことなのかという気もするが,委員会としての扱いのお考えがもしあったら,お話しいただきたい。

林主査

 第一の「発音の変化に対する歯止めの役割も持っている」ということについては,私の理解するところでは,これは必ずしも歴史的仮名遣いに戻せということを下に置いた御意見ではなかったというふうに受け取っている。
 この書き方は「表記が単純に音の変化を追いかけるのは疑問である。」だから現代のような発音は変化しない前に戻るべきだというような御意見ではないのであって,今後変化したからといって,書き方が改まっていくようなことでないことがいい,もう少し安定させる必要があるということをお考えになっているのだと,私は理解している。

渡辺(実)委員

 大体おっしゃる意味は分かったが,そうすると,例えば百年たつと,第二の歴史的仮名遣いになる。そういうようなことと考えてよいか。

林主査

 ある面では,ある年間はそういうことになるんじゃないだろうか,というのが私の理解であって,発言者の真意を私なりに理解すれば,そうであったということを申し上げておく。もし他の委員から後で補っていただければお願いしたいと思う。
 次に,「現代のフィーリングに合う」というのは,おっしゃった言葉をそのまま書いたので,これは私自身が御説明はしにくいことである。しかし,作文にしても何にしても,非常に自由にみんなが発表できるようになっているというようなことをお指しになったのかというふうに,私なりに理解している。
 もう一つ,「目安」の問題であるが,私自身「目安」という言葉に対してある感じを持っているので,委員会ではそれについて余り論議しなかった。というのは,従来「目安」というのは,やや緩い標準であるという理解でやってきたのではないか。標準というものを,非常に厳格な基準というふうに考えないで,緩い基準であるというふうに考えるということだったと思う。しかし,この緩い基準というものを仮名遣いについて当てはめた場合どういうことになるか,その適用の範囲なり厳格性なりは,なお考えなければならないものだと思っている。これについては皆様の御意見がどのように一致するかということについては,私はまだ見通しを持っていない。
 ただ,従来の漢字表の論議からして,余り制限的な束縛的なものにはしない方がいいのではないかという,その気分があることは確かだろうと思うけれども,それを仮名遣いという法則の上でどういうふうに考えたらいいか,これはやはり議論をしていただかなきゃならない問題ではないかと思う。標準を立てる以上は,どうでもいいんだというわけにはなかなかいかないんじゃないかと思う。
 というようなことで私の理解を申し上げてみて,委員の方々がどういうふうに御理解になったか,違っていたら,また教えていただきたいと思う。

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