国語施策・日本語教育

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次第・議事要録 意見交換2

斎賀委員

 今度は,そういった問題を取り上げてやるときのことであるが,少なくとも三つの物差しがあって,その三つの物差しはどれ一つとして偏ってはいけないのではないかと私は思っている。
 第1は,もちろん歴史性,伝統性ということである。その言葉が,昔から今までどのように変化し,変遷してきているかということをきちんと押さえる。例えば「見れる」・「見られる」に関しては,その物差しだけで行けば「見れる」はとんでもないということになる。
 ところが,もう一つ一般性とか広範性という物差しがあって,現代の日本人の中にそれがどこまで広がっているかというのがある。これだけで議論すれば,もちろん「見れる」でいいじゃないかという意見も出てくるわけである。
 もう一つ忘れてならないのは,ずっと先を見越して,将来の日本語としてどちらがより望ましいか,つまり合理性というか,体系性というか,そういう三つの物差しで十分議論をして,ある程度結論を出す。結論を出しても,どれが正しいというのではなくて,A,Bとあれば,なぜBの言い方が新しく出てくるのか,なぜBの言い方が広がってくるのかということをやはり国民の皆さんに明らかにしていけば,それでいいんじゃないかと思う。ちょっとまとまらないが,一応思い付きを申し上げた。

坂本会長

 ただいまの御発言も,正直言って,取り組むとなると大変難しい問題で,堂々巡りしかねないけれども,委員の一人として,大事な問題だろうとは感じた次第である。

杉本委員

 私も前回,欠席した一人なので,何か発言しなければならないわけだけれども,先ほど服部委員や他の委員が触れられた遠慮語について,お伺いしたい。
 私は19期から委員の末席を汚しているが,19期では取り立てて,この問題についての議論は行われなかったように記憶している。もっとも私は,欠席が多く,記億も定かでないので,確かなことは言えない。しかし,議事録などを読んでみても,どうもこの問題についての検討は,余り突っ込んではなされなかったように思う。
 最近,作家の筒井康隆氏が,いわゆる差別語問題に反発して断筆宣言をされた。私も作家の一人として筒井氏の言動に注目しているけれど,国語審議会では,遠慮語,差別語についてどうお考えか。審議の対象として取り上げるのか否か。
 このことは日本語の現在から将来にわたって,また,比較的表現が自由だったころの古典の読み方にもかかわる大きな問題である。しかし,国語審議会では取り上げるべき性質のものではなく,議題の対象として,なじまないということであれば,むろん了承するつもりでいる。取り上げるか否か,その是非についてお伺いしたい。

坂本会長

 私の答弁も含めて御発言いただいたので,ほっとしているところである。冗談はともかく杉本委員のような専門家のお立場から言えば,やはり大きな問題だという御指摘かと思うので,対応をないがしろにしないように考えながら,取り組んでいきたいと思っている次第である。

輿水委員

 前回も発言して,たくさん発言しすぎるかもしれないが,ただいまの問題に関連して,前回はちょっと遠慮したので,その遠慮語,差別語のことを一言お話ししたいと思う。
 私が前回遠慮して申し上げなかったのは,やはりこれにまともに取り組むのは大きな問題を抱えてしまうということもあるかと思ったのだが,実はただいま杉本委員がおっしゃったような書き言葉の問題以外に,私自身の経験で申すと――会長や山川委員などがいらっしゃるところではなはだ恐縮だが,私,1975年から14年間テレビとラジオの中国語講座を担当した時に,私の知識が足りないせいか,私の話す言葉によく問題が生じた。もちろん,ブランド名など,公共放送では困るということもあったけれども,差別語に対する過剰な反応としか言えないものがあるわけである。
 私も身体障害などに関するような言葉の使用については心得ているつもりであるが,例えば私が「継(まま)母」という言葉をリハーサルで使ったところ,それは困る,「義母」と言い換えろということがあって,「義母」は話し言葉ではないし,「義母」と「継母」では実体が違うというようなことでやり合ったり,身体の問題ではなく,小さな子供に対する愛称として「チビ」という訳語を使うと,「チビ」は困ると言う。
 そういうように,私にとっては過剰な反応としか考えられず,天の声みたいなものではなくて,台帳みたいな元帳を見せてくれというふうに一回言ったことがあるが,放送,出版,いろんなメディアがそれぞれ御経験の蓄積のようなものを持っていらっしゃる。恐らくそれは公開できないと思うし,そういったものをここへ持ち出すことはできないと思うけれども,私の場合のように,特に言葉を教える立場で言葉を制限されてはどうにもならない。外国語を日本語に移すときに同じニュアンスで移せないというようなことで主張したのだけれども,そういった制限は過剰と考えるべきかどうか。
 いろいろな考え方もあると思うが,現在の日本語としては,差別語に対する過剰な反応というものについては何か考えてしかるべきだと思うのだが,いかがか。

寺島委員

 差別語の問題は,実は私も今までいろいろやってきており,ニつ問題があると思う。一つは団体の圧力ということ,もう一つは各メディアの過剰な自主規制ということである。
 この問題はなかなか難しいし,以前,大変ひどい時期があって,私は放送局に「これではとても脚本なんか書けません。」と脚本家の団体を代表して行ったことがある。
 当時,私どもは放送作家組合だったけれども,NHKとか民放局の現場の方たちと我々のような団体,俳優さんの団体,その他の団体も呼んで議論した。差別語を使われたら,痛みを感じる人たちもいるわけだし,私も,個人的にいろんな勉強をした。
 例えば,視力障害者の団体の方が出ていらして,当時「座頭市」というのをやっていて,若い人たちが「どめくらと言うから不愉快だ。」と言うと,その会長さんは「いいじゃないか,健常者よりも目が見えない人の方が強いというのはすばらしいじゃないか。」とおっしゃる。私は思わず「どっちかに決めてください。」と言ったら,会長さんがぱっと私の方を向いて,「それはあなた方の問題でしょう。あなた方が使うべきだと思ったら使えばいいんです。我々が決める問題じゃありません。」と言われた。
 私はそうだと思って,それ以来,書く人間として,使うべきだと思ったら使うけれども,そのことの責任は負おうと。表現者というのは,それだけの責任を負わざるを得ないと思うから。その上で理不尽な文句があったら闘おうと思っている。
 今,御説明があった断筆宣言をなさった件に関しても,ある雑誌社がその問題についての特集号を出したところ,いろんな人の意見があったが,それはいろんな意見があり得るわけだし,なかなか国語審議会で意見を集約することはできないのではないか。あちらは団体としてはカがあるだろうけれども,痛みを感じる個人という弱い者の代表という立場があるから,国語審議会のように,後ろに文化庁とか文部省を背負っているようなところで意見の集約をするのは説得力がないだろうと私は思う。
 ただ,二つ目の問題の自主規制の方は,新聞協会さん,出版協会さん,放送局の方たちにお考えいただかないといけないところかと思う。ぎりぎりのところは表現者の問題だけれども,今おっしゃったように,自主規制が過大に広がっている部分は問題があると思う。

江藤委員

 私は恐らく二重の資格で出席しているんだろうと思う。一つは日本文芸家協会の理事という立場,一つは一人の文筆家あるいは研究者という立場だろうと思うが,お話がここへ来ると,どっちからも申し上げなければいけないような雰囲気になってくる。
 私は,この問題については,基本的に杉本委員や寺島委員がおっしゃったことと全く同じことを考えている。つまり,国語審議会がどうしても取り上げて結論を出さなければいけないような種類の問題であるかどうかは,ここで即断を避けたいと思う。
 とは言うものの,筒井康隆氏の断筆宣言というのは非常に際立った事件である。筒井氏はかつて文芸家協会員であったが,実は別件を根拠にして協会を脱退されたので,筒井氏から協会に対して,この件について何かやってくれという申出があったわけではない。ないのだけれども,文芸家協会としては,三浦理事長の下で,この件については現在調査中というか,どういう時期に何を言うべきか,言うべきでないかということについての研究を続けているところであり,公式にステートメントを発表するということはしていないが,決して無関心ではない。筒井康隆氏が協会員である,ないにかかわらず,同業者として無関心ではいられないという立場である。
 ここまでは文芸家協会理事の立場で申し上げたが,一個の研究者の立場から言えば,私,たまたま過去十数年来,自分の興味で研究してまいったことと,このこととが,実は深いところでは非常に関係があると考える。つまり,寺島委員が大変明確におっしゃったように,いろいろな団体があって,それがプレッシャーをかけるから,NHKにしても,民放にしても,各新聞社,通信社,マスコミが自主規制をするという問題である。
 この自主規制というのは,実は自己検閲に当たる。これを自己検閲問題として把握すると,単に差別語問題だけではなくて,実は第二次大戦後の日本のマスコミが一般にやってきたことにぴったり合うわけである。占領中に非常に厳格な検閲が行われたということは,例えばさっきも浅野委員がこの問題については興味があるとおっしゃって,声をかけてくださったのだが,マスコミに御関係の方なら,新聞,雑誌,放送を問わず皆さんよく御存じである。しかも,検閲が行われたという事実自体を隠さなければいけないという規制があったのである。
 そのほか,例えば東京裁判についての言及とか,占領中の連合国に対する批判等々も検閲の対象になっていた。私,実は1年ほどアメリカヘ参って,ワシントンのウィルソン研究所にいた時に一次資料に当たってこの事実を検索して,その結果を著書に書いた。その著書は,復刻されて文庫本になって最近出たばかりである。
 実は筒井氏の断筆宣言があった時に,マスコミの自主規制,自己検閲の現状が占領中の過去の問題にやっと合致したなと私は思った。そのことを私から申し上げるのは避けようと思って,じっと我慢していたのだが,3人の委員からこもごもに的確な御指摘をいただいたので,そして自分の著書が文庫本になって出た際でもあるので,これは無関係ではないぞと申し上げたくなった。自主規制することに49年間慣れてきた。強大な圧力団体も慣れてきたけれども,強大なマスコミも,公私を問わず,民間であろうが,公共的な団体であろうが,それでやってきた。これには証拠物件がたくさんある。私は自分の著書の基になったマテリアルは全部コピーしてアメリカから持ってきて,自分の書庫に収めているから,いつでもお見せすることができる。
 その中には,例えば検閲について,始末書を出している既に故人になった出版人のお名前等々も含まれている。検閲の対象になったものには,例えば吉川幸次郎先生の元曲に関する研究まである。つまり,これはいつ出すという届出の日に遅れたというだけで叱(しっ)責を食って,岩波書店はそれに対して釈明書を出している。その釈明書のコピーを私は持っている。それから,河盛好蔵先生が検閲のために提出された放送原稿のコピーも持っている。これらは当面の問題と同じ構造を持っており,その本質は無縁ではないということを痛感したので,記録にとどめる意味で,御報告と感想を申し述べさせていただいた。

加藤委員

 最初に,要らざることを申し上げながら,同時に今の問題に火を付けたようなところがあるが,江藤委員がおっしゃったことは,私,全く知らなかったこともあるし,大賛成である。
 ただ,筆者と編集者と読者,あるいは放送局のディレクタ-の方,その他,こういう関係の中で考えたときに,明らかにメディアの側の過度な自己防衛のようなものが今目立ち始めているけれども,同時に,これは日本独自の現象ではないということもここで心にとめておく必要があるかと思う。
 と申すのは,アメリカの場合であるが,「ハウスワイフ」という言葉は絶対にいけないのだそうである。何と言うのかと聞いたら,本当かどうか,「ドメスティック・エンジニア」と言う。なるほど,エンジニアか,そうしたら免許でもあるのかなと思うのだけれども,そう言うのである。それから飛行機のスチュワーデスを「スチュワーデス」と言うのはよくないとして,これは「キャビン・アテンダント」に統一された。だから,人と人との間に距離を置いて,できるだけ摩擦を起こさないようにというのは,文明史的に今あるんじゃないだろうか。
 そういう中で,自由な言論――言論の内容について,私は論争することは大いに結構なことだと思う。大歓迎である。実は江藤委員とも30年ぐらい前に大論争をしたことがあるのだが,用語について一々何か細かいことを言われて,匿名の電話で脅かされて,家族もおちおち眠れないというのは,やや具合が悪い。この審議会で,こういう言葉は使うべきではないとか,使うべきだとか,そういうことは議論すべきではないと私は思うけれども,こうした風潮に対する審議会の姿勢というか,哲学というか,そうしたものは今期御検討いただければと思う。

中西委員

 文芸家協会の話が出たが,もう一つ,文筆家には日本ペンクラブというのがある。その理事会に私も出ているので,そのことについて御報告をしたいと思う。
 最近,これが非常に問題になり,ついにペンクラブではその対策というか,検討の委員会を作ろうということが先月の理事会で出た。しかし,それは実際に何かを検討しようということよりは,研究会にしようというふうなところでコンセンサスが得られた。それが問題の根深さも思わせるし,複雑さも思わせるわけであるけれども,少なくともそういう研究会というものは,今の加藤委員のお話にも関連するけれども,是非ひとつ審議会の中でもやっていただいたらどうかと思う。
 つまり,実際的に,それがどういう効果があるとかないとかいうことの前に,どんなふうに自己規制があるのか,どういうふうな圧力があるのか,今までにどういう事例があったのか,そういうものをきちんと整理する。私,今圧力という言葉を使ってしまったけれども,そういうものに対して何かアゲンストするというのではなくて,全体の国民の言葉に関する問題をすくい上げて,愛情を持って解決していくということであれば,これはむしろ友好的な事柄であるわけだから,是非そういう姿勢で研究会を早急に発足させていただけたらということをお願いする。
 以上,ペンクラブの御報告と私の希望を申した。

浅野委員

 差別語の問題は,19期の第1回の運営委員会の時に私から提起して,会長以下運営委員の皆さんで長時間にわたって御議論いただいたことがある。結論的には,国語審議会で決めるべき問題ではないのではないかということで,私も納得したのだが,私としては,当時の風潮からいって,いわれなく怖がったり,逃げたりしているだけでは問題の解決にならないという意識があったからで,どこかで正面から取り上げてもらいたかったという気持ちもあった。
 いま,寺島委員がこの問題でシンポジウムをおやりになったということだが,私どもも関係団体の責任者をお呼びして,何回か話を聞いたことがある。その話を聞いてみると,問題の所在や本質がよく分かってくる。結局,形の上では「言葉狩り」ということでとらえられているけれど,それらの人のおっしゃりたいことは,心の問題,意識の問題ということなのだ。現象的には狩人と獲物みたいな対極で言われているが,差別を受けておられる方々の痛みという点から言うと,これは正に使う側の心の問題であり,寺島委員のおっしゃるように,責任の問題だというように受け止めている。
 この問題は,日本の文化ともかかわる重要な課題ではあるが,言葉についての検討をしても,その結果はまた言葉のレベルで誤解を生みやすいという難しさがあるのではないか。中西委員のおっしゃるような研究会というのも一案だが,その主体をどこにするのかが難しい。少なくとも,この審議会にはなじまないのではないだろうか。しかし,もし関係団体の責任者から話を聞くような機会を持つことができれば,非常に参考になるとは思う。
 話が長くなったが,結論的には江藤委員,加藤委員,寺島委員がおっしゃったことと同じである。

坂本会長

 ほかに御発言はないか。

片倉委員

 今の問題についてだが,これは大変微妙な問題であると思う。江藤委員がおっしゃったように,これが検閲に連なるということになると大変なことである。しかし,本審議会でこの議論をするのは,難しいのではないか。
 今,言葉と心という話が出たけれども,言葉と心は離しては考えられないわけで,言葉の中にやはり心が入ってしまう。言葉というものは,原子爆弾よりも怖い武器である。原子爆弾は物体を壊すだけだけれども,言葉は心まで壊してしまうことがある。杉本委員や寺島委員が何かお書きになって,たとえ一人でもそれによって不当に傷つく人がいるならば,それはやはり考えざるを得ないだろうと思う。
 ただし,それに対して国語審議会が,この言葉は使うべきではないというようなことは言えないだろうと思う。もし言えるとすれば,共通語としてはこういう言葉で表現すると言うところまでではないか。それ以外にはみ出して,どうしてもこういう言葉を使いたいということがあったら,それは個々の責任でやることとし,相手が何か言ってきたとしても,自分はこういう意味合いで使ったんだということを話し合えるような場ができることが望ましいのではないかと思う。

石井委員

 今,江藤委員からマスコミがこてんぱんにやられてしまったので,私,その一員として黙っていられないので,ちょっと申し上げる。
 戦後間もないころの占領軍に関する検閲の問題というのは,多分,私の知識では,天皇陛下がマッカーサー元帥と会見した時の写真の許可の問題から,そもそも始まっているんだろうと思うのだが,私はそのころは中学生だから,そのことについては今は何とも申し上げない。
 しかし,言葉の問題については,ここにマスコミの方もいっぱいいらっしゃるけれども,正に日夜悩まされている問題なのである。それが他人を傷つけていないかどうかの自己検閲もあることはある。今のお話のように,例えば人の足を踏んだときに,踏んだ人間は分からないが,踏まれた方は一生痛みを忘れないという例えがある。それと似たようなことで,言葉に傷ついた人の気持ちというのは,私どもはなかなかおもんぱかることができないという悩みがある。
 今の問題を言葉一つ一つ,例えば「片手落ち」とか,「めくらめっぽう」とか,それがいいとか悪いとか,文脈上これは許される,これは許されないというような問題に矮(わい)小化されていいものではなく,それは国語審議会がやるべきことではないと思う。
 もう一つ,相手の心や意識の問題,精神の問題になると,それを国語審議会がマルとかバツで規制することができるのかどうか。
 そういうことで,私,19期からここにお邪魔しているけれども,実はこの問題を取り上げることについては悲観的なのである。

杉本委員

 心,意識,精神の問題は無論のことで,痛みを抱えている方々を,更に傷つけるなどということでは,まったくない。そういう点は,もはや初めからクリアされているという前提の下に,次の段階での審議が必要か不必要かを,伺いたかったわけだが,会長はじめ諸委員の御発言を総合した結果,この問題は,やはり国語審議会では取り上げる議題ではないということを理解した。私が余計なことを申し上げ,議事の進行を滞らせたことをおわびしたい。

坂本会長

 この問題は,きょうのところはこれで一応打ち止めにさせていただき,議事進行をお許しいただきたいと思う。

山川委員

 もう一言,先ほど寺島委員が大変大切なことをおっしゃったと思うのだけれども,相手方との対応と,もう一つはそれを出すか出さないかという編集権の問題である。私は今NHKに籍を置いているが,NHKにも二つの立場があって,私どもはむしろ被害者の方で,それは言ってはいかん,これは言ってはいかん,と言われている一人である。
 それをどうするかという具体的な策はなかなかなく,先ほどの杉本委員の取り下げるという御判断はそれはそれと思うけれども,マスコミの編集者の一方的な自主規制が過剰ということは,確かに言える。変な敵対心はいけないけれども,例えば京都の12月の顔見世で「ども又」という芝居をやっていた。吃(ども)りの又平が絵師を目指し,苦労を克服して大成する芝居だが,実はこれが昼夜通して一番すばらしい芝居だった。しかし,NHKは,吃りということで取り上げない。ところが,興行の方は京都で25日間やっても何ともないのである。そんなことは私はおかしいなと思う。
 「東海道四谷怪談」という南北の名作があって,あそこにやたら「気違い」とか「非人」というセリフが出てくるけれども,歌舞伎座ではやっている。だがNHKでは,そこをカットして出す。そういう姿勢が,これをどんどんマイナーにしていってしまうのではないか。私は身内であるけれども,そのことをあえてここで一言申し上げる。言葉と愛情というのは一つのものであって,言葉尻(じり)だけをとらえて避けて通るのは愛ではない。その辺のところの編集者の判断が大事になるかと思う。

坂本会長

 「盲長屋」というのはやれるのか。

山川委員

 あれは「加賀繭」と言い換えていた。しかし,江戸時代にあった長屋の名前という歴史的事実である。不思議な世界である。

坂本会長

 不思議な世界の一人として,きょうのところはひとつ御寛容をお願いしたい。大変貴重な御意見をたくさんいただき,責任者の一人としてうれしく思う次第である。
 次の議事進行をお許しいただいて,当面の日程と,問題を整理して具体的に検討するための委員会を設置することについては,大筋のところで御了解をいただけたと思うので,次回の総会では,委員会の設置について具体的にお諮りするとともに,これらの委員会で取り上げるべき問題に関して更に意見交換をして,共通理解を深めていただくことになるかと思う。
 委員会への所属等については,事務局とも相談した上で,運営委員会にお諮りして決めさせていただきたいと思うが,委員各位の中で,特に甲,乙いずれかの委員会に参加の御希望があれば,今月中に事務局あてに御連絡いただければ幸いである。
 ここで次回の総会の日時について事務局から申し上げたいと思う。

韮澤国語課長

 次の第3回の総会であるが,運営委員会の先生方とも御相談して,3月10日の木曜日,午後2時から4時まででお願いしたいと思っている。会場は未定である。御案内状は,追って御送付申し上げる。

坂本会長

 次回の総会については,ただいまのような日取りで御予定をお願いしたい。いろいろお差し支えの向きもあろうかと思うが,よろしくお願いする。正式の開催通知は,会場が決まり次第,事務局から差し上げるということである。
 本日の総会はこれで閉会ということで御了解いただきたい。

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