国語施策・日本語教育

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次第・議事要録 協議1

坂本会長

 それでは,これから協議に入りたいと思うが,まずただいまの第1,第2両委員会の御報告について,御質問があれば伺わせていただきたいと思う。御質問はないか。
 多様にわたっているから,どこをどう質問していいかというような感じもなくはないけれども,そうおっしゃらずに,御質問の場合は挙手をしていただくと有り難いのだがいかがか。

江藤委員

 第2委員会の御論議の御説明を伺っていて,「国際化」という現象の定義が,大変きれい過ぎるんじゃないか,きれい事過ぎるのではないかという感じを強く持った。
 例えば,1ぺージのア)だが,「国際化とは他国との交流を通して,両者が相互に,より一般的・普遍的な性格を有するものに変化していく過程という概念である」。これがまず非常に分かりにくい。一般的・普遍的な性格を有するものに,国際化すると,両者が自然に変わっていくのだろうか。そこがよく分からない。一般的・普遍的なものに変化していくということは,多様なものが一つになるというに聞こえるけれども,そのすぐ下に「また,国際的であるとは国際化の進展の結果,自己と異質な他者をその価値において,十分に尊重し認めるという多元的な価値観を有することである。」と逆のことがある。一般的・普遍的なものと多元的な価値観の容認というものが併存しているというのはどういうことなのか。国際化というのは本当にそういうものなんだろうか。
 日本語が日本人だけの言語ではなくなると,一般性・普遍性を認められて,つまり日本語が出世するんだろうか。これがよく分からない。
 そのほか,ひっかかるところがいろいろあって,2ぺージ目の下の方に「異なった言語・文化を持つ相手に対して尊敬の念と理解を持ちつつ,自国語としての日本語の大切さを一層自覚する方向が求められている」と書いてあるけれども,つまり異質な言語と頻繁に接触することが国際化であるならば,この異質な言語間の関係というものは,必ず予定調和的なものであるという保証は何一つないわけであって,異質な言語間のコンフリクトが恒常的に生じると考えるのが国際化であるというふうに見ることもできるわけである。見ることもできるどころじゃなくて,正に見られるわけで,例えばこれは圧倒的な力を持った言語――圧倒的な力を持った言語というのは,政治的に,経済的に,社会的にという意味だが,それに隣接するそれよりは弱い言語との間にはしょっちゅう起こっていることである。
 そのようなことを考えると,5ぺージ目のイギリスとフランスの言語政策の違い――イギリス語とアメリカ語というのはかなり違う言語である。同じ言語だけれども,同じ言語としてはかなり性質の違う言葉だと私は思っているが,それ以外にピジンイングリッシュとか,いろんなものがあるから,そのことを言っておられるのだろうと思うのだが,これはイギリス人が寛容な言語政策をとったから多様な英語が生まれたのではなくて,アメリカはイギリスに対して反逆して,独立戦争を起こして別の国家を立てて,自己のアイデンティティーを強烈に主張して,帰属主義的なものを排除して,国を立てたから,今日に至る200年以上の時代を閲(けみ)して現在のアメリカンイングリッシュというものができてきた。
 それに対してイギリス人は,従来からの英語というものを少しも変えずに本国では話している。そして,それが世界中に普及したのは,ほかでもない植民地政策のためであって,英国は19世紀に版図を非常に拡大して,七つの海に日が落ちることがないというぐらいの大版図を確立した。その諸地域において,例えばジャマイカというところは,不思議な,魅力的な英語をしゃべる。ハリー・ベラフォンテという人の歌を聞いていると,英語なんだけれども,英語かスペイン語か分からないような,妙な歌を歌う。それもまた英語であるというふうな変種が生まれてきた。
 この変種はどうして生まれたかというと,例えばジャマイカの現地の人々は,英語と自分たちが思っているものでコミュニケートしなければ,例えばバナナボートを運ぶことができない。バナナを運んで毎日の生計を立てることができないから,そうなってきたのであって,これは言語政策の寛容さということとは何の関係もないことだと思う。
 一方,フランスが純粋主義を採ってきたというのは,もちろん,ここでも御論議になったヴィレール・コトレの勅令があったり,アカデミーフランセーズがフランス語の純化を一貫した国是として,政治体制が王国から共和国に変わり,共和国が5次にわたる変遷を経ても,なおアカデミーフランセーズの役割が変わっていないというような根本的な国家政策があることが一つ。
 それから,イギリスに比べて,フランスの植民政策というのが地域的により限定されていた。アフリカ,インドの小さな拠点及びインドシナ半島というようなところに限定されていたために,純粋主義が生まれたのであると考える方が自然ではないかと思う。
 それでは,現に寛容であるかといえば,英語圏で少しでも生活したことのある方ならどなたでも御存じなことであって,寛容では全然ないわけである。つまり,どんな英語をしゃべっても,みんなにこにこ笑ってというか,必要に応じて聞いているけれども,例えばエデュケーティッド・イングリッシュをどれだけ正確にしゃべる外国人であるか,旧植民地の人であるか,マレーシア,シンガポールというようなところの人で,オックスフォードとかケンブリッジに行ってもちゃんとしゃべれない人がいるし,行ったらすばらしい英語になる人もいる。そうすると,すばらしい英語をしゃべる人の方が,人格,人品は上だというふうに普通に社会的に評価される。これは差異を非常に厳密に認めていくために,状況としての多様性というものがあるのが当然だというに見ているのである。
 つまり,言語政策を寛容にしていって,多くてもたかだか300万,日本の人口の3%以下,100万とすれば1%以下の外国人のために,日本語をこれから変えよう,変えなければいけないかというような議論が行われるのだったら,私は恐るべきことだと思う。そのような議論で今後ずっと「国際化」ということが論じられるのであれば,国語審議会として,私はこの論議についていけないという感じを持ったので,あるいは私が大変誤解しているのかもしれないけれども,そのような問題点を感じたので,一言申し述べさせていただいた。

坂本会長

 今の江藤委員の御発言は,御質問と同時に,後半には御意見も入っているかと思うので,そういう意味ではほかの委員の先生方も,御質問並びに御意見で結構であるから,どうぞ御発言をいただきたい。
 ただいまの件について,第2委員会から何かあるか。

水谷(第2委員会)主査

 大変有り難い御指摘をいただいた。
 一つは,この論議自体がまだ一定の段階にあって,十分詰め込んだものではないうことは事実である。
 江藤委員のお話の中に,一つは一般化した枠を作るなという御指摘があったかと思うが,もう少し現実的な視点を立てて,例えば国際化の問題を見るべきであると,こう考えてよろしいか。
 もう一つは,価値観を偏った形で持たないような迫り方をせよと私は受けとめたのだが,その点に関しては,これからも第2委員会の中でこれを議論して深めていく中で,慎重に目標に近づいていきたいと思っている。
 ただ,最後におっしゃったことで「国際化」というものの認識の仕方については,もし時間が許せばほかの先生方からもたくさんの御意見を伺っておいて,私どもの議論の手掛かりにさせていただけたらと思うがいかがか。

坂本会長

 ただいまのお二方のやりとりをお聞きになって,なおかつ御発言,御意見があったらせっかくの機会であるから,どうぞ御遠慮なしに御発言をいただきたいと思う。

今泉委員

 日本語を外国人に教えるという場合のこと,特に,第2委員会の6ぺージに関係する一番下辺りのことについて。
 ケンブリッジ大学の日本研究科というところにバウリングさんという教授がおられるが,先日その方に会って,こんなようなことを話した。先生は日本語を教える立場,学生は学ぶ立場にあるわけだが,その際,易しいというか,学びやすいような日本語を作るということはほとんど意味がない,日本人がいい日本語をしゃべり書いて,我々はそれを学べばいいんで,特別なものを作っても,そんなものは軽く見られてしまう,学生はそんなものは学ぼうとしないだろう,そんなようなことを言っておられた。
 それと,本筋からちょっと外れることであるけれども,第1,第2委員会の議事要旨というものをお送りいただいているが,読んでみて,一つは,講師の方を呼んでおられたときのものだが,講師の方は参考資料を配布されて,それで話されている。その参考資料を見ないと理解できない部分が多少あって,何か軽く説明を加えていただければ理解できるんじゃないかということがあった。
 もう一つ,更に細かいことだが,横書きの中で読点が「,」になっているが,横書きの場合はこういうのが正式のスタイルなのか。こういうのを正しいスタイルとみなすのなら,ワープロの縦を横にしたときに自然に読点が「,」に変わってくれるような機能がないと困るし,私はどうも普通の日本式の「、」の方がなじみやすいんじゃないかなとかねがね思っている。

水谷(第2委員会)主査

 今のお話の中の最初の問題は,第2委員会の報告との関連がある。
 外国人が日本語を学ぶ場合の目的というのは様々であるが,ただ,一般的に言えることは到達目標,最終的な目標として,低いものとか初歩的なもので賄うんだという発想は,実は教え手の方にも余りない。日本語を教えている人たちも,ある祈りを持って,日本人から尊敬されるような言葉,日本人と日本語でコミュニケーションをしている中で邪魔にならない言葉を目標にする。そういう願いは大体持っているようである。
 分かりやすい言葉ということが問題になるのは,到達すべき目標の方ではなく――ということは,日本人が使っている日本語も変化させるとか,そういうことにかかわってきてしまうが,そういうことではなくて,学習の過程で,例えば1週間勉強した,2週間勉強した,そこで身に付けられる言葉はより易しい方がいいだろう。それである体系を持って学んでいれば使えるという可能性もある。そういう観点からの言い方が多く行われていて,外国へ伝わっている。整理された,あるいは分かりやすい日本語をというときに,どうも誤解,摩擦が起こっているような感じがする。日本語自体が,だれが聞いても理解しやすい,分かりやすい日本語になるべきであるということの問題と学習過程の中で分かりやすさを追求するということは,別個のことだと思っている。
 その辺は,将来これを出していくときには気を付けて,誤解が生じないような記述になるよう努力すべきだということを今教わった。

韮澤国語課長

 もう一つの,今泉委員から御指摘があった細かい点であるが,これから議事録をお送りするときに,資料等については,必要な参考資料等も含めてお送りするようにいたしたいと思う。
 もう一点の横書きの「,」の件であるが,実は「公用文作成の要領」というのがある。これは総理府等で決めているものであるが,昭和27年に決まったもので,今でも引き継いでおり,それでは横書きについては「,」と「。」を使うというのが原則となっている。実は私どもも慣れないときがあるのだが,正式には公用文では横書きに「,」を使っている。
 一般の社会では,例えば新聞等については,本文等は縦書きであるが写真の説明には横書きがあり,そこでは「、」を使っているのが多い。雑誌については,横書きの場合は「,」があったり「、」があったり,様々である。

加藤委員

 今,課長からお話があって理解できた部分もあるけれども,例えば日本語のワープロの中で,ワープロソフトとして普及率が一番高い「一太郎」といったようなソフトでは,この種類の「,」は出てこない。横書きにしても,縦書きにしてもそうなのだが,半角文字でなければ出てこないと思う。
 それも含めて,前回も申し上げたけれども,これはオーソグラフィーの問題にかかわってくる。「、」の使い方は正書法の問題なので,何遍も繰り返すようだが,前回も申し上げたように,ここでの発言の議事録自体が日本語のモデルになってもらわないと困ると私は思う。審議会の文章が,国語課並びに文化庁全体の日本語のモデルになっていただかないと,大変具合が悪いことだなと。細かいことのようだが,これは後々残る文章であるから,その点は御留意いただきたいなということである。
 それから,先ほど江藤委員から出された問題と関連するけれども,皆様の中で御覧になった方がいらっしゃるかと思うが,つい2週間ほど前,NHKテレビで大変興味のあるというか,悲劇的なストーリーが放送された。それはベトナムから来た留学生が日本語学校に通って,漢字も3,000字覚えた。そして大きな夢を持ってある企業に就職したのだけれども,就職先へ行ってみると,「おい,こら,ばか,気を付けろ。」とどなられて,結局,ノイローゼになって,その人は自殺したのである。
 ということは,結局のところ,正しい日本語を学んだ人が,会社の現場の中での余りよろしくない日本語によって傷つけられたということを意味するわけなので,外国人に美しい日本語を教えて,日本人が汚い日本語を使って,その美しい言葉を覚えた人が自殺をするというようなことは大変象徴的なことだったと思う。
 以下,散発的になるけれども,もう一つ,第2委員会の論議の概要の2ページの一番下,ローマ字表記の場合の姓名の順序のことについて。例えば「YAMADA ICHIRO」さんが「ICHIRO YAMADA」というふうに西洋風に合わせることが多いわけである。
 外国旅行をするたびに,入国力ードをどこでも全部書くけれども,入国カード・出国カードに関する限り,どの国も例外なく姓が先である。名を先にする国であっても,サインするときには,名の方はイニシアルで,姓の方はフルに書く。「YAMADA ICHIRO」さんは「I,YAMADA」と書くだろうし,「ROBERT SMITH」さんは「R.SMITH」と書くわけなんで,姓が先に来るのがむしろ普通であって,名が先に来る方が例外的と言ったらおかしいけれども,ちょっと不規則的な感じがした。
 以上,感想を含めて3点ほど申し上げた。

山川委員

 国際化の問題が出たけれども,「国際人」というような言葉もよく言われる。どなたかが,「国際人」という人種があるわけではなく,外国に,あるいは国際的に通用する日本人を作るのが「国際人」だということをおっしゃったが,正に至言だと思う。その肝心の日本人の日本語というものが非常にゆれていて,「国際化」と一言叫ぶたびに一つずつ伝統的ないいものを日本が失っているような,そういう風潮さえ今ある。失うものが非常に多い中で,日本語がしっかりした理念なり,考え方なり,基準と言うと語弊があるけれども,その辺を持っていないと困るわけである。
 例えば,「甲子園の大舞台(だいぶたい)」はいけない,「大舞台(おおぶたい)」だと言っても,なぜいけないんだと反論されると非常に困るし,「大地震(おおじしん)」か「大地震(だいじしん)」かと言っても,それも説明のしようがない。私もいろいろ考えて,下が音だと上は音でいくのかなと考えてみると,それも当てはまらない。「大歌舞伎(おおかぶき)」があり,「大幹部(おおかんぶ)」だと言う,そういうゆれの中に私たちは今実際に生きているわけである。
 「国際化」と言って私たちは何を示したらいいのか,これが正しい日本語ですよと言えないのである。その辺のところは,たとえ細かいことでも,昨今問題になっている放送用語を含めて,私たちは国語審議会で話し合えたらいいなというに思う。そんな意見を持っている。

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