国語施策・日本語教育

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次第・議事要録 協議2

石井委員

 今の山川委員の御意見に全く賛成である。先ほどの江藤委員や水谷主査の御説明の中にもあったけれども,「国際化」という言葉であるが,私は「国際化」という言葉ぐらいと言うと変だけれども,この言葉の持つ怪しさと言うか,うろんさと言うか,それを感じてならない。
 特に,言語生活とか言語現象における国際化とは一体何なのか。今のお話にもあったように,「国際人」と言うと,通俗的に言うと,アルマーニの背広を着て,アタッシュケースを持って,横文字をしゃべって,空港から空港へ飛び歩いているような,それがインターナショナルな国際人というような感じがあるけれども,そうではなくて,最もナショナルな人間こそインターナショナルな人間じゃなかろうか。
 だから,この国語審議会でも,第2委員会でも,「国際化」という言葉を使うときには,「国際化」というのは,必ずしも日本的なもの,日本語の美しさや独特なもの,固有なものをなくすことではないというような,ただし書きのようなものを,一言入れておいたら安全じゃないだろうかなというふうに思った。

吉村委員

 さっき江藤委員が言われたことで,言葉の裏にあるパワー・ポリティックスの現実というか,そういう点は私は全く賛成であるが,日本がアジアの小さな島国であったときに,日本語に関心を持つ外国人と言えば,一様に,日本の芸術文化,かなり異質な芸術文化に関心がある好事家と言っては何だけれども,そういう方たちが深く日本語に興味を持ち,愛したんだろうと思う。
 今,これだけ日本語が国際的に学ばれようとするのは,もちろん日本がこれだけ経済大国になったからで,日本語を学ぶことによって働きロにありつけるということが大きな背景にあるんじゃないかと思う。
 そういうプラグマティックな日本語ブームというのは,私は健全なことではないかと思うが,日本が今後とも経済力が衰えず,なおかつ文化的な魅力を保ち続けていれば,別に日本語を変えなくても,外国人に迎合しなくても,正統的な日本語に対して外国人がむしろ寄ってくるということは確かだろうと思う。
 ただ,我々がふだんしゃべっている日本語などは,さっき山川委員が言われたけれども,かなりいい加減で,乱れている。主語・述語なんかめちゃめちゃだったりする日本語を我々はふだんよくしゃべっており,そういう論理性を欠く日本語というのは,外国人は非常になじみづらいだろうと思う。
 我々も,例えばアメリカ人同士が仲間内でしゃべっている英語をそばで聞いていると本当に分からないし,彼らも我々にしゃべるときは,主語・述語なんかをはっきりしてしゃべるだろうと思う。
 それから,私,前にこの審議会でちょっとお話をしたことがあったのだが,書く言葉でも,句読点の打ち方とか,そういうものはある程度普遍的なスタンダードなものがないと,外国人が,論理的というか,科学的に日本語を学ぼうとするときに非常に困るんではないかと思う。
 だから,日本語を別に外国人のために変える必要はないと思うけれども,我々がふだんしゃべっているような言葉も,より美しく,より論理的にしていくというのは,これから日本語がいわゆる国際化の大海の中に出ていく上で必要なのではないかと私は思う。

江藤委員

 さっき加藤委員がおっしゃったベトナムの青年のお話は,本当にお気の毒な話であって,もっと上品な人が町工場か何かにいて,礼節正しく論理的な日本語を話せば,そんなひどいことにならなかったのかもしれない。けれども,明治以来アメリカに移民した日本人は,初めはろくろく英語もしゃべれず,一生大してしゃべれないで,地をはうような苦労をして息子さんを上の学校にやって,第二次大戦のときにはその人たちがやっと兵隊に採用されて,日本に攻めてきて進駐軍になったりした。
 だから,そういう不幸は不幸であるけれども,世界の至るところでいろんな言語間に起こっていることであって,日本人がみんな紳士になることは到底できるわけがない。「コンチクショー」「バカヤロウ」「ウスノロ」,これが言語というものの本質であるということも,我々は忘れてはいけないと思う。
 例えば,シェイクスピアでもそうだけれども,ラブレーというのは罵(ば)声と差別語だけでもって文学を作るということを平気でやるわけで,シェイクスピアの芝居の中から,そういうoathというか,swearする言葉を取ってしまったら,昔の高等女学校のお作法の教室の芝居みたいになってしまって,全然おもしろくも何ともない。山川委員がよく御存じの歌舞伎の狂言――今はいろいろ問題があるのだろうけれども,実はそれが人生の現実なんで,お気の毒だけれども,ちょっと神経が細過ぎたというか,そういうところがあったんだろう。

江藤委員

 多くのハンデキャップされた状況にいる人たちは,やっぱり,どっこい生きていくぞというものを持っているわけで,私,一,ニの例を申し上げたいと思う。
 一つは,まだソ連が存在したときに,1970年であったが,私は日本文芸家協会の使節団の一人として,ソ連作家同盟の招待でモスクワ,キエフ,レニングラードに参った。そのときに付いてくれた女性の通訳は,まだ若いきれいなお嬢さんだったけれども,ユダヤ人であった。
 それで,「ポーランドにいた自分の両親はロシアに逃げてきた。ユダヤ人というのは,常に,どこでどんな迫害が始まるか分からない。何を理由にして始まるか分からないから,自分の一族はみんな多数言語を身に付ける。それも完全に身に付けることを強いられている。だから自分はロシア語ができる,日本語ができる,英語とフランス語ができる。しかし,それだけしかできない。非常にまだ少ない方である。というのは,あしたどこかへ逃げていって,その日からそこで生活しなければならないというときに,少しでも専門的教育を受けて多言語を学んでいないと,生存を続けられない。だから私は,ひょっとすると日本へ逃げるかもしれないということを念頭に置いて日本語を習ったんだ。」という告白を,周りに党の監視員やほかの日本人もいないようなところで英語でするのである。
 それは非常に感動的な体験で,言葉というのはそういうものだと私はそのときに深く教えられた気持ちがした。
 私は過去20年ぐらい,大抵アメリカの一流大学から来る博士課程の日本文学研究の学生を毎年少なくとも一人,多いときには同時に二人ぐらい自分の研究室に持っているが,この中にもユダヤ人がいて,やはり同じことである。
 これは男子の学生で,今はアメリカの有名大学の助教授になっているけれども,お父さんの代にヨーロッパから逃げてきたときに,アメリカに来たかったけれども,入国査証が取れなかったので,キューバでまず一段落して,キューバ国籍を取ってアメリカヘ来た。しかし,自分のおばあさんから聞かされていることは,どこの国でも,アメリカでさえも,ポグロムというのはユダヤ人虐殺のことだけれども,いつポグロムが始まるか分からない。絶対に人を信用してはいけないと言われて育った。だから,とにかく言葉を磨け,言葉さえできれば逃げられる。それで我々は何千年も生きてきた。そのことを瞬時たりとも忘れるなと言われたということを日本語の作文に書いた。
 外国人というのは,しゃべる能力,易しい日本語を読む能力というのは,割合早く身に付ける。これは恐らく日本語教育に当たっておられる先生方の御努力の結果だと思う。しかし,書く能力は概して低いのである。したがって,私のところへ来る学生は超一流の学生だと思っているけれども,まず書かせて,人によって非常に学問的なことだけしか書かない人もいるけれども,そういう心情告白をするのもいて,たまたまその学生はそういうことを書いた。
 いずれにおいても,言語というものが正にサバイバルに,要するに,ホロコーストからの脱出につながっているということである。そこまで行かないと,言葉というのは本当に考えたことにならないんじゃないかという気持ちを持ったものだから,ちょっと御紹介申し上げた。

坂本会長

 怖い話で,私なんか発言できなくなるけれども,どうぞ。

加藤委員

 今,江藤委員から御指摘があったので,簡単に申し上げておくけれども,外国人でも,それがもしイギリス人だのフランス人だったら,「このグズ,ばかやろう。」とは言わなかったと思う。そこには,「国際化」とか何とか言いながら,その人の国籍とか民族とかに対して言われなき――言われなきという言い方をしてはよくないんだけれども,我々の心の中に,一種の蔑視というか,そういうものがあるんじゃなかろうか。そういうのでベトナムの例を挙げたわけである。
 それから,「国際化」のお話が先ほどから出ており,私も第2委員会に入っているけれども,「国際化」という言葉は,ひょっとして,異文化間交流の進展といったような言い方の方が正しいんじゃなかろうか。なぜならば,言語というのは国家と密着していない。
 例えば,インドを考えてみると,インドという国の中には大体200ぐらいの言語があるだろうか。言語というのは文化の問題であって,国家の問題ではない。ちなみに,200ある言語の中で,どれを公用語にするかというので,インド議会でさんざんもめて,結局18まで減らした。それを一昨年は13まで減らしたが,またある民族から圧力がかかって,去年14に増えた。したがって,インドにいらした方は御存じのように,インドの紙幣というのは14言語で書かれているから,文字の羅列ばっかりで数字が見えなくなってしまう。
 それは冗談だけれども,言葉に関する限り,文化の問題・民族の問題と国の問題とは区別して,異文化間接触なのか,交流なのか,分からないけれども,その進展というふうにした方が,国語審議会としてはおさまりが良さそうな気がする。外務省なら「国際」であろうが,言語はやっぱり文化の問題だと思う。

坂本会長

 確かに,おっしゃるように,「国際化」というのは考えようによっては嫌な言葉になる心配はあるだろう。
 国語審議会としては,大変核心をおつきになるような御発言が多かったかと思う。ほかにどうぞ。

杉本委員

 私は意見というのではなくて,怖くなってしまったものだから,第2委員会の方にこの次の総会のときにでもお答えをいただきたいと思うのだが,ワープロの問題の2ぺージ目である。
 ここに「涜」という字が書いてある。これは恐らく冒の「」であろうし,「」という字は品川の「品」を中に入れずに「鴎」にする。これは大分前にこうなっているし,数字で言うと9番目に当たるところでは,「」は「躯」に,「頚」という字のところはやはり「」ではなくて,この略字になっていて,昭和50年の医学用語辞典でこうなったということである。
 この上にある文字,例えば「涜」もそうだし,確かに大廈高楼というような場合は,「楼」を書くということは私どももやっているけれども,「窶れる」を「」と書かれるということ,あるいは嫌な引例だけれども,「」と書いて痔瘻の「瘻」だと言われると大変な違和感を感じるのである。やはり「瘻」と書いて欲しい感じがする。
 確かに,冒の「」という字を「涜」にするということは,間違いではない。私なども「讀賣新聞御中」という封筒を書くときには,略字の「読」を書くけれども,「冒涜」を「ボウトク」と読めと言われたときにはぞっとするわけである。
 しかし,これは作家の感覚的な問題で,私が年をとって,もうじき死んでしまえば,それで終わることかもしれないけれども,ワープロというものがどんどんすごい勢いで原稿書きや何かに普及していく現在,このワープロで間違いはないじゃないか,あんただって讀賣新聞は「読売」と書いている,そこにさんずいが付けば冒涜の「涜」で,そう読んでくれよという怖いようなことが,ワープロの普及と同時にぐんぐん大きくなって,私どもは中国の略体漢字を一生懸命覚えるように,ワープロの勢いというものに押されて,「冒涜」と書いて,どうしても「ボウトク」と読めというような奇妙な新漢字をどんどんこれから覚えなければならなくなってくる状況なのか。
 もちろん,法的規制などということはとてもできないし,何も誤りを言っているわけではないから,感覚の問題だと言われればおしまいだけれども,この辺で歯止めをかけていただくというようなことはもはや本当の少数意見なのだろうか。それとも,それも50年配以上であろうけれども,多くの方が感じている違和感なのだろうか。せっかく第2委員会でこれが取り上げてあるから,歯止めといった表現でも,この辺で何か食い止めていただけるかどうか。感覚の問題だけれども,本当にぞっとしたものだから,ちょっと言わせていただいた。

坂本会長

 ワープロの問題は,きょうは三次委員が御出席になっていないから,専門的な御発言がないかもしれないけれども,やはりーつの大きなテーマだというふうには認識すべきだろうと思う。

水谷(第2委員会)主査

 先ほども申したが,第2委員会のワーキング・グループは,今ヒアリングを続けていて,今後も継続され,それから審議を間もなく開始するはずだが,議論の過程の中で,その議論をする土台の情報として,例えばどれぐらいの人たち――今は,杉本委員がおっしゃったように,これを守るべきだという考えの人もおられ,そうでない人もいるということは分かってきているのだが,どれぐらいの割合であるかとか,方向性としてどっちを採っていくのがいいのかということについては,今のところ,まだ議論はしていない。
 多分,議論そのものだけではなく,それに伴って得られた情報は,きょうは欠席なさっているが,石綿委員がワーキング・グループの座長をしてくださっているので,次回の会合では何らかの御報告ができるのではないかなと思う。

坂本会長

 予定の時間が迫ってきたので,きょうは,第1,第2両委員会で活発な御議論が行われた状況を伺って,課題となっている検討事項等について,いろいろな問題点や考え方があることがだんだん明らかになったかと思う。
 今後は,両委員会におかれて,本日の協議の中で出された御意見や御注文も十分に参考にしながら,更に具体的な審議を進めていただけるものと考える。両委員会所属の先生方には,今後ともお骨折りをいただくことになると思うが,よろしくお願いする。
 なお,本日の御報告に関連して,更に御意見やお気付きのことなどがあり得るかと思うが,その場合は事務局あてに書面の形でも,あるいは電話やファックスでも結構であるから,御提出いただければ幸いである。両委員会の今後の審議の参考にしていただけると思う。
 また,委員会の開催についての通知は,所属外の先生方にも差し上げているので,御多用中とは思うが,御遠慮なく御出席いただきたいと思う。
 それから,次回の総会の予定等については,ここで事務局から申し上げることになっている。

韮澤国語課長

 次回の第6回の総会については,来年の2月ごろということで予定しているが,日取りについてはまだ固まっていないので,決まり次第,御連絡申し上げる。

坂本会長

 それでは,きょうはこれで総会を閉会する。

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