国語施策・日本語教育

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I 言葉遣いに関すること

1 基本的な認識

(1) 平明,的確で,美しく,豊かな言葉の重要性

 国語はその時代,その時代に生きる人々の日々の言語生活の総体である。それは永い歴史の中で,脈々と引き継がれて現在の我が国の文化の基礎を成し,さらに次代へと伝えられていく。
 国語審議会は,昭和47年,「国語の教育の振興について」を建議し,「国語が平明で,的確で,美しく,豊かであることを望み,この際,国民全体が国語に対する意識を高め,国語を大切にする精神を養うことが極めて重要である」と掲げた。以来,国語審議会は,「平明,的確で,美しく,豊かな言葉」を言葉遣い全体の理想的なイメージとして求めることを基本姿勢とし,これに基づいて様々な施策が行われてきたところである。
 現代社会の特色として,価値観の多様化という傾向や,情報化,国際化の進展に伴う様々な問題が指摘されているが,このような社会状況の変化は,言葉の在り方や人間関係の在り方にも少なからぬ影響を及ぼしている。すなわち,言葉の変化のうち語彙(い)に関するものの大部分は,新語,流行語や,外来語,外国語,専門用語等の増加であり,また,そのことが語法等の変化とあいまって世代間の言葉の差を広げる結果ともなっている。 言葉が伝達手段として十分に機能するには,相手や場面に適切でなければならず,不適切である場合には伝達機能ばかりか人間関係の阻害にさえつながりかねない。実際,主として若い世代においては,言葉を適切に用いて人間関係を築き維持していくカが衰えており,ともすれば言葉の本質を見失いさえする傾向があるとの指摘もある。 
 世間一般では今の国語の状況を「言葉の乱れ」ととらえることが多く,世論調査(平成4年総理府,同7年文化庁) においても「今の言葉は乱れている」と考えている人はおおむね7割を超えた。「言葉の乱れ」は,ある価値判断を伴ったとらえ方である。一人一人が自らの考える国語のあるべき姿に照らせば,そこから逸脱するものを「乱れ」ととることも率直な態度であり,言葉に対する関心の高さゆえのことと思われる。
 ただ,国語審議会としては,言語の変化を客観的にとらえ,変化の過程で,ある語について新たに生じた別語形が従来の語形と並存する状態については,これを基本的には言葉の「ゆれ」としてとらえた上で,現時点でのより適正な言葉遣いを考えていきたいと考える。
 今日,国語を愛護する精神を養うことの重要性は,従来にも増して切実なものとなっている。国語を愛護するということは,国民一人一人が言葉に関心を持ち,毎日の言葉遣いを大切にし,言語生活を充実させていくことにほかならない。また,国語審議会としても,現代社会における国語の多様な様相を把握しつつ,言葉遣いについてどのような認識を持つべきかについて検討し,見解を示すことが必要であろう。
 国語審議会がその審議対象とすべき言葉遣いには,話し言葉・書き言葉,共通語・方言などにおける言葉遣いがあろう。それらを音韻,語彙,語法その他種々の問題としてとらえるとともに,言語表現の問題あるいはコミュニケーションの問題として考えることも大切である。
 言葉遣いについては,一般に話し言葉における問題を取り上げることが多い。しかし,話し言葉と書き言葉には,語法,文体,語の選択の適否など重なる部分も大きいので,むしろ両者の重なる部分を中心に,「現代語のあるべき姿」についての共通理念を目指すという態度が妥当であろう。国語審議会はこのような見解から,言葉遣いについて全体的に論議することとした。


付 「言葉のゆれ」について
 ある語が変化する過程で,その語形等について,本来の形に対して桔(きっ)抗する形が別に生じ,両者が並存する状態になったとき,これを言葉の「ゆれ」と言う。語形のゆれ(アタタカイ/アッタカイ,感ずる/感じるなど)のほか,アクセントのゆれや表記のゆれもある。また,ある語に新しい意味・用法が生じ,本来のそれと並存する状態をも「ゆれ」と言うことがある。
 「ゆれ」は,当初はごく少数の誤用から生ずることも多い。本来の語形,意味・用法が大多数に支持され安定しているとき,新たに別語形等を用いることは,誤用とされる。その別語形等の使用者が増加し,ある程度支持されるようになった状態が,いわゆる「ゆれ」であると考えられる。
 共通語の可能表現において従来の「見られる」に並んで,いわゆる「ら抜き言葉」の「見れる」も使われることは,「見る」の可能表現の「ゆれ」である。ところが,「見られる」を本来の正しい形と見,「見れる」を否定する立場からは,この両形並存の状態は「乱れ」ととらえられる。すなわち,「ゆれ」は客観的な認識,「乱れ」は価値判断を伴った認識ということになる。
 「ゆれ」の多くは言語変化の過程における一時期の状態であり,一方に淘汰(とうた)されて解消することが多い。一つの意味に複数の形が対応することは伝達の効率上好ましくない場合もある。

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