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文化庁月報
平成23年5月号(No.512)

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連載 「文化人の気魄」

声楽家・木村俊光

目次

  1. 1 歌の世界へ
  2. 2 海外へ
  3. 3 劇場との契約
  4. 4 後進の育成を
  5. 5 オペラの魅力とこれから
木村俊光氏

(氏名)木村 俊光   (職業)声楽家
【経歴・活動欄】
1944年札幌生まれ。
桐朋学園大学,ウィーン国立音楽大学を卒業。
1967年日本音楽コンクール声楽部門第1位。1968年渡欧。1969年ヴェルヴィエ国際声楽コンクール(ベルギー)およびフランシスコ・ヴィニャス国際音楽コンクール(スペイン)で優勝。
1970年からライン・ドイツ・オペラと契約し16年にわたり専属歌手として活躍。1985年同歌劇場より東洋人として初めての終身雇用の権利を得た。
国内外で数多くのオペラやコンサートに出演。新国立劇場では「建・TAKERU」「魔笛」「修禅寺物語」に出演した。
1974年芸術選奨文部大臣新人賞,1996年日本芸術院賞を受賞。2010年年紫綬褒章受章。
現在,新国立劇場オペラ研修所所長,桐朋学園大学教授,社団法人日本演奏連盟理事,公益財団法人東京二期会評議員。

◆歌の世界へ

― オペラの世界に入ることになったきっかけについて教えてください。

 もともと,父が音楽関係だったからか,家の中に電蓄やアップライトのピアノ,足踏みオルガンが2台などが,生まれたときから身近にあるという家庭環境で育ちました。私は札幌出身で,小学校5年生のときに北海道児童生徒音楽コンクールを受けたところ児童の部で1位だったんです。そのコンクールに中学3年のときに今度は生徒の部で参加し,中学生・高校生を含む中で1位をとったことでひょっとしたら人にないものをもってるのかな,と思ったことがきっかけですね。それまでは建築やグラフィックにも興味があったのでそちらに進んでいたかもしれません。

― コンクールをきっかけに本格的にやってみようと思われたんですね。

 ええ。それで芸大へ行こうと思い,附属の芸高(東京芸術大学音楽学部附属音楽高等学校)を調べてみたところ,残念なことにそのころはまだ芸高には声楽科がなかったこともあり,そこでちょっと頓挫しました。父のまわりの人たちには「何も高校からやることない。歌なんて大学からでいい」と言われましたが,弦とかピアノなどは3つ4つの頃からやっているのに,どうして声楽だけ大学からでいいのか。音楽的資質を開花させるにはなるべく早いに越した事はないと私はけっこう反発しました。

― 他の楽器は早い時期から取り組む方も多いですね。そこからどのようにされたのですか?

 それで半年間,毎晩のように父を口説きました。その間に早期教育の桐朋学園には声楽科があり,伊藤武雄先生という方がいらして,という情報をもらいました。それで東京の伊藤先生のところへアポイントなしで会いに行きました。当然のことながらきちんと訓練した訳ではないので発声は素人みたいだったのですが,先生には歌心があると言っていただきました。そして,入学試験を受けてみなさいと。その結果,何とか無事に合格することができました。
  ところが学校に入ったとたんに,先生にお前の声はでたらめなんだから,それを直すには自分で勝手な練習は駄目だ。先生の前でしか声を出しちゃいかんと言われてしまい,毎日巣鴨の先生のところへレッスンに通いました。
 でも,私はせっかく上京したのに自分で練習すらしてはいけないと言われた事で,これはプロの声楽家になるのは無理なんだと考え,では良い教師になるのを目指そうと思いました。そのためには何でも身につけなければと齋藤秀雄先生(当時,桐朋学園大学教授でチェリスト・指揮者)のところへも教えて欲しいと頼みに伺いました。それで高校1年生の夏休みから大学の2年生まで指揮科の学生と同じように月謝も無しで教えていただきました。

― それは桐朋学園のカリキュラムとは別に,指揮の勉強をされたということですか?

 ええ。まったく別で。指揮のレッスンは日曜の朝10時から。金曜日土曜日はオーケストラの練習があるのでそれを見学して。それである程度振れるようになると分奏を振らされたり。だから歌のレッスンを受けつつ,そういうことも行っていました。

― 声楽の勉強と,週末には指揮の勉強とを両立されていたのですね。

 声楽の方は,入学して一年間先生がいいと言うまで自分で練習してはいけないと言われ,1年の試験なんてさんざんでした。ところが2年になった途端に,それまでの毎日の地道な喉を開けるという発声の訓練をしたおかげもあって,ポコッと声が変わったんです。
 声楽と,指揮との違いを簡単にいうと,歌は言葉にメロディーが付いていて,楽譜を横に見ていくのですが,指揮は横に見つつ縦にも読まなければいけない。どういう和声で,オケのどういう楽器があって,と縦横に読む。そういうのを経験しないと指揮は出来ないのです。それで指揮の勉強もできる限り続けようと思っていたら,大学2年のときにいきなり学校の定期演奏会で指揮を,と話がきて,それが伊藤先生にばれてしまいまして。

― 伊藤先生はそのときはじめて知ったのですか?

 別に隠していたわけではないのですが,そこまで関知してなかったのでしょう。それでびっくり仰天。君はいったい指揮で行くのか,歌で行くのか,どっちで行くんだと。先生が眠れずに悩んだという事を奥様から聞きまして,私はあくまで音楽全般の勉強のためにやってきたわけであって,指揮者になりたくてやってきたわけじゃない。それで定期公演で振るのを泣く泣くあきらめ,齋藤先生のとこへ辞めさせてくれと言いに行きました。齋藤先生には「何で辞めるんだ。せっかく一丁前にしようと思って面倒見てきたのに。」と言われてしまいました。
 でも,今振り返ってみると,ものすごく良い勉強させてもらいました。そして私の音楽の下地というか,全部はあの時の積み重ねだと今でも思っています。

◆海外へ

― 海外ではどのようにして活躍の場を広げられたんでしょうか?

 学校では声楽を学びつつ幅広い勉強が出来たおかげで,卒業した年に毎コン(現在の日本音楽コンクール)を受けて1位になりました。当時,コンクール上位のものが受けられる海外派遣審査という特別コンクールにも優勝できましたが,この賞金は本場のコンクールを受けに行かせるためのものだったんです。

 そこで,日本では優勝できたけれど,はたして本場でも通用するのかわからないので誰か良い先生に聴いてもらおうと思い,引退してスイスの山の中に住んでいても世界各国から歌い手がリハビリに来るというフスラー先生を紹介してもらいました。先生に聴いていただいたところ「君の声は3倍になるよ」と言われて。3倍というのは声の大きさという意味ではなく,通りといいますか。それが私のヨーロッパでの出発点です。
 しかし,先生はご高齢だったこともあってまもなく亡くなってしまい,また,人口600の村なので外国のコンクールの情報も何もない。それで人を頼ってウィーンに出て,音大に知り合いのレッスンにくっついて行って出会ったのがシュタインブリュック先生です。レッスンを見学して,この先生は発声の何かをもってる人だと感じ「弟子にしてくれ」とお願いしたのですが,「残念だけれど定員一杯で余裕がない」と断られてしまいました。しかし次のレッスンの学生が遅れてなかなか来なかったので,せっかく日本から来たのだからちょっとだけ聴かせてもらおうかと言ってくれて。それで出だし数小節歌っただけで,「ぜったいお前をとらなきゃいけない」と。結果的にそれが入学試験の様な事になって,先生が校長に掛け合って学期と学期の間に潜り込ませてくださった。だから,私はそういう意味では全部ついてるんですよ。ついているけど,必ず一回挫折がありました。

― 学校に入り,いよいよ本場のコンクールを受けることになったのですか?

 学校に入ってすぐに,シーズン一番最初のコンクールであるベルギーのヴェルヴィエ国際音楽コンクールを受けたら1位になって。そうしたらシュタインブリュック先生が私をマネージャーのとこへ連れてったんですよ。そのマネージャーはウィーンのシュターツオーパー(ウィーン国立歌劇場)と長い間コンタクトをもっていた方で,ある時,その人から電話があり「ドイツのデュッセルドルフへ飛べ」と言われました。ただ,デュッセルドルフ歌劇場(ドイツラインオペラ)は当時,ドイツのベスト5に入る急速に伸びた劇場でしたので,「間違っても自分が入れると思って行くな,経験として行っておいで」と。だから,物見遊山のつもりでしたから夜行列車で向かって当日の朝着いて,ろくに発声もしないまま劇場に行ってみたら,なんとバリトン一人採るのに20人も来ていました。普通オーディションで1曲歌って「ありがとう」と言われたら望みがないのですが,私は2曲歌わせてもらって引き上げたら,「さらに宿泊費と食事を出すので,明日もう1回受けて欲しい」と言われ,ホテルをリザーブしてくれて,結局私一人が残されました。翌日行くと,劇場は『魔笛』のゲネプロ中で,舞台全部飾ってある中,休憩時間を利用してのオーディションだったので,舞台の袖は黒山の人だかり。ドイツ語ものを含め確か3つか4つ,歌いました。後で,なぜもう1回歌わされたかを聞いたら,「アルべルト・エレーデ(1909-2001イタリアの指揮者)というとても有名な方にイタリーものを聴いてもらい,彼の判断も仰ぎたかった」と。それで物見遊山で来たはずなのに,いきなり契約しようという話になりました。

ヴェルディ作曲「ドン・カルロ」ロドリーゴ役

ヴェルディ作曲「ドン・カルロ」 ロドリーゴ役

新国立劇場開場記念「建・TAKERU」(1997年10月) 役名:大伴(オオトモ:大伴武日連,倭の兵士) 写真提供:新国立劇場 撮影:三枝近志

新国立劇場開場記念「建・TAKERU」(1997年10月)
役名:大伴(オオトモ:大伴武日連,倭の兵士)
写真提供:新国立劇場 撮影:三枝近志

◆劇場との契約

― 劇場と契約するというのはどういうことなのでしょうか。

 契約は,野球選手と一緒なんです。野球選手だと5年契約なんてありますけど,歌い手は5年まで契約する人は珍しく,だいたい1年とか2年とかで更新していきます。それで,劇場と折衝して給料あげろとか,休暇長くよこせとか。また「この出し物で来年どうか」とか「今度,こんな役を」って提示されることもあります。出来ませんって言って断ることもあるし,こんな役しかよこさないなら他の劇場を探すと言うこともあります。
 ただ,僕の場合はまさか契約しようって言ってくれると思わなかったので,渡りに船で最初のうちは普通に。幸運だったのが,バリトンにもセリオーゾというまじめな役とコミカルな軽めな役の二種類あって,依頼されるのはほとんどまじめな第1バリトンとして,けっこう良い役ばかりくれたのです。端役専門もいるし,また主役もさっき言った軽いのと重いのと二通りあるのに。男性歌手の中で飛び抜けて若かったせいか,大事に扱ってもらいました。

― セリオーゾの役で嬉しかった役にはどんな役がありますか?

 例えば『ラ・ボエーム』だったらマルチェッロ役。最初,ショナールという2番目の役で依頼が来て,すべて暗譜したのですが,舞台装置が壊れて結局ボツになり舞台を踏まないで終わった。そして,次に新演出で『ラ・ボエーム』を公演することになったときに今度は,ショナールじゃなくてマルチェッロ役で依頼がきました。もし前の舞台でショナールを歌っていたら,引き続きショナール役だったと思う。
 それから,私が一人だけオーディションされた翌日がオープニングだった『魔笛』というオペラでは,いきなり弁者の役をまかされました。役としては短いけれど,格のある座付きのベテランがやる役なんですよ。それを20幾つの若造にさせる劇場もすごいなと。
 まさかと思ってびっくりしたのは,『タンホイザー』のヴォルフラムという役。でもそれの布石は『ローエングリン』の伝令の役をやったからでした。伝令はとても得な役で,オケがぴたっとやんで,ばーっと声を出せるんです。その役をやったことで,ワーグナーも大丈夫と認められ,次に『タンホイザー』をやるときに,ヴォルフラムの役がきた。だから必ずなにか布石があって,次につながっていると思います。
 これはだいぶたってからですが,『フィガロの結婚』のフィガロ役をどうかって打診がきたんです。フィガロはバスの役。さっき重い軽いの話にあった軽い方の役で,いまさらフィガロじゃないと思って断りに行ったんです。もう一つバリトンの役で伯爵の役があるのですが,これは私みたいな小柄な東洋人には,まず歌わせない役と思っていました。ところが,翌日呼び出されて「伯爵はどうか」と。それでびっくりして「伯爵役を私でいいんですか?」と聞き返しましたよ。

― 伯爵の役は舞台の中で貴族らしさを示さなきゃいけない。だけどむしろ,声が評価されたんでしょうね。舞台映えどうこうを超えたということですね。

 私は背は小さいながらも,どういうわけか舞台だと大きく見えるそうなんです。舞台の上ではたえず人との立ち位置のバランスを考えて演じてましたけれど。

― そういうのを積み重ねられて。一つの劇場で16年の契約を続けられたんですね。

 一つの劇場で15年いると終身雇用の権利が得られ,劇場側からクビ切れなくなります。だいたい12年で,切られる前に他の劇場にうつっていく人が多い。私は10年もてばいいやと思っていました。そのころ師匠の伊藤先生は自分の後釜に桐朋学園に来て欲しいと思っていたらしく,「いつ帰るんだ」としきりに言われていました。「まだ契約が残っているので,もうちょっと待ってください」と。一般的な話として終身雇用にしたくないから12年の次は14年で切られるんですよ。だから14年で帰るからあと2年待ってくださいと伝えていました。
 ところが15年を越えることが出来まして,これはもう嘘つけないと思って先生にも話しました。ただ,15年ぴったりで帰るのは悔しかったのでもう1年と思って。なぜかというと,私をとってくれたインテンダントがちょうど定年で辞めると聞いたので,彼の元に自ら辞表を持って行きました。そうしたら気分を害して辞めると思ったらしくて理由を尋ねられましたので,「私はあなたに新人で採用してもらった。あなたが辞めると聞いたが,私も自分のお師匠さんに言われて,いずれ日本に帰らないといけない。だからあなたと同時に辞めたい」と言ったら,「これが侍スピリットか」と言われまして,お互い固く抱き合いました。

◆後進の育成を

― 劇場との16年の契約を終え,日本に戻られたんですね。

 ええ。42歳で戻りました。普通バリトンって50歳ぐらいまで働き盛りです。私の気持ちとしては,どうせ帰るのならよぼよぼになったから帰るのではなく,良いときに帰りたいと思ってました。そうしたら誰かに言われました。馬鹿かって。なんで日本なんか帰ってきたんだって。でも私は,あのお師匠さんがいなかったら自分はないと思うから,お師匠さんの目の黒いうちに帰りたかった。それだけなんです。

― 日本のオペラ界をどのようにされたいと思い活動されていますか?

 日本では,なんでもかんでもベテランに頼りがちですが,これは光るぞっていう新人を中心にすえて,ベテランが周りを固めるようなことができないかということをよく考えます。
 例えば,弦で言うと全員がコンチェルト等のソリストってあり得ないと思っています。つまり,オーケストラの要員としてイスに座って弾くのが似合うバイオリンニストも教育しないといけないし,飛び抜けていればソリストとして育って行きますから,その両方をつくらないといけないはずなんです。オペラ研修所はみんな将来の主役を狙って入ってきます。しかし,主役だけではオペラにならないわけです。研修所も年2回公演を行い,最終的には私が配役を決めるのですが,「なんで私は主役ではないのですか」と文句が来たりもします。だけど脇をやってみることも勉強の一つだと話しています。

― 研修所のお話が出ましたが,研修生について少し教えてください。

 たまたま今の研修生(平成23年3月現在)は男が5人,女10人います。そしてテノールが0です。研修所のためにメンバーを選ぶのだったら,毎年入れる5人の定員を声種で選べば良いわけです。今まではそういうやり方していたらしいのですが,私はそれを変えようと思いました。研修所のための研修生ではない。優秀な5人のための研修所ではないといけないと。
 私が初めて行ったオーディションが13期生で,選んでみたら全員ソプラノでした。理事長にも「ソプラノばっかりでオペラができますか」と言われましたが,今回だけは過渡期だから勘弁して欲しいと話しました。しかも試験日が2月。受験する立場からすれば,先を考えて,入るか入らないのを年度末まで待っているわけがなく,他の道を考えているはずです。ですからオーディションの時期が遅すぎると言って14期生は試験日を10月にしたところ,ちょうどうまいこといきまして,バリトン1人,テノール2人 ソプラノ2人となりました。時期をずらしたことによって,実力で選んでもバランスがとれるようになったわけです。今年も10月に行う予定です。

― このオペラ研修所の役割というのはどのように考えていますか?

 日本のみならず,本場でも通用する人材の育成を考えています。つまり,語学,体づくり,表情や身のこなしを含めた身体表現,演技の基本など。もちろん,発声や歌唱法は言わずもがなですが,そのための幅広い養成を優秀な指導者たちと行っております。
 また,研修最後の3年目には海外でも研修を行わせます。これまではずっとイタリアのボローニャで行って来ましたが,前回から研修先をロンドンとアムステルダム,半分ずつに変えました。そして,本場のレベルを知るために,ドイツでエージェントのオーディションも体験させています。前回は皆,けちょんけちょんに言われていましたよ。つまり,「等身大の,自分のキャパシティを越えた曲になぜ挑戦するのか」とか,「アリア一曲を歌えば,オペラ全曲を歌ったと思うのは大間違い。すなわち全曲の中でどういう場面,どういう状況で,このアリアが歌われるのか,歌唱からは感じられない」「だから,そのためには楽譜もリブレットも深く読み込まなければ」と。私たちが日頃指導するよりも簡単に,いかに自分が井の中の蛙だったかを気付かされた筈です。
 私としては一人でも多く,ここの本公演に出演できる要員を育てたいし,本場の劇場でも歌わせたいと思います。
 また,日本人ならではのことをやらないといけない。ここに見本がいるわけですよ。自分はそんな大きい声でもないし,体もでかくない。しかし,私にしか出来ないことがあったから,むこうは使ってくれたわけで。そういう勉強の仕方を伝えております。

◆オペラの魅力とこれから

― オペラの魅力とは先生はどう思われていますか。

 興味の無い日本人から見たら,まったくの異文化だと思います。日本のオペラ人口は,せいぜい0.03%程度でしょうか。だいたい都民1億3千万人としたら年間に新国立劇場へ足を運んで下さるのは,のべ4万人もいない。しかし,そういう文化に携わっているわけですから,仕分けでお金をあまりにも減らされてしまうと困ってしまいますが,例えば,今回のオペラ研修所公演はオーケストラだけで60人。皆さんは,舞台にのっかっている人しか考えていないと思いますが,照明や舞台装置を担当するなど舞台を支える人がいっぱいいて成り立っています。これほど総合的な芸術はないと思います。
 また,お客様が仮に歌詞を理解できなくてもそれぞれが想像して聴いていただくこともオペラのおもしろさの一つです。下手なテレビドラマでは,どこかへ出かけていく場面で,電話がきて,身支度して,外へ出て,タクシー止めてって一連の流れをすべて見せる。だけど,電話がきて,すぐ相手の家のシーンでもいいわけです。どうやって行ったかなんて,見る人が想像すればいい。タクシーかも知れないし,電車かもしれない。だからオペラもそういう風に想像して観ていただきたいし。特に初めてオペラを観る人は,喜劇から入ると良いと思います。今回の研修所公演は悲劇(『外套』)と喜劇(『ジャンニ・スキッキ』)をくっけて行います。

― 喜びを感じる瞬間とはどのような時でしょうか?

 私は「その歌い方ではお客さんは一緒に息をしてくれないよ」って言うんです。歌っている人と同じように息をしてもらえなければ,お客さんは感心するだけで共感してくれないと思うのです。一緒になって呼吸してもらう。それが一番大事だと思います。
 それとやっぱり「生もの」であること。テレビとかCDとかと生は違う。生でないと味わえないのだから失敗を恐れるなって言っています。そういう一種のコミュニケーションだと思います。

― これから日本のオペラに望むことはなんでしょうか。

 明治になって西洋音楽が入ってきてからの歴史は長いですが,見方によっては日本の小さな趣味人の固まりに思われなくもない。日本だけの狭いものにならないようにすること,もうちょっと一般的に普及させること,それからどうしても日本の場合「お勉強」という捉え方をされがちなので,オペラの楽しさを知ってもらうことが大切だと思っています。
 このように立派な劇場をつくって公演していても,それが東京の真ん中から出ていきません。国内の他にも10〜11か所の多面舞台を持つ劇場があるにもかかわらず,ここだけで終わってしまうというのは残念です。倉庫も持っていて道具も衣裳もとってあるので,それを地方の多面舞台の所に持って行く,そこまで出来たら良いのですが。箱(建物)をつくればそれで文化に貢献したみたいだけれど,結局は中身が問題です。こういうはかなく消えていくモノには,お金をかけないと。それも本当は文化なんだと思いますが。

― でも若い人の意識も少しずつ変わってきているんじゃないでしょうか。

 そう言われ続けて何十年もたっているのです(笑)。ドイツとか切実で,若い子がどんどんオペラ離れして久しい。だから観客もお年寄りが多い。デュッセルドルフのときに,おばあさんに連れられてくる小学生ぐらいの女の子もいましたけれど,誰かが誰かを誘って足を運んでもらう。敷居の高いものじゃないっていうのを,まずわかってもらうことが大切です。スターをつくるというのも一つの手だし,週刊誌ダネにするってのも一つの手。マニアックな人たちの内輪の会じゃなくて,庶民的発信をしないといけないと思っています。

(このインタビューは平成23年3月9日に新国立劇場内で行ったものです)

左から,ビントレー舞踊芸術監督,宮田演劇芸術監督,尾高オペラ芸術監督

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