齋藤陽道さん 写真

齋藤陽道さんインタビュー

“ぼく自身の身体でないと生まれない文章/写真”

2010年の写真新世紀優秀賞受賞をきっかけに写真集、個展、さらには文筆業と活躍する写真家・齋藤陽道さん。彼は先天性のろう者。そんな彼の写真はどのような意味があり、表現なのか、先頃出版された写真集「感動、」の話も交えて、表現する当事者の声を聞いてみました。彼とのコミュニケーションは、筆談とパソコンに文字を打ち込んでのやりとり。ますは、こんな言葉から。

齋藤:齋藤陽道です。これに入力していきます。入力したものはのちほどおおくりします〜。

ありがとうございます。改めまして、よろしくお願いいたします。最初の質問ですが、補聴器を外したとき、本当の自分になった、また、きこえないほうが(周りが)賑やかというようなことを、以前記事で読んだのですが、その賑やかな状態というのは、どういう状態で自身の表現にどのような影響を与えていますか?

齋藤:この「にぎやか」というのは、音によるにぎやかさではないんです。
高校で、ろう学校にはいりまして、そこで手話にであいます。手話は、手や腕だけで語るものではなく、目線のうごきとか、首のふりかたとか、まゆの動きとかそういうものも、意味に含めた言語なんですね。
つまり、補聴器を外して音がなくなったことで、目に見える情報に集中できるようになったことと、まゆや動きのみじろぎというものにも意味があるということをしることで、目に見える世界がとてもにぎやかになってきた、ということです。
写真においても、まゆやみじろぎというものにも意味をもって見つめるようになれたので、そうした点で、影響があったとおもいます。つまり、目に見えるあらゆるものに意味を見いだせるまなざしを手話によって得たということです。

齋藤さん写真 1
「かつてぼくが、音声をうまく話せて、ちゃんと聞き取れないと一人前じゃない、というような思い込みにすごくとらわれていました」という齋藤さん。自身のコミュニケーションの方法が多様になったからか、今ではすっかり補聴器をつけないほうが当たり前。

つまり、まさにノイズがなくなった。邪魔されることがなくなった感じでしょうか?

齋藤:そうですね、補聴器による聞こえ方はひとそれぞれ、ということは強調しつつ、、、ぼく自身の聞こえとしては、ノイズまじりの音でした。ノイズのなかから必要な音をさぐっていくという作業を、無意識のうちにずーっとやっているかんじで、それはちょっとしんどいことでした。そのノイズがなくなったことで、急に視界が晴れるような心地よさがありました。

なるほど。著書「声めぐり」の中で目の喜びというのが印象的な言葉だなとおもったのですが、具体的にその喜びを説明すると、どんなことことだと思われますか?

齋藤:「目のよろこび」
さっきの繰り返しにもなりますが、みじろぎやまなざし、まゆの動きにも意味があるものとして世界を見つめることができるようになったとき、なんという圧倒的な視覚情報であふれているんだ、と感動したんですね。
具体的なエピソードがあるわけではないのですが、、
手話に対する理解が深まるに連れ、目に見えているものの解像度がきめこまかくなっていって、目の端でわずかに動いているものにも反応できるようになっていったんです。見えているものすべてが意味としてそそがれることが、うれしかったんです。それを「目の喜び」と表現したんだっけな、、、(「声めぐり」、内容ちょっとわすれてます笑)

自分自身の作品や表現について強く意識される方でしょうか?

齋藤:表現よりも、どのようにしてコミュニケーションができるか、ということをいつもいつも考えています。新しいコミュニケーション、、、関わり方ができたとおもえたとき、に、撮る写真が、結果として、表現になっていっている、という認識でいます。
関わりの形を拡張していくことが表現になっていくのだと思っています。
筆談方法のバリエーションとか、目の見えない人とどうやって話せるとか、動物のたちふるまいやまなざしをてがかりに撮っていくとか。その結果としてたまたま写真がついてきている、、、、そんな感じです。

齋藤さん写真 2
取材中、現在引っ越しを考えていることも話してくれた齋藤さん。こどものこと、また、現在の自分が関心を持っているテーマとして、“自然とこどもの関わり”をあげ、引っ越しによってその作品のスケールが大きくなることを期待していることも影響しているよう。

コミュニケーションの中で写真を取るということは、写真を撮るということが目的ではじまっているのではないということでしょうか?

齋藤:あぁ、いえ、、、写真を撮るのは前提のうえなんですが、なんだろう、写真写真しないというか。写真とコミュニケーションの仕方のバランスには気をつかっています。いままでにしてこなかったようなコミュニケーションの形をさぐりつつ、写真もついでに撮っていくという流れです。どういう瞬間に、、、とるのかな、、、んー。
その人と会話していって、それまでに、ぼくがなにかしらその人に対してもっていたレッテル(ジェンダーとか障害名とか悩みとか)、そういうものが離れて、ただの個と個としてむきあえている瞬間を望みながら撮っています。とてもむずかしいことですが。

個と個として向き合える瞬間。一般的に個人のことを知ろうとすると時間がかかると思います。齋藤さんの写真の場合はどうですか?

齋藤:ただ出会うことの鮮烈さ、を、重視して撮影しているので、たくさん言葉を交わして話をして相手を理解しなければならないという縛りは、ぼくの撮影にはないです。とりあえず今のところ。。。

齋藤さん写真 3
齋藤さんは現在、こどもたちについての本を執筆中。また、2022年を目処に「神話」というシリーズで作品制作を継続中。取材場所は国立にある齋藤さんのお気に入りの喫茶店。昔ながらの設もよく、ゆったりと落ち着いた雰囲気。ちなみに、齋藤さんが食べているのはプリン。

近著の写真集「感動、」でも、いろんな人とコミュニケーションを取り写真を撮り、発表しておられますが、自分自身に向き合いつつも意識が外へ外へ向かわれていますか?

齋藤:はい、ありますねえ。
意識はいつも外にむかっているつもりです。自分にかまけていてもなんか恥ずかしいですし、、、できるかぎり、外へ外へ、と思っています。
「感動」というタイトルをつけているけれども、一個人の底を叩いていって、貫いた先にあるものは、多くの人が抱える普遍的なものだという予感があるので、あえて極個人の感情である「感動」というタイトルを掲げています。いろいろ誤解されやすくて、バクチなことばですが。。

それでは、最後に表現することにおいて、なにを大切にされていますでしょうか? なにか自分自身に基準のようなものがあればおしえていただきたいのですが。

齋藤:基準。。自分の身体の感覚にそった文章、写真になっているか、ということを意識しています。聾する身体としてのぼくの文章と写真、ということです。
たとえば、「『風がふいたね』と妻は言った」という文章があるとして、それは不自然なものではないですが、手話を言葉とするぼくの感覚からすると、「妻は、両手で、そよぐ風をあらわした」とするほうがぼくの感覚としてはしっくりくるんです。「私は彼がそういうのを聞いた」ではなく「私は彼の手がそうあらわすのを見ていた」とか。。。惰性で、大多数の人が使っているような表現をただなぞるだけのことってよくあるんですね。そうした惰性の癖に気をつけつつ、ぼく自身の身体でないと生まれない文章/写真のことを考えています。

撮影:西光祐輔

PROFILE

齋藤陽道さん プロフィール写真

齋藤陽道(さいとう・はるみち)

1983年、東京都生まれ。都立石神井ろう学校卒業。2010年写真新世紀 優秀賞受賞。これまでに、「感動」(赤々舎)、「宝箱」(ぴあ)、「写訳 春と修羅」(ナナロク社)、「それでも それでも それでも」(ナナロク社)、「声めぐり」(晶文社)、「感動、」(赤々舎)ほかの著書を上梓。2017年以降、俳優・窪田正孝のカレンダー撮影も担当している。
http://www.saitoharumichi.com

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