国語施策・日本語教育

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次第 今後に審議の進め方について〔その3〕

鹿海文化部長

 運営委員会は,一般の委員は出ないことになっている。問題点等整理委員会は,このあいだの運営委員会では,一般の委員も是非出ていただこうということだった。
 それから,随時,出席していただきてよいということになれば,通知は全員に差し上げることになろうかと思う。

福島会長

 わたしから申し上げると,一応,わたしどもとしては,運営委員会と整理委員会とを,合同で開会するという考えは,少なくとも運営委員会としては持っていない。両方に所属のかたはおふたりだと思うが,問題点などを整理する場合には,ある程度,各分野の代表という各分野のかたがたがいらっしゃったほうがよいという考え方で候補者を選ばせていただいたのである。合併して開こうということは考えていない。
 運営委員会は,この審議会全体の運営について会長に何を言わせるかということを,あらかじめ,会長が脱線しないように相談しておこうということがおもな目的であると思う。審議すべき問題の整理その他は,運営委員会は触れないと思う。審議事項について「こういう問題を,この次の総会ではやってほしい。」ということになれば,その総会を,いつ,どの時点で,どこで開いて,どうするかという,ほんとうにこれは,運営のしかた,純粋に運営に関する問題を,会長を補佐する意味で知恵を集めようという趣旨でお集まりいただくのだと,わたしは,了解している。整理委員会を設けたあと整理委員会と合同で開くということは考えていない。所属が重複しているのは,なにも,組織上の問題で重複させる必要があるのではなくて,たとえば教育界とか,出版界とか,それぞれの分野からひとりずつ御出席を願うという意味で,候補者をあげた段階で両方に重なったかたが2名あったというだけである。整理委員会に,一般の委員が御出席になることは,原則としてさしつかえなく,また,御意見をお述べになってさしつかえない。ただし,賛否を決するような場合には整理委員会の委員だけでお決めを願うということに,当然なるであろう。
 したがって,整理委員会が問題をどういうふうに整理して,次の総会にはどういうことを御提出になるかということを,会長として,全然承知しないで,いきなり総会に出席するわけにもいかないので,整理委員会には,会長・副会長が出席させていただこうとは思っている。その上で,連絡をよくしていこうというふうに考えている。整理委員会は,できるだけ早い機会に開いていただきたいと思っている。決まった日取りを,全委員に通知申し上げる時間があればよいが,ないようなことも予想されないわけではないので,次の整理委員会があれば,できる限り出席して,一応,意見を述べてみたいというお考えがあれば,あらかじめ,事務当局に知らせておいてくださるとよいと思う。
 多少関連があるので申し上げたいのが,何も役所の悪口を言うわけではないが,とかく,役所仕事の常で,こういう委員会など開催日の前日に通知がきて困ることがあるので,次回の総会――1か月おきと申し上げたので3月になるが,できる限り,日取りを,早めに全員に通知するように努めてほしい。整理委員会でも,通知,その他,わたしの申し上げたような方法でなく,全員に通知することができればけっこうだと思うが,間に合わない場合もあると思う。したがって,整理委員会がいつあるか知らないが,あれば出たいという意思表示をしておいていただくほうが,あるいは便利かとも考えている。いずれにしても,これは事務当局の手数の問題なので,事務当局に,じゅうぶん趣旨にあうように検討してもらいたいと思う。
 なお,問題点等整理委員会の委員に,運営委員会としてお願い申し上げたい,是非とも御承諾いただきたいかたのお名まえを,もう一度申し上げる。
 岩淵委員,植松委員,宇野委員,遠藤委員,倉沢委員,黒羽委員,佐々木定夫委員,田中委員,築島委員,松村委員,水谷委員,渡辺委員,以上12名である。
 ついでながら,この12名のかたがたは,運営委員会全会一致のお願いなので,ぜひとも御承諾いただきたいと思う。

田中委員

 わたしは,ここ3年,国語審議会の委員の末席を汚している。そして戦後,わずかな月日国語の教師を経験しただけであるが,ただ,ものを読んだり書いたりすることが好きなので,そのことを通してやはり,わたしどもの「ことば」について,自分なりに大きな関心を持っていると思うひとりである。
 それで,先ほども各委員の発言の中にあった,ことばをより美しく,また豊かにするということのために,わたしは,やはり,漢字をもっと多くふやしていただきたいし,そして読みももっと広げていただきたいという意見をもって,いつも出席しているのであるが,たとえば,ことばは,そのときどきの世の中の流れや,その姿によって,自然に変わっていくものである。あるいは変えることが,このようなお役所を通じてできるものであるならば,この当用漢字の読み方について,わたしは,ただ,わずか3年の経験でも,皆様がたがたいへん熱心に討議してお決めになったということ,よく存じているが,この表の中でも,わたしは,やっぱり,あの字はこうも読めるということをもっと公の場所で決めていただきたかったと思うのは,決して,長岡委員から依頼を受けたわけではないが,たとえば,「育」に「はぐくむ」という訓を掲げることを,もう一度討議していただければと思う。このごろは,母が子どもを殺すことが流行しているが,こういう荒廃した母と子の関係の世の中で,もう一度「はぐくむ」というようなことばをお取り上げくださることが可能であるかどうか……。たとえば,もう,ここに決められたものは,このまま,向こう何年かは凍結されてしまうものであるかどうか,そういうことを,お伺いしたいと思う。
 それから,わたしは,現在教師として現場にはいない者であるが,自分の仕事を通して……ここには放送関係の委員も御出席であるが,俳優たちのことばの読み方の知らなさかげん,たとえば,山本五十六という人の名を「ごじゅうろく」と読む俳優も現実にいることをわたしは知っている。
 それから,これは,わたしが,この間,たまたま,名古屋で国語の教師をしているわたしの友人に聞いたのだが,そこにある「△△精機」という会社の名からの連想であろうか,「東条英機」というのを「それはどこの会社か。」といった小学生がいたということであって,(笑い。)このような現象を生むということは,やはり必要なことは教える,あるいはこれを学ぶけれども,現代にとって必要でないものは,なるべく省いて,もっと,現実にすぐ役にたつことだけを,ことばについてそのように教えていればいいというような教育が,国語教育の中に流れているのではないかと思う。まあ,「東条英機」という名まえを忘れたい人は多いかもしれないが,それを,どこの株式会社かと言われては,やはり東条さんはかわいそうだと思ったしだいである。

田中委員

 それからもう一つ。この当用漢字表などを,現場の先生がたに,どういうふうに周知させているのかということであるが,このあいだ,アクセントの問題がちょっと出た。「雨,雨,降れ降れ,かあさんが……」という歌があるが,いまの子がじゃのめのかさを知らないのはいいとしても「あめ,あめ,降れ……。」というのは,キャラメルかなにか甘いものが空から降ってきて,おかあさんがそれを持って迎えにきてくれるのだ,というふうな解釈をする幼稚園児もいることを幼稚園の保母をしている友人から聞いた。やはり,「飴(あめ)」と「雨」とは,わたしは,少なくとも標準語がある以上は,そして,国語の教師の職にある人は,「飴」でも「雨」でもいいというような寛大さは,望ましくないと思っている。
 それから,小学校と中学校の先生がたの作文を審査する仕事を,ある出版社から頼まれて,ここ数年続けているが,文章を書く能力というか,力というか,現実は,これが中学校,あるいは,小学校の国語を教えている先生がたかと思うくらいである。それもたくさんの数の中から選ばれてきたかたがたのものであるだけに驚くことが多い。その中に誤字がたいへん多いのと,それから語彙(い)が非常に貧しい。だから,でき上がっていることばをやたらにほうぼうへはめ込んでしまって,自分自身のことばを作ろうとしない。そういう傾向があるような気がしている。
 これも,やはり,あまり漢字を制限し,読み方を,このぐらいでいいという,やさしさを標準とした姿勢の結果であると思う。これではやはり,自分たちのことばを大事にして,それを愛していこうという姿勢が生まれないのではないかと思う。わたしは,それを寂しいというのではなく,困ると思うのである。

福島会長

 どうもありがとうございました。

長岡委員

 ただいま,田中委員の発言にアクセントの問題がでた。「あめ」は,食べる「飴」と,降る「雨」とでアクセントが違うこと,まことにお恥ずかしいしだいであるが,わたしは,それを確認していない。長いこと教壇に立っていたが,アクセントを知らないがためにことばに不便を感じたことはないし,また,自分の言ったことがまちがって取られたためしもない。放送関係では,アクセントを非常に研究して,膨大な印刷物を出しているが,一般国民は,あの労作に対して,全然無関心ではないかと思う。わたし個人としては,長い間国語教育に従事した自分としては,これは個人の意見であるが,アクセントは,日本語としては問題にする必要はないのではないかと思う。ただいま,空から食べるあめが降ってくると,子どもが解釈したということだが,こういう解釈は異常児の解釈であって,(笑い。)そういう異常児のことでもって,日本語のアクセントを論ずるというようなことは,わたしは今後,教育にたいへんな煩雑な問題を与えると思う。
 この前の総会で,わたしは,アクセントの問題を質問したら,文部省としては,まだ審議の対象として取り上げていないということを聞いた。わたしは,その線で進むべきものであると思う。NHKであのような研究をしているが,われわれの耳にはいるときには,それほどの労力の結果が,あの放送のことばに現れているとは思えない。失礼な話であるが,あれには,非常な労力と費用が伴っているわりには,わたしは,徒労であるとまで心ひそかに思っている。今後,国語の問題として,このアクセントについて,じゅうぶんに,運営委員会・整理委員会でも御研究くださることを提案したいと思う。

岡村委員

 わたしは,新聞のほうの仕事に関係している者であるが,この国語審議会では,なにか自分が異端者としてここにすわらせられているような気がしばしする。わたしも,新聞記者の中では,かなり,国語を愛するほうの人間だと自分で思っているし,自分自身もまたいいかげんな文章であるが,文章を書いたりしている関係もあって,国語に対してはかなり関心をもっている。
 この審議会に出席すると,きょうなどは特に先ほどから,いろいろのお話の中に,国語をめちゃくちゃにかわいがる御意見ばかりであって,なんというか,少し国語をかわいがりすぎるような……,そのために国語が非常にこみいって,むずかしくなってくるのではないかと思う。せっかく「当用漢字表」と「当用」ということばが使ってあり,「当用」なのだから「当用」の漢字を定める際に,「当用」とは,あまり関係のないような意見が,いくつもいくつもつながってきて,どうも,だんだん「当用」が複雑な「当用」になっていくのではないかという心配をする。当用漢字表の字数が多少ふえていくことは,世の中が変わっていくに従ってことばも変わるのだからやむを得ないと思うが,そのかわり当用漢字表を決めたら,古くて,だんだんいらなくなってきたことばは捨てていっていいのではないかというふうに,現実的に考えている。
 先ほどからも話が出ているが,たとえば,人名とは,地名とか,学術用語とか,あるいは古典を読むためのことばの勉強とか,そういうようなことは,やはり,これは当用ではないのであって,これは当用漢字表とは別の問題として考えるべきではないかと,強く思うのである。
 それはまあ,山本五十六が「ごじゅうろく」になってもやがて長い年月がたてば,われわれだって昔の人の名まえを教わったから読めるのだが,それがほんとうにその人の正しい読み方であったかどうかというようなことについては,確証を握る方法はない。そういうような問題まで突っ込んでいくと,名まえなどでも,つけたい人は,どんな突飛な名でもそれは親の趣味でつけるのだから,その趣味をどうしろというような拘束は,できないと思う。これについては先ほどから憲法の問題にまで触れて御意見を承っているが,当用漢字表の場合は,そういうようなことはあまり苦にしないでお考えいただくことができないものだろうかと考える。わたしが,そんなことをここで申し上げるのは,一つの暴論かもしれないし,きわめて少数意見に終わるだろうと思うが,当用漢字表の字数が少しでも少なくて済めば学校でその余力を外国語の教育に回すことができるのではないかと思う。
 わたしは,日本人が海外へ出てほんとうに外国語に弱過ぎると思う。おそらく,外国へ出ていった場合に世界じゅうで,日本人がいちばんことばの不自由さを感じて言うべきことも言わないで黙っているのでないかと思う。新聞関係でも,国際会議などが毎年あるが,国際会議で外国へ出て行くと小国の諸君はその国が小さいから自分の国のことばは通用しないから,やむを得ず,自分のことばを捨ててでも英語を覚えるとかなんとかしなければならないという必要性があるためでもあろうが,英語などが非常によくしゃべれる。ところが日本人は,とかく渋りがちである。そういうことも考えて,少しでも余力をさいて,外国語を習わせるような考え方がほしいものだと,わたしは,痛感している。こういう乱暴なことを言う人も,この中にひとりぐらいいないわけにはいかないことをお許し願いたいと思う。

福島会長

 ありがとうございました。

木内委員

 わたしが申したことに反論されたように,聞こえるが,わたしは,おしまいの外国語うんぬんのところはちょっと困るが,それ以外は,意外と思われるかもしれないが,賛成してもいいと思う。それは,あの当用漢字表の「当用」はどういう意味を持つかということを吟味すると,あれは数が少なくてもよい。その代わり学校で何を教えるかは,全然別問題であって,岡村委員の意見のとおりである。ところが,最後のほうで,漢字をたくさん教えなければ,外国語がうまくなると,これはちょっと受け取りがたい。(笑い。)そこいらが研究題目だと思う。これは,ここで討論したくないから,研究題目にしておく。

小谷委員

 しろうとがたびたび立って申し訳ないが,先ほど「はぐくむ」という「育」の訓のことについてのお話が,田中委員からあった。わたしは,その問題に反対というのではもちろんないが,そういう話が出る場合に,なにか,「育」に,「はぐくむ」という訓を認めない,「はぐくむ」ということばを殺してしまうのではないか,そういう御懸念があるのではないかと思う。すなわち,助詞とか接続詞とかあるいは一部分の副詞とかを除いて,名詞や動詞は,全部漢字で書くべきで,それが本式であって,そういうたてまえがあるという前提での議論をよく伺う。しかし,わたしが最初に申したことの意味があいまいだったかもしれないが,わたしは,できるだけ美しく豊かな日本語を育てるために,語彙(い)はできるだけ豊富にしたいと思う。しかし,それを表記するために,動詞や名詞は全部漢字で書かなければならないとすると,しかも,それをすべて当用漢字表に含めるとすると,字数を格段に増さなければならないのではないか,そういう矛盾があると言ったわけである。
 これは少し極端であるが,たとえばやまとことばは,かなで書き,それが,じゅうぶん正式の表記であるというような認識であるとか,そうまではいえないかもしれないが,なにか,そこに基本的な方針がないとたいへん困るのではないかということを,深く感じるわけである。もっとも,これからの審議の資料をいろいろ提出することになると思うが,これは,音訓の場合などは,ほとんど,それが雑談などに使用された度数の調査が基礎になっていたように思う。これは,もちろんたいせつであるが,しかし,日本語という立場からは,度数が非常に多くなくても,非常に重要なことば,必要なことばがあると思う。それらの語の書き表し方がどうあるべきかということは,問題であろうかと思うので,そういう点も考えられるような資料をお出しいただければありがたいと思う。
 なお,さらに言うと,漢字かな交じり文が日本語の正式な形であるということは,これは数回前の文部大臣のあいさつの中に書いてあったが,わたしもそうだと思う。その場合,漢字かな交じり文の長所の一つとしては,確かに,読みやすいということ,認識しやすいということがあると思う。これは,東京大学の渡辺委員などがおいでになっているが,図形認識というような立場から,かなばかりでは非常に読みにくいし,漢字ばかりでは非常に認識しにくいなどのことから,かなと漢字が,どの程度にどういう密度で交じっていれば,図形認識上,いっそう有利であるかというような点なども検討いただければ,たいへんありがたいと思う。
 なお,この日本語の地位という問題,これは,四つの島の1億の民族のことばであるが,それが将来の,今後,10年,20年先を考えたときに,世界の中で,どのくらいの人々が日本語を学ぶであろうかというような観点も併せて,われわれと無関係ではないと思うので,そういう点にも考慮を払いたいと思うわけである。

坂本委員

 今度はじめて委員に就任したので,国語審議会の審議の経過なり内容なりは,じゅうぶん承知していないので,あるいは見当違いがあるかとも思う。先ほど,長岡委員からアクセントについて御意見をいただいたが,たまたま,御発言の中に,NHKという具体的な名をお出しになったので,わたし委員ではあるが,NHKに職を奉じている者のひとりなので,一言,弁明させていただきたい。国語審議会でアクセントを審議すべきかどうかということは,わたしも,ただいま申し上げたように,よく知らないのでそれについて,わたしの意見を申し上げる気持ちはないが,ただ,長岡委員のおっしゃるようなことなら,わたしは,日ごろ非常に楽な気持ちでいられるが,現実はそうではない。やはり,非常に多くの聴取者のかたがたが,アクセントの問題について御意見をお持ちになっているという,その事実だけ立場上釈明し,今後の御参考にしていただきたいと思う。

植松委員

 少しわき道の問題かもしれないが,いま,アクセントのことを問題にしておいでなので,それに関してひとりの委員として意見を簡単に申し上げる。
 NHKの調査が,なんにも役にたたないのにたいへん費用を使っているというような非難をなさった委員もあるが,わたしは,そうは思わない。NHKの放送は非常に重要である。うちの子どもは東京育ちである。わたしは関東生まれであるが,幼年期は東京でない。しかし,わたしのほうがアクセントが正確で,子どものほうが不正確である。なぜかと考えると,テレビなどで,関西弁を相当聞くものだから,それが子どものアクセントに影響しているのだと思う。それがいいとか悪いとかいうのではない。ただ,わたしの子どもは東京育ちにしては,ときどき違ったアクセントでものを言っている。先ほど,例に出た「雨」と「飴」との違いのようなことがたまにあって,わたしは子どもにやかましいものだから,「江戸っ子のくせになんだ。」というようなことを言うのだが,そういうことが起こってきている。もし,NHKがアクセントに無関心になって,でたらめなアクセントで放送したら,たいへんな混乱を生ずると思う。テレビとかラジオとかは,アクセントに関してたいへんな影響力を持っているので,NHKはもっとお金を使って,大いに正しいアクセントを研究して,正しいアクセントで放送をしていただきたいと思うのである。たまたま,ひとりの人が,自分はアクセントに関して誤解されたことがないといっても,それは,たまたまひとりの経験であって,科学的な意味はもたないと思う。

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