国語施策・日本語教育

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次第 協議〔その1〕

福島会長

 それでは,さしつかえなければ「1漢字表の性格について」というところから話し合いを始めていただきたいと思う。もちろんこの12項目以外にも問題があると思うが,それらは「1」の性格問題その他について御発言を願っている間に随時発見されると思う。したがって,審議会の審議をこの12項目に限るということはない。本日の総会が終わるとまた整理委員会を開き,そこでこの項目以外の問題が付け加わっていくという可能性もあると考えている。とくに異議がなければこの12項目の順番をどう並べるかは別問題として,とりあえず,きょうのところは1番の「漢字表の性格について」とこれに直接関連のある諸問題,これは2番から12番の間にもあると思うが,主として1番の性格問題について御発言願うようにしたらいかがかと思う。よろしければそのように了解させていただきたいと思う。
 だいたい御了解をいただいたと思うので,そのように進めたいと思う。そこでこの漢字表の性格をどうするかである。これを制限的な漢字表とするのか,あるいは目安とするのか,また現在行われている漢字表が目安であるのか,よりどころであるのかという問題もあるが,少なくともこの審議会としてはその点の意見が一致していることが審議の出発にあたって大事であると伺っている。その点について活発に御発言をいただきたいと思う。

新井委員

 ただいま会長のお話で,この12項目の問題点以外でもどんなことでも感じたことがあったら意見を述べてくれということであるから,ここにあげられている問題点からはちょっと遊離している感じがあるかもしれないが,わたしが平素考えていることを一言申し述べたいと思う。
 平素わたしは非常に不勉強であるが,実は,昭和20年代の末ごろから30年代の初めにかけて毎日新聞社の全般的な調査研究の機関を担当していた関係上,新聞の用字用語の問題についてもわたしなりの苦労を経験してきた。当時は当用漢字のいわゆる28字の補正という問題,これが国語審議会から出されたこともあって,当用漢字をふやすか減らすかという根本問題をめぐって連日連夜毎日新聞社の社内で議論をわたしども幹部連中が重ねたものである。それというのも,新聞社としては,1日も早くこの用字用語関係の新聞に載せる新しい基準というものを記者や校正者に示さなければならない,スタイルブックというか,ハンドブックというか,そういうものを作らなくてはならないということが急がれたためである。
 申すまでもなく,当時も1,850字の当用漢字の線を守るという原則,この原則は毎日新聞社としてもほかの新聞社と同様に立てていたが,そのためのいわゆる言い換え書き換えの作業,この作業というものがまだなかなかはかどってはいなかった。たとえば動物の獅(し)子という字の「獅」の字が当用漢字の中にない。それならばライオンと言い換えるということにしたところが「獅子奮迅」という字は「ライオン奮迅」と書こうと,そういうふうに直した校正者があったという話や,それから「エンエン長蛇の列」とあったのを「エンエンナガヘビの列」と直した者がいたというような,これは実におかしな話であるが,当時ほんとうにあったことである。そういったことばの言い換えの解決策として,たとえば「シシフンジン」は「猛然」ということばに置き換えるという意見が当時の社内には多かったが,その当時の責任者の立場にいたわたしは,そうまでして使い慣れた日本ことばというものをなくしてしまうよりは,ともかく当面はかなで,「シシフンジン」あるいは「エンエンチョウダ」と書いたほうがましだと言って,まあそういった方向に向くようにわたしとしては努力した。これはむろんいろいろと問題があるところだと思うが,そもそもことばというものは,文字というものがこの日本にまったく存在していなかった大昔から民族の血とともに生きて今日に受け継がれてきた。むろんその間に生まれることばと消えることばというものもあって変化流動して今日まできたわけであるが,全体として日本ことばを見るならば,日本ことばほど微妙な表現を細かく使い分けていることばというものはよその国にはほとんどないのではないかとわたしは思う。たとえば,同じ「笑う」ということばにしてもいろいろなことばを単語としてわたしたち日本人は持っている。たとえば,「にが笑い」,「ふくみ笑い」,「せせら笑い」,「泣き笑い」,「うす笑い」,「てれ笑い」,「あざ笑い」,「バカ笑い」,「高笑い」,「思い出し笑い」というような,こういう名詞となった単語,こういうものをそれぞれ日本人は使い分けている。「私」ということばも,いうまでもないが20に近い表現のしかたをわたしたち日本人は持っている。人間の動作や姿ばかりでなく,花鳥風月,森羅(ら)万象のすべてをわたしたち日本人はきわめて豊富な,そしてきわめて繊細な表現でもって使い分けることができるということ,これがわたしたち日本人の世界に対する誇りであるとわたしは思っている。こうした日本ことばはできるだけ守って後世の日本人に伝え残していきたいといつも思っている。それと同じ意味からして,近ごろの日本ことばの乱れ,これは何とかして直していかなければならないと思うが,この国語審議会は,漢字やかな,つまり文字の問題に審議の対象を絞ってきたし,また事実この文字の問題だけでも非常にむずかしい問題をかかえている。ただ文字はことばと違って,たとえば漢字のように外国から輸入することもあったし,またかな文字のように,特定の人によってくふう,発明されるということもあった。現に,国語審議会においても文字を変える企てもなされたわれである。以上のように考えてくると,ことばと文字の問題は一応切り離してみたい。むろんことばと文字とはお互いに密接な関連があるのは当然である。しかし,たとえば「ハシ」ということばや「アメ」ということばにも二通りあるいは三通りの意味があるとか,またそのアクセントがどう違うとか,方言によってどう違うとか,これでは困るからなんとか基準を作るほうがよくはないかというような問題であるが,これはむしろことばの問題であって,当面の漢字あるいはかな文字の問題とは直接の関係はないのではないかとわたしは思う。むろんわたしも現在の日本ことばの中で直したらどんなによかろうと思うことばもあるし,ことばの使い方についてもふだん関心を持っているひとりであるが,当面この審議会においては,日本文字とくに漢字の扱いの問題に論点を絞って審議を進めてはいかがかと思っているしだいである。きょうもそういう方向で,漢字の問題が審議されるわけである。前期までの国語審議会の成果を拝見しても,審議の内容は日本ことばよりはむしろ日本文字に関することだったので,わたしは,これは国語審議会というよりも国字審議会という看板を掛けたほうが当たっていたのではないかという感じさえ持っている。

新井委員

 余談はさておいて,本論にはいらせていただくと,わたしがさっき言ったような日本ことばの伝統を守るという考え方でいくと,漢字の温存という意見も自然に出てくるのではないかということがある。しかし,わたしはことばは残していきたいが,その漢字は時と場合によっては書けなくてもよいという考え方を個人的には持っている。たとえば,「アイマイ」,「ケイレン」,「カンカンガクガク」,「ケンケンゴウゴウ」,「フンイキ」,「モウロク」,「チミモウリョウ」,「ジュウタン」,「セッサタクマ」,「センセンキョウキョウ」,「テキメン」,「ドウモウ」,「ネツゾウ」などというようなことば,こういうことばはそのままなんとか残していきたいと思うが,それが当用漢字にないからという理由でこれを別のことばに言い換えるということが時々行われている。また一部には,言い換えは好ましくないから当用漢字をふやしてせめてもう少し漢字が書けるようにみんなが努力すべきだという意見もある。しかし,いまわたしがあげたことばをすべて漢字で書ける人は今日では一般世間には少ないのではないか,書けるように教育することも実際上むずかしいのではないか,こういうふうにわたしは思う。現状ではどうなっているかを見るために,わたしは数日前のある一つの代表的な新聞の社会面と学芸面とを1ページずつ切り取って調べてみたが,当用漢字で書けることばさえひらがなやカタカナで書いてあるのが1ページに実に何十と発見された。たとえば「がまん」,「ほんとう」,「つめたい」,「ぶっそう」,「たいへん」,「かこむ」,「こども」などというのは全部かたかなひらがなで書いてあった。また「カンづめ」という字,これは見出しでは4字ともかたかな,記事の本文では4字ともひらがなという書き方がしてあった。物を「詰める」という字は当用漢字にあるということを新聞社が知らないわけではないが,用字用語はだいたいにおいてそのときの社会の傾向に沿うということなのか,とにかくこういった新聞が自由奔放な書き方をしている。これはいいことだとは思わない。しかしいま申したように,世間でだいたい使われているやり方が新聞の上にも表れているということを考えると,わたしの見るところでは,今日の日本の社会は外国語,外来語はもとよりのこと,日本語までがいま数え上げたように,平然とかなで書かれて少しも奇異に感じられないように一般世間はなっているのではないかという気がする。そういう傾向は文章を読みやすくしている反面または同時に読みにくくもしている。この漢字の増減の問題,これが実に明治の初年から,あるいはその前から曲亭馬琴のころからそうであろうが,そうなるともう150年も前から今日まで連綿と日本では続いているわけである。わたしはきわめてむずかしい,そしてきわめて重大な問題を考えるうえでやや突拍子もないことを言うようだが,遠い将来の日本の文字,たとえばわたしたちの日本人の子孫が今から200年後にどんな文字を日常の文字として使っているだろうかと,そういうことをいつも考えてみるのである。今日の時代の1年は昔の10年に当たるとか,あるいは100年に当たるとか言われているので,あらゆる事物が必ずやこれからも急速に進展変化していくだろうということを考えると,今後200年後の情報文化の中で,日本人が学問や文芸など特殊な分野以外の一般の日常生活において使う文字にはどういう文字があるだろうか,はたして200年後になっても日本人だけは象形文字系統の漢字を日常生活に使っているだろうということに大きな疑問を持っている。
 漢字の本家である中国においても,二,三十年あるいはもっと遅れて,日清戦争の直後のころから漢字制限の研究を清国政府が始めたことは御承知のとおりである。それがずっと続き,今日では,中国の政府は表意文字から表音文字のほうに向かってその国策を進めている。わが国の当用漢字1,850字に当たる漢字でさえその中のおよそ500字を,中国ではいわゆる簡化字にしたのもその目標は漢字の表音化であるということを向こうでは言っているそうである。わたしはけっして中国のまねをしようというのではない。ただ,今日の漢字制限のむずかしさ,利害得失,甲論乙ばくが続いているこのむずかしさになんとか打開していくためには,200年後はどうなっているだろうかということを念頭に置いてから考えてみるとそういうような考え方が一つの方法ではあるまいかと思う。わたしの想像としては,200年後には,日本人はもう漢字を日常用としては使わなくなっているのではないだろうかと考えている。そして,10年前になくなられた石原忍博士の30年にわたる研究の結晶である新日本文字,つまり左横書きに適する新しい50音文字の構想を理想の一つとしてわたしはいつもしているしだいである。
 200年も先の話などをするよりも今,現実の問題が重大なのだという御意見がもしあったら,わたしは,200年ぐらいは民族永遠の歴史からすればすぐにたってしまうのではないかということ,そういった将来を念頭に置いて今日の国字問題,日本字問題を考えていくのが一つのかぎになるのではないかということをお答えしたいと思う。
 とろこでここに一つの重要なことがある。それは日常の文字が将来どのように変わろうとも,日本人が昔から受け継いできた古典,これは国民の総力をあげ,民族の総力をあげて保存し後世に引き継いでいかなければならないということである。たとえば夏目漱石の小説,これも今日では一つの古典だと言ってよいと思うが,あの漱石全集なるものを,ある出版社が原文原字のままでなく当用漢字,現代かなづかいに書き直して出版しようとしていることを前に聞き,わたしはそれに抗議を申し込んだこともある。もしそのような出版をしていたら,後世の日本にありのままの日本の文化の歴史を残すことはできないということをわたしは心配したわけである。そういった意味で,わたしは今日の大学の国文科や漢文科や歴史学科などもいっそうの充実がたいせつだと思っている。新聞その他出版物に見られる近ごろの文字の混乱に古典の研究者や伝承者が影響を受けてはならないと常々思っている。

新井委員

 以上いろいろと平素思っているままを申し上げたが,これをもう一度つづめて言うと,第1には,ことばの問題と文字の問題が密接な関係があるのは当然であるにせよ,この際は文字の問題,とくに漢字の問題に集約して考えたいということ。それから第2には,遠い将来のことを推し量りながら,さきほど200年などと言ったが,この日本の文字の問題を考えていきたいということ。第3には,この日本の古典類を原文原字のままいつまでも保存して学問の対象にしていきたいということ。以上の三つを希望したいのである。そのほか,そういった理想の問題のほかに,現に,ここにわたしとしてこれからもっともっと勉強しなければならない当面の課題,すなわち当用漢字の字種,字体の問題がある。繰り返すまでもなく,これこそ非常な難問題である。たとえば先ほど言ったように,表音文字を遠い将来の理想とするために,現在の当用漢字はふやすよりも減らすほうへとだんだん向かっていくことをわたしは希望するわけであるが,しからば「こうえん」という発音をかなで書いただけでは日比谷公園の「公園」もあるし,講演会の「講演」もあるし,演奏会の「公演」,何かの催しを後援する「後援」,高遠な理想の「高遠」,お墓に立ち上る「香煙」など,そのどれを言っているのかということは表音文字では前後の文章の文脈の中から判断するよりほかないというようなこともある。これはけっきょく最初に言ったように,日本のことば,いわゆる語いというものは非常に多いにかかわらず,それがすべてイロハの50音体系だけによって発音されるというところにも原因がある。しからば具体的などう解決したらいいかという困難な現実,この現実を背負いながらなおかつ漢字をなるべく減らしていきたいというわたしの希望,これは容易ならざる希望であることをわたしはもちろん痛感している。これからおいおいと皆さまがたからのごしっ正,御教授を賜りながら勉強していきたいと存じているしだいである。

福島会長

 どうもありがとうございました。漢字表の性格についてのお話としてまことにけっこうであったと思う。
 ひとこと釈明させていただくと,先の発言は,ここに掲げてある12の問題以外,あるいは12の問題どれでも本日の話し合いの対象とするという趣旨で実は申し上げたのではなく,まず1番の「漢字表の性格について」という問題から御審議願いたいということで述べたのである。2番以下の問題に関連することがあった場合,それを制限しようとしたり,また12項目をあげてあることが制限的な意味ではないという趣旨で申し上げたつもりである。したがって,一応本日の話し合いは1番の「漢字表の性格について」から御出発願いたいということであるから,そのことをもう一度繰り返させていただく。

佐々木(定)委員

 進行について会長に伺いたい。自由な発言であるから今のような御発言もけっこうだと思う。しかし,2か月に1回の会議で50人の委員が話し合うという会長の発言であるが,先ほどのように30分近い発言がもし許されるとすると,やはり原稿を用意してきて発言しなければならないような気持ちにもなるがいかがか。

福島会長

 その点は先ほども申し上げたが,この問題はもう1回,あるいは2回の総会を必要とするかも知れない。そこでまず第1に,漢字表の性格について審議会の委員のかたがたがどういうふうにお考えかをできる限り早く突きとめたいということである。
 なお,資料2は「漢字表の性格について」を検討することになれば,一応この資料に書いてあることがポイントになるのではないかということで整理委員会で検討して作成したものであるが,これらの点について逐次御意見を拝聴したい。

佐々木(定)委員

 わたしの伺ったのは発言の長さの問題である。

福島会長

 長さは短いほうが進行上よいと思う。しかし大事な点は各委員の御意見をはっきりさせるということであるから,時間的な制限というようなことはわたしとしては考えたくない。しかし2時間なり2時間半なりの会議でなるべく大ぜいの話を聞くという趣旨であるから,その辺は適当にお考えいただきたい。なお,2か月に1回の会議では時間が足りないということにでもなれば,1月に1回なり回数をふやすことも考えていかなければならない時期もあるいはくるかもしれないと思う。しかしその間に整理委員会も開かなければならないので,当面2か月に1回以上開くわけにはいかないが,各委員の御意見を伺うためにはどうしても開かなければということになれば回数をふやしてでも十分に御意見を伺う考えは持っていなければならない。ただ,本日は2時間半ということで限られているので,その辺はしかるべくお願いしたい。

遠藤整理委員会主査

 いま御説明があった資料2「漢字表の性格について」の「1」は「漢字表は必要か」となっているが,これは第1回の総会のときに,文化庁次長から今回の国語審議会は当用漢字表および当用漢字字体表について協議をしてもらいたいという要望があり,そのときに委員の発言の中で,当用漢字に縛られず,それ以前の漢字表という大きな立場に立ってまず考える必要があるのではないかという御意見が第1回,第2回を通じて圧倒的であったためにこうしたものである。そこで,きょうは当用漢字表の問題にはいる前に漢字表は必要かという問題から審議していただきたいと思う。それでは当用漢字表以外にどんな漢字表があるのかというと,「参考資料」の中ほどの裏側にある「各種の漢字表」に,常用漢字表,常用漢字表(修正),標準漢字表,当用漢字表,これは文部省や国語審議会で決めたものである。これ以外に民間のものをいくつかあげてある。実用漢字等級表,カナモジカイ5百字制限案,日本基本漢字などである。そこで当用漢字表に縛られずにいったい漢字表があったほうがいいのか,それともないほうがいいのかという問題から始めてはどうかという各委員の御意見であったように伺ったので,これを最初に出したわけである。

馬淵委員

 「1 漢字表の性格について」の「性格」とはどういう意味か。これはないほうがいいのではないか。

福島会長

 これは,漢字表が制限的なものか,あるいはいわゆる目安というようなものかどうかということだと思うが,これについては松村委員か遠藤委員からご説明いただきたい。

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