国語施策・日本語教育

HOME > 国語施策・日本語教育 > 国語施策情報 > 第11期国語審議会 > 第83回総会 > 次第

次第 協議〔その3〕

阪倉委員

 わたしは,漢字表はある意味では必要があると思う。ただ現在の当用漢字表について,一般社会の人たちが非常にそぼくに感じていた疑問,それはわたし自身の疑問でもあるが,どういう基準で当用漢字が選ばれたかをもう少し親切に説明する必要があると思う。たとえば,動植物の名称はかな書きにするという原則があるが,なぜ動植物の名称はかな書きにすることが望ましいのか。制限する場合はもちろん,目安とするにしてもなぜかな書きにすることを目安にすべきであるのかという説明が不足していると思う。たとえば,当用漢字表に「犬」という字があって「猫」という字がないが,この「猫」という字がどうしてないのか。あるいは,「松」という字はあるが「杉」とか「柿」とかいう字がない。そこで画数が多いからこれは望ましくないとか,使用度数がどうかとか,あるいは字の形がどうかとかいう説明がつくなら,一般社会の人たちは当用漢字表にもう少し信用を置き,なるほど使わないほうがいいのだと納得すると思う。現在のところ,どういう基準で選ばれたのが当用漢字かということが必ずしも徹底していない。そこで,この点について従来もいろいろ議論があったと思うので,もし御説明いただければありがたい。

古賀副会長

 ただ今までの各委員の意見に関連して,ちょっと補足的に申し上げておいたほうが御参考になるのではないかと思う点を2,3申し上げたい。これまでに木内委員,会長,それに前期も委員をされていた志田委員などの発言を伺い,みなさんに御参考になった点がたくさんあると思う。しかし,これはわたしが整理委員会に同席したときにも多少申し上げたことであるが,わたしが心配していた点が少しあらわれてきたと思う。というのは,実は運営委員会でも問題になったことだが,問題の所在をこの総会で十分御討議願い,みなさんからの発言があったものを整理してその上でもう少し詰めないと,将来作業する場合に,専門家のかたがたに専門的に詰めていただくときに,このままではちょっと仕事がやりにくい。だから,たとえばいま阪倉委員がおっしゃったような点をはっきりさせ,こういう方針でこしらえたものだとか,こういう意味の目安だとかということが書いてないと困るという御意見があれば,そういう方向に向かってやっていただけるということの議論がわたしは必要ではないかと思う。
 従来いろいろな点を非常に苦心してお作りになったことはよく存じているが,そういう意味でこの改定音訓表の前文を繰り返し読んでみると,先ほど志田委員から御説明があったように,わたしはたいへんよくできていると思う。しかし,まだこれでは舌足らずだからもっと細かく,こういう点をこういうふうに説明する必要があるというような御意見があれば,それをここでまとめていただき,それから実際の作業が必要であればそれをやっていただくということにしないと,ややもすると,なにかこういう資料をもとにしてお話があると,これが起草委員会のようなものがこしらえた原案であるかのような印象を与えるため,それに対する御質問がいろいろ出て,これはどうするつもりだというようなお話が出る。しかし,これはあくまでも整理委員会の役目として各委員の意見をこの程度に整理したというだけのことであるから,御覧のとおりまだ非常にばく然としたものである。したがって,この点はこうしてほしいという御注文をたくさん出していただき,これをもっと包括していただくようにしないと,ここでただ,整理委員会のやったことを批判したり質問したりしているだけにとどまると,こんどは専門的なことをやっていただく段階でも,そこまでやったことをただここで承認するかしないかという話になってしまい,この総会が大事な基本方針をこしらえ,その方針に従って作業をしてもらうという最初の構想がくつがえるおそれがある。前の経験からもその点は十分気をつけてやっていただき,いろいろな御意見があればみなさんで十分それを討議し,そこで出たいろいろな問題をじょうずに整理して,この点はこちらを立てればあちらが立たなくなるとか,あるいはこの点はこういう盲点があって,それをもっと詰めないと先の仕事はできそうにないとかいうことを整理委員会で整理していただく。それが整理委員会の役目だとわたしは理解している。そういった意味で,質問の形で言われたことに対してそれはおかしいとわたしが申し上げているではないが,その点をぜひお忘れないように。みなさんが今後,審議会の基本方針についてどんどん意見を出されることがわたしはぜったいに必要だというふうに思うので,その点を気づいたまま申し上げたしだいである。

岡村委員

 わたしは先ほどの志田委員の意見に全く共鳴し,同感するものであるが,たまたまいま副会長からも,何か焦点を絞ってやっていくほうがよくないかというような意見があり,わたしは先ほどから意見を承っていて,こういうような,ばらばらの思いつき式な言いたい放題のようなことをいつまで続けていっても何も結論が出ないのではないかと思う。そこで,だいたい主査と副主査を中心にして,ここにきょう出されている問題について,たとえば逐条審議のような形で一つずつ取り上げて,一つずつかたづけていくということができないものか,もしそういうことができるならそうしていただきたいということをお願いする。

森岡委員

 わたしはいちばん最初に御質問したが,副会長が御心配になっているような意味はぜんぜんない。ただわからないところを伺っただけである。それからきょうの議論はわりに焦点が合っているとは思っても,ばらばらだという感じはしていないわけである。
 実は志田委員が言われたことについて,新しい漢字表は現代の国語を書き表すための表としたほうがよいということであるが,その考え方について先ほどからわからないので,その前提となる改定音訓表とはどういう性格のものであるかということを伺ったわけである。それで改定音訓表を見ると,良い文章表現のための目安とあって,それは確かに書き表すための目安という意味になるかと思うが,わたしは国語審議会の漢字について考え方が最初から非常に実用主義というか言語生活的というか,何か便利のためとか,国民全体が読めるようになるとか,書きやすい文章にするとかいうふうな,そういう哲学があるような気がしてしかたがない。そこでもっと別の発想もあるのではないだろうか。書き表すための目安ではなしに,わたしたち日本人にとって,漢字を知るということがいったい何なのか。つまり漢字を知るということがことばを覚えることであり,それから漢語のみならず和語を確かめることであり,実用主義ではないもっと言語能力の土台になっているという漢字の位置づけというのも大切ではないだろうか。そういう点で阪倉委員も言われたように基準の問題にもかかわってくるが,わたしたちの基本語いというか,日本人が知っていなければならない基本的なことばについては,漢字というものによって語いを確かめるし,それから漢字というのは造語の要素であることは当然であるが,そういうふうな言語能力の基礎として漢字を位置づけるというように単に言語生活が楽になるというふうなことではない,そういう考え方も大切ではないかと思う。そういう点で,当用漢字の性格についても書き表すための目安でいいのかどうか,もっとことばの基礎能力としての漢字のそういう働きの面も考慮に入れる必要があるのではないか。そういうふうな疑問があったので漢字表の性格を伺ったのである。整理委員会が,その意見とか原案とかというつもりでなさったのではないことはよくわかるし,少なくとも副会長の言われたような御心配はないと思う。ただ今のような単にいい文章とか表現とかというだけでいいのかどうかお考えいただければたいへん幸いだと思う。

畑委員

 わたしは国語のほうは専門外で,化学の用語のほうをやっている者である。この会に出てみて,この前に岡村委員がたしか言われたと思うが,国語の専門家のかたは国語をどうよくしていこうかとか,どう改めていこうかとか,そういうことに関心を持っておられるかたがたいへん多いということだったが,わたしはどちらかというと,むしろ決められたものを使うユーザーの立場だと考える。わたしのまわりにいる同僚とか学生とかがどういうことを考えているかということを考えてみると,ここにおられる大部分の国語の専門家のかたとはだいぶ違った意見であるような気がする。
 わたしは,本来は専門用語のほうで文部省から御指定があって出てきたような形だから,専門用語のところでまた申し上げることになるのではないかと思っていたのだが,やはり総論的にここで一度申し上げておくほうがいいかと思う。前期でもまた今回でも,当用漢字というのは専門用語にはそう厳重に当てはめなくてもいいのだから,専門用語のほうはどんどん必要な字は使ってよいというお話があって,いささか安心したようなところもあるが,一方逆に言うと,いままでわたしどもが専門用語を検討してきた立場からいえば,そういうことを言われるのははなはだ心外な気がする。というのは,専門用語といえども,あのようなむずかしい字を使いむずかしい用語を使うということはたいへんよろしくないということで,過去何年かにわたって,専門用語をいかにやさしくするかというこにかなりの努力を払ってきたわけである。現在出ている化学の専門用語などは当用漢字以外は一字も使っていないわけで,わたしは,当用漢字のようなものが決められればそれになるべく従って専門用語を使うのは当然のことであって,なるべく当用漢字の中で収まるような専門用語をつくるべきだと考えている。ただ昔から使われてきた用語があって,その中に,いままで当用漢字以外を使ってはいけないというので無理にかなで書いてあることばがわずかに三つか四つある。ところが,それはかなで書くと混乱してどうしてもわけがわからないということで,いままでもたいへん困っていたわけである。今回の用語の改定にあたっては,そういうものについては漢字を使ったらどうかというような話があった。たとえば,この前話が出た「冶(や)金」の「冶」であるが,これは当用漢字表にないのでいままでは片かなで書いていた。しかしこれが「鉄ヤ金」と書かれると,「鉄アンド金」ということばと一緒になってはなはだ困る。だいたい主として,かなで書いたときに一字になってしまうのがいちばん困ることばなので,そういうたぐいのものはやむを得ず簡単な,比較的やさしい漢字になるものはこれを使っていくようにこんどは考えている。なお,先ほどから当用漢字が教育とどう関係があるかということが議論になったが,わたしはこういう漢字を決めるにあたっては将来これから伸びていく,これから教育を受ける子どもになるべく負担をかけさせないということがいちばん大きな目安になると思うので,専門用語の立場からは,どうしてもと当用漢字以外で使わなければならないような術語が出てきても,高等学校あるいは少なくとも中学校までの教科書では漢字を使うべきではなく,そこの段階まではかなで書けばいいと思う。ほんとうの専門書で,ごく限られた専門の人だけが読むようなものであって,やむを得ず漢字で書くべきものは漢字で書くほうがわかりがいいわけである。だいたいそういう方向をとっていくわけだが,なるべくならよけいな漢字は使いたくない,かなで書いて済むものならなるべくかなで済ましたいということである。たとえば第11期第1回の総会で,法令のほうでは「燐(りん)」という字は漢字で書かないとどうしても困るというような御意見があったようだが,われわれのほうでは燐は10年も前からかなで書くことに決めてしまっていて,漢字はぜったいどこでも使わないし,かなで「りん」と書いてあれば燐のことだと理解する。法令などの中で燐がかなで書いてあると何だかわからないというのは,燐という漢字を知っている人が言うことであって,たまたまこれが昔からあった字だからそのように言うわけである。しかし,たとえば新しく発見された化合物などは漢字で書かないでいやでもかなで書く。そう考えれば,燐はかなの「りん」だと初めから思ってしまえばそれでいいわけで,われわれはそれに慣らされてしまっている。それからもう一つは「硫(い)黄」だが,硫(い)黄は漢字で書いてはいけないというので,いままでずっとかなで書いてきた。これも,われわれはそれに慣らされてしまって,硫黄というのはかなで書くものだと思い込んでしまっているわけである。このほど改定音訓表で,硫黄は漢字で書いていいという例の中に出され,新聞などが漢字で書くようになったので,われわれもやむを得ずこれは漢字にしようということになったが,そこでもやはり反論があった。せっかくかなで書くことに慣れてきているし,中学校までの教科もかなで済んでいたのを,またどうしてこんなむずかしい字を教えなければいけないのかという意見が専門家のほうから出たわけである。これもさんざん議論したが,これは審議会のほうでいいという例の中に出され,新聞にも書いてあり,公害などで社会問題にもなっているところから,硫黄という字がたえず社会人の目に触れているので,これは漢字で書いてよかろうということになったわけである。ところが実際には,硫黄のことを研究している研究者はいま日本にはかなりたくさんいるが,その人たちから,せっかくかなで慣れたのをなぜ漢字で書くのだということで,この用語を担当しているわたしなどかなり詰問を受けた。どうしていまさらあのようなむずかしい字を使うのかという反論を受けたようなしだいで,やはりユーザーのほうの立場からいうと,なるべくむずかしい字は減らしていくという方向に向かうのがいちばんいいのではないかと思っている。実際に,われわれのサイエンスのほうの論文などで,当用漢字の出る前に書かれた昔の本などを出してみると,いったいどうしてこんなむずかしい字を使い,こんなむずかしいことを書いたかという気がして非常に不思議な気がするぐらいである。しかし当節の論文を見ると,ほぼ当用漢字だけを使って,そうしてたいへんやさしい表現で論文が書けるようになっているので,そういった方向で押し進めることはたいへんけっこうなことだと思う。こういうような方向が決められるとこれを使うわけだが,大多数のユーザーは,何を決めてもそんなことは無とん着にかってに書く人が圧倒的に多い。それから,取り決めがあるからにはそれに従って書こうという人もかなりある。サイエンスの論文なども,最近では編集などにも非常に気を使って,著者が妙なむずかしいことを書いてくるとやさしいことばに直す。そこまでやさしいことば,当用漢字や現在の音訓表を使ってサイエンスの論文なり本なりを書こうとする著者は非常に多いわけである。そういう人たちの意見を聞くと,せっかく慣れてきたのにどうして変えるのだという意見が非常に多いわけで,こういう漢字表とか送りがなを決めるというのはいろいろと議論があるかと思う。けっきょく化学の用語を決める場合もそうだが,別に論理的にこうでなくてはならないということは,多少はあるにしてもそれほどないような気がする。けっきょくわれわれユーザーの意見としては,とくかくこれは理屈ではなくて約束事なのだから,決められればそのとおり使う。したがって,どちらでもいいから決めてほしい,決めてくれればそのように使うと言う人がかなり多いわけである。そういう人たちの意見は,そう再々変えられては困るということであり,こういうことを言う人はかなりたくさんいる。いまも文学,古典の話が出たが,文学,古典はやはり一種の専門だと考えればいいので,そういう方面では当用漢字に縛られる必要はないわけである。しかし大衆小説のようなものは,やはりやさしいことばとやさしい字で書かれないと,おおぜいの人は読んでくれないのではないかという気がする。
 だいぶ妙な意見を申し上げたが,わたしの立場上一応こういうことを申し上げておきたい。

古賀副会長

 ただ今のお話に関連するが,実はわたしもどちらかというと自然科学のほうに交渉が深いので,お話はよくわかるし,仲間の者からもよく先ほど言われた例のようなものを挙げた賛否両論が出て,もっとゆるやかにしてくれという注文がある一方,決めてもらえされすればよいという話もある。それに多少関係があるが,実は,前期にまとめた国語審議会の結論がいずれ近いうちに訓令・告示となって公布されることであるから,なるべくこれを周知してもらうために説明会が各地で行われることになり,前期まで漢字部会の部会長をしておられた岩淵委員,それからかな部会の部会長をしておられた佐々木委員と御一緒に,及ばずながらわたしも説明者のひとりとして7,8か所を回った。そのときの経験では,確かにいま言われたように決められるといろいろな意味で困る。つまり非常に窮屈で困る。また新規のものを覚えなくてはならないから困る,それでなるべくゆるやかにしてくれという意見が一方にあった。ところが,その御希望のようにゆるやかになってたいへんよくなったというような話をすると,どちらでもいいようなことを言われると非常にやりにくいという反論がまた一方から出た。それは同じかたが言われるわけではないからわかるのだが,けっきょく,ではどうすればいいのだというような感じがすることが非常にあった。しかしそのような問題はあるとしても,ともかく現行の当用漢字表のほうはとくに先ほど会長から御紹介があったように,使用上の注意事項にあるようなことが非常に窮屈な制度として受け取られている関係もあり,これらのことに影響されて,すべてが実に細かに型にはめてあるような印象を与えることは確かだと思う。しかし見受けたところ,必ずしもそれが守られてはいない。守れ守れと言っているけれども,実は守られていない。そして一方,あれはけしからんというような議論が盛んに行われている。だからある意味では,わたしは前期にまとめられたあの結果というものは,確かに以前に比べれば大きく前進していると思う。しかしいまも申したように,そういうふうなゆるやかな与え方よりも,きちんと決めたほうがいいという議論も一部にはあるいはあるかもしれない。そこで,やはりみなさんでよくお話し合いを願っておかなければならないと思うのは,前期までの考え方を踏襲して,今後のはゆるやかなものを決めるほうが適当であるのかそうでないのかということである。わかりきったことのようだが,やはりそういうことから決めてかからないと実際の作業をするときにいろいろな不便な点があるのではないか。ゆるやかなものだということであれば,わざわざ目安,よりどころというような新しい表を示さなくても,もうそれだけでけっこうではないかという考え方もあろうし,またそうは言っても,やはり一応こういうものを見てなるべく自分はそれに従おうというかたが非常に多いとすれば,そういうものを示す必要があるということになるかと思うが,その辺はやはり決めていただく必要があるというふうに感じる。そういうことで,どのくらいの人数になるか知らないが,ある一部のかたがたに実際の作業をお願いするということにわたしはいずれなると思うが,その場合に,みなさんがそういうかたがたの仕事がやりやすいような一つの目標というものを示しておかれる必要があるのではないか。細かく分析してみると,たとえばAのかたが要望されたこととBのかたが要望されたこととはそのまま両立させることができないようなものもあろう。だからそういう点をよく洗っていただく必要もある。その洗いをやるのが整理委員会ではないかと思う。それからもう一つ申し上げたいことは,そういうことで,いずれ実際作業にはいると,みなさんは意識しておられるかどうか知らないが,いずれは御自分が作業をお願いされる立場になるということは覚悟していただかなければならない。だから,自分が引き受けることになったらこのようなことができるだろうかというような点もよくお考え願って,仕事をやる人たちがやりやすいようにいろいろ必要な注意をしていただいたり,注文をしていただいたりする必要があると思う。前回までに関係しておられたかたは,あるいはまた自分にそういう仕事がかぶってくるのではないかというような心配をしておられる向きもあるかもしれないが,今度新たに参加されたかたがたも,やはりそれはよそ事ではないということをお考え願いながらこういう問題を討議していただく必要があるのではないかということを,ちょっと気づいたので,念のために申し上げておきたいと思う。長くなって恐縮だが,要は,そういったことをお考えになりながら,今度は作業者が仕事をするときにはどうなるだろうということをお考えになり,ひとつそういうかたがたがやりやすいようにということも考慮して,じょうずに仕事をリードしていただくというのがこの総会におけるみなさん方のいちばん大きな責務ではないかというふうに感じたので,念のため申し上げたわけである。

鈴木委員

 いま副会長が言われたこととほとんど同じだと思うが,整理委員会に2度出席していろいろ拝見してみて,ある程度方針が決まって,審議会が順調に作業に取りかかる前にはだいぶむだと思われたり,わたしのように気が短い人間がいらいらするようなプロセスがないとかえって先にいってひっくり返るということが非常によくわかる。しかし,先ほど木内委員や新井委員が言われたように,基本的にはこの審議会は,漢字というものの制限をいままでやってきたわけである。それをなんとなしに少しゆるめるということで,何か方針とか定見がないような不信感もちょっと生まれてくる。わたしはその点で,少し審議会としては気恥ずかしいかもしれないが,日本語の文字に手を加えてきた過去20年近い歴史を顧みて,ここで文字問題をいま建ちかかっている建物にたとえると,それをもっと建てるのか,それとも建てたのがいろいろぐあいが悪かったからこわすのか,つまりこれからも漢字を制限し,少なくしていずれなくす方向にいくのか,それとも漢字の制限をなくすという方向には向かっていくが,すぐにはなくならないからいろいろな点で手直ししながらだんだんゆるめていくのかである。言語というのは惰性もあるし,政府の仕事だとそう一気にやめるというわけにはいかない。だから,そういう点ではいろいろ技術的にどうしたらいいかというのが次にくることだが,ともかくどちらへ向くかを決めてから,そのあとで細かい表の性格などをいろいろと論じないと,同じ表について論じていても,いずれ200年後にはこれをなくすのだということを心の中で思っているかたと,いや,もっとふやすのだということを心の中で思っているかたが一緒に作業をすると,ことごとにいろいろな問題でくい違いが出てくると思う。だから,わたしはやはりここで非常に単純で荒っぽいかもしれないが,漢字制限というものをいずれなくす方向にいくのか,それともこれを強化する方向で,ただいろいろいな行き過ぎなり矛盾なりは直していくというのか,それを決めないとどうも議論がはっきりしないのではないかと思う。

トップページへ

ページトップへ