国語施策・日本語教育

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次第 国語問題・国語政策について(自由討議)人名漢字について2

宇野委員

 これは10年以上昔のことで,はっきりと覚えていないが,要点だけは記憶している。読んだ時の感じでは,司会者は人名表記を片仮名にすると便利だということを何とかして引き出したくてしょうがないような印象を受けた。ところが,3部門の担当者たちは口をそろえて「漢字でなければ大変である」と言っている。私も実は不思議に思った。名簿などは仮名かローマ字にして音引きでつくれば一番簡単だろうと実は思っていた。それを読むと,何百,何千くらいはいいかもしれないが,何十万,何百万,場合によっては何千万という数の日本人の名前を整理しようという場合には,漢字でなければとても処理はできない。なぜかというと,片仮名にすると同姓同名がものすごく増えて,それを識別するためには,性別,地名,年齢,職業とか,いろいろなことで突き合わせていかなければならないので,名簿が大変複雑なことになる。もちろん漢字を使ったってそういうことはあるが,漢字の方は,さっきの「いとう」にしたって,「伊藤」と「伊東」とで,たちまちそこで二つに分けることができるわけで,とにかく非常に処理が簡単になる。まして,名前も漢字ということになると,同じ「たかお」にしても「孝夫」もあれば「孝雄」もある。同じコウでも「高」もあれば「孝」もある。そういう漢字の違いによってある程度識別ができるので,漢字でなければとても処理ができない,というのが座談会の結論であった。
 名前を仮名にするということは,新聞などは非常に時間的に急ぐものであるし,また,あらゆる漢字を用意しろというのは無理な注文であるから,やむを得ず仮名にすることはあっても仕方がないと思うが,なるべくは本来の書き方でしていただきたいというふうに私は思っている。

江尻委員

 私は国語というものは,今まで決して万古不変のものではなかったし,これからもそうであろうと思う。ヨーロッパ語についても,中世の英語,ドイツ語とか,あるいは近代の英語,ドイツ語とかが特別に研究されているようであるが,日本語の場合はそれ以上に変化が大きかったのではないか。例えば,明治前後の文学を初め,書きものは,現代の教育を受けた人が読もうとしても理解できない。森おう外の作品ですらもうなかなか読めないという状態である。これは時代の変化という背景があるからであると思う。したがって,漢字の問題や,日本語の問題を考える場合も,現在の状態が不変であることを前提にして,どうあるべきだと固定的に考える必要はないのではないか。時代の変化に適応していくという柔軟な考え方を持たなければいけないのではないかというように考える。
 結局,その時代時代におけるコミュニケーションの必要性ということから,国語がどうあるべきかという問題が考えられてきているのだと思う。例えば,明治初年,選挙権を有する者は直接税を10円以上納める人だけに限られていた。そういう人は有産者で比較的知識階級であったが,当時の社会情勢としては,政治的意思を決定するにはそういう人だけでいい,そういう人しかできないという状態であったのだと思う。その当時の有権者数は全国で30万ぐらいと記憶しているが,新聞の発行部数がまさにこれと一致していた。その後,普通選挙になって,有権者数も1,000万人に増加した時に,やはり新聞の発行部数がそれと並行して同じような数になった。
 戦後,婦人に参政権が与えられ,現在,有権者数は6,000万か7,000万と思うが,ユネスコの統計では,日本の新聞発行部数は,朝・夕刊合わせて6,000万か7,000万というような数字になって並行して発展してきている。これは,政治意識の高揚とか,社会生活を行うための必要な意思の決定とかにコミュニケーションが必要だから,そういう相関性ができてきているものと思う。したがって,有効で正確な,そして容易に意思疎通ができるような表現方式を持つことが社会生活のために必要である,という大前提に立って,言葉の問題を考えなくてはいけないのではないかと考えるわけである。
 産業革命以後,機械動力の発展に伴って,社会はどんどん変化して,今はまさにその変革が急角度になされつつある時代であり,これをいわゆる情報化の時代というような言葉で呼んでいる。そして,これから西暦2,000年にかけて社会変化はますます大きくなっていくと思われるが,その時代に合わせた国語という考え方を前提にしないと,これからは国語の方が遅れて日常生活に支障を来すということが起こってくるのではないかと考える。
 先ほどの御意見のとおり,経済性を問題にする必要はないかと思うが,社会の変化に適応できる国語,社会のコミュニケーションをうまくやっていける手段としての国語でなければならない。
 そういう点から考えると,これからの情報化時代の伝達は,エレクトロニクス等による部分が非常に多くなる。つまり,工業化の時代から情報化の時代に入るために,我々の日常生活の中で,情報の伝達を必要とする領域がますます増えていくことになるであろう。そのためにそういう条件に合った国語に段々と変わっていくという必要があるように思う。
 漢字の問題,表現の問題等,いろいろあろうと思うが,そういうことを大前提として,次期の国語審議会あたりで新しい国語政策の問題,例えば効果的なコミュニケーションの在り方等について(国語研究所等での調査研究を基にして)検討する必要があると思う。21世紀に臨む国語はどうあるべきかということを,全体的に審議することは不可能であるとしても,その中の一つ,二つの問題に着手していくべきではないかという感じを持っている。

林(四)委員

 私は人の名前について,一体何が名前なんだろうという疑問をいだいている。戸籍は振り仮名を振って届けると,振り仮名を振った形がその人の正式名称になって,本当に署名するときに,振り仮名を振らないと,本人ではないということになる,というふうに記憶している。そうだとすると,法律上は,人の名前,人のアイデンティファイするものは字であるということになると思われる。この人はこの字で届けているということは認定しているが,それをどう読むか,振り仮名は要求されていないわけである。ある字を書いて,それをどう読むかは法律的には規制していないわけである。だから,読みは,通俗的に世の中に通っている通り名であるというだけであって,いざというときに,本人であるかどうかを法律上証明してくれるのは音ではなく字であるということになるのではないかと思う。
 しかし,これは言葉というものの本質から考えると逆転している。私たちは,言葉は音であるというように思っていて,その音を文字に書き表すときに表記という形が出てくると思っている。つまり,まず,言葉は音であって,その言葉の形にもう一つ表記の形があると考えている。そして,そこにはどうしても揺れが出てくる。日本語の場合,普通の文章を書くときには,表記の揺れというのはある程度認めていると思う。
 例えば,「そらがくもっている」という文章の場合,「くもっている」というのを平仮名で書いても,漢字で書いても違う文を書いたとは考えないと思う。同じ文を書いたのだが,ただ表記の面で違いがあるということだけで文が違うとは考えない。
 音の言葉があってそれに字をあてているわけである。「当用漢字音訓表」でも漢字の読みを決めているのではなくて,書くときにどの字で書くかという範囲を決めている。この場で,範囲とか何とか議論するつもりはないが,この字をどう読むかというのは本来ではないというのが今の音訓表の立場だろうと思う。
 ところが,名前の場合は法律的にそうではなく,字の方が優先した形になっていて,それに音がただ通俗にくっついていて,それを読むという形なのではないかと思われるが,それが果たしていいことかどうか。それはたまたま届けの形式がそうだから,それに縛られてそうなっているというだけの話で,届出の形式を変えればいいと思う。言葉というのは本来音であるという立場に立ち,名前の場合もそうなのだとすれば,届けの形式は,名前の本当の欄のところには表音式に書いて,それにこの人の好きな表記をあてるとこういう漢字になるとか,こういう仮名になるとかいうふうに,振り漢字としてその人の好みに合った字がそこに書かれる。つまり,本当にその人をアイデンティファイするものは音なのである。という形の方が,言葉の性質からすれば合うのではないだろうかと考える。

室屋国語課長

 人名漢字の件について法務省民事局第二課に照会したところ,戸籍法上の規定では,御存じのとおり,子の名には「当用漢字表」と「人名用漢字別表」「人名用漢字追加表」の漢字,それに平仮名,片仮名を用いるということになっている。子の名の漢字にルビを付すということについては規定がない。ただし漢字にルビを付することについて明文化されていないが,通達で,漢字にルビ付きで受け付けて戸籍に記載するように行政指導しているということである。ただし,そのルビは通常の漢字の読み方として正しいものであって,例えば,極端な例であるが,「山」に「うみ」とルビを振ったような場合は許可しないということで行政指導をしている,ということである。

下中委員

 各委員がいろいろ例を挙げておられるのは,社会生活での名前の働きだと思う。名前の読み違えとか,人の取り違えとかの不都合はどういう工夫をしても皆無というわけにはいかないと思う。しかし,名前の社会における働きという面から言えば,社会の中ではむしろひどい不都合が起こらないように動いていくものと思うので,余り気にする必要はない。
 ただ,人名漢字の問題は,結局,自分の名前が,定められた漢字表からはずれているとか,子の名付けの際に漢字が制限されるのは人権問題だとか,ということが議論の根本にあると思う。そういうことであると名付けを制限されたくないという問題と,戸籍づくりのテクニックの問題とがクローズアップされてくるので,できれば今期中に,後始末はつけなければならないが,オフィシャルには国語審議会は名付けの問題(人名用漢字)とは縁が切れるような方法を考えるのが一番いいのではないかと思う。

望月委員

 人名漢字を重視することがこの際必要であるという意見もあったし,また,それほど使われていないのなら,「新漢字表」ができたからといって改めて考えなくてもいいのではないかという考え方も,あるいは出るかもしれない。ただ,そういうことを考えるために,「新しく名前をつける際,現行の人名漢字がどのくらいのパーセンテージで用いられて役所の窓口を通っているか」という調査データのようなものがあるのかどうか。もし分かれば伺いたい。
 私自身は,以前,「制限」から「目安」に性質を変えていくということを考えたとき,人名漢字というものをまたここで新しくつくり直すとか,その数を増やすとかいうことは,どうも何かひっかかりを感じる。
 とにかく我々は,現行の人名漢字もさることながら,当用漢字ができてからもうかなりの間,それを使うことに慣らされている。漢字を使うときには,一応当用漢字にあるかどうかというふうにして(これはいわゆる制限の悪い面であろうが),国民は段々と当用漢字というものを一つの下敷きとして考えることに慣れてきている。特に子供に名前をつける年配の親たちは,小学校に入学した当初から学年配当漢字で来ている。漢字を見れば当用漢字を思うというところまで,大体我が国の義務教育は徹底してきているのではないかと思うので,今更新しく人名漢字をつくらなくてもいいと考える。それは幾らかはみ出しはあるだろうが,そのはみ出しは,それほど手を焼くようなものではない。そのためには,先に申したような現行の「人名漢字」の使用率を調査したものがあるのかどうか伺いたいと考えている。

福島会長

 御承知のとおり,昨年,法務省の発案で人名漢字表に追加があったが,その時の説明では,追加する以前の「人名用漢字別表」では,窓口で文句を言う人が絶えないということで,要求度の高い字を拾い集めて,それを追加したということである。
 名前をつける際にどのくらいのパーセントではみ出すのであるかといったような正確なことは知らないが,戸籍の窓口で困ったので追加問題が起きたということだけは,事実であろう。事務的なことを申し上げると,この審議会としては,来年の終わりごろまで漢字表の答申をすることになっている。現在,漢字表委員会で検討願っているが,答申の際には人名漢字表の細かい具体的な結論は別としても人名漢字表はどういうものであって,どう取り扱っていきたい,というくらいの案を一緒につけておかないと首尾一貫しないということになるように思う。
 そのほかにも,教育漢字をどう扱うかということも一緒につけて答申をしないと,新漢字表の1,900字の答申だけでは首尾が整っていないのではないかということになるような気がする。
 教育漢字問題は,適当な委員会なり何なりで別途に研究して定めることを希望する,といった程度のことでも,場合によっては通らないことはないと思う。しかし人名漢字については1,900字の「新漢字表」を答申すると「人名漢字表についてはこのように考えている」ということを言わなくてはならないということになりそうである。漢字表委員会に,それも検討願うというわけにもいかないと思われるので,あるいは問題点整理委員会で御検討願わなければならないかもしれない。
 法務省との関連もあるので,具体的なところまで踏み込む必要はないかもしれないが,漢字表の答申をするときに,国語審議会としては人名漢字表問題についてどう考えるかということだけは言わなければならないのではないかと思う。
 そうだとすると,今後の総会では漢字表委員会の結論の出るころまでに人名漢字表問題について,審議会の意見を取りまとめるように取り運ばなければならないのではないかと思う。人名漢字問題は審議会としてほうっておいてよいという意見もあるいはあろうが,どうもそうはいかないように思うがいかがなものであろうか。

木内委員

 おっしゃるとおりだと思う。「人名用漢字別表」は国語審議会でつくったものであり,更に今回はかなり大きなプリンシプルの変更をしている以上,何らかの考えを示さないわけにはいくまい。
 ただ,その言い方はいろいろあって,「つくったのはもともと間違いだから,不要である。全く自由にせよ。」というのから,「現状とほとんど変わらなくてよい。」とするのまでいろいろあると思う。
 前回総会もほとんどの時間を人名漢字の審議で費やし,本日もいつの間にかそうなってしまった。そこで随分いろいろなポイントも出たので,更にこの際,各委員からこれをどうしたらいいかという意見をかなり具体的に徴することが必要であると思う。
 いろいろな考え方があるが,現在の人名漢字表に,今,問題になっている字は皆加え,注意書きを付けることがいいと思う。例えば,これは一応の目安であって,ほかの字を使ってはいけないというわけではない,ただし余り変な字を新しくつくってこう読むとかいうことは認めない,というようなことを上手な文章できちんと表す,という示し方もある。それも余り制限的であるというので,まだ異論を唱える人があるなら,ここにあるリスト以外のものを使いたい場合には,国語審議会の賛成を要す,ということにしておいてもいいと思う。
 余り難しい字を使うなということを世間に対し奨励するのは結構ではあるが,国語審議会の名において奨励するのがいいかどうか,少し問題があろうと思う。
 また,戸籍に登記する際,難しい字だが,こう読ませたいというのであれば,読みをただ教えるという意味で,謄本の正文ではない振り仮名の付け方をスタートさせたらいいと思う。余り変なことを許すと,また変な読み方をするかもしれないから,これはまた別途の問題になるが,こんなアイデアを持っている。
 それから,本日もし時間があったら,教育漢字表をどうするかについて,私の意見を申し上げたい。

福島会長

 後ほどお願いすることと思う。
 私が先ほど申し上げたのは,総会で人名漢字問題について時間がもっと掛かっても,掛かるだけの重要問題だと思うので,余り進行を急いでいるのではないという意味である。

遠藤主査

 昭和21年に「当用漢字表」が出てから5年間で,人名漢字についてどういう調査があったのか知らないが,5年の間に非常に不便なことがあり,昭和26年に「人名用漢字別表」ができたわけである。内閣告示・訓令が出され,それを受けて,法務省令が出されたのだと思う。
 それ以来そのまま過ぎていたわけであるが,最近になって不便が高じたために,昭和51年に,人名漢字表を改めるという議が出て,その時にも,国語審議会の答申によって内閣告示・訓令が出されるという手順で新しい改定が行われたのだと思う。
 以上のことについては,前回総会で,その間の事情をまとめたものを参考資料としてお配りした。
 それで,各委員の意見は制限を全くなくしてしまうということではなくて,ある程度の制限を維持するということに集約されるように思われる。
 そうすると,問題は,現状の120字のままでよいのか,もう少し字を増やした方がよいのか,それとも使われない文字があるから減らした方がよいのか,ということに限られていくようである。
 現状のままでいいのであれば,不便であるという声が出てきてから法務省で調査検討して,国語審議会に,これだけまた増やしたいが,いかがであろうか,ということを言ってくることになるのであろう。そのときになってから検討すればよいというのであれば,現在は何もふれないことになる。そうではなく,国語審議会が法務省に対して何か述べるということになると,現状をいろいろ批判して,減らすとか増やすとか,そういう方針を当審議会で決めて法務省に伝えるということになろう。問題はこういうふうに整理されるのではないかと思う。

福島会長

 そのとおりだと思う。私は若干印刷通信事業にかかわり合いがあるので,字数の多いのは困るという苦情ばかり聞いているわけである。漢字表の改定があっても,原案は1,900字くらいで,50字程度の変化であればまあまあいいではないかという気分もあるが,人名漢字表という分野でどんどん増加したのでは何にもならない,人名漢字表も新聞関係では印刷せざるを得ないのだという苦情も聞いている。何もそういう意見に従う必要はないが,審議会として人名漢字表問題をどういうふうに考えるかということだけはコンセンサスを得たい。それは,漢字表の答申をするときまでにできればまとめておかなければならないものであろう。
 したがって,漢字表の答申を来年いっぱいにしなければならないとすれば,人名漢字問題はかなりの大問題であることは間違いのないところであるので,場合によっては忌憚(たん)のない意見をもう1回くらい伺っても一向差し支ないと思う。
 人名漢字問題は次回の総会でも結構だと思うが,それと同様に教育漢字問題についても,やはり意見をまとめておかなければならないということになる。人名漢字問題で引き続いて意見があれば御発言いただくし,もし次回に大々的にやろうということであれば,教育漢字問題について伺いたい。

木内委員

 よく考えた上で次回総会で述べたいと思うが,当審議会で教育漢字表はやはり扱わざるを得ないと思う。ただし,教育漢字表をどうするかという取り上げ方は余りよくないのであって,この際,教育をどうするかを考えた上で,教育漢字表をどうするかを検討しなければならないと思う。新漢字表が「目安」になった以上,現行の「教育漢字表」は,成立の由来からみて,全く変えなければならないと思うし,それから世の中の変化に伴って,いろいろなことが変わったので,現行の表を墨守することはとうていできないと思う。
 そうなると,字を入れ換えればいいというのではなくて,新しい考え方に基づく教育漢字表をつくらねばならない。国語教育,その中の漢字教育をどうするかということを,この審議会が本格的に審議して決めるのはどうかと思うが,おおむねのコンセンサスは得られると思う。それを次回またその次くらいにやっていただければできるのであって,そう難しいこととは思わない。
 こういう基礎的なことを認識して異論がある場合そこを検討していけば,はっきりした結論を得られなくても,おおむねのコンセンサスは得られると思う。
 過去の日本は,国語の教育方においては不勉強であった。大正時代においても,教えるのは漢字であり,漢文学であって,国語というものを教えることは不十分であったのではないかと思う。
 ただし,漢字教育というのは国語教育の中の一部でしかないが,これは非常に重要な一部でもあるので,漢字が国語の中で重要だという認識はある程度固めておかないと,いい議論はできないと思う。
 私の提出意見書にも書いたとおり,昔の日本人は,漢字によって中国の文化とインドの文化とを理解して,それを大和言葉と漢語とのまじったものによって表現するようになったのであるが,その歴史的過程を理解することが国語を知る不可欠の一部だと思われる。国語をただ教えるのではなくて,小学校の時からそういうことを教えながら,身についたものにしていく必要があるだろうと思う。
 それから,漢字は一つの偉大なるシステムであるので,システムとして理解しなければいけない。単にポツリポツリと教えていくのは非常に能率が悪い。
 次に申し述べたいのは日本語のことである。日本語は大和言葉と漢語と,近ごろはヨーロッパ語のまじり合ったものになって,非常に大きな発達をしている。「言葉というものは決して一定のものではない。」という江尻委員の御発言があったが,そのとおりだと思う。しかし,その元になっているのは大和言葉であるので,その特質を,中国語,英語との対比においてある程度理解する必要がある。こういう理解を伴わずに,ただ国語を詰め込むという教育はいけない。そこの理解が伴っているということが,漢字をシステムとして理解することの一部になるわけである。
 もう一つ,子供にとって覚えやすいのは,見たところ字面の難しい字であって,易しい字の方がかえって覚えにくいということがある。動物の名前を示す字とか,「学校」という字とかは,子供はすぐ覚える。そういうことに気がついたのは,石井勲氏であるが,そういう考え方は大いに国語教育に取り入れなければならないと思う。
 結論として,正しい国語教育の在り方は,漢字は何学年までに何字覚えさせるというような考え方とは根本的に違うものである。これについては以前から考えていることなので,難しくなく,かつ長くない言葉で説明することはできるだろうと思う。
 もう一つ,別の面からであるが,大人になり,社会へ出て自分の仕事を持つようになった時に,国語についての専門的な分野(一番専門的なものは古文書を読むといったことであろうが,そこまでいかなくても)にでも,あるいはほかの専門的な分野にでも入ろうと思えば入れるような素地を,小学校,中学校,高等学校の時に与えておくのが,正しい国語教育であって,これは漢字を何字覚えさせるかということとは非常に違うものだと思う。
 以上が国語教育を考え直す場合の基礎的な認識だろうと思う。その認識を頭の中でかなり練った上で現状を考慮して教育の在り方を出していく。その中で漢字のファンクションを正しく理解する。こういうふうにしていけばいいので,そう難しい作業ではないと思う。
 教育用漢字について,表をどうするかということを審議する前に国語教育の検討を是非やっていただきたい。次回総会をそれに当てることができるならば,間に合うよう資料を作りたいと思う。

福島会長

 次回は,たぶん,教育漢字問題,それからまた人名漢字問題を引き続き討議していただくことになると思う。国語審議会としては,漢字表の審議とともに,諮問事項にあるなしにかかわらず,例えば話し言葉といった重要な問題についても意見を取りまとめるべきではないか。現在第13期審議会が諮問されていない事項についても,将来の第14期,第15期の審議会に対して文部大臣はこういうことを諮問すべきだという意見も,まとめられるのならまとめたらいいと考える。これらは,事と次第によっては,答申の時期に付いていなくても,後の審議会で検討してもらいたいというようなことでもいいかと思う。
 次回総会は,字体問題その他,漢字表委員会の検討の中間報告がいただけると思うし,またそれについての審議も出てくるわけであるが,もう1回ぐらいは比較的自由な時間になりそうにも思う。人名漢字問題,教育漢字問題については,漢字表の答申に付属して,この程度の意見は言っておこうということがまとまれば幸いだと考えている。

木内委員

 先ほど石井勲氏の教育法について触れたが,最近,「石井式漢字教育革命」という本が出版された。おじゃまでなかったら,1冊ずつお持ち帰り願いたい。

福島会長

 石井氏の説によれば,難しい漢字の方が覚えやすいということか。

宇野委員

 それは複雑な字のことである。石井氏の持論は,よく引かれる例であるが,例えば,「鳩」と「鳥」と「九」という字は,大人が考えると「九」が一番易しくて,「鳩」が一番難しいと思う。ところが,子供は「鳩」を真っ先に覚える。その次に覚えるのが「鳥」で,「九」という字は一番覚えにくいというのである。石井氏が実験しているのを何度か見たことがあるが,これは事実である。最近,私も,孫に対して同様の実験をしてみたところ,果たしてそうであることが実証された。
 抽象的な数は子供には難しい。一つ二つぐらいは分かるであろうが,五つだの,十だのということになったら,子供にはちょっと無理である。それが分かるようになるのは,学齢前の5歳か6歳であろう。2歳や3歳の子供では数ということは分からないようである。少なくとも字は分からないと思う。仮名は一番難しいと思う。平仮名,片仮名は絶対分からない。なぜかというと,仮名には意味がないからである。心理学の専門家もおられるので,その話も伺わなくてはと思っている。

福島会長

 そろそろ閉会の時間かと思うが,何か御発言があったら,どうぞ。

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