国語施策・日本語教育

HOME > 国語施策・日本語教育 > 国語施策情報 > 第13期国語審議会 > 第105回総会 > 次第

次第 話し言葉,敬語,外来語等について(自由討議)

福島会長

 前回総会以後も引き続いて漢字表委員会には検討を進めていただいているが,まだまとまった結果が出ていないので,本日漢字表委員会の報告はない。
 前回総会では教育漢字や人名用漢字についても御意見が出されたが,教育漢字については漢字表委員会で検討されているので,その報告を待ってまた総会で取り上げることにしたいと考えている。そこで今回は,昨年の9月総会に問題点整理委員会から整理して出された問題のうち,残されていた「話し言葉,敬語,外来語について」を取り上げて自由討議の形で御意見を伺いたいと思っている。人名用漢字については前回総会で取り上げたので,本日また追加の御意見もあるかと思うが,時間を有効に使うために順序として「話し言葉,敬語,外来語について」から討議をお願いしたい。参考までに9月総会の資料の抜粋「話し言葉,敬語,外来語について」をお手元にお配りしてある。9月総会の時にも伺ったが,問題点整理委員会の遠藤主査にこの資料についてもう一度簡単に御説明願いたい。

遠藤主査

 お手元の資料2は,問題点整理委員会が昨年の第13期第1回の総会の意見及び文書等によって提出された意見の中から取り上げるべき問題を拾い上げて整理したものの第3項目に当たるものである。総会あるいは文書による各委員の御意見のうち,話し言葉,敬語,外来語に関連のある10の意見がそのまま並べてある。これから議論を願う便宜上,この10の意見の整理したもの(9月総会提出資料)を御記憶を新たにするためにもう一度読み上げておく。
 これは話し言葉,敬語,外来語,美しく正確な国語(前の3項目を含む。国語をもっと全体としてとらえて,美しく正しくしていくのにはどうしたらいいかということ。)という4項目に整理がしてある。
 第1項目の話し言葉の整理は,(1)音声言語としての日本語の検討(音声言語というのは話し言葉と言ってしまえばそれまでであるが,実はここで音声言語という言葉を使っているのには意味があるので,これはまた後で機会があれば御説明申し上げる。),(2)話し言葉教育の指針(話し言葉教育の指針は,戦前から小学校,中学校でいろいろあって,戦後もよく検討されている。それがそのままでいいのかどうかという問題である。),(3)話し言葉の中の語法の検討(話し言葉が非常に乱れている,話し言葉の語法が乱れている,例えば「見れる」とか「寝れる」という言葉が今では一般的になっているが,これをどうしたらいいかという問題である。),(4)話し言葉の乱れについての対策の検討,というようにした。
 第2の敬語は,(1)「これからの敬語」(昭和27年国語審議会建議)の再検討,(2)敬語の目安の検討(敬語が今いろいろな使われ方をしているが,これをどういうふうにしたらいいのか。使い方の目安をつけたらいいのではないか。それを検討したらいいのではないかということである。),(3)敬語の乱れについての対策の検討,というようにした。
 第3の外来語は,(1)日本語の語彙としての外来語の検討,(2)外来語,和製英語の安易な使用からくる国語の乱れとも言うべき問題についての対策の検討,(3)外来語の整理(置き換え)の検討(例えば和語にどう置き換えるべきかという問題である。),というようにした。
 第4は美しく正確な国語(話し言葉,書き言葉ともに美しくするのにはどうしたらいいかという問題である。)となる。
 大体以上のように整理してみたが,もっと大きく整理すると,二つに分けることもできる。一つは乱れを正すというか,話し言葉も敬語も外来語も非常に使い方に乱れが見られるので,それを正さなければならないが,それをどう正すかということであり,態度から言えばやや消極的である。もう一つは美しく正確な言葉を求める,つまり乱れを正すということから更に一歩進んで美しく正確なものに言葉を築き上げていくということであり,態度から言えばやや積極的である。積極的な面から見ると,敬語の目安の検討,「これからの敬語」の再検討,話し言葉教育の指針の検討,外来語を美しい和語あるいは漢語に置き換える問題,音声言語としての日本語の検討,正確で美しい表現の目安の設定というようなことであろうと思う。
 以上簡単であるが,議論の参考までに申し上げた。

福島会長

 それではこの順番でなくても結構であるので,話し言葉,敬語,外来語等について御意見を伺っておきたい。御発言をどうぞ。

林(四)委員

 話し言葉教育の件について少し意見を申し上げたい。これから述べることは第12期に北村委員の述べられたことの繰り返しにすぎないかもしれないが……。
 52年7月に55年度から実施される小学校学習指導要領が発表された。その中にどうも変なアンバランスがあると思う。今度の学習指導要領では一般に精選ということが言われて,時間数を減らし,多すぎる教育項目を減らして大事なことに集中するということが一番大きなこととされている。それは国語の場合と他教科の場合とは明らかに違うはずであるにもかかわらず,全く同じ尺度で国語にも時間数を減らすことと内容の精選ということが押し当てられている。そのためにどうも適当でない精選が行われそうな傾向がはっきり出ていると思う。それは話し言葉教育の時間とか内容とかを減らすという結果になるということである。
 国語教育の中で大事なことはたくさんあるが,例えば中学校では週5時間が4時間になるという計算であるから,とにかく2割方減らさなければならない。そうなると話し言葉教育が減らされるということにならざるを得ない。既にそういう風潮というか傾向というかそうなるものだというあきらめというか,そういうものが非常に瀰(び)漫しているのが事実だと思う。果たしてそういうことでいいのであろうか。
 この間の教育課程審議会の発表で表現教育,殊に作文教育が重視されなくてはならないことになった。これは非常によく徹底していて,これから作文教育が盛んになることは大変望ましい傾向だとは思うが,そのためにどこか減らさなければならないとなると,話し言葉を減らすということになる。それは非常に憂うべきことで,では一体どうしたらいいのかというのが,国語教育に携わる人の一番大きな悩みだと思う。

林(四)委員

 まず精選については国語科の場合は他教科とは違うのだということをだれかが言う必要がある。今まで教育課程審議会の中で岩淵委員が非常にがんばってくださったが,また別の立場から国語審議会が黙っていていいはずはないと思う。話し言葉のどういうところが大事かということを論じ合うことはもちろん大事であるが,それ以前に学校教育の中で話し言葉教育の時間がほかと同じように減らされてはいけないということを,国語審議会は座視せず言わなくてはいけないのではないか。そういう態度表示を何かしていただきたいというように私は思っている。
 そうすると,今度は話し言葉のどういうところをやるのかということになると思う。それはゆっくり議論すればいいことであるが,とりあえず私の意見を申し上げる。
 話し言葉教育としては,明治の初め日本の国語教育が近代化してきたころに教科書の中に対話編が入っていた。話し言葉は明治の最初に既に掲げられていたわけである。その時の内容は恐らく人前できちんとあいさつができること,そのあいさつがいわゆる標準語(明治の初期であるからまだ標準語という概念はないが。),どこでも通じる言葉できちんとできるように何とか国民全体をもっていきたいということであったと思う。それが段々明治の後半から大正,昭和にかけてすっかり文学教育的なものに押されてしまって,そういうものが何だか影をひそめてしまった。
 戦後になってアメリカの生活単元学習というものが入ってくるとともに,会議学習というものが盛んになった。これが現在減らされようとしている対象の話し言葉教育の一番主要なものだと思う。日本人に既に標準語は徹底した,今更大して標準語教育も必要ないであろう,あいさつも一応皆できる,会議教育も非常にうまくいったから,子供でも大人顔負けの会議ができる,今更会議,会議という必要はない,というようなことで減らしていいということになっていると思う。確かに会議の議事法とかいうものは大変うまくなってきて,若い人々は我々よりずっと上手に会議をしている。それは事実だと思う。しかし会議という形ではなくて,一般にオープンな生活をするときの話し言葉がどうあるべきかというようなことについては非常に弱いと思う。
 岩淵委員は先ほどの御報告ではおふれにならなかったが,ほかの機会にフランスの感想を承った時しきりに述べられたのは,フランス人は非常によくしゃべる,それに対して日本人は余りにもしゃべらなすぎる,それはたまたま自分がフランス語を話せないというようなことではない,そういうこととは無関係にとにかくフランス人はよくしゃべり,しゃべらなければ他に遅れてしまうと考えているが,日本人は昔からしゃべらない方が人間が偉いというような価値観からいまだに抜けていないから,しゃべらないことに対して平気でいる,しかしこれでは,これからの国際社会に出ていったときに,まず日本人はしゃべれない,語学の問題ではなくてしゃべる内容がない,いろいろなときにすぐ即応して自分の意見が言えるとか,話す内容があるとかということにおいてひけをとってしまう,その点教育の中でとにかくどこへ出てもしゃべるというようにしておかないとこれからの日本人はだめだということを痛感したということであった。
 これまた極めて大事なことではないだろうか。国語教育において今や話し言葉教育の必要のなくなった面は確かに減らしていいと思うが,そのかわり話し言葉教育の足らない面はやらなければならないと思うので,どこを補わなければならないかを研究して,その必要性を国語審議会としても教育界に向かって提起しておく必要があるのではないかと思う。

福島会長

 ほかに御発言があったら,どうぞ。

楓委員

 先ほど問題点整理委員会主査から御発言があったが,敬語や外来語の乱れについて考えたり,対策を施そうとする場合に,なぜこれほど急速に乱れが生じたのかという背景のようなものを整理してみると,具体的な議論がいろいろできるように思う。これは日本語の非常に達者なアメリカ人が話したことであるが,新聞の社説とかコラムのようなものは読めるが,週刊誌はよく理解できないという。その原因の一つは外来語にあるようである。例えばプレハブはプレファブリケーションに関連がある語ということが分からないと理解できない。また,例のシャトーとかマンションとかは本来の概念と全然違って用いられている。政治家の使うガバナビリティという言葉が全然意味が違ってとられているといった例もある。外来語はコミュニケーションの上からも非常にマイナスを起こしているわけで,整理すべき時に来ていると思う。
 そのような言葉が取り入れられる原因は日本語が非常に融通無碍(げ)であり,外来語を取り入れても文法的にそう困らないということが考えられるし,あるいは外国語に対して敬意を表すというような背景もある。フランスのように言葉が300年も動かないといった自分の国の言葉に対する誇りみたいなものを持っているところと日本はおよそ違う。外来語は少し聞きかじって使えば,非常にかっこいいと考える。これは決して戦後だけではなくて昔もそういう傾向があったと思うが,特に戦後がひどいという背景を考えてみると,まず日本人の外国崇拝というものが根本にあろう。もう一つ,宣伝広告などにおいて,例えばシャトーというが,実際,フランス人にはシャトーとはとても信用できないものに対して使っている。これは意味をごまかすためのもので,営業上の背景があるだろうと思う。更には無理に漢字を減らしたために,例えば「雰(ふん)囲気」の「雰」(これは私がしばしば文章表現をするときに困るのであるが。)が当用漢字にないために「ムード」という言葉を使う。「ムード」と「雰囲気」は意味あいが違うし,抵抗を感じるが,実際に「ふん囲気」とまぜ書きするためにどうしてもうまく表現できない。それでいつの間にやらムードと書くわけである。この場合,「アトムスフィア」に当たるようなものを「ムード」としているわけである。このように変な和製英語,和製外国語が段々ある範囲内で定着して,それが週刊誌に使われ,ラジオやテレビで放送されるということになってきている。

楓委員

 こういうふうにどこからどういう背景で乱れてきているのか,国民性の問題やいろいろ難しい問題があると思うが,その辺を専門家に整理してもらって,例えばこれはむしろいいもの,これはやむを得ないもの,これはやめなければいけないもの,というふうに整理するような議論を詰めてもらうと,具体的に話が進むのではないかと思う。

福島会長

 ほかに御意見があったら,どうぞ。

鈴木委員

 外来語のことを中心に申し上げたい。私は第12期の第98回総会で外来語の問題について,本日前田委員その他の委員が言われたことと非常に関連のある発言をした。第12期の「国語審議会報告書」の199ページ前後に記されているが,その考えを整理したものを「文化庁月報」(51年12月と52年1月)に載せた。
 その時に申し上げたことは,外来語は全部拒否すべきではない,外来語を自由に取り入れられる日本語はある意味で非常にすばらしい伸縮性があっていい,だからどういう種類の外来語がいけないのか整理して考える必要がある,一番いけないのは,公の場面や国民一般が理解する必要のある場面において日本では特に外来語が使われることである(これはフランスでは罰金に相当する。)ということであった。つまり,官公庁や政治家,知事等が公的な発言の中で外来語を使うのが一番いけない。シビルミニマムとかガバナビリティとかシビリアンコントロールとか……。しかも,本来の英語ではそのように使わないもの,ないしは和製英語であるようなものをどんどん使う。それは取り締まるべきではないかと思う。それ以外は自由にしていても不要なものは自然と消滅する。
 警察庁の交通規制をやっているある研究所の部長に会った際,「スクランブル交差点という言葉は私が作った。」とのことなので,なぜ「かきまぜ交差点」にしないのかと理由を聞いたところ,外来語を使わなければ大蔵省が予算を出してくれないからというようなことであった。かきまぜ交差点では金は出ないが,スクランブル交差点だと何かすばらしい仕事をするという印象で金が出る。
 結局,世の中を慨嘆するような全般的な風潮で単に外来語退治をやるのではなくて,公的な場面においてまだ熟していない,だれも聞いたことのないような外来語の使用を制限するというように焦点をしぼらないと,国粋主義になって日本語の硬直化を招くし,あぶはち取らずになる。まだ熟していない外国語を官庁とか公の場面で使わないような方策をどうやったらとれるかということを考えることが最も必要であろう。
 先ほど林(四)委員がますます国語教育が必要なのに,新学習指導要領では国語の授業時間が減って困ると述べられたが,日本語というのは,国語科の時間だけが受け持つのではもう間に合わないのではないか。化学の教師も数学の教師も化学・数学の知識と同時に正しい日本語で正しい意見を言えるように配慮する。英語の教師も日本語でないような訳をつけることに敏感になる。ひいては日本語というものをすべての生活の場面で問題にするような雰囲気をつくる必要があると思う。
 昨年の暮れに十数箇国の外国の学生を集めて国際セミナーを日本語で行った。その時にポーランドから来たある大学の博士課程の学生が私に訴えたことがある。その大学の物理学のある教師は日本語で論文を書くと,「電算機」を「コンピューター」というように片仮名書きの外来語に直してしまう,第三世界の国々が自分の国の言葉で学問ができなくて苦しんでいるのに,日本では漢字というすばらしいもので何でも表現できる,それをなぜ「電算機」を「コンピューター」と直すのか,またある教師は黒板に「ノーエラーをアッシュームする。」と書くが,なぜ「誤りがないと仮定して」という日本語を用いないのか,ということであった。
 一般に日本語で学問をすると遅くなるという考えがある。ノーベル賞を受賞された江崎玲於奈氏が「日本の大学では英語で教育することを勧めたい。そうすればもっとノーベル賞受賞者が増えるであろう。」と言われた。確かに経済の原則とかいう意味からいうと,日本語をやめて英語やフランス語にした方が能率的な面がたくさんあると思う。商社がテレックスを全部英語にしようという動きもあるそうである。しかし余りに効率面とか経済優先の発想をおし進めると,言葉は手段となってしまうのではないか。本日,問題点整理委員会で整理された問題は,単なる対症療法ではどうにもならないことであって,根本的に日本人が日本語をどう考えるかという価値の問題にさかのぼらなければならないのではないか。アリアンス・フランセーズが膨大な金を使って外国人に対するフランス語教育を行って成果をあげているのに対して,日本語が普及しないのは,日本人に日本語を外国人に使ってもらおう,使わせるべきだという発想が欠如していたための結果なのであろう。
 国語に対して精神的な哲学的な問題を考えなければならない。国語の問題は非常に根が深くて,これからの敬語をどうするか,これはいけない,こういう用法は悪い,という末梢(しょう)的な議論を幾らやっても絶望的なような気がする。いろいろなところに出ている兆候は結局日本人が自分の国の言語を大事にしていない,効率主義に走りすぎているところに起因している。それを外国人の留学生に逆に指摘されるということを体験しているので,申し上げた。

阪倉委員

 敬語の問題は非常に重要で,是非審議会で取り上げていただきたい。ただ敬語の問題の扱い方は非常に難しい。敬語というと,封建的な名残であるとか上の者がいばるための言葉であるとかいう考え方が強いが,もっと広い意味で考えたい。具体的な事例で申し上げると,テレビのインタビューなどで相手は丁寧にものを言っているのに,記者は「はい」と言わず,「ふん,ふん」と言う。まるで友達と話し合っているような返事の仕方をして当たり前だと思っている。それは敬語の使い方の間違いと言えるが,案外それが気づかれていないように感じる。また,大学生などに対してよく感じることであるが,出会い頭にぶつかった場合,思わずこちらは「ごめん」とか「失礼」とか言うが,相手は「あっ」と驚いた声だけ発する。絶対に「ごめんください」とか「失礼しました」とかいうことは言わない。短期間であるが,外国にいた時の経験では,外国ではそのような場合,小さい子供でも必ず「エクスキューズミー」という言い方をしつけられているようである。日本の今の大学生はそういう場合にどう言っていいのか知らないようである。
 結局,敬語の問題は言葉遣いの問題である。話し方の心がけ,心構えが敬語の問題であるということから分析していく必要があるのではないか。敬語の問題は非常に重要であるだけに当審議会でどういう形で扱っていくかということを十分に検討しなければいけないと感じている。

碧海委員

 本日の配布資料2は今までの経緯が大変要領よくまとめられているが,結局項目10に整理されていることが全体のまとめではないだろうかという印象を持つ。つまり,我々はある意味で政府の審議機関として政府に関係しているわけであるが,言葉の問題は法律その他で縛ることはできないので,結局,ガイドラインという形で項目10にあるような,国語が将来発展することの一助になるようなことを進めていくのが我々の務めではないか。
 なお,審議のやり方としてもう1回か2回フリートーキングのような形で行い,できるだけ多くの委員の御発言を伺う,その後比較的少数の委員会をつくり,そこで検討したものを時々総会にもどしてまた議論するといったような進め方はいかがかと考える。私の印象では従来の国語審議会は漢字の問題に非常に多くの時間と精力を割いてきたと思う。それはそれなりに理由があったわけであるが,それ以外のもっと大きな問題(その中には戦後新しく生じたような問題もある。)について必ずしも十分に討議する時間がなかったのではないか。今期の審議会及び今後の審議会の大きな任務は,従来取り上げられなかった幾つかの問題を少しまとめるところにあるのではないかと思う。

福島会長

 今期の国語審議会の任期は,53年度いっぱいということになっているが,次回総会から漢字表委員会での御検討の結果が報告されると予想している。その上で総会としてこれに基づいて意見を固めていくという段取りになると思う。しかし,ただいまの御発言にもあったように,話し言葉,敬語,外来語等の問題を審議会としてどのように今後考えていくか,どのような検討の仕方をしていくかという問題が残っていることは確かである。今期の審議会で例えば,政府に建議するというような意見のまとめ方ができれば,それも結構であると思う。あるいはもう少し意見のまとめを交換した上で問題点を整理し,審議の方法などについても若干の案を立てて,次期審議会に送るという形にすることも考えられる。いずれにしても話し言葉,敬語,外来語等の問題についてこれから審議会としてどういう検討の仕方をすべきかとか,また結論が出た場合にどういう取り扱い方をすべきかといったようなことを運営委員会で一度検討する必要があろうと考えて,本日の議題に選んであるわけである。この問題の取り扱い方,あるいは検討の仕方が比較的近い時期における運営委員会の問題点になるであろうと想像している。

遠藤主査

 進め方について申し述べたい。国語審議会は今までも言葉の問題も敬語の問題も論じている。具体的には敬語は昭和27年に,話し言葉は昭和31年に建議をしている。敬語については昭和27年の建議を踏まえた新しい見解が「ことば」シリーズの一つとして文化庁国語課から出されて,敬語のことがいろいろ論じられているわけである。それらを踏まえて否定するなら否定する,積み上げていくなら積み上げていくという態度で検討して,前の建議では不十分である,新しい建議をすべきであるということに総会の意見がまとまれば,新たに建議をするという方向で進めていくのがいいと考える。なお,外来語の問題についても論ぜられているが,建議はなされていない。

福島会長

 御発言のような方向で運営委員会において諮ってみたいと考えている。

林(大)委員

 第10期国語審議会は一般問題小委員会のまとめを受け,「国語の教育の振興について」を建議している。それは先ほどから話題になっている国語科教育の問題に非常に関連が深いわけであるが,全く言い放しになっているというように思われる。実はその建議がなされた時,私は文部省の中にいたので,申し上げにくい面があるが,建議は必ずしも生かされていないのが実情なので,あの建議は一体どうなっているかということを国語審議会からもう一度言う必要があるのではないか。
 文化庁側では,「ことば」シリーズの刊行とか,国語問題研究協議会の開催とか,いろいろ工夫しているが,肝心の教員養成とか,小・中・高の教育そのものについては配慮が足りないという感じをいだいている。さしあたり,その建議はどうなっているかということが当審議会の問題になってもいいのではあるまいかというふうに感じている。

岩淵主査

 私も同じようなことを考えた。鈴木委員からも御発言があったが,言葉の意識の問題は学校教育と非常に関係が深いと思う。学校教育において,言語意識を高めるとか,言語感覚を養うとかいう方面の指導が非常に足りなかったのではないか。小・中・高の教育内容を変えなければいけないということをしきりに主張しているが,孤軍奮闘の状態で,今のところ見通しが余り明るくはない。そこで,国語審議会で「国語の教育の振興について」の建議を中心にして検討を進めることは大賛成である。ただ,現在は,建議当時(昭和47年)と多少違った新しい問題がかなり出てきていると思われるので,もう少しいろいろ調査する必要があるのではないか。建議を急ぐよりも言葉に対する考え方とか態度というのを掘り出すような基礎的な調査を,もしできるなら国語審議会で行う方がいいのではないかという気がする。

福島会長

 話し言葉,敬語,外来語の問題などについてどういうふうな態度をとるか,どういうふうな検討をするかといったようなことを,運営委員会の問題として一遍整理してみたいと思う。運営委員会での検討のためにも,もう少し御意見をお聞かせいただきたい。

志田委員

 ただいまの問題が,教員養成に大きく結びついているという御意見を得て,前回総会での発言を補強していただいたようで大変うれしく思う。教員養成の問題は,申し上げるまでもなく大学教育として行われているので,まず,大学教員養成の関係の方々に国語教育の重要性を十分に認識していただくことが必要である。また,一方ではそれと免許法の内容がかかわってくる。この両方面は幾ら早く話合いや検討を始めても早すぎるということはないと思われるので,この話が実を結ぶように進めていただければ大変ありがたい。

福島会長

 ほかに伺っておくことはないか。

遠藤主査

 昭和27年の「これからの敬語」,昭和31年の「話し言葉の改善について」,昭和47年の「国語の教育の振興について」の三つの重要な建議をどうするかということは別にしても,これらの建議がどうなっているかということを審議会ではっきりさせる必要がある。国語教育の根本的な問題もその中に含まれているわけであるから,もう一遍それを蒸し返すことによって,もっと新しい観点に立って考えていくということが可能になるのではないかと思う。建議の再検討も是非お願いしたい。

福島会長

 以上の建議が現在どうなっているかということについて,いずれ事務当局とも相談の上,運営委員会で検討したいと思う。

トップページへ

ページトップへ