国語施策・日本語教育

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次第 自由討議(1)

前田副会長

 それでは,議事の2番目にある自由討議に移りたい。どうかいろいろ御発言願いたい。
 もちろん第一には,仮名遣い委員会でこれから具体的な審議をしていただくわけであるが,それに対して何かサゼスチョンとか御注文をお出しいただけると,好都合だと思う。それから,仮名遣い以外の問題でも,特に御意見があれば,遠慮なくお聞かせいただきたい。

木内委員

 実は,仮名遣い問題というと,分かっているようで余りよく分かっていない。そこで非常によくお分かりの方もこの中におありになることは無論であるが,余りよくお分かりにならない方もあると思う。問題が一体どこにあるのか。それは,今度の仮名遣い委員会でもちろんやっていただけるはずだけれども,専門的な討議になると総会では,どっちかというと,分からずじまいの方も出やしないかと思うわけである。私自身もその枠の中に入る可能性が非常にある。
 そこで仮名遣い問題とは一体何であるかということを簡単にまとめた文章を書いた。大きな字で印刷してわずかに6ページであるが,それを用意してまいったので,お差し支えなかったら,配らせていただいて,それを読みながら,私の今理解する仮名遣い問題というのはこういうものだということをまず話して,それを,もちろんまずい点もあるだろうが,仮名遣い委員会でやっていただいたら,大いに討議がはかどるだろうと思う。(資料配布)
 私は,国語問題は全くの素人である。ただ,国語問題協議会というものに関係している関係で,少しはものを知る機会がある。(資料を読みながら説明。資料の表記は原文のまま。)


一,  「仮名遣ひ」の問題とは一体どういふ問題なのか。その“庶民的な理解はこのやうであらう,このやうであれば大体のところよいのではないか”と思はれるものを,以下に書き連らねてみます。我々審議会のメンバーの“共通意識”といへるものを造って行くのに役立つであらう,と思ふからです。
 この“共通意識”を十分に鍛えて,ある程度高めておいてやることが,うまくいく一番大事な条件だろうと思う。
二,  まづこの問題の「歴史的経過」をひと通り眺めてみた上で,「問題点」と思はれるものを拾ってみます。それらの問題点をどう解決すべきかといふ課題は,“共通意識”が相当に固ってからにした方がいいと思ひます。
 仮名遣いをこうしろ,ああしろということは,まず“共通意識”を十分鍛えた上でやった方がよかろうと思って,これを書くわけである。
  (一)  歴史的な経過
  (1)  仮名のはじまりは「万葉がな」である。「万葉がな」は純粋に「表音主義」であったが,当時は勿論問題の起る余地はなかった。(「万葉がな」が盛んに使はれるやうになったのは七世紀であったが,始まりはそれより百年ぐらゐは前と考へればいいのであらうか)
 こういうことは,仮名遣いを論じるに当たって,国民的意識が高まるように,御研究の上で,ある程度国語審議会の意見のようなものでもお出しになるのもいいかと思う。
  (2)  時が進むに従って,「国語の発音」が変って来たから問題が生じた。
 これがそもそも仮名遣いの問題の起こりである。
     その結果として「仮名遣ひの乱れ」と目すべきものが出て来たが,それを整理した最初のえらい人は藤原定家であった(1230年頃)。
 私はそう聞かされているのだが。
     それをもう一度整理し直した人が僧契沖で(大体1600年代の終りの頃),これは復古主義の仮名遣ひであった。
  (3)  この契沖の意見を補綴しもしくは部分的に訂正したのが本居宣長で(1770年頃),いま「正かな」とか「歴史的かなづかひ」とかいはれるものがそれである。
  (4)  明治に入ってからも,
 入ってからは,の方がいいかもしれない。
     何回か改変が企てられたが,森おう外,山田孝雄等の反対でハッキリした線は出なかった。
 これは少し文章がまずく,むしろ改変の企ては,それはいけないと決まったというので,元のままがいいという,はっきりした線が出たのだというのが本当だとおっしゃる方もある。そうかと思う。書いたときは,私はそこははっきり知らなかった。
     それを大いにハッキリさせたのが,終戦直後に始まった「国語改革」で,昭和21年,内閣の訓令告示によって実施された現行の「現代かなづかい」がそれである。これは「表音主義」に基くものとされてゐるが,“その主義を貫き得なかったもの”を若干残してゐる。
 これは歴史的経過である。この経過は,よく知ってみれば,非常に面白い事実がたくさんある。
  (二)  問題点
  (1)  問題点の第一は,右に“表音主義を貫き得なかった”といったところがそれで,“何々は”といふ場合は「わ」ではない,“何々を”は「お」ではない,“どこどこへ”は「え」ではない。なぜかである。これは「表音主義」にはどこかをかしいところがあると思はせるものでもあって,理論的解明を要する。
 なぜ「現代かなづかい」は「表音主義」を貫いていないのかというのが問題点の一つである。
  (2)  問題点の第二は,旧かなで書かれた文章は,全部「間違ひ」と認めるのかどうか,である,間違ひであっても直すわけに行かない。直す試みは,少しは行はれたが,直せば原文の意を損ふことにもなる。またこれは,“歴史との断絶”といふ大問題でもある。
 これが,問題点の第二だろうと,私は思う。
  (3)  問題点の第三は,「新かな」には「現代口語文に用いるもの」といふ範囲が指定されてゐるが,それは一種の「自己矛盾」ではないのか,といふことがある。
 現代でも文語を書くときもあるし,いろいろあるが,その範囲を限って,これでなければいけない,という言い方になっているから,非常にまずい。
  (4)  問題点の大きなものは以上の三つだと思ふが,以上に尽きるわけではない。一々ここに挙げることはしないが,以下に三として述べることのなかにも,いくつも問題点を拾ふことが出来る。
 問題点の列挙を詳しくやったら大変なことになると思うが,大きなものは何だということをはっきり意識するのが大事だと思って,こういうふうに書いたわけである。細かい方の問題点は,私には十分に分からないことが多い。

木内委員

三,  次に,「歴史的仮名遣ひ」と「現代かなづかい」とは“どこがどう違ふのか”その素人的解明を行ってみます。理屈はあとのこととして,実際にどこがどう違ふのか,まづ知っておきたい,と思ふからです。しかしその前に,そもそも「かな遣ひ」とは何かについて一応“庶民たる我々も,このくらゐのことは知ってゐるべきだ,またこのくらゐのことを知ってゐれば,それで十分だ”と思へることを書いてみます。それを知ると“どこがどう違ふか”自然にわかるやうに思ふからです。
  (一)  「かなづかひ」は大別して
  (1)  「国語かなづかひ」と
  (2)  「漢字かなづかひ」(「字音かなづかひ」ともいふ)との二つになる。
  (二)  「国語かなづかひ」は,大別して
  (A)  「動詞,形容詞の活用語尾に関するもの」
 詳しく言えば,ここに形容動詞というのを入れるべきかどうか,入れなくてもいいかと思う。素人としてはそこまで考えなくてもいいかもしれないが。
 これが,仮名遣いの中の一つのグループである。これが発音以外の字を書くわけである。
  (B)  それ以外のものの二つになる。
     (A)は,“言ふ”“思ふ”を“言う”“思う”と書くかどうかの問題で「五十音図」と密接に関係する。
     (B)にはいろいろあって,素人からみれば,ここが一番解明して欲しいところだとなる。例へば,“大きい”といふ言葉を,漢字なしで書く場合,“おおきい”よりは“おほきい”がいいのではないか,といった問題である。これは「漢字かな遣ひ」の問題であるやうにも見えるが,やはり「国語かな遣ひ」,前記(B)のなかに入るものではないかと思ふ。
  (三)  「漢字かな遣ひ」の代表は“蝶々”をテフテフと書く,といふものである。
 これが「漢字かなづかい」の方の代表格にいつも選ばれる。
     「現代かなづかい」なら勿論“チョウ・チョウ”であるが,序に申すと“CHO”の発音は“チョウ”“チャウ”“テフ”“テウ”と四通りに書ける。ややこしいやうだが,“四通りしかない”と知ると,それなら何か通則のやうなものを教へてくれれば,さうむづかしがる必要はあるまいとも考へられる。同じやうに“YO”の発音には,“ヤウ”“ヨウ”“エウ”“エフ”と四通りある。これらについては,“場合によって書き分けるべきだ”,といふ主張が,容易に成立する。現に私はその意見であるが,これは「国語かなづかひ」であって「漢字かなづかひ」ではない。同じやうなものが,“ゐる”と“いる”である。
 この後半の部分は一概にこうも言いきれないようである。ここのところは,専門家に見てもらったら,問題があって,余りよろしくないと,批評を受けているところである。
  (四)  “「漢字かなづかひ」は,その言葉を漢字で書けばいいのだから,忘れてもいい”といふ主張があるが,どうかと思ふ。
 そういう主張が世の中にある。「漢字かなづかい」というものは問題にしなくてもいい。いやなら漢字で書けばいい。それは私はどうかと思う。
    忘れていいにしても,本当は,もしくは昔は,かう書いた,それはなぜであったのか,といふことは,一応わかるやうにして欲しい。
 と,私は思う。これは今後,どう仮名遣い問題を処理すべきかということの方に一歩入ってしまったので,それは言うまいと思ってこれを書いたのだが,ここはちょっと矛盾しているわけである。
四,  ここに,「漢字かなづかひ」でもない「国語かなづかひ」でもない,“「現代かなづかい」が新しく作った奇妙なかなづかひ”といふべきものがあり,これは文句無しに絶対“旧に復すべきもの”だと思ふ。それは何かといふと,例の何でも簡単化,数が減れば簡単になる,といふ思想から,
  (A)  Jiといふ発音を表はす“じ”と“ぢ”といふ二つのカナを“じ”一本に
  (B)  Zuといふ発音を示す“ず”と“づ”といふ二つのカナを“ず”一本に
まとめてしまった。だから“地震”をカナで書くと“ぢしん”ではなくて“じしん”になり,“稲妻”は“いなずま”になる。これは何としても戴けない。
 なほ(C)として,“ゐ”“ゑ”を“い”“え”一本にしてしまったことも挙げるべきかも知れません。

 というのが,大体今の問題点の列挙である。まだほかにないわけではないけれども,一応素人としては,最初に書いたとおり,ここまで心得ていれば一応いいのかと思うものを書いてみると,こんなことになる。

 以上“素人の理解”を,気軽に書き連らねました。誤りもあるでせうが,議論の材料として下されば幸です。その議論では,どうぞ右の文章では不明のままにしてゐるところを,すべてズバリ明確にして戴きたいと思ひます。玄人に対するお願ひです。
 これが“共通意識”のための文章である。これだけである。どうぞ本日の総会でおやりになってもよし,仮名遣い委員会にお任せくだすって,それを今後の総会でお諮りになるのもいいけれども,本日の総会で少しやってみたらどうか。それは私の希望である。

前田副会長

 これは,私ども一同のこれからの参考にさせていただくが,仮名遣い委員会が発足するところであるから,そこで十分御検討願いたいと思う。ほかの委員の方々にもいろいろお話しになりたいことはあると思うが,仮名遣い委員会で討議していただく前に,まずこの席上で,今の木内委員の御意見に対して,お話しになりたいことがあったら,お伺いしたい。

鈴木委員

 今回の仮名遣い委員会の性格の問題にも関係するかと思うけれども,昭和21年以降今日に至るまで,木内委員のお言葉にもあるように,国民生活のすべての情報が,「現代かなづかい」方式に沿って展開されてきている。仮に今の時点で,文句無しに絶対に旧に復すべきものだという議論を優先させると,結局,昭和21年から今日までに至る歴史的な流れを遮断することにもなりかねない。そこで,私は,考え方としては,「現代かなづかい」を前提に置いた上で,確かに「現代かなづかい」の持っている矛盾が細部的にはあるから,それを検討するという方向にまず仮名遣い委員会の出発点を決めるべきではないかという気がする。木内委員の御主張に対して,大変失礼ではあるが,あえて反論を申し上げる。

木内委員

 私は,仮名遣い問題は何かということを,皆が共通的な理解を持たずに,どうしろこうしろという議論になるのはいけないと考えて,そのためにこれを書いたのである。先ほども少々断ったとおり,この文章自身にこうしろああしろが少し入ってしまったのは,いけなかったが。理解が共通でないのに,どうしろこうしろを論ずると,全く実のない議論になると思うからこれを書いたのである。私なりに仮名遣い問題とはこういうものだと考えて書いた。これには私の持論みたいなものが入っていると言うなら,それを削ったような文章を仮名遣い委員会でまずお作りになって,国民の共通理解を深めてくださるといいと思う。

前田副会長

 ほかに御意見,御質問があったらどうぞ。
 それでは,一応この問題は仮名遣い委員会で御討議願うことにして,そのほかの御意見があったら,お願いしたい。
 会長がおいでになったので,これからの司会は会長にお願いいたしたい。

有光会長

 遅れてまいり,大変失礼した。前田副会長に感謝申し上げる。
 それでは引き続き御意見をいただきたい。

村松委員

 私も委員会に加わるようにということであるが,仮名遣い委員会は,年に何回ぐらいお開きになる御予定であるか伺いたい。
 それから,この前の総会のときにも申し上げたように,本日も木内委員からこういう貴重な資料をいただいたけれども,こういったようなものについて,仮名遣い委員会そのものが検討をすると同時に,全体の委員のそれに対する意見をどういう形で反映していくのかということについて,運営委員会はどういうお考えであるのか伺いたい。
 それからもう一つ,先ほど三浦委員から御発言があった「仮名遣い委員会の運営について」の4の委員というのは仮名遣い委員会の委員を指すものだそうで,それでよく分かるのであるが,そうすると,仮名遣い委員会の委員以外の委員が出席するとなれば,それがどういうようにこの過半数の上に反映するのかしないのか,仮名遣い委員会の委員以外の委員の方がたくさんいらっしゃっても仮名遣い委員会の委員の方だけの意見で通るのか,その辺をどういうふうにお考えになっているのか,そういうことについてお答えいただきたい。

有光会長

 仮名遣い委員会の開催のペースはどんな具合かという御質問については,実際に開いてみていただかないと分からないが,当面,1,2か月に1回という間隔になるのではなかろうかと考えている。
 それから,仮名遣い委員会に所属していない委員の方が委員会に出席された場合の発言について,あるいは結論を出すときに,どういうように参加をするのかという問題については,これは委員会の方でもひとつ検討していただき適切な形で運営していただくようにしてはいかがかと思う。

村松委員

 私が希望するのは,仮名遣い委員会の委員以外の方がたくさん出席して意見を述べられた場合,それらの意見が仮名遣い委員会の議事に十分反映できるような運営をしてほしいということである。

有光会長

 了解した。

鷹取委員

 先ほど木内委員からちょうだいした資料とそれに関する御説明及び鈴木委員からお話があったことに関連して申し上げたい。前期の漢字表審議のときにも,極力申し上げたことだが,現在の仮名遣いにしても,これで教育されてきた人が現在既に50歳前後になっている。そうすると,我々会社の中でもほとんどが「現代かなづかい」で教育された人たちばかりであって,ごくわずかに平取締役以上ぐらいが,古い仮名遣いの教育を受けたことになる。それで先ほど鈴木委員からもお話のあった,矛盾の点もあろうかというふうに考えるのは,明治,大正に教育を受けた我々が,実は「現代かなづかい」と旧仮名遣いの間に,右へ行ったり左へ行ったりして,矛盾を感じてみたり,書き損ないをしてみたり,書くことに苦労をしてみたり,読むのもちょっと違和感を感じたりしているわけであって,会社の今第一線に立って活動している50歳以下の人たちは,何の不自由もなしに「現代かなづかい」を書き,そして「現代かなづかい」を理解しているわけである。

鷹取委員

 そこで私が仮名遣い委員会の委員の方にお願い申し上げたいのは,余り大きくいじらないでいただきたいということである。これをいじると,現在の第一線で活躍している人たちがまた戸惑うことになるので,現在矛盾を感じたり,不都合を感じている人間がみんな死んでしまってから,ひとつ変えることをお考えいただきたい。(笑声)古い仮名遣いで教育を受けた人が経済活動もやめて,そして小説だとか新聞を読むのもやめるぐらいの年齢になってから,「現代かなづかい」で教育を受けた人たちの手で,これをもう一遍どういうふうにしたらいいかということを考えるべきものではないかと思う。
 いろいろ矛盾もあろうが,言葉というもの,国語というものは,そう理論的にいくものではなく,大変変わってくるものであろうかと思う。事実,我々の国語の中には漢語が入り込んできたし,片仮名の外国語もどんどん入ってきた。これからもっと国際交流が激しくなると,もっとたくさん片仮名の言葉が入ってくるだろうと思う。そういうわけで,これは2年や3年で結論をお出しにならないで慎重に検討を重ねるということがいいのではないか。漢字表の審議のように,8年でも10年でもかかって,そして,時々こういったことを検討しているということを御発表になれば,国民も関心を持ってこの問題に取り組むということになるのではないかと思うので,くれぐれも余りいじらないように御配慮をお願いしたい。これは木内委員のおっしゃる共通意識を持つということにもつながろうかと思うので,どうぞよろしくお願いいたしたい。

碧海委員

 前の常用漢字の問題のときは,もし私の理解が間違っていないとしたら,最初から大筋では原理的な了解が総会でもあったし,それから総会の委託を受けた専門の各委員会でもあったように思う。ところが今度の場合は,先ほどの木内委員が大変示唆に富む文章を出してくださったわけだが,仮名遣いの問題に対して,大筋でどういう方針でいくかということを決めずに具体的な問題に入るということがいいのかどうか,その辺をちょっと疑問に思う。
 例えば,先ほど鷹取委員が言われたように,いいか悪いか別として,戦後非常に長い間「現代かなづかい」というものが,初等・中等教育を中心として行われてきた。これを動かすとなると,大変な問題が起こるが,それをどう考えるか。
 また,木内委員の御指摘のように「現代かなづかい」は,表音主義という原則を取りながら,必ずしもそれに徹底していない例外的なところがある。今回そういうものについて一貫性を一層貫くような方向で審議を進めるかどうか。その辺の大筋について,まず仮名遣い委員会で議論していただき,その結果を総会で伺って議論するようにしたらどうか。それがないと,細かいことに先に入るわけにゆかないのではないかという気がするわけである。
 もう一つ,仮名遣いの問題とは少し違うと思うし,果たしてこれが昭和41年の文部大臣の諮問の中に入るかどうかも分からないが,私ども物を書いたり読んだりするときに非常に迷うのは,外国語──固有名詞を含めて──を日本の仮名でどのようにトランスクライブするかということであります。仮に読み方に一致があったとして,それを仮名でどう表すか,一番問題になるのは,例えばFの音やVの音をどうするかということである。今新聞で聞いたことのない固有名詞が出ると,Vの音なのか,Bの音なのか,判断に苦しむことがある。このような表記法が完全に統一されているのかどうか,私はよく知らないが,外来語,それから外国語──固有名詞を含めて──を表現するときにどういう表記法をとるかということは,新しい世代にとってはある意味で仮名遣い以上に大きな問題ではないかと思う。外国語の表記をすることに利益があることは確かであるが,同時にその国の言葉をある程度知っている者にとって,新聞の仮名表記を見て,逆に綴りが推測できるということも一つの利益ではないかと思う。国際社会の現状,それから日本の一層の国際社会への進出によって外来語というものがよかれあしかれ増えつつある。外国の人名,地名,また固有名詞以外の言葉についても,我々は仮名で書かなければならない。これは今や避けられないことなので,その問題を討議していただく,あるいは専門の方に議論していただいて,我々がそれを基に討議する機会があるものかどうか,その辺のことを伺いたいと思う。

有光会長

 ただいま外来語のことについて御発言があったが,これは文化庁の方でもお考えがあると思う。また,従来からのいきさつなどよく御存じの委員の方もおいでだと思う。御発言を願いたい。また,仮名遣い委員会が発足するに当たって,ある程度総会としての意見のまとまりがあった方が委員会としてもスムーズに審議が運ぶのではないかということについては,なおそれに関連した御意見等があれば,この際御発言いただき,それらを参考にしながら,とりあえず9月に仮名遣い委員会はスタートしていただいて,そしておよそ来年の2月ごろと思うが,そのころ開く総会で一層具体的に話が固まるようにしていただいたらいかがかと思う。今日,これからのお話しである程度のめどもつくかもしれないが,関連して皆さんの御意見がもう少し伺えれば,お述べいただきたいと思う。

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