国語施策・日本語教育

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次第 自由討議(2)

三根谷委員

 今日,仮名遣い委員会の委員が任命されたばかりなので,碧海委員の御注文についても,個人的な考えしか申し上げられないが,今会長がお話しになったように仮名遣い委員会でよく検討させていただいて,その結果を次回の総会に持ち出すということにさせていただいたらいかがかと思う。
 それから,外来語については,──外国語については,また別な機関で検討がなされるだろうと思うし,文化庁の側からも,今日にでもお答えが用意されていると思うが──固有名詞以外に片仮名で書く外来語は,今非常に多くなっていて,その中には例えば長音符の問題など,「現代かなづかい」とも関連して検討されなければならない問題があるように私も思う。もちろん何か変えるというのではなくて,現状を認めるにしても,関連事項として検討する必要があろうかとかねがね思っている。しかし,審議の手順としては,やはり「現代かなづかい」の検討がまず先行するのではあるまいかというふうに考えている。

松村委員

 外来語の表記の問題についての御意見があり,今,三根谷委員からもお話があったが,審議の手続きその他具体的なことは,仮名遣い委員会の中でいろいろ考えて,また総会にお諮りすればいいことかと思う。
 ただ「現代かなづかい」の内容上の問題点として,現在の「現代かなづかい」は従来の歴史的仮名遣いのある面をも入れた折衷された形でできているわけである。
 その中で一番欠けているのは,今御指摘の外来語・外国語の発音を日本語の中にどの程度日本語の発音として取り込むかということ,その点がほとんど欠けているわけである。例えば,フィルムならフィルムという言葉が今もうかなり一般化しているが,その「フィ」という音は,従来の「ヒ」という仮名では表し得ないから,従来の仮名の書き表し方で言えば,フィルムは「フイルム」のように,日本式は伝統的な音に還元した形での表記しかできない。「現代かなづかい」では,フィルムをどう表記するかということを具体的には示していないのである。ただし「現代かなづかい」の方針として,現在の発音に基づいて表記するということが基本的にあるので,もし「フイルム」でなく「フィルム」という言い方をある程度定着したものとして認めるなら,「フィ」という音をどう表すかという場合に,これは「フィ」と表すとかそういう決まりができてくるわけである。ところが,この点が「現代かなづかい」の決まりの中になかったために,従来「外国の地名・人名の書き方」「外来語の表記について」などによって別に処理しているわけである。
 「現代かなづかい」には,こういう問題が確かに内容上の一つの具体的な問題点としてあるわけだから,これから仮名遣い委員会の中で,そういうものも含めて検討していけばよろしいのではないか。そしてもちろんそれは,総会でいろいろ皆さん方の御意見を伺いつつやっていくことにすればいいのではないかと思う。これは私だけの意見である。

林(四)委員

 私も仮名遣い委員会の委員に任命されたので,これから検討させていただくわけであるが,その委員の一人として,私はこういう考えで臨みたいということを個人的発言として申し上げる。
 国語問題は,あくまでも一般的,常識的国民の現代生活,日常生活の上で,今の日本語の漢字なり,書き表し方なり,仮名の遣い方なりが,問題点をどこにもっているか,そういうことがズレている場合に問題が起こってくるわけだから,それを討議して,一番国民の生活に密着した形で,字の使い方,漢字や仮名の使い方などを決めていく,それを考えるのが審議会の役目であろうと思う。当用漢字表を審議したときに,国語研究所の語彙調査の結果を一番多く大事な資料として用いたのも,現代の社会で行われている,主に雑誌や新聞に用いられている漢字の状況と当用漢字表で決めた1,850との間にズレがあるかどうかを知るためであった。もちろん国語研究所の資料だけがそれを反映しているとは言えないが,調査資料としてみれば,それが一番近い資料であるということで,一番重要な資料としてそれを用いてきて,大体それにのっとって結論を出してきたわけである。したがって問題点はあくまでも現在の一般社会で行われている,国民が用いる言葉と文字との接合点を適切に求めていく,そういう姿勢であろうと思う。
 本日,木内委員からお出しいただいた資料は,勉強の上で大変貴重な資料で有り難いと思うが,この中には,主に,漢字がどうやって日本に入ってきたか,どういう時代の中国の漢字がどういう時代の日本にどう受け入れられて,その動きの中でどういう仮名遣いが出てきたかという国語史に触れる問題が提起してあるので,これは問題を理解するための資料として,私としては勉強させていただくが,さて今諮問されている仮名遣いの残された問題を考えるときの姿勢としては,ここにお示しいただいたことの上で矛盾がないかどうかという,そういう立場を私はとらないので,国民が一般に日常生活で行っている読み書きの態度の中にどういう問題があるか,それを今の仮名遣いの在り方との間にズレがあるのかないのか,あるとすればどのように是正すべきであるか,そういうことを考えていこうという立場で私は臨みたいと思う。

渡辺(光)委員

 今回初めて審議会の委員にさせていただいた者だが,先日文化庁から「仮名遣い資料集(諸案集成)」を送っていただき,ざっと拝見して,今まで私たちが何気なく使っていた言葉はずいぶんよく直されているのだなということが改めて分かった。だから,今後もしお直しになるとしても,私たちはもう慣れてしまっているので,余りひどく直していただかない方がいいのではないかという感じがまずしたわけである。
 それから,私たちは,今まで当用漢字とばかり思っていたら,いつの間にか常用漢字になっていて,私たちの周りの身近な者は,ほんとに気が付かなかった。そのぐらいのもので,私もあわててまた辞典を買い直したり,みんなもまた買ったりしたとか,そういったことも実は今回あったけれども,日常語としてもう大分定着したものは,私たちはなるべく,その範囲を越えては直していただきたくないような気がする。
 ただ先ほど木内委員のおっしゃった中で,地面の「ぢ」のところだけは,これは私も個人的にちょっとその辺は疑問に感じていた。
 大体それだけ申し上げたいと思う。

広瀬委員

 私も今回初めて委員に任命されたものであるが,いろいろお話を聞いていて感じたことがあるので,申し上げたい。
 一つは,「現代かなづかい」は30年間定着してきているので,余り変えたくないという御意見には私も賛成であるが,30年間定着しながら,しかし30年間迷っている仮名の使い方があって,今なお世の中で迷っているということがあると思う。それは「じ」「ぢ」,「ず」「づ」の使い方に集中されているように思う。木内委員の文章の中で「文句無しに絶対“旧に復すべきもの”だと思ふ」とおっしゃっていることに相当する。「現代かなづかい」では,「ぢ」「づ」を「じ」「ず」にするというのが原則であるが,例外を認めているわけである。「二語の連合によって生じたは,と書く」はな,もらいち,ひりめん,ちかか,みそけ,みかき等々,それから,「同音の連呼によって生じたは,と書く」ちみ,ちむ,つみ,つら,つく,つる等々がそれである。
 この「二語の連合」というのが問題で,これについては昭和37年7月の国語審議会の「正書法について」という報告において,語意識の考えを導入して大変分かりやすい解説をしている。しかし,そこでも,語構成の分析的意識のないものとして,かたず,ぬかずく,みみずく,さしずめ等の例を示し,これらの判定についても見解の相違はあろう,というふうに言っている。確かに,ぬかずくは「ず」を使っているけれども,これは,ぬかをつくという言葉から「づ」でなければならんという感じもする。また,きずなの「ずな」は綱から来たものだから「づ」でなければならないと思う。
 こういうふうに見解の相違があるということは事実であって,見解の相違によって迷いに迷い,本当に困っているわけである。だから,審議会としては,定着していない部分,迷っている部分からまずはっきりさせていくべきではないかというのが,私個人の見解である。
 それから,問題は別だが,外来語の片仮名表記については,私は,仮名遣いの問題とは別の問題ではないかと思う。私は,新聞社にいるが,実は,新聞が一番この点で迷ってるが,新聞としての統一をその都度心掛けてきており,一応定着した外来語の表記法を持つに至っている。このことは御存じのことと思うが,念のためお話し申し上げておく。
 また,それに関連して,中国とか韓国の固有名詞をどう表記するか,これもまた大変うるさい問題で,例えば,ケ小平というのは我々は「とうしょうへい」と言っているが,中国では「とうしょうへい」とは言ってないのであって,これは英語の人名などのように片仮名で原音に近く書くべきだという意見もある。それから中国人でも例外的に片仮名で書いている人名もある。そういう問題がまたその裏側にあるわけである。しかし,現状では,新聞としてはある統一をして,それが世間の一般の基準にもなっているのではないかと思う。
 それからまた全く別のことであるが,仮名遣い委員会の議決のことで一言申し上げたい。委員会は過半数の出席で成立して,過半数の賛成で決定する,ということであるが,委員会は15人であるから,その過半数は8人である。また8人の過半数は5人である。5人の意見が仮名遣い委員会の決定になり,それが国語審議会の決定になるというそういう極端な場合も理論的には考えられるわけである。そこで,意見としてはどちらかの過半数を,4分の3なら4分の3というふうにした方がいいような気もするが,その点,そういう極端なことにならないような運営方法がとられるのかどうか,念のためお聞きしたい。

鈴木委員

 今の御発言と関係するが,一般に会をつくるに当たっては,まず委員会の内容の規定が必要である。そして,委員会ならば,場合によっては議決をとらなければならないということもあるかと思う。しかし,希望としては,この仮名遣い委員会というのは話し合いを十分にしていただいて,議決ということはなるべく避けていただきたいように思う。そして,多数意見,少数意見という形でむしろ総会に出していただいた方が,総会の審議がスムーズにいくのではないかと思う。

有光会長

 伺っている御意見は,仮名遣い委員会の運営の上にできるだけ反映していくようにしてまいりたい。また,単に多数決でものを決めるということはなるべく避けるようにして,できるだけ皆さんの御納得のいくような運営をしてまいりたい。

林(大)委員

 木内委員が先ほどの文章の第1ページにお書きになったところは,賛成と申しては失礼かもしれないが,このことはどうしても必要であろうと私も考えている。共通の理解をもつためには,ここから始めなければならないだろうと思う。
 それと同時に,少し補わせていただきたいと思うことがある。まず,ある方が指摘なさったことであるが,昭和41年の文部大臣の諮問の中で,検討すべきこととして,漢字の問題,送り仮名の問題については,「基本的な方針と内容上の問題」と書いてあるのに,仮名遣いについては「内容上の問題」とだけあって,基本的な方針ということが書いてない。これはどういうことかということが一つあろうと思う。
 昭和41年の文部大臣の諮問のときには,「現代かなづかい」の基本方針を一つ認めた上で,その内容上の問題について審議することを求められたのであったかと思うが,それを我々としてどういうふうに受け取るかということが問題になろうかと思う。

林(大)委員

 それからもう一つは,木内委員が「歴史的な経過」の項でお書きになったことに関連することである。私は国語の歴史の方をただいま専門にしていないので,間違っていたらほかの国語の専門家から訂正していただきたいが,木内委員の提案しておられる仮名遣いというものをどういうふうに考えるかという問題は,まず,仮名というものを考えるところから始めなければいけないのではないかと思う。
 木内委員は万葉仮名というところからお始めになったわけで,これはこれで結構なことだと思うが,実は,我々が仮名遣いと言っているのは,万葉仮名ではなく,いろは仮名における仮名遣いなのであって,いろは47字,それに「ん」を加えた48字の範囲での仮名遣いを考えている。「現代かなづかい」というのは,「ゐ」と「ゑ」とをはずした形ではあるが,ともかく「いろは」を範囲としての仮名遣いだと言える。そのことは,どこにも書いてない。書いてないが,それを前提に置いているわけである。
 ところで,その「いろは」というのは800年から900年の歴史をもっている。それで,「いろは」の使い方を,それ以前の万葉仮名だった時代の使い方に照らし合わせて決めているというのが,我々の契沖仮名遣い以後の歴史的仮名遣いだったわけである。その歴史を排除して,現代の仮名遣いであるから,現代の発音に即して,ということにしたのが「現代かなづかい」であると私は理解している。そこで,仮名遣いのための仮名の範囲を改めて確定するということが,この際一つの仕事になるのではないか。いろは47文字というものを,これからも範囲にしておいていいかどうかというようなことが,実は問題になろうかと思うわけである。
 歴史的なというか,伝統的な使い方との間での摩擦をどう救っていったらいいかということが「現代かなづかい」の制定に当たっても問題であった。我々もまたこの「現代かなづかい」制定以来の30年の現状をどのように将来に向かって適合させていったらいいかということが問題になるのではないだろうか。そういうところからやはり議論を始めなければならないのではないかと私は感じている。
 それから,少々余計なことかもしれないが,私としては,「いろは」の時代は800年から900年程度であるが,その間にいわゆる歴史的仮名遣いというものが世の中にどのように行われていったかということを,もう少し国語史家の人たちによってはっきりさせてもらう必要があろうかと思っている。

宮地委員

 すでに何人かの方がおっしゃったことと重なる部分もあるが,一つは,歴史的な仮名遣いを基本にしてこの審議会が現代の仮名遣いの改訂版を出すというような方向ではなくて,先ほどもお話がいろいろあったように,やはり30何年の歴史をもつ「現代かなづかい」そのものについて,今日の問題点が何かということを考える方向で仮名遣い委員会の方でも議論をお進めいただけないか,そういうことが一つである。
 具体的には,いま出ている「現代かなづかい」の条項の一つ一つ,例えば「えふ」と「やう」とかを「よう」と書くというような,そういう規定の仕方はこの審議会の結論として適当ではないように思える。
 それからもう一つは,外来語と言われている外国語の表記のことである。これは仮名遣いの中に本来入るべきものではないか。仮名遣いとしては,先ほど国語という言葉で表されていた和語の仮名遣いと,漢語,あるいは中国語をここに入れるかどうか非常に問題だと思うが,ともかく漢語あるいは字音の仮名遣い,それから,洋語あるいは外来語の仮名遣いの三つがあるというふうに考えると,先ほどの中国語をどう発音するかということは少々問題だと思うが,やはり和語と漢語と洋語の仮名遣いのことを,この審議会の仮名遣いの問題の中に入れる方向でお考えいただけないかと思う。以上の2点である。

鈴木委員

 木内委員の準備してくださった御提案の中で,現代の国語の問題とするには少々ふさわしくないように感じられるところがあるので,申し上げたい。5ページの(三)の「漢字かな遣ひ」の代表は“蝶々”云々のところであるが,「“チョウ”“チャウ”“テフ”“テウ”と四通りに書ける。ややこしいやうだが,“四通りしかない”と知ると,それなら何か通則のやうなものを教へてくれれば,さうむづかしがる必要はあるまいとも考へられる。」とあるところである。
 論理はそのとおりであるが,なぜ「チョウ」「チャウ」「テフ」「テウ」という日本語の仮名遣い表記,つまり,漢字音ができたかということが問題である。これはやはり中国語の近似値を写そうとした努力の表れであって,現在の人はみんな一貫して「チョウ」と読んでいるが,これを写した当初は,必ずしも全部一様に「チョウ」とは読んでいなかったのではないか。「チャウ」「チョウ」「テフ」「テウ」と写し分けたのにはそれなりの意味があったと思う。
 中国音が,angで終るものは「ヤウ」で写すわけである。それに対しeng,ungは幅があるが,それは「ヨウ」で写すわけである。それから「テフ」は,昔は「テップ」と発音したのではないか。「ティェップ」で,今は「P」は消えてしまっていて,中国語でも「ティエ」であるが,唐代の発音だと,今の発音とかなり違いがあって,「テップ」というふうな意識で「テフ」と書いたのではないか。
 それから「テウ」であるが,これはauで終わる言葉である。例えば,「朝」とか「超」,それを「エウ」と写したものである。つまり,中国音を日本社会に適応させるために,当初非常に苦労して,かなり無理をしながら,近似値で仮名を当ててきた。それが伝統的に残っているのだと思う。
 ところが,今日,漢和辞典を引いてみると,例えば「チョウ」「チャウ」などは本によってかなり異論がある。当然論理的には「チョウ」であるべきだと思われるものが,「チャウ」と振ってあったりする。したがって,この問題は,現代日本語の社会ではほとんど問題にし得ないところだと考えるが,もし木内委員の御反論があれば,お伺いしたいと思う。

木内委員

 私が今提起している問題は,とにかく4通りの書き方があるということで,そうなった理由は大体おっしゃるとおりだと思う。私はそういう学問をしてないから,はっきりしたことは言えないが,それらの書き方は,大体元の漢字の発音に近いものだったのであろう。私としては,その部分では,伝統的な仮名遣いというのはめちゃくちゃにできているのではなくて,わけがあるのだということを明らかにしてから進みたいと言ってるだけのことであって,今のお話で私の言わんとすることはかなり明瞭になった。
 なお,ついでに申しておきたいが,私はここで「問題点」という言葉を使った。この問題点というのは,今の「現代かなづかい」の不徹底な点,矛盾する点をいうのであるが,そのあとの部分で,「現代かなづかい」と「歴史的かなづかひ」の違いを,はなはだ不完全な形ではあるが列挙しておいた。多くの方の意識においては,この方が本当の問題点かもしれない。
 だからそこに私の表現の混乱もあるかと思う。今後はそういう点を整理して,仮名遣いの問題とは何なのかをまず明らかにして,それから先へ進んでいくべきだと思う。
 それから,今日のお話を伺っていて,問題点にもう一つ大きなものがあると感じた。それは単に仮名の遣い方をどうするかというのではなくて,社会的な問題である。
 歴史的仮名遣いというのは,明治時代に大騒ぎをやって,やっぱりこれがいいというので社会的に採用され,「正仮名」とも言われるようになった。それが,今度は敗戦のショックの後で,表音的にするのがよいということで「現代かなづかい」に変わった。このことが社会的にどういう問題を起こしたかということを考えてみるべきであろう。これは私は非常に大きい問題だと思う。
 幸いに日本国民というのは偉い国民であって,いろんなショックを受けても,逐次立ち直ってくる。漢字を制限して廃止しようと思ったのが,逆に今は,「常用漢字表」こそ2000字に足りない少数であるが,漢字を使っていることはものすごいものである。コンピュータのごときものも,7000字入力できるとか,5000字じゃ少ないとか,もっとうんといくとか,数が多いなどということは問題でなくなっている。
 敗戦のショックのときは何でも簡単にしなければ生きていけないくらいに思ったものが,いつの間にか立ち直ってきた。これは漢字の問題,国語政策全部に通じる問題である。
 今,新仮名遣いをやっていて,一体どういうイフェクトがあるかというと,一番心配されているのは,日本人の精神が変になっているのではないかということである。私のこの短い文章では「歴史との断絶」という言葉だけちょっと出してある。どういうわけでこういうことができたかということをみんながまるで知らないということになると,歴史は断絶する。
 仮名というものには,中国語という不思議な言葉に適した漢字を取り入れて,日本人がそれを苦心惨たんして消化してきたという歴史があるが,今も御指摘のとおり,仮名遣いもそれに乗っかってできているものである。それをいきなり,こんなめんどうくさいことはやめろと言わんばかりの調子で,今の新仮名ができている。しかし,今の新仮名はいいところがたくさんあるから,新仮名をやめて旧仮名に返そうと私は思っているわけではない。どうすべきかはこれから言うので,私はまだ全然言っていない。
 それから,新仮名にした戦後の国語政策が,どういう社会的イフェクトを与えたか,また今後どうあるべきかといったようなことを本気に考えるべきであると思う。ただ簡単ならばいい,能率を上げればいいという考え方でよいものかどうか。今は能率を上げるだけが尊重される世の中ではなくなってきた。精神にかかわることの方がはるかに大事だというふうになってきた。精神問題と言えば,当然歴史にさかのぼる。それが,今の新仮名しか知らない人たちには非常に読みづらくなっていて,だから歴史にさかのぼって精神問題を考えるべきだといっても,文字でも宗教でも何でもそうだが,古典が読めなくなっている。
 そのことを考えに入れるべきだということを一通り問題点として挙げて,さて,それらを全部織り込んで,国語審議会が仮名遣いに対してどういうリコメンデイションをすべきかということは,また別のことであるが,とにかく,我々の議論の基礎認識の中に社会的イフェクトを加えなければ全く片手落ちだということを今改めて強く感じたので,追加して申し上げる。

有光会長

 大分皆さんから御意見の御発表があって,今後の審議に非常にプラスになったと思う。
 この際御発言があれば,もう少し伺いたいとも思うが,よろしいか。
 それでは,先ほど御了解を得たように,仮名遣い委員会を9月ごろ開いていただいて,それを何回か続けたあと,総会はおよその見当として,来年2月ごろを予定したいと思う。
 なお,委員会の審議の状況等によって,また皆さんからこれからもいろいろ御意見があるような場合は,事務当局の方へでも御連絡いただければ,そういうようなことを考慮しながらまた御相談をしていっても結構ではないかと思う。そういうことで進めさせていただいてよろしいか。(拍手)
 それでは,本日の総会を終了する。

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